表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

水仙の約束

作者: 武庫川燕

 大学時代の友人に誘われ、越前海岸に旅行に行くことになりました。

 年明けの寒い日でした。

 金沢行きの新幹線の車内で、

「ずいぶん雪積もってるんじゃない?大丈夫かなぁ」

なんて話をしていました。


 実は、旅行に行くことが決まったとき、私はあまり乗り気ではありませんでした。

 越前海岸は、私の母が命を落とした地なのです。

 私は母の顔を知りません。

 物心つく前に、母はかの有名な東尋坊に身を投げました。

 どのような事情があったのか、私は何も知りません。

 そのことについて、父は何も語ってはくれませんでした。

 そもそも、父でさえ詳しい事情は何も知らないのかも知れません。


 越前海岸のアクセスは決して便利ではありません。

 金沢から在来線の特急に乗り継いで福井まで出て、そこからバスに一時間以上揺られることになります。

 ですが、それ自体は苦痛ではありません。

 大学時代から、私たちは列車旅を好んでおりました。

 東京から普通列車を乗り継いで伊勢にお参りに行ったのは良い思い出です。

 ただ、その長い旅路が、私の心に迷いが入り込むすき間を作り出したのは事実です。

 その迷いが、この後起こる怪奇のきっかけになったのでしょうか。


 少し眠っていたようです。

 夢の中で母が出てきました。

 それだけ、母の身に起きた出来事が今回の旅行の気がかりになっているのでしょう。

 それにしても、考えてみれば母の顔を知らない私が母の夢を見るなど奇妙なことです。

 夢の中で母だと認識していた人物は本当に母なのでしょうか。

 もちろんそれは確かめようがない……と思いかけて、私は家に母の写真があったのを思い出しました。

 私の家には仏壇はありません。

 それどころか、母が写った写真をほとんど見た記憶がありませんでしたので、つい忘れていたのです。

 ですが、遥か昔に私は母の写った写真を一枚だけ見たことがあります。

 それは色褪せたモノクロ写真で、母は列車に乗っていました。

 ボックスシートに一人で座って、こちらに笑顔を向けていたのが印象的でした。

 おそらくボックスシートの向かいに座っていた誰かが撮ったのでしょう。

 私と同じように、母にも一緒に列車旅を楽しむ友人がいたのかも知れません。


 高崎を通過したあたりまでは覚えておりますので、今は群馬県の山間部を走っているところでしょうか。

 真夏のような異常な暑さで、コートの中が汗でぐっしょりと濡れていました。

 私は、たまらずコートを脱いで窓の外に目を向けました。

 開け放された窓の外は、まるで夜のように真っ暗でした。


 どう考えてもおかしいのです。

 第一にこの暑さ。

 暖房の効いた真冬の車内とはいえ、コートを脱いでも耐えられないほど暑いなどあり得るでしょうか。

 第二に大きく開け放たれた窓。

 新幹線の窓が開くはずなどありません。

 それに、外から入ってくるのは身を切るような冷たい風ではなく、とても生ぬるい風なのです。

 第三にまるで夜のような闇。

 新幹線に乗ったのは昼間だったはずなのに、いつの間にこんなに暗くなったのでしょう。


 私は、窓から視線を外してきょろきょろと車内を見回しました。

 私はボックスシート――そう、まさにあの写真に写っていたような――に座っていました。

 どうも在来線の車内のようです。

 いったいどういうことなのでしょう?

 少しうたた寝をしていただけのつもりが、実はもう金沢に着いていて、友人が寝ている私を負ぶって乗り換えさせてくれたのでしょうか?

 いや、それもおかしな話です。

 仮に私が終点まで眠り続けていたのなら、普通は私を起こそうとするでしょう。

 それに、この暑さがどこから来るのか説明がつきません。


 私は、真相を確かめようと友人の姿を探しました。

 しかし、彼女はどこにも見当たりません。

 お手洗いにでも行っているのだろうと思い、私はまたしばらく窓の外を眺めながら友人の帰りを待ちました。

 しかし、どれほど待っても友人は戻ってきません。

 窓の外には、どこまでも暗闇が広がっていました。

 やがて列車は少しずつ速度を落として、どうやらどこかの駅に停車したようでした。

 私は、窓から静まり返った駅のホームを覗き込みました。

 ちょうど正面に駅名標が見えて、私は困惑しました。

 そこには確かに「横川駅」と書かれていました。

 横川――私はその駅名を聞いたことがありました。

 しかし、そんなはずはありません。

 かつての難所、碓氷峠の玄関口としての役目を終えた今、横川駅の先にはもう線路は繋がっていないのです。

 今回の旅行では、決して辿り着くはずのない駅です。

 いや、もしかしたら私が知らないだけで、福井に向かう旅路にも横川という駅があるのかも知れない……。

 そう思って駅銘板を見直し、私はさらに途方に暮れるばかりでした。

 駅銘板には必ず駅の所在地が書かれています。

 そこに書かれていた地名は「群馬県碓氷郡松井田町大字横川」――確かに「あの」横川でした。

 ということはまさか……あり得ないとは思いながらも、私は列車を降りてホームに降り立ちました。

 冬装備の私には厳しい熱気にうめき声を上げそうになりながら、私は列車の後方を目指しました。

 にわかには信じがたい思いつきでした。

 それでも、私はその思いつきを確かめずには居れなかったのです。


 先ほども申しましたが、かつての横川駅は難所、碓氷峠の玄関口でした。

 難所と言われる由縁は、峠を越えるための急勾配です。

 厳しい上り坂を越えて軽井沢に向かう列車は、最後尾に補助の機関車を連結していました。

 もしや、その機関車が今まさに繋がれようとしているのではないか、というのが私の思いつきでした。

 突拍子もないにもほどがあります。

 もうこの先に峠越えの線路はないのですから、補助の機関車を繋ぐなど有り得ません。

 でも、私はどうしても気になって、ホームに降り立ち編成の後ろの方に向かいました。

 外から見た列車の姿は、私が見たことのないようなとても古めかしい出で立ちでした。

 車体は青く塗られていて、車両の真ん中あたりの窓下に行先の書かれた金属の板が掲げられていました。

 そこに書かれていたのは「福井(長野経由)」の文字でした。

 そう、まさに私の目的地、福井に向かう列車だったのです。

 行先の下を見ると、赤地に白字で「越前」という文字が書かれていました。

 聞いたことはありませんが、おそらくこの列車の名前でしょう。

 驚きとともに、やはりそうなのか、という思いもありました。


 最後尾まで行くと、やはりというべきか、ちょうど補助機関車が繋がれるところでした。

 信じられないことですが、この列車はこれから碓氷峠を越えて、軽井沢へと向かうのです。

 何が起こっているかは分からない、でも受け入れるしかない。

 私はそう心に決めて、このまま「越前号」に乗ることにしたのです。


 何にせよ、まずは友人の姿を探さなければなりません。

 私は一番後ろの車両から乗り込んで、順番に見て回ることにしました。

 後ろの三両は寝台車両のようでした。

 私は寝台列車というものに乗ったことがありませんでしたので、なんだかとても興味が沸きました。

 冷房が効いていて快適だったこともあり、ついつい長居をしてしまいました。

 次の車両はおそらくグリーン車のようでした。

 私がいた車両と違ってきちんとした四列のリクライニングシートがついていて、乗っているお客さんもずいぶんとくつろいでいらっしゃいます。

 寝台車と同じく冷房も効いていて、ずいぶんと居心地が良さそうです。


 グリーン車両を見終わって次の車両に移ろうとしたところで、ガクンと衝撃がありました。

 ついに列車が発車したのです。

 信じられない、この列車はどこに向かうのだろう。

 いざ発車の刻を迎えると、一気に緊張が走りました。

 本当にこの列車は碓氷峠を登るのだろうか。

 実はここから奈落の底に向かうんじゃないだろうか。

 でも、何が起こるとしてももはや時すでに遅しであるのには違いありません。

 私は震える足に精一杯の力を込めて、次の車両に足を踏み込みました。


 そこから先頭までの五両は、私が目覚めたときにいた車両と同じような作りになっていました。

 ボックスシートがいくつも並んだ、昭和の香りを色濃く残すエコノミーな客車です。

 冷房がなく、乗客たちは開いた窓から入ってくる生ぬるい風でなんとか暑苦しさをしのいでいました。

 途中で車掌さんの姿を見つけて、私は尋ねました。

「今は何年の何月何日でしょう?」

「は?」

 無理もないことですが、車掌さんの反応は怪訝そうでした。

 むしろ、答えてくれただけで有難いと思わなければなりません。

 車掌さんは不機嫌そうに言いました。

「一九八〇年七月二十日です」


 どの車両もそれなりの乗車率があるようで、相席になっているボックスもいくつかあるようでした。

 私は、一つ一つのボックスを注意深く覗き込みながら通路を進んでいきましたが、友人の姿はどこにもありませんでした。

 おそらくこの列車に友人は乗っていないのでしょう。

 それはむしろ喜ぶべきことであるに違いありません。

 目が覚めたら三十六年前の列車の車内にいるなどという怪奇現象に巻き込まれたのが私一人で済んだのですから。


 十五分ほどで軽井沢に着きました。

 拍子抜けするくらいにあっけない峠越えでした。

 軽井沢を出た列車は、小諸、上田と停まった後、やがて長野に到着しました。

 駅の時計は深夜一時近くを指していました。

 真夜中ですが、暑苦しくてちっとも眠れそうにありませんでした。


 長野から乗ってきた一人の客が、私の向かい側に座りました。

 一目でさわやかな印象を与える好青年でした。

 席に座るなり、彼は私に気さくに話しかけました。

「悪いね、こんな席で。グリーン車を取ってあげられれば良かったんだけど」

 まるで知り合いのような口ぶり、しかし私はもちろん彼のことを知りません。

 人違いではないでしょうか。

 どちらさまでしょう。

 そう尋ねようとして、でも私はそのどちらでもない言葉を口にしました。

「いいのよ別に。鈍行の旅は慣れてるもの」

 言ってから、私は自分自身の言葉に驚きました。

 まるで相手が知り合いであるかのような言葉が自然と口をついて出てきたのです。

「それじゃあ、今日は急行列車だからいつもより快適なくらいかー。あはは」

「それはどうかしら」

 初対面のはずなのに、お互い言葉がすらすらと出てきます。

 いや、私はきっとこの青年とどこかで会ったことがあるのだ、と思いました。

 記憶のどこを探しても、彼の記憶はありません。

 でも、彼の面影にはどうも見覚えがあるような気がしました。

 もう少し話してみようかと思ったのですが、彼は

「旅は長い。ちょっとでも寝ておいた方がいいな」

と言って目を瞑ってしまいました。

 仕方なく、私は窓の外を眺めました。

 時折流れていく街灯の光を除けば、どこまでも暗闇が広がっていました。

 この暗闇の先に広がっているのが本当に一九八〇年の世界なのか、確かめるすべはどこにもありませんでした。

 もしかしたらこの列車だけが時代に取り残されていて、駅を降りれば二〇一六年に戻ることができるのではないかと思うくらいでした。


 列車は直江津で進行方向を変え、静寂の海辺をひた走りました。

 明朝五時、富山を出たところで向かいの青年が目を覚ましました。

「少しは眠れたかい?」

 彼は、窓の外を眺めていた私にそう尋ねました。

「ぜんぜん」

 私が答えると、青年は呆れたとばかりに首を振って、それからふいにカバンからカメラを取り出しました。

「旅の記念に、一枚撮らせてもらって良いかな」

 そうして、彼は私の写真を撮りました。

「どんな風に写ってる?見せて?」

と言いかけて、この時代のカメラはフィルム式であったことを思い出しました。


 日の出の時間はとうに過ぎていました。

 窓に反射して見えていた車内の景色が北陸の車窓に消える瞬間、私は窓にうっすらと映った私自身の姿を見ました。

 ボックスシートに座った私の姿は、写真の中にいた母そのものでした。

 あの写真を撮ったのは今目の前にいる青年で、写真に写っていたのは私――。

 ということは、目の前の青年は若き日の私の父に違いありません。

 どうして私が初めて会ったはずの彼に見覚えがあったのか、それは、彼こそ私が毎日顔を合わせていた父その人だったからです。

 私はこれから彼と結ばれ、そして「私」を生む――。

 そのために私は一九八〇年にやってきたということなのでしょう。

 常識で考えれば突拍子のないことです。

 でも、私にはそれがごく自然なことのように感じられました。


 いつの日も、私にとって母は非現実的な存在でした。

 かつて現実に存在していたことがあるという事実さえ、心の奥底では信じられないでいました。

 そんな自分に罪悪感を覚え、その罪悪感を少しでも紛らわすために言い訳を繰り返し続けてきました。

 物心つく頃にはもう母はいなかったのだから仕方がないのだと。

 でも、そんな言い訳など必要なかったのです。

 私の母は誰あろう私自身だったのですから。


芦原(あわら)に着いたらすぐに現像してもらおう」

 青年は言いました。

「ありがとう」

 私は答えました。

 ですが、本当は見るまでもなく、私は完成した写真の出来上がりを知っていました。

 なぜなら、私はとうの昔にその写真を見たことがあるのですから。


 七時前に芦原温泉駅に着きました。

 二人は大きな旅行鞄を抱えて列車を降りました。

 昼に東尋坊を観光しました。

 近い未来に私の終幕の地となるであろうその地は、これまで見てきたどこよりも美しい場所でした。

「もし死ぬならこんなきれいな場所がいいな」

と私は言いました。

 それは心の底からの言葉でした。

「できれば君に死んで欲しくはないよ」

と青年は答えました。

 私はそのときどんな表情をしていたでしょう。

 きっと笑っていたはずです。

 彼が私のことを愛してくれているのが心から嬉しいと思いました。


 その夜、芦原の温泉宿で彼と身体を重ねました。

 私という存在の原点を秘めた熱が下腹部を満たしました。


 年が明けました。

 体が重く、寝床から動けない日々が続いていました。

 妊娠の負担で少し疲れたのでしょう。

 越前海岸の水仙が見ごろでしたが、とても見に行けそうにはありませんでした。

 来年こそは見に行こうね、そう二人で約束しました。


 そして半年が経ち、私は一人の娘を出産しました。

 おぼろげな視界の中で、庭の紫陽花がゆらゆらと揺れていました。

 遠くで声が聞こえました。

 それはたった一人の声か、それとも何人もの声が重なっているのかは判然としませんでした。

 ただ、その声は悲しみに満ちているように聞こえました。

 めでたい日だというのに奇妙なことだと思いました。

 その後のことはよく覚えていません。

 次に目が覚めたとき、私はあの日の続きの中にいました。


「水仙の花、キレイに咲いてたらいいね」

 北陸新幹線の車内で、友人は言いました。

 そうでした、こんな寒い時期に越前海岸に行こうという話になったのは、海辺に咲く水仙を見に行くためだったのです。

 不思議なものです。

 彼と水仙を見に行く約束を果たせなかった時点で、一生その水仙を目にすることなどないと思っていたのに。


 新幹線はかつての難所を迂回しながら県境を越え、あっけなく長野に着きました。

 飯山トンネルを抜け、一時間ほど日本海沿いの町を行けばもう金沢でした。

 ああ、これが私の元いた時代、二〇一六年……。

 私は戻ってきたのです。


 金沢から特急とバスを乗り継ぎ、越前岬に着いた頃には日が暮れていました。

 翌日は、幸いにしてよく晴れていました。

 宿を出て間もなく、私たちは目的地に辿り着きました。


 私たちは息をのみました。

 急斜面に沿って、白く可憐な花々が咲き乱れています。

 その先にあるのは真っ青な海――母の眠る越前の海です。

 あの海に眠るすべての人の魂がこの花の一つ一つを形作っているのではないか、そう思われるほどに、無数に咲く一つ一つの花はすべて尊く、愛しいのでした。


 隣にいる友人に、ほんの一瞬だけ彼の姿が重なりました。

 きっと、彼との約束を果たせなかった後悔がそうさせたのでしょう。

 ですが、私をここまで導いてくれたのは彼ではなく、他でもないこの大切な友人なのです。

「ありがとう」

 それは、私の思いすべてを表す言葉でした。


 またいつかこの地を訪れよう、その時は父を連れて、遠い日の約束を果たそう。

 そんな決意を胸に抱きしめて、私は咲き乱れる水仙に背を向けました。

 父はもうそんな約束のことなど忘れているでしょうか。

 それとも、もう決して果たすことができない約束と諦めているのでしょうか。

 それでもいいのです。

 あの約束が果たされることで初めて父と母の悲しい別れの物語が終わり、親と子の新たな物語を始めることができるのですから。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ