7. Cat & Chocolate キャット&チョコレート 日常編 (下)
「何故なのじゃ! わらわのストーリーは完璧のはずじゃ!」
バステトの叫びが虚しく響いた。バステトが『片想いの相手を振り向かせたい』男の願いを叶えるために考えたストーリーは、あまりにも想定外のものだった。それが周囲から却下されたのは、バステトにとっても想定外だったらしい。
バステトが使ったアイテムカードは『ゆるキャラの着ぐるみ』と『薬』だった。
「着ぐるみで相手にこっそり近寄って、媚薬を飲ませて自分のものにするってさ……。完全にやべー奴でしょ」
「愛の欠片もありませんね。一線を越えてちゃってませんか?」
「貴公、卑怯にもほどがあるぞ」
女神たちの辛口の評価に、バステトの猫耳が悲しげに垂れ下がった。ただ一人、ココペルマナだけが皮肉っぽく笑って賛成を投じた。それは同情というよりも、本当にストーリーの意外さを楽しんでいるようだった。
「ココペルマナはどうして、このストーリーを気に入ったんだい?」
「エジプトのファラオは敷物に包まってカエサルの下に乗り込み、彼を巧みに籠絡した。狂気じみた物語も、一種のエンターテイメントだ」
ファラオのことは置いておいて、自分の現状を考えると、それは一つの事実にも思えた。自称・女神とゲームに興じている宇宙飛行士なんて、狂っていると言われても仕方ない。後で報告したらお笑い草だろう。
「喜ぶべきか悲しむべきか。分からん評価じゃな」
それでもバステトはある程度、機嫌を持ち直したようだった。
「ほれ。次はココペルマナの親番じゃ」
ココペルマナのイベントカードは『バスが乗っ取られた!』、山札の数字は3。ココペルマナは自分の手札を開示した。アイテムカードは『おかん』、『口紅』、『ヴァイオリン』だった。絶体絶命の大ピンチ、刃物を持ったバスジャック犯相手に、こんなアイテムで有効な手が打てるのか。
「これは難問ですね」
「凶悪な乗っ取り犯相手に、これじゃ切り抜けられないんじゃないの?」
「どちらかと言うと乗っ取り犯なのは、君たちのほうだと思うけどね。しかもバスじゃなくてスペースジャックだ」
「はっはっはっは! 言われてみればそうだった!」
私のブラック・ジョークにモリガンが大笑いする。彼女も私と同じアイルランドなまりだった。
「確かにその通り。では、少佐。このピンチ、一体どうする?」
ココペルマナの深い緑の瞳が私を見据えた。
「どうする? 君ならどうする?!」
「私のアイデアをリスペクトするつもりかい?」
「参考にはしない。単なる興味本位だ」
「うーむ」
私は腕を組んで首をひねった。『おかん』に犯人を説得させる? ダメだ。危険すぎる。犯人の隙をついて『ヴァイオリン』で殴る? 他のアイテムはどうしよう。口紅なんて、自分では使った経験すら無い。上手い組み合わせは簡単には思いつかなかった。
その時、地上の管制センターから緊急通信が入った。
「ハワード、応答してくれ」
「どうしたんだ?」
「デブリだ。10cm級のデブリが接近している。『きぼう』に衝突すれば、予圧モジュールが破壊される危険がある」
デブリの相対速度は平均で秒速10kmにもなる。その破壊力は通常の銃火器の比べ物にならない。『きぼう』には1cmまでのデブリの衝突による損傷を防ぐバンパーが装着されているが、10cmもの巨大なデブリを防ぐ術はない。
「軌道を変えるのか。スペースシャトルに退避するのか?」
「退避すべきだ。衝突までの予測時間は1時間を切っている」
「1時間もないのか」
私は頭をハンマーで殴られたような衝撃に襲われた。どうして、そんな巨大なデブリを予め観測できていなかったのだろうか。だが、不幸なことに、デブリは大気の影響で速度や軌道が変化することもあった。どんなに前もって観測していても、衝突するか否かはその時が来るまで分からない。
「瞳孔が拡大した」
ココペルマナが私の瞳を見つめた。
「君は今、集中している。カードが与える試練ではなく、現実の試練に対して」
「神経心理学か?」
「神経心理学は病気や疾患による影響から、脳の機能を研究する分野だ。瞳孔測定はノーベル経済学賞を受賞したカーネマンと彼の教え子ビーティの共同研究による成果だよ」
「……もうゲームをしたり目玉を見たりしている場合じゃないぞ。君たちも避難しないと」
私は移動用ハッチのロックを解除しようとした。
「先に私のストーリーを聞いてからにしてくれないか? それくらいの猶予はあるだろう」
「そうじゃ。あとちょっとだけ付き合ってくれぬか?」
女神たちが私を取り囲んだ。私の脳裏に幼い娘たちの顔が浮かんだ。クリスマスには帰れると言って家を出発した時も、娘たちにこんな風に引き止められたのだった。
「分かった! ちょっとだけ、ちょっとだけだ! 本当にちょっとだけだからね」
「流石、メイジャー少佐! 話がわかる!」
「メイジャーは1回までだ!」
「ソーリー、メイジャー!」
私たちはゲームに戻った。ココペルマナはバスジャック犯に対処するストーリーを語り始めた。
「まずは『おかん』。彼女に計画を共有する。すぐ近くにいるはずだから、小さな声で伝えることができるはずだ」
「ふむ?」
「そして、『おかん』に『口紅』を渡しておく。私は『ヴァイオリン』を持って犯人に近づく。犯人はすぐ私に気付くだろう。私は犯人に対してヴァイオリンによって時間稼ぎを行う。その間、『おかん』がバスの窓に『口紅』で鏡文字を書く。HELPとか助けてとか、短い単語だ。しかし、外からは簡単に読めても、中からは気づかないだろう。観光バスならカーテンがあるから、それで文字を隠してもいい」
「でもさ、よほどの名曲じゃないと時間稼ぎできないと思うよ。すぐに刺されてゲームオーバー」
「エルンストの『夏の名残のバラ』はどうだ? ヴァイオリン独奏の名曲だ」
「わらわは知らぬ」
「タルティーニの傑作、『悪魔のトリル』は?」
「分からん」
「イザイの『バラード』」
「それだけ知っていれば、いくらでも時間稼ぎができますね」
美の女神、ウェヌスだけは物知り顔で頷いている。しかし、果たして曲目の問題なのだろうか? 走っているバスの中で、刃物を持った相手にヴァイオリンを演奏し続けるというのは、一言で言うなら狂気そのものだ。どちらかと言うと、犯人よりもヴァイオリンをいきなり演奏し始める奴のほうが恐ろしい。
ウェヌスとモリガンは賛成を投じたが、天探女とバステトは却下を投じた。残る一票は私。
「少佐。迷っているのか?」
「少しね」
「オキャロランのシーヴェグ・シーウォアはどうだ?」
そう言うと、ココペルマナの手元に突然、ヴァイオリンが現れた。私は瞬きもできず、ココペルマナの演奏を聴いているしかなかった。郷愁を誘う調べが、私の判断を決した。
オキャロラン。盲目のハープ奏者。伝説のアイルランド人作曲家。
「これは困ったな……賛成だ」
「ありがとう。このストーリー、少々強引だったかな?」
「強引どころかクレイジーだ」
私も女神たちも笑った。バステトがイベントカードの山札をめくると、ちょうど『END』のカードが現れた。
「さて、誰がどのチームだったのか名乗るのじゃ」
私と同じ猫チームはココペルマナとバステトだった。チョコレートチームは天探女とウェヌスとモリガン。2対2の同点で引き分けだ。
「なかなか良い勝負であったな」
「うむ。貴公と対戦できて光栄だぞ」
「そんな余韻に浸っている暇も無いんだけどね」
私はすぐに移動用ハッチを開いた。しかし、女神たちは動かない。
「どうしたんだ?」
「今、媽祖姐さんからメッセージが来た」
天探女がスマホを操作している。いつの間に持ち込んだんだ。というか、どうやって通信しているんだ。
「嫦娥にここの場所を聞いて、今、全速力で向かってるんだってさ」
「遅すぎじゃ」
「早く避難を……」
「ちょっと待って! 媽祖姐さんの船が……」
その時、『ハーモニー』の窓から、暗黒の宇宙空間を中華風の宝船がISSに向かって一直線に近づいてくるのが見えた。しかし、同時にその軌道上にデブリらしき影も見える。
「あ」
私たちの反応より早く、宇宙に一筋の光が灯った。
***
気付くと、女神もデブリも跡形もなく消えていた。ISSは予定通りの軌道を移動している。私は狐につままれたような気分で、微小重力空間を漂う、猫とチョコレートのカードを見つめていた。