前編
俺はウイルスである。名前は、もうない。‥‥‥という話は、既に二度もしたので、それ以上は省略である。俺は、相変わらず『俺』ウイルスとして、生と死を繰り返す毎日である。
さて。
例によって例の如く、新たな『俺』ウイルスとして生まれ直した俺は、俺を作り出してくれた細胞から飛び出し、次の細胞を目指して歩み始めたところであった。
まあ、ここまでは、いつも通りである。ところが今回、たいして進まないうちに、ひどい悪寒に襲われてしまった。もちろん、病原体であるはずの『俺』ウイルスが病気になるなど、ありえない話である。それこそ「医者の不養生」以上に、愚かな話である。そう、別に俺は、風邪を引いたわけでも体を壊したわけでもない。気のせいである。あくまでも、感覚的な話である。
より正確に言うならば、俺は恐怖を感じたのであった。本能的な恐怖である。理由は、すぐに判明した。その恐怖の対象が、目に見える形で俺の前に現れたからである。
先端が二つに分かれた、Y字状の物体であった。いや、しばしば『Y字状の』という表現で呼ばれることは俺も知識として聞いていたが、いざ目にしてみると、Y字というより、刺又を連想させる形状である。何しろこいつは、あの先端部分で俺を捕まえて、やっつけようとしているのであるから。
この恐ろしげな物体こそが、俺たちウイルスの天敵、つまり抗体であった。
抗体は、俺たちウイルスにとって厄介な存在であるが、立場を逆にすれば、善悪の見方も反転する。俺たちを『病原体』として悪者扱いしている人間様にとっては、抗体は、救世主みたいなものかもしれない。
しかも人間は、体内で抗体に助けてもらうだけでなく、体の外でも有効活用していると聞く。
ひとつ昔話をしよう。
今は喋る相手もいない――周りの同族のウイルスとは会話も成り立たない――俺であるが、こうしてウイルスに転生してしまう前は、状況も異なっていた。人間であった頃は、友人というか知り合いというか、そんな存在が人並みにいたものである。
中には、ウイルスについて研究している者もいた。人間であった頃の俺に「ウイルスとはどういった存在なのか」を教えてくれた人物である。現在のウイルスとしての暮らしに役立つ情報を与えてくれた存在である。以下は、彼から聞いた話なのであるが‥‥‥。
抗体というものは、人間や動物の体内でウイルスや細菌などの異物を倒すだけでなく、研究分野においても便利な道具となる。彼は学生時代、抗体を用いてウイルスの研究を行っていたらしい。
特に、モノクローナル抗体を利用した研究である、と彼は言う。
はて『モノクローナル抗体』とは、なんぞや。
モノクローナル抗体はポリクローナル抗体の反対語である、と言われてしまった。
ふむ、確かに『モノ』は、片眼鏡や単軌鉄道の『モノ』であろう。『単一』を意味する言葉であろう。ポリゴンやらポリエステルやらポリフェノールやら、『ポリ』の含まれる単語には『複数』っぽいイメージがあるので、両者が対義語であるというのは納得できる。
だが『ポリクローナル抗体』とは、なんぞや。
ポリクローナル抗体は、簡単に言えば抗血清のことである、という話であった。
おお、抗血清という言葉ならば、専門家でなくとも聞いたことくらいある。素人的には、それこそが、いわゆる抗体というやつであろう。娯楽フィクションである感染パニック映画の中でも、今にも死にそうな重篤な患者が、抗血清を注射されて生き延びる、なんて場面は定番のように出てくるものであった。
以上を理解した上で、彼の説明を聞くと‥‥‥。
この抗血清を『ポリクローナル抗体』と呼ぶのは、その中に複数の種類の抗体が混ざっているからである。ここでいう『複数の種類の抗体』というのは、複数の病原体に対する抗体、という意味ではない。例えば『俺』ウイルスに対する抗体であっても、様々な種類がある。
そう聞くと「ああ、なるほど。ウイルスを構成する部品は色々ある。それぞれに対して、『腕』タンパク質に対する抗体、『顔』タンパク質に対する抗体、『心臓』タンパク質に対する抗体などがあって、それらを混合したものがポリクローナル抗体なのか」と思いがちであるが、それとも少し違うらしい。もちろん、治療で用いられる抗血清の中には、種々のタンパク質に対する抗体が含まれていてもおかしくないが、研究で使う抗血清は、「『腕』タンパク質に対するポリクローナル抗体」「『心臓』タンパク質に対するポリクローナル抗体」といった感じで、特定のタンパク質しか認識しないにも関わらず、それでも抗血清なのである。
はて。
この辺りから、少し話がややこしくなってくる。
特定のタンパク質しか認識しないというのであれば、そのどこが『ポリ』クローナル抗体なのか。同じタンパク質を認識する抗体であるならば、同じ単一の抗体なのではないか? ならば抗体も『モノ』クローナル抗体と呼ぶべきではないか?
いやいや、と彼は――専門家は――笑って否定する。
認識するタンパク質は同じであっても、認識する部位が違うのである、と。
はて? 認識する部位とは?
例えば、『手』タンパク質を認識する抗体を想像してもらいたい。そもそも抗体がタンパク質を認識するというのは、その一部分にがっちりとはまり込むことで、該当するタンパク質であると認める、ということである。だから、同じ『手』を認識するといっても、その『手』の中の親指にぴったりはまる抗体もあれば、人差し指に合う抗体もある。小指にちょうどいい抗体もある。これが『認識する部位が違う』ということなのである。
そうした抗体が混ざり合ったものが、ポリクローナル抗体なのである。
なるほど。なんとなく『ポリクローナル抗体』というものが、わかった気がする。ならば、モノクローナル抗体は、その逆である。例えば『手』タンパク質に対するモノクローナル抗体は、その親指だけを認識して、人差し指や小指には、うんともすんとも反応しない、そんな『まったく同一の』抗体である。その同一の抗体を、その性質を維持したまま、大量に複製したものである。クローン化したものである。だから『モノ』『クローナル』抗体なのである。
ふむふむ。
なんだか理解した気になったが、それはそれで、一つの疑問が生じた。一つのタンパク質の、ほんの一つの部位しか認識できない抗体であるならば、モノクローナル抗体というものは、ポリクローナル抗体よりも不便に思える。なぜ彼は、そんなものを用いて研究していたのであろうか。
これに対しても、彼は反論する。今度は、具体的な研究内容にも触れながら。
彼が主に研究していた対象は、ウイルスの『心臓』に相当するウイルスであった。ちょうど今の『俺』ウイルスで言えば、この俺の意識が宿っている辺りである。俺のウイルス生活について以前に語った際、核タンパク質と呼称した部位である。
そして、これも同じ時に述べたはずであるが、『俺』ウイルスの核タンパク質は、作られた後で形を変えたり、他のタンパク質と結合したりする。たしか、ガシャンガシャンと変形合体するイメージである、と俺は記したと思う。
彼が研究していたウイルスでも、同様であった。というより、その『変形合体』こそが、彼の研究テーマであったらしい。
彼の研究対象である『心臓』タンパク質は、それ単体では不安定であり、『お助け』タンパク質と結合することで、安定すると考えられていた。その『心臓』『お助け』複合体の状態で、ウイルスの遺伝子と結合して、『心臓』タンパク質の本来の役割――最重要なウイルス遺伝子を保護するというお勤め――を果たすのであるという。
こうやって形を変えるタンパク質の研究にこそ、モノクローナル抗体は有効活用できるのである、と彼は主張した。
先ほど『変形合体』という言葉を使ったので、そのまま、アニメや漫画に出てくる変形ロボットをイメージして欲しい。例えば、飛行形態からロボ形態に変形するようなロボットである。ロボ形態の時は外部に露出している頭部や手首が、飛行形態では内部に隠されており、逆に飛行機の先端部分――コクピット近辺――や尾翼など、いかにも飛行機っぽいパーツがロボ形態では体内にスライドしてしまいこまれるような、そんなロボットである。
もし仮に、敵側が凄い武器を開発したが、それはこのロボットの頭部だけを重点的に攻撃するものであるとしたら、どうであろう。あるいは、尾翼部分だけを標的とする場合は、どうであろう。前者はロボ形態には有効であるが飛行形態には通用せず、逆に後者はロボ形態の時には役に立たない。
ウイルスタンパク質に対するモノクローナル抗体も、この「特定部位だけを攻撃できる武器」と同じである。モノクローナル抗体の認識部位次第では、「『心臓』『お助け』複合体の状態だと反応できないが、『心臓』タンパク質がウイルスの遺伝子と結合した後ならば反応する」なんてことも起こり得る。遺伝子結合前は認識部位が中に隠れていたのに、結合後は認識部位が表に顔を出したことになる。つまり「遺伝子と結合することによって、『心臓』タンパク質は、問題の部位を表面に露出させるような構造に変わった」と示したことになる。まあ厳密には、『お助け』タンパク質との結合面に抗体認識部位があって、『お助け』タンパク質により一時的に隠されていただけという可能性もあったが‥‥‥。それはそれで、タンパク質の構造を変えないような緩やかな切断薬でもって『心臓』『お助け』複合体を崩してやって、それでも抗体と反応しないことは確認したそうである。
このように、なんでも反応してしまうポリクローナル抗体ではなく、特定の部位しか認識しないモノクローナル抗体の方が、構造変換に関して研究する上では有益なのである。彼は、そう誇らしげに語っていた。
ちなみに、『お助け』タンパク質は、『心臓』タンパク質と結合することでその安定化を「助ける」だけでなく、ウイルス遺伝子の複製を「助ける」機能もあるらしい。ほら、以前に――俺のウイルスとしての人生について初めて語った時に――「設計図を守っていた核タンパク質が少しずつ剥がれて、その隙間に、コピーの手助けとなるタンパク質が入り込む」と述べたであろう。あの『コピーの手助けとなるタンパク質』である。なるほど、そういう働きもするのであれば、たしかに『お助け』タンパク質が『心臓』タンパク質に結合して、遺伝子のすぐ近くの場所を維持していることは、合理的に思える。それに、そうした機能に関連するからこそ、『心臓』『お助け』複合体の構造変換の研究には重要な意義がある、と彼は主張しておった。
「そうそう、最初に言っておくべきであったかもしれないが」
彼は、いったん話が落ち着いたところで、今さらのように説明し始めた。
そもそもタンパク質というものは、アミノ酸というブロックの積み重ねで作られている。だから、子供の頃のブロック遊びをイメージすれば理解しやすかったかもしれない。
研究で使われるモノクローナル抗体は、あらかじめ『何番めの何色のブロックを認識するか』という形で、認識部位がナンバリングされている場合が多い。例えば三十九番目の赤色ブロックが認識部位であれば、先ほどの「認識部位が中に隠れていた」とか「認識部位が表に顔を出した」といった話は、「三十九番目の赤色ブロックは内側にある」とか「三十九番目の赤色ブロックは表面に位置する」といった話になるのである。
ふむふむ。俺が頭の中でイメージし直している間に‥‥‥。
さらに彼が熱っぽく語る。今度は『タンパク質の修飾』という言葉が出てきた。
タンパク質の修飾とは、なんぞや。
俺がいきなり話の腰を折ると、まず彼は「すまなかった」と説明不足を謝って「合成されたタンパク質に官能基が結合する話である」と説明する。厳密には、他にも『修飾』と呼ばれる現象はあるが、とりあえず彼が語りたいのは、その『官能基が結合する話』の方らしい。
しかし俺は専門家ではないので『官能基』と言われても、まず、それがわからなかった。とりあえず『官能』と言われて真っ先に頭に浮かぶのは『官能小説』という単語であった。それに『基本』の『基』を合わせた学術用語のようである。
いやいや、ウイルスのタンパク質に『官能小説の基本』をくっつける、と考えたら‥‥‥。ますます俺は混乱してしまう。
おい、ちょっと待ってくれ。官能基とは、なんぞや。
今度は彼は謝るどころか、逆に俺を叱ってきた。それくらい高校の有機化学で習ったであろう、と。「馬鹿め」と言ってやりたい、と。
とりあえず俺が理解できたのは「いったん完成したはずのタンパク質に、後で別の小さな何かがくっついてくる現象を『タンパク質の修飾』と呼ぶらしい」ということだけである。まあ、それで十分かもしれない、と彼も諦め気味に納得してくれた。
ふむ。先ほどの変形ロボットの例で言うならば、ロボ形態にさらに付属武器が装着されるようなものであろうか。そういえば、昔々のアニメでは、付属の飛行装備をつけることにより空を飛んで戦う、そんなロボットが活躍する物語もあった。
今にして思えば‥‥‥。確かに『俺』ウイルスでも、大事な大事な核タンパク質に、いつのまにか変な装飾品がくっついている。これが彼の言っていた『タンパク質の修飾』なのであろう。しかし彼と話していた当時は、まだ俺も人間であったため、彼の話は本当にイメージしにくいものであった。
修飾部位が『心臓』タンパク質の構造変換の後で露出されると判明した、とか。
だから、修飾を受けるのは構造が変わった後である、とか。
したがって、構造変換前ではなく後の機能にこそ修飾現象は関与するのである、とか。
それはそれは真剣に、彼は弁を振るっていたのであるが‥‥‥。その辺りになると、もう俺の方の理解がついていかなかった。ただ彼の話を――抗体との反応性からウイルスタンパク質の構造を調べるなどという研究内容を――聞くうちに、研究というものはパズルのようなものであると感じてしまった。特に、ブロックの例え話もあったせいかもしれない。ついうっかり「ウイルスの研究って、遊びみたいで簡単そう」と口にしてしまったのであるが、当然のように怒られた。
馬鹿を言うな、と。
一つの研究データを出すだけでも時間がかかる上に、そうしたデータの積み重ねで、ようやく何か一つ判明するのである、と。
まあ、それはそうなのであろう。門外漢の俺でも、そこは納得しよう。
しかも。
これだけでは――修飾云々の話まで含めても――研究内容が足りないので、『心臓』タンパク質だけでなく『お助け』タンパク質でも同様の研究を行って、その上、判明した構造変換の話に基づいてさらに機能的な問題に踏み込んで、ようやく博士論文としてまとめ上げたらしい。だいたい学術誌に発表する論文が三つくらい存在しないと博士論文にならないから、とも彼は言っていた。
途中から学問的な内容そのものではなく、彼の苦労話に変わってしまった感もあるが、それを聞き流している間に、また新たな疑問が湧いてきた。
おいおい、教えてくれ。たしか、タンパク質の結晶構造を調べる学問もあったはずである。ちまちまと抗体の反応性で構造を調べるよりも、結晶の専門家に任せた方が早いのではないか?
これに対しては、彼は困った顔をするのではなく、むしろ「よくぞ聞いてくれた」という態度を示した。
まず、タンパク質の結晶化という側面からでは、機能と関連した研究は難しいであろう。それに彼が研究していた当時、確かにウイルスの色々なタンパク質の結晶構造が既に報告されていたが、彼の研究対象であった『心臓』タンパク質の構造は、まだ報告されていなかったらしい。
おお、それはなんたる偶然か。しかも都合の良い偶然ではないか。
いやいや偶然ではないのである、と彼は反論する。彼も結晶屋ではないので詳しくは断言できないが、ウイルス遺伝子と結合するという『心臓』タンパク質の性質が、結晶化を困難にしていたらしい。少なくとも、彼はそう聞いていたらしい。
彼が研究を学術誌に発表した後、さらにそれらをまとめて博士号も取得した後になって、ようやく、その『心臓』タンパク質の結晶構造が報告されたそうである。ただし、遺伝子と結合した後の状態で結晶化されたため、彼としては、上述の「結晶化が困難な理由」は間違っていたのか、とも感じたそうであるが。
それより彼にとって重要であったのは、その結晶構造が、彼の研究結果と矛盾しなかったことである。彼が「遺伝子と結合後に、表面に露出する」と示した部位が――つまり彼の示したブロックの色と位置番号が――、想定通り結晶構造の外側に存在していたことである。彼は、心底ホッとしたらしい。しかも、過去に報告された話――合致する話――として、きちんと彼の研究論文も引用されており、とても嬉しかったそうである。研究者にとって、他の研究者に自分の研究を引用してもらうことは至上の喜びである、と彼は言い切っていた。
まあ、そんな彼の喜び云々よりも‥‥‥。むしろ俺としては『心底ホッとした』の部分が気になってしまった。今回は肯定されたから良いようなものの、もしも、新しい研究報告によって以前の研究が否定された場合、どうなるのであろうか? 特に、彼のように博士の学位取得に用いられた論文が間違っていると示された場合、どうなるのであろうか? まさか、学位が取り上げられるのであろうか?
それを尋ねると、再び怒られてしまった。
馬鹿を言うな、と。
論文の結論なんて、間違っていても構わないのである。
彼がそんな暴論を口にしたので、俺は驚いてしまった。
すると彼は「結論は間違っていても、結果さえ間違っていなければ、何の問題もない」と付け加えた。
はてさて。
またまた俺は混乱する。『結論』と『結果』は、同じものではないのか?
これについても、彼は出来る限り平易に、噛み砕いて教えてくれた。「新規物質の発見、みたいな研究では、結論イコール結果の場合もあり得るが、まあそうした研究は例外として除外して考えてくれ」と前置きした上で。
論文というものは、いくつかの項目で構成されている。特に終盤には『結果』『考察』という項目がある。『結果と考察』という形で一緒くたにされている論文もあるが、たとえ項目は分かれていなくても『結果』と『考察』は内容的に別物である。
この『結果』の項目に記されているものは、実験のデータそのものである。詳しい実験結果である。だから『結果』なのである。
一方『考察』にて描かれるものは、『結果』から導き出した『結論』である。これが研究者としては一番主張したい部分であるが、あくまでも『結果』から解釈したものである以上、その解釈が微妙に間違っている可能性は否めない。
だから論文を発表する筆者としては、己の主張を納得させるために『考察』を頑張って書くのであるが、他者の研究論文に目を通す読者としては、『結論』を鵜呑みにせずに「記された『結果』から別の解釈も成り立つのではないか」と考えながら読むことも大事である。
ふむふむ。途中から『結論』と『結果』の違いではなく、論文を読む際の心構えの話になったようであるが、そこは研究者ではない俺には無関係な話である。まあ彼も少し話が脇道へ逸れたことは自覚していたようで、続いて、こんな例え話を始めた。
探偵小説や推理ドラマにおいて、探偵が推理をする前に、警察関係者が証拠集めをする場面がある。そうやって集められた証拠が『結果』である。その証拠――『結果』――を元にして、まずは警察関係者が迷推理を披露する。間違った解釈で、間違った犯人を指摘する。これが間違った『結論』である。しかし、あくまでも解釈が誤っていただけであり、証拠――『結果』――そのものは正しかったため、直後に名探偵が颯爽と真犯人を指摘する。警察の捜査が問題になるどころか、真犯人逮捕に役立つのである。
これと同じで、『結果』さえ正しいのであれば『結論』くらい間違っていても、その論文は、有益で価値あるものなのである‥‥‥。
なるほど、なるほど、と納得しそうになったが、ここで俺は思いとどまった。
いやいや、今の例え話は少しおかしい気がする。娯楽フィクションによくある話として聞き流しそうになったが、現実の事件では、そのようなヒーロー的な名探偵など出てこない。警察が誤認逮捕したら、それっきりである。大問題である。
すると彼は「だから最初に『探偵小説や推理ドラマにおいて』と言ったではないか。誰も現実の事件に当てはめろ、とは言っていない」と反論し始めた。
フィクションと現実が異なるのは、警察の集めた情報が万人に開示されているか否か、である。特に本格推理ものであれば、読者や視聴者は、途中で得られた証拠を全て見聞きしているので、名探偵と一緒に推理も出来る。しかるに、現実に起こった事件において、犯人逮捕のニュースは流れても、こと細かく証拠が新聞に記載されているわけではないであろう。もしもテレビやニュースで証拠が全て開示されるのであれば、たとえ誤認逮捕があっても、一億総名探偵となって、大勢の日本国民が真犯人を指摘できるはずである。
この『情報が万人に開示』というのは、研究論文でも同じである。だからこそ実験データは詳しく、誰でも追試できるように実験条件も細かく記さなければならない。再現性を他人でも確かめられるようにしておかなければ、それは正しい『結果』とはならないであろう。
最後に彼は、次のような持論も展開していた。まず「この『誤認逮捕』の例で想像してみて欲しいが」と前置きしてから。
論文の中で『結果』だけは、絶対に間違ってはいけないものである。研究者が意図的に不都合なデータを隠して都合の良いデータだけを記載するのも、警察が誰かを犯人に仕立て上げようとして、そう見えるような証拠だけ提示するようなものである。ましてや、研究者が虚偽の実験データを論文に記すのは、刑事が偽りの証拠を捏造するようなものである。それが、どれほどの禁忌であるか‥‥‥。
ふむふむ。
よほど彼は、データの捏造を行う研究者が許せないらしい。
たしかに、誤認逮捕の話に照らし合わせて、故意にそのような行為をする刑事を想像してみたら‥‥‥。おそらく、懲戒免職ものであろう。
まったく彼に納得してしまうのであるが、もしかすると俺は、妙な例え話などで上手く彼に言い包められたのかもしれなかった。