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後編

   

 ‥‥‥とまあ、人間時代の友人との会話を思い出してしまったのであるが。

 悠長に思い出に浸っている場合ではなかった。人間であった頃に聞いた話が、現在の『俺』ウイルスを、どれほど助けてくれるのであろうか。もちろん助けになる場合もあるが、先ほどの回想は、その手の話ではないと思う。宿主の体内で実際に起こる出来事イベントではなく、外で行われた研究の話ではないか。こんなもの、目前に迫った脅威に対して、何の役にも立たない知識ではないか!

 今現在、俺『ウイルス』にとって最優先なのは、抗体から逃げ出すことである。免疫システムが差し向けた恐るべき刺客、その魔の手からのがれることである。それなのに‥‥‥。

 こうした場面での回想こそ、現実逃避であろう。現実からではなく抗体から逃避しなければならない、という今この時に。

 このままでは、今語ったような過去話が、俺の『脳裏に浮かんだ走馬灯』ということになってしまう。ウイルスとしての人生では『走馬灯』として思い描くほどの出来事イベントもないからといって、代わりに人間時代の思い出が浮いてきたようなものである。それはそれで、寂しい人生――ウイルスとしての人生――ではないか。

 ふむ。

 寂しい人生のまま終わりを迎えるのは、人間であれウイルスであれ、なんとも悲しい話である。そう思うと、少しは闘志も湧いてきた。

 頑張って、この場を切り抜けなければならない。

 この『俺』ウイルスに迫りつつある、恐るべき敵‥‥‥。あのY字状の、刺又サスマタのような物体を、俺はキッと睨みつけた!


 さあ、さあ、さあ!

 しかし気持ちばかりがはやっていても、具体的な手段が思い浮かばないことには、どうすることも出来ない。はて、どうしたものか。

 さいわい、俺には『手』に相当するタンパク質がある。一般的に、人は戦う時には武器を手にして立ち向かうものである。それはウイルスとなった今でも同じはずである。

 そう考えたのであるが、では、何を武器にしたら良いものか。周りを見渡しても、武器になりそうなものは見つからなかった。

 それもそうであろう。俺たちウイルスは、微小な存在である。微生物と言われる細菌バクテリアよりも、まだ小さい存在である。これが細胞内ならば、タンパク質を作り出す材料とか、微小な器官とか、とにかく小さい物もあるかもしれないが、何しろ細胞の外である。細胞の外でウイルスが武器として持てるサイズのものなど、細菌バクテリアや寄生虫などの残滓くらいしかあるまい。それこそ、免疫システムにある『白血球の貪食作用』とやらで食い散らかされた、哀れな残骸であろう。少なくとも今までは、この辺りは免疫活動が活発ではなかったようで、そのような痕跡は見当たらないが‥‥‥。もしも免疫細胞の足跡なんて見かけたら、武器として手に取る暇もなく、俺は怖くて逃げ出すに違いない。

 いや、そもそも、この『手』タンパク質は『武器』を持てるものなのか? そう考えたところで、俺は思い出した。少し前の話である。感染した細胞内で『先客』となるウイルスと遭遇したのであるが、あの時『俺』ウイルスは、『手』を振って挨拶することすら出来なかったではないか!

 ああ、何故なにゆえつい最近の話なのに、今の今まで忘れていたのであろうか。どうも俺は『俺』ウイルスとなってから、物忘れが激しくなったらしい。そのくせ、転生前の人間時代の知識は、妙にはっきりと覚えているのであるから、不思議といえば不思議である。これは、脳の記憶容量の問題であろうか。ウイルスとなった今や『脳』もないので、記憶として蓄積するのが難しいのであろうか。人間であった頃の記憶だけは、魂に付随しているので、脳がなくても保持できているのであろうか‥‥‥。

 いやいや。

 また現実逃避してしまった。これは、人間がテスト勉強中に調べものをするつもりでパソコンを立ち上げたらいつのまにかゲームで遊んでいたとか、引っ越しが迫って本棚の整理をしていたらいつのまにか手にした本を読みふけっていたとか、そうした怪奇現象と同じなのであろう。ともかく、哲学的な問題は、今を生き延びてから考えればよろしい。

 さあ、現実への対処に戻ろう。『手』タンパク質で何が出来るのか、もう一度、考えてみよう。


 この『手』タンパク質は、細胞に感染する時には、その細胞の外膜と『俺』ウイルスのエンベロープを融合させる手助けをしてくれる。しかし、それ以外は、あまり役に立たない代物シロモノであったような気がする。むしろ、ウイルスのエンベロープに突き刺さる状態で、常に『俺』ウイルスの外部に露出している以上、今現在のような状況では、それこそ抗体の標的ターゲットになってしまうではないか!

 先ほどのモノクローナル抗体やらポリクローナル抗体やらの話と同じで、それぞれ抗体には、認識する特定のタンパク質がある。さいわい『俺』ウイルスでは、いったんウイルスとして完成してしまえば、ほとんどのタンパク質はエンベロープの内側に隠されているため、例えば『心臓』タンパク質の抗体が近寄ってきても、その抗体は結合できない。つまり『俺』ウイルスを認識できない。『心臓』タンパク質の抗体が「悪いウイルスはいないか?」と探しに来ても、『俺』ウイルスには気づかずに、素通りしてくれるのである。

 ところが、『手』タンパク質だけは話が違う。思いっきり外に顔を出している。もしも『手』タンパク質に対する抗体が「悪いウイルスはいないか?」とやって来たら、一瞬で「見つけた!」と確保されてしまうのである。

 こうした事情は、宿主の抗体産生機構の方でも理解しているとみえて、実際の体内では、抗血清の中のウイルスに対する抗体は、ほとんどが『手』タンパク質を標的ターゲットにするものとなるらしい。いや、厳密には『宿主の抗体産生機構の方でも理解して』なんて理由ではなく、血液中の俺たちウイルスに対して抗体を作ろうとすると、必然的にそうなってしまうのであろう。ウイルス表面に出ているのが『手』タンパク質だけであるから、抗体を作ろうとする段階で宿主側が認識できるのも『手』だけであり、システム上どうしても否応いやおうなく『手』に対する抗体が出来てしまうのであろうが‥‥‥。そこにまるで『宿主の抗体産生機構の方でも理解して』という感じで、明確な意志が介在するかのように見えてしまうのが、生体内のイベントというものなのかもしれない。

 いや、また少し話が逸れてしまった。話を戻そう。

 結局。

 わかったことは「抗体との戦いにおいて、むしろ『手』タンパク質は邪魔である」という事実であった。『手』タンパク質さえなければ、おそらく抗体は『俺』ウイルスを認識できないのであるから!


 しかし、唯一外部に露出している『手』タンパク質が使えないのであれば、俺は一体、どう戦えばいいのであろう?

 ウイルスになってからの経験は役に立ちそうにないので、再び、転生前に聞いた話を思い出してみる。

 たしか、抗体からの認識を免れる、というのがウイルスの生存戦略であったはずである。

 先ほどのモノクローナル抗体やらポリクローナル抗体やらの話で出てきたように、それぞれ抗体には、認識する特定のタンパク質だけでなく、認識する特定の部位がある。例えば『手』タンパク質の親指の部分を認識する抗体、つまり『手』の親指と結合する抗体が迫ってきたとしよう。もしも想定より少しだけ『手』タンパク質の親指が太くて、抗体が上手くはまらなかったら‥‥‥。抗体は「ごめん、君ではなかった」ということで、去っていくはずである。シンデレラの童話に出てくる、意地悪姉妹とガラスの靴みたいな関係である。

 だから抗体に認識されそうな部位に変異を入れて、少しだけ形を変えてしまって、抗体の認識を免れようというのが、一番簡単な方法である。ただしウイルスの変異は――特に『俺』ウイルスのような非分節ウイルスの場合は――、突然変異である。意図的に出来るものではなく、偶然の積み重ねに頼るしかない。いつ、どこが変異するのか、まったくのランダムである。

 長い時間をかけて世代を重ねるうちには、偶然でも、都合の良い変異は起こり得る。しかし、まだ俺は、そんな古株のウイルスではないはずである。おそらく、そのような便利な変異は、まだ起こっていないであろう。物語おはなしでは、しばしば「危機ピンチかと思ったけれど実は大丈夫であった」などという主人公補正が出てきたりするが、そんなものが俺の現実にもあると期待するのは、虫が良すぎる話であろう。

 ほら、現に今、こちらに真っぐ、問題の抗体が向かって来ているように見える!


 血液中であるからして、泳いで逃げることが出来るのであれば、まだ希望も持てるのであるが、残念ながら無理である。挨拶一つロクにできない『手』タンパク質では、クロールも犬かきも出来やしない。

 ただ、血液の流れに乗っかるだけである。泳げない子供が、流れるプールで漂うのと同じである。まあ、それは、あちらさん――抗体――の方でも似たような状態ではないかと思うのであるが、それこそ流れるプールで子供同士が衝突するように、抗体は『俺』ウイルスに迫っているのである。

 しかも。

 よく見れば、抗体は一匹ではない。

 最初に目に入ったのは一匹のはずであったが、いつのまにか、その後ろに、たくさん来ていた。

 さらに。

 それら抗体の背後には、巨大で、もっと恐ろしげなモノが‥‥‥。

 明確な白色ではないが、ぼんやりとした白っぽい存在であった。その圧倒的な存在感から受ける印象は、実態を見せずに、というより、存在を誇示しながら忍び寄る白い影である。おそらく、あれが白血球と呼ばれる代物シロモノなのであろう。抗体を作ったり感染細胞を破壊したりする、免疫システムの代表である、と俺は聞いていた。

 抗体を作って送ってくる‥‥‥。つまり、俺たちウイルスを攻撃しようという意図で、尖兵を作って送り出す、悪の巨大組織である。色が色だけに、白色なにがし帝国と呼びたいくらいである。

 感染細胞そのものを破壊する‥‥‥。それは、俺たちウイルスが生まれてくる場所を無に帰するという、極悪非道の所業である。母なる大地をも壊してしまう、大量破壊兵器である。俺たちウイルスにとって感染した細胞は、人間にとっての地球のような母星であるからして、こいつら白血球は、いわば惑星破壊ミサイルである。

 ああ! なんという恐ろしい存在!


 恐怖に耐えられなくなって、俺の意識は暗転した。失神である。気絶したのである。

 ちょうど、抗体に捕獲される瞬間であった。

 タンパク質が抗体に捕まるというのは、てっきりY字状の刺又サスマタで挟まれるものかと思っていたが、むしろ、二つに分かれた先端の片方で刺されるような状態であった。それを意外に感じたのが、俺の最後の記憶である。

 その後の出来事は、曖昧であった。ただ、抗体に捕まったということは、すなわち敗北したことを意味するはずである。それだけは、間違いない事実であろう。聞いた話によれば、俺たちウイルスのような異物を捕らえた抗体は、その後、俺たちを刺した部分とは反対側で――刺又サスマタの持ち手にあたる部分で――白血球のような免疫細胞と結合して、免疫反応を引き起こすそうである。おそらく俺の場合も、続いて訪れた免疫細胞によって、またウイルスとしての『死』を迎えたのであろう。

 さて、ウイルスである俺にとっては、もはや『死』も日常茶飯事であるが‥‥‥。

 これは、今までとは少し状況が違う。いつもは細胞の中で死ぬわけであるが、今回は細胞の外で死んだのである。まあ外といっても、宿主の体内なのであるが、それでも俺たちウイルスにとっては『外』である。

 細胞内ではなく、細胞外で死んだ場合、俺は一体どうなるのであろうか。意識を失う直前、そんな一抹の不安もあったような気がする。

 まあ、結果としては、そのような心配は無用であった。昔々の人間が「天が崩れ落ちてくるのではないか」と憂慮したのと同じで、取り越し苦労であった。俺は近くの感染細胞表面で、いつものように『俺』ウイルスとして無事、新たなせいを受けた。いやはや、便利な輪廻転生りんねてんしょうシステムに取り込まれたものである。


 もちろん。

 細胞から飛び出した瞬間、また抗体に出くわすという可能性もあった。何しろ、前回の『俺』ウイルスが亡くなった辺りは、抗体やら白血球やらが来ていたのであるから、免疫活動の活発な地域であったように思える。そのすぐ近くで転生したのであれば、あいつらが、まだウロウロしている可能性は高い。

 あるいは。

 それだけ白血球が猛威を振るっていたのであれば、既に感染細胞ごと、近隣一帯が破壊された可能性も考えられる。その場合、そもそも『近く』には、もはや感染細胞は存在していないはずである。つまり、この『俺』ウイルスを作り出す細胞もなかったはずであり、俺は少し離れた細胞で産み落とされた、ということになる。

 まあ、どちらにせよ。

 たとえ、すぐに抗体や白血球と遭遇しても、それはそれで良いではないか。今度は、無駄な抵抗は考えずに、あっさり白旗を掲げよう。どうせ、また殺されたところで、俺は同じウイルスに転生して、新たなせいを得るのであろうから。

 そう考えると、なんとも恵まれたシステムに乗っかったものである。本当に、ありがたい、ありがたい。




(続々・俺はウイルスである「仁義なき抗体との戦い」完)

   

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