5. Cat & Chocolate キャット&チョコレート 日常編 (上)
私はその光景に一瞬、眩暈を覚えた。どういうことだ。これは一体。
何故、ここに――ISSに宇宙飛行士以外の人間がいるのだ。
私は即座に移動用ハッチをロックした。彼らがこの実験モジュール『きぼう』から移動し、ISS内へ移動すれば、事態は制御不能に陥る可能性がある。それに、彼らが本当に人間であるという証拠もない。彼らが実は悪意を持った地球外生命体であることだって――
つまり、これは公式な第3種接近遭遇ということなのではないか?
私は実験モジュールの壁を埋め尽くす測定機器に触れないように慎重に、微小重力空間を泳いで彼らへと近寄った。現在、『きぼう』内に私以外の宇宙飛行士がいないことだけが幸いだった。いざとなれば、自分を身の犠牲にする覚悟は既にできている。
「ごきげんよう、メイジャー少佐?」
宇宙ステーションでは場違いな、和服を着た日本人の少女が私に声をかけてきた。なまりはあるが、それは間違いなく英語だった。私のIDカードを読んだのか? しかし、私の空軍時代の階級を知っている理由は分からない。現役時代は名前を笑いのネタにされていたが、それを知っているのは昔の同僚だけだ。
私は予定していた実験スケジュールを頭から振り払い、必死で第4種接近遭遇のプロトコルを思い出そうとした。こちらが焦っていることを気取られてはまずい。軍人としての直感がひりひりと肌を焼いた。
「私はハワード。ハワード・メイジャー。宇宙飛行士だ。ようこそ、ISSへ」
私は声の震えを隠すので精一杯だった。それでも、なんとかレコーダーのスイッチを入れることができた。これで彼らとの会話を録音することができる。
「歓迎を感謝します。ハワードさん。と言っても、私たち勝手にお邪魔してしまったのですけどね」
古代ローマ人のように長衣を身にまとった少女が笑みを浮かべた。その横で鎧に灰色のマントを着た女騎士が頷く。
「うむ。しかし、『うちゆうすていしょん』とは存外に興味深いものだな。これほどの技術が下界にあったとは」
「そういうモリガンは、いつもの馬車でここまでやってきたじゃろう。技術もへったくれもないわ」
頭に猫耳を生やした幼女が女騎士にツッコミを入れた。馬車でここまで来た? 本当に何者なのだろうか。この少女たちは。
「しかし残念じゃのう。インド人のドゥルガーは中に入れぬとは。のう、ココペルマナ?」
「仕方ない。欧米の反対があって、彼らはこの計画に参加できなかった」
マサチューセッツ工科大学の正装を着て、頭にはインディアンの羽飾りを付けた少女が答えた。
5人。謎の少女が、謎の手段で、『きぼう』に侵入している。
「君たちは何者なんだ?」
「神じゃ」
かつて、世界で初めて有人宇宙飛行を成功させたロシア人宇宙飛行士ユーリイ・ガガーリンは言った。「地球は青かった。しかし、ここに神は見当たらない」と。彼らはやはり宇宙人――地球外生命体なのだろうか。
「どこから来たんだい?」
「我々は天界から降臨した」
「天界?」
「天界と言っても、それは下界の元となる像に過ぎない。天探女は鹿児島。ウェヌスはフィレンツェ。モリガンはダブリン。バステトはカイロ。私、ココペルマナはフロリダから来た」
インディアンの羽飾りの少女、ココペルマナが静かに言った。鹿児島には種子島宇宙センター、フロリダにはケネディ宇宙センターがある。それぞれ宇宙に関連を持つ地名ではあるが、だからと言って人間一人を打ち上げることなどできない。不可能だ。
地上から400キロメートルの軌道上。それぞれの異なる場所からここまで来た? 地上の管制センターの監視に一切、捕捉されることなく? そんな方法があるのか? 新たな疑問が噴出し、私は考えるのをやめた。それよりも大きな問題がある。
「君たちはその……何が目的なんだ?」
「地球侵略」
巫女服の少女、天探女が意味深な表情を浮かべた。
「そなたは馬鹿か。侵略などせずとも、地球はわらわたちのものであろうが」
「言ってみたかっただけだよ」
ぞっとしない冗談だった。しかし、私は突然、たった一人の地球の代表者としてこの場に居合わせてしまったのではないかと考え始めた。
『きぼう』は最大の与圧モジュールでもあった。ここに大勢の人間が集まれば、ISSの気圧は変化し、高度な測定機器や実験材料、あるいは宇宙飛行士も被害を被る。それだけは避けねばならない。しかし、米国の居住モジュールのキャパシティにも限界がある。
この状況は極めて危機的だ。国家的プロジェクトと人命の両方が、天秤の皿に乗っている。
「これは『冷たい方程式』ではない」
ココペルマナが私に向かって声をかけた。
「どういう意味だ?」
「少佐。君はこれだけの人数がISS内で生存可能な期間は限定的であり、同時に高いリスクから何らかの問題が起きることを危惧している」
「残念だが、その通りだ」
「しかし、私たちはそのような問題を引き起こさない。わざわざ君が『たったひとつの冴えたやり方』を選択する必要はないということだ」
「地球人の思考は予習済み……ということかい? でもそれは古典だ。古いSFの話に過ぎない」
「君は他のモジュールへ接続している『ハーモニー』への移動用ハッチを封鎖した。短時間であれば、ここから他のモジュールに大きな影響は出ないし、ここが影響を受けることもないだろう」
ココペルマナが私の背後を指差した。私の行動は既に彼女にバレている。
「私に何をさせるつもりなんだ? 本当の目的を言ってくれ」
「暇つぶしじゃ」
「何?」
「私たち女神の余興に付き合ってもらいたいのだ。あいにく、面子が足りなくてな!」
灰色髪の女騎士、モリガンが満面の笑みを浮かべた。たかが暇つぶしのために、宇宙にやってくる存在。英語まで理解する知的な宇宙人が、そんな不合理な行動をとるとも考えづらい。だとすれば、やはり……。どうやら神は、地球人と相容れない文化を持っているようだった。
「だから毎回、言ってるんだよ。媽祖姐さんを当てにしたらダメだって。『きぼう』に来いなんて言っても、ランドマークすらない場所に来られるわけないでしょ。今頃、希望ヶ丘とか別の場所にいるんじゃないの」
「中国人もここには入れない」
「ベトナム人じゃなかったの?」
「ベトナム人も入れない」
「じゃあ最初から誘った意味もなかったってことですね……」
古代ローマ風の少女、ウェヌスが肩を落とした。
「ちょっと待つのじゃ! エジプト人はどうなのじゃ?」
「猫は入れる」
「そもそも人として扱っておらんかったのか?!」
猫耳幼女、バステトが唖然とした顔でココペルマナを見返した。
「そんなことより、早く始めたほうが良い。そうだろう? 少佐?」
この状況が打開されるのであれば何だっていい。私は拳を握りしめた。
「んじゃ、今日のゲームの備品を用意するか」
天探女が御幣を振ると、一瞬でカードの束が現れた。
「こ、これは……」
見覚えがある絵柄だ。NASAでもちょっとした暇つぶしに、このカードを使ったパーティゲームをやったことがある。それに違いない。
「ほう。貴公、このゲームを知っているのか! これは面白くなりそうだな」
カードの束が微小重力空間でもばらけずに山札の形を保っていることに、私は驚きを隠せなかった。私の内心を知ってか知らずか、モリガンが不敵な笑みを浮かべた。