序
そこは素敵な場所だった。
春の陽射しに照らされたような、暖かで心地の良い場所だった。
眼に映る全てが朝露に濡れた若葉の様にキラキラと輝き、色とりどりの淡い優しい光が溢れる美しい場所だった。
そしてそこは、願えばなんでも叶う、夢のような場所だった。
「お腹が減った。」
そう呟けば、目の前に見たこともないご馳走が並んだ。それはどれも美しく、そしてとても美味だった。一口それを口にすればその美味しさに心踊り、腹が満たされれば幸福感に胸が一杯になった。
眠くなれば、とても良い香りのする柔らかな真綿の様なものが身体を包み込み、心地良い眠りへと誘った。
寂しさを口にすれば、どこからともなく遊ぼう遊ぼうと童達の声がして、姿の見えないそれらが色々と遊び相手をしてくれた。
でも、一つだけ。願っても叶わないことがある。
本当は一番叶えて欲しいお願い。でもそれだけは叶えてくれない。他はどんなことでも叶えてくれるのに、それだけは叶えてくれない。それを口に出してもいつだって、話をそらされ流されてしまう。だから、それだけはどんなに願ったところで叶わないんだろうなと凛は思うが、諦めることができなくて、また今日もそれを口に出す。
「お家に帰りたい。」
そうやって口に出した願いは、今日もまた暖かな風に攫われてどこか遠くへ消え去ってしまった。
そして唐突に理解する。
自分の願いは絶対に叶うことはないのだと。
自分はもう家に帰ることはできないのだと。
その絶望感が心の泉にポタリと雫を垂らし穏やかだった水面に波紋を広げた。そしてそれは波となり、そして渦となり、抑えきれない感情が目から溢れ、そして凛の口から溢れ出した。
童達が騒めく。
どうにか宥めようと自分の周りであくせくしている。
でも今はそれを気に止めることはできなかった。
帰りたい。帰りたい。お母さんに会いたい。お父さんに会いたい。みんなの所に帰りたい。
一度溢れてしまった思いは止まることを知らず、嘆けば嘆くほどその思いは強くなり胸を締め付けた。そんな時、
「お前達。また人の世のものを盗んできたな。しかもよりによって人の子を。人の子はそこらの石ころや玩具ではないぞ。石ころや玩具であっても人の世のものをこちらに持ち込むなぞ面倒な事なのに。まして人の子など、遊びですむ話しじゃないぞ。」
誰かの声がして、童達が怯える。
「盗んだのではない。遊びでもない。これはとても美しい。これは人の世には不釣り合いだ。これにはこちらの世の方が相応しい。だからつれてきたのだ。」
おっかなびっくり童の声が反論する。そして別の童達の声がそうだそうだと加勢する。
「つまり何か?お前達は神にするために人の子を攫ってきたと言うのか?神の世に捧げられた贄でもなく、神となるべくして試練を与えられたでもないただの子供を。ただ美しいとそれだけの理由で。」
怒りを多分に含んだその声に、童達が震え上がる。
「これはただの美しい子供ではないぞ。見よ、このキラキラと輝く清らかなる魂を。ただ無垢なのではない。これはただまっさらで、ただ穢れなきだけの純白の魂ではないのだ。これほど美しい輝きを放つ魂を我々は見たことがない。主も神ならわかるだろう。これぞ神の世にこそ相応しい、神となるべき魂だと思わぬか?この魂が人の世で穢されこの輝きが失われてしまう前に、我々はどうしてもこれを手に入れたかったのだ。」
童のその言葉に、神と称されたその人は怒りを爆発させた。
「要は、この子供をお前達の蒐集物に加えたかっただけだろう。ふざけるな。そんな理由で人の世の理を捻じ曲げるんじゃねー。いつも言ってんだろ。人の世で人にちょっかい出すのはいい。人の世で人の世の物で遊ぶのもいい。でも絶対に人の世のものを神の世に持ち込むなと。お前達にとってそれが些細なことでも、人の世においてそれはとてつもなく大きな意味を持つ。人の世の理を大きく捻じ曲げることになる。禁忌を破ったお前達は封じてみっちり仕置きだ、覚悟しろ。」
その言葉が終わるや否や、童達の叫び声が辺りに響きわたり、そして急速に静かになった。
いつだって姿は見えない。でもいつだって当たり前のようにあった賑やかな気配がすっかり消え去り、残った静寂に凛は怖くなり身が縮んだ。
「心配はいらない。お前には何もしない。」
そう神の声が降ってくる。
それはとても優し気な声なのに、その気配がとても恐ろしく感じて凛は顔が上げられなかった。
さっきまで溢れていた涙はすっかり止まってしまった。でも、今度は恐怖で体が震える。
「怖がらせてしまったか。」
そう困ったように神が呟く。
「とりあえず帰るか?」
そうやって続けられた神の言葉に思わず顔を上げ、帰れるの?と返していた。
帰れる。そう思うと嬉しい。帰れる。でもそれがとても現実感のないものの様に思えて、不思議な感情に凛は何故か胸がざわついた。
「そりゃ帰れるさ。お前はまだ完全に神になることはできないから。人の世のものは人の世に戻さなきゃならないしな。」
神のその物言いに、胸のざわめきは一段と大きくなった。
「まだ連れてこられてすぐならば、お前も人でいられたんだがな。」
神が申し訳なさそうにそう口にする。
「よほどあいつらはお前を返したくなかったらしい。上手く隠してたから、見つけるのが遅くなってしまった。お前は神の世で過ごしすぎた。お前の魂はもう人のそれには戻れない。だからお前はこれから神になる。人の世の理から外れ、人の輪廻から外され、お前は神の世の住人となる。でもそれは、その器が朽ちた後の話だ。だからそれまでは、その器が朽ちるまでの間は、お前は人として生きなくてはいけないよ。その魂は神の世のものでも、その器は人の世のものだから。幼いお前には理解できないかもしれない。でも、覚えておきなさい。お前はもう人ではない。人として生きなくてはならなくても、お前はもう人ではありえない。お前は神なのだ。神は祝福ももたらすが、禍ももたらすものだ。この先、お前の人としての人生は決して平穏なものにはならない。波乱に富んだ人生になるだろう。そして神の人としての最後というのは往々に壮絶なものだ。覚悟しておきなさい。今はまだ分からなくても。」
神の言う通り、その言葉の意味を凛は理解することはできなかった。でも、そう言う神が自分を哀れんでいることだけはひしひしと感じて、ただただ胸の内に不安だけが広がっていった。