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世界のまばたき

作者: うらし

三分の一。それが、僕の目の前にいる女の子の全てだった。

 図書室の看板の下で一つ息をついて、丁寧にドアを開けた。噛み合わせの悪いレールの上をドアが滑り、ガラガラと音が鳴った。


 夕方特有の橙色の日光が窓から差し込む中、進めた僕の足が止まった空気をかき混ぜる。マドラーでコーヒーの底に沈んだミルクを混ぜ合わせる時のように、足元から本特有の懐かしい匂いが立ち昇った。

 放課後の図書室というのは不思議なもので、授業中の教室や部活動中の体育館よりも時間の進みを遅く感じさせる。教室より少し薄暗い暖色の照明や、本のために一定に保たれた快適な温度が、時間をここに足止めしているのかもしれなかった。

 明日から夏休みというだけあって、今日の内にその日の復習を終わらせておこうと考えるような勤勉な学生の姿は一人も見えない。もちろん、僕も含めて。


 分厚い木でできた長机には、椅子が十二個きっちりと収められていて、今か今かと出番を待っていた。テスト前には全席埋まっていて退散を余儀なくされることも多いけれど、今日は選び放題のようだった。貸し切りのテーブルを満喫するために、真ん中の椅子を引いて腰を下ろした。


 机の上に、鞄に入っていた教科書を勢いよく広げる。もちろん、勉強をするためではない。長期休暇の前日には先生がロッカーを一つ一つチェックして、置きっぱなしの勉強道具が見つかれば持って帰らされるのだ。例にもれず大量の教科書を置きっぱなしにしていた僕は、先生の言う『勉学の重み』を肩で感じることとなっていた。

 鞄の底に沈んでいたスマートフォンとイヤホンを救出して、雑に突っ込んでいた教科書をきちんと収め直す。


 鞄は隣の席に着席させて、イヤホンをスマートフォンに差し込んだ。空調の音だけが鳴る中で、カチリという音が響いた。

 画面に浮かぶ動画再生アプリのアイコンを押すと、軽快に起動画面が立ち上がった。物理的なボタンのないディスプレイに触れるこの感覚が好きで、手持無沙汰になるとスマートフォンを触ることが多い。()()のに()()というのが、何だか愛おしい感じがするのだ。おかげで画面には薄っすらと指紋の跡が残ってしまっていた。


 両耳にイヤホンを差しこんで、机の上にスマートフォンを置く。右上に表示された動画再生ボタンを押すと、画面の中央に読み込み中のマークがふよふよと浮かんだ。

 最近のアプリは賢いもので、普段見ている動画からユーザーにオススメの動画を判断して、流してくれる。待つというほどでもない読み込み時間の後、画面いっぱいに鮮明な映像が映し出された。


 両耳には聞きなれたギターリフが流れ込む。先日新曲を出したお気に入りのバンド、スペースキャッツのファーストシングル。もちろんCDも持っている。それでも動画で見てしまうのは、このバンドのミュージックビデオが好きだからだ。

 ギターの音を支えるように、ドラムの茹るようなビートが持ち上がってくる。それに合わせて、何ともいえないサイケデリックな映像が流れていた。例えるならば、美術の成績が万年『もっとがんばりましょう』の人が、泥酔した美大生のアドバイスを元に描き上げた絵が近いだろうか。


 このアプリは、先日のアップデートで『動画の60fps再生』に対応した。六十フレーム・パー・セカンド。一秒当たりのコマ数が六十個。人間の目は60fpsまで認識することが出来ると言われているから、60fpsの動画は僕たちが実際に診ている景色と遜色無いという事になる。

 曲はラストサビに差し掛かり、画面には宇宙をバックに猫のような生命体がアクロバティックなダンスを踊っていた。見たこともない生き物は60fpsの恩恵を受け、いつも見ている生き物と同じ滑らかさで熱狂的に体を躍らせていた。


 ボーカルが息を吐ききり訪れる一瞬の静けさの後、アウトロが流れ出す。ラストサビまで踊り続けた猫のような生命体は、画面越しに手を振っていた。

 名残惜し気なシンバルの残響音は、イヤホンが勢いよく耳から引き抜かれたことでぷつりと途絶えた。この悪戯をするのは、いつも一人だけだ。だから、いつものように右側に振り返った。


 西日がまともに目に差し込む中、目を細めた僕が見たのは()()()()()()仁王立ちしている女学生の姿だった。

 悔しいことに僕よりも少し高い背、夏の始まりを予感させる少し焼けた肌、自分で切って失敗してからこまめに美容院に行っているらしいショートヘアー、校則の申し子と言って差し支えないほどきれいに着られた制服、そして、文字通り()()()()()()()立つ姿勢のいい姿。どこからどう見ても、普段通りの彼女だ。


「へへ。待った?」

 西日をバックに彼女は笑った。時折夕日が透ける彼女の笑顔は、文字通り眩しい。

 僕が待ち合わせ時間ギリギリにつくタイプであることを知っていて、いつもそう訊いてくる。

 僕もいつものように、言葉を返す。

「うん、待ちくたびれたよ」

「へえ、それは大変だったね」

 当然のように僕の言葉を受け流し、隣の椅子に音もなく腰を下ろした。対照的に、机に置かれたカバンは鈍い音を立てた。彼女の鞄の中身も、大量の教科書で占められているのだろう。


「もう少し待ってて」

 彼女はポケットから携帯を取り出して、手慣れた様子でキーを押し始めた。僕はイヤホンをポケットに入れ込んで、彼女の用事が終わるのをぼうっと待つ。図書室の緩やかな空気は、何もしない時間を肯定してくれている感じがして好きだ。だから、いつも二人の待ち合わせ場所になっている。

 今時僕らの年代が持つには珍しい、二つ折りタイプの所謂ガラパゴスケータイを、彼女は小さい時から使っている。ずっと前から携帯電話を持っている理由も、帰る前に必ず親に連絡を入れる理由も、彼女が幼いころから持つ()()に起因していた。


 彼女は、医者に言わせれば()()()()()()()()()()()()状態なのだそうだ。

 僕たちは、現実を少なくとも60fps以上で生きている。言うまでもなく僕らが暮らしている地球は滑らかに公転を続けているし、僕たちの足音や鼓動はいつだって一定のリズムを刻む。一秒を六十分割しようとも、それ以上に分けようとも、間違いなく連続した時間の中にいる。

 けれども、彼女は違う。一生懸命にキーを押している彼女の整った横顔は、時折ふわりと消える。僕の視界から完全に彼女が居なくなり、西日と書架だけが目に映る瞬間がある。

 彼女は、この世界の構成単位である60fpsのうち、二十フレーム程度だけこの世界に存在している。つまり、約コンマ三秒ごとに生きていた。

 三分の一。それが、僕の目の前にいる女の子の全てだった。


 残りの三分の二はどうなっているのか、過去に理屈を教えてもらったことがある。彼女は医者から聞いた話を一生懸命説明してくれたが、ランドセルを背負うのをやめた時期の二人が話し合う程度では、理解できるはずもなかった。きっと今聞き直してもわからないだろう。

 医者は、『現代医学では治療不可能な奇病だ』と言ったらしい。

 彼女の両親は、『娘がいてくれるならそれでいい』と言っていた。

 僕は未だ答えを出せていないけれど、『彼女の三分の二にも、いつか会いたい』と思っている。恥ずかしいので、きっと彼女に伝えることはないだろう。


「お待たせ。それじゃあ、いこっか」

 携帯電話を軽快に折り畳み、彼女は立ち上がった。

 立ち上がった彼女の影が、机の上に明滅する影を落とす。丁寧に片付けた椅子の脚が床と擦れて、温かみのある音が鳴った。

「待ちくたびれたよ」

「へへ、それはさっき聞いた」

 彼女は勢いよく鞄を肩にかける。僕も倣って鞄を持ち上げたけれど、その重さで少しよろめく。

「君は修行が足りないね」

「いつ修行の成果を発揮するんだよ」

「誰かが困ってるときとかかな」

 彼女は飄々と言葉を返す。修行をしているらしい彼女が、勢いよく図書室の扉を開けた。図書室のドアの噛み合わせが年々悪くなる原因の一つを知ってしまった僕をよそ眼に、彼女は夏らしい温い風が吹き抜ける廊下をずんずんと進んでいった。

 下駄箱前で待っていた彼女に遅いと怒られた僕が、歩みの遅さを荷物のせいにしたのは言うまでもない。


 幼いころから知り合いだった僕らは、幼馴染の例に漏れずお互いの家が近い位置に建っていた。当然、登下校の順路も同じ。幼いころはそれが理由でからかわれたこともあったが、今では僕たちも周りの人たちも慣れたもので、波風立たずに通学している。

 そもそも毎日一緒に帰ったとしても、普通の友人と登下校する時間の三分の一程度しか一緒に通えないのだから、まわりの声に耳を傾ける時間などは僕にはなかったのだけれど。


 隣を歩く彼女に目を向ける。住宅街の細い路地、日が落ちる頃特有の心地よい風が、彼女をすり抜けて駆けていった。髪を靡かせる風に目を細めた彼女が、ふわりふわりと明滅する。

 僕よりも少しだけ小さい歩幅で進む白いスニーカーが地面を叩く音は、時々消える。それでも彼女の足は、一歩一歩着実に家へ近づいていく。


 いつからだったか、僕は彼女の消失を()()()()()()()と呼ぶようになった。僕には見えない三分の二があろうとも、彼女はずっとそこにいて、世界の側が一瞬目を閉じているだけだと思いたかったのだ。これは受験を控えても神社や寺にお参りしない僕が、唯一している願掛けのようなものだった。

 彼女自身は、自分の個性を()()()と呼んでいた。病気と悲観するでもなく、必要以上に美化するでもなく、ただ必要な行為のように捉えている。シンプルで、彼女らしい言い回しだと思う。


「そういえばさ、図書室で聴いてた曲、私にも聴かせてよ」

 僕の感想を知る由もない彼女は、思いついた話題を僕に放り投げる。僕はいつものように、イヤホンの片側を耳に差し込み、もう片側を彼女に渡して、おもむろに再生ボタンを押した。

「いいじゃん、このイントロ。なんて曲?」

「スペースキャッツの、ハートビート。聴くならまたCD持ってくるよ」

「へへ、よろしく」

彼女も慣れたもので、イヤホンのコードが引っ張られない距離感を保ったまま、リズムに乗ってパタパタと歩く。


 アプリの自動再生機能がスペースキャッツの最新アルバム曲を流し始めたころ、彼女は思い出したように口を開いた。

「ハートビートといえばさ、昔、心拍数を測ったのを覚えてる?」

「うん。今日と同じ、夏休みの前日」

「よく覚えてるね」


 忘れるわけがない。

 あの日、彼女は消え入りそうな顔で、『心拍数って、手首で測れるんだって』と話してくれた。それが放課後の僕に新しい知識を教えてくれるためではなく、何か他の目的の為に出した話題であることは幼い僕にも察することができた。

 彼女の三分の一が消えてしまう気がして怖くなったあの日の僕は、ピカピカのランドセルを教室の床に置いて、彼女とそれを試してみることにしたのだ。

 机にもたれた彼女は手のひらで自分の手首をつかみ、手首に視線を落としたまま、上履きでパタパタとリズムを取り始めた。それが心拍数を数えるためのものだと気づいた僕は、彼女の鼓動に耳を澄ませたまま、教室の前に取り付けられた時計の一番長い針が一周するのをじっと待った。

「何回だった?」

 彼女は僕の目を見ずにそう聞いた。小さな手のひらは、まだ手首を握りしめたままだった。

「二十回、だね」

強く握られて白くなった彼女の手のひらを見ながら、僕は言葉を返した。

「教科書にね、生きてるって心臓が動いてることだって書いてあった。生きてる人の心拍数は、六十から八十回なんだって。ねえ、私、」

 彼女は、その先を言わなかった。僕はその先の言葉がわかっても、返すべき言葉がわからなかった。

「僕の読んだ本には、夢中で毎日を過ごしていたら、いつかはわかる時が来る、って書いてあったよ」

 だから、これまで読んできた言葉の中で、一番納得したものを彼女に伝えることにした。もし十分に伝わらなかったのなら、こんな言葉を残した坂本龍馬のせいだ。


 彼女は初めにゆっくりと僕の顔を見た。次に握っていた手のひらをそっと開いて、ただ一言、「帰ろっか」と言った。

 帰り道、普段の三分の一程度しか話さない彼女のおかげで僕の頼りない話術が酷使されたことも、その日彼女はクラスメイトに心無い言葉を言われていたと後で知ったときの気持ちも、未だに覚えている。


 奇しくもあの日と同じ夏休みの前日を過ごす今の彼女は、能天気に電柱のてっぺん当たりを見上げ、夕日を一身に浴びながら、「へへ、懐かしいなあ」と独り言を漏らしていた。電線に留まっていた小鳥たちが一匹、また一匹と飛び立っていく。彼らもそろそろ帰るべき場所へと向かうのだろう。


 夕日の橙色を夜の紺色が徐々に塗り変えて、街灯がぽつぽつと灯り始めた頃。いつも通り小さな路地へ差し掛かると、先の交差点で見慣れない少女が一人遊んでいた。おもちゃだろうか、遠目からでもわかるファンシーな色の小物がいくつか道路に落ちていて、少女自身はボール遊びに夢中な様子だった。

 僕は暢気に、彼女はきっとすれ違う時に少女に声をかけるだろうな、なんて考えていた。彼女もそんなことを考えていたのだろう、横目に笑顔が見えた。


 表情が変わったのは、彼女が先だった。次に僕が気づき、最後に少女の顔から血の気が引いた。

 交差点の左側遠くから、細路地には似つかわしくないアクセル音と、電子的なアラート音が近づいていた。

 車に施された青と黄色が基調の特徴的なカラーリングと、愛着を持たせるために丸くデザインされたヘッドランプ。大都市から配備され、ついにこの小さな町でも試験導入が始まった、最先端の全自動運転機能が搭載された輸送車。大々的にカタログが配布されていたから。車の型番は知らなくても、アラート音が指し示す意味は覚えている。制御系統の故障。減速機能のエラー。周りから退避させるための警報音。

 鉄の塊は叫びをあげながら、交差点を目指していた。


彼女が肩にかけていた鞄を迷いなく地面に落とす。鈍い落下音が響くよりも早く、彼女は少女のもとへ駆け出した。二人を繋いでいたイヤホンは引っ張られ、彼女の耳から勢いよく外れた。僕もイヤホンに引っ張られるようにして、彼女に二歩遅れて走り出す。


 脚を少しでも前に進めるのに必死で、肺にうまく空気が入っていかない。思考が空転する。修行が足りないね、といった彼女の声が頭をぐるぐると巡っていた。片耳に残ったイヤホンから、聴きなれた曲のAメロが流れている。歌詞が頭を横滑りしていく。

 時間がゆっくりになったように感じる。彼女との距離も、少女との距離も一向に縮まらなかった。それでも、ひたすらに駆けるしかない。時間と距離という、単純で残酷な現実を前に足が止まりそうになる。

 彼女が一歩前を全力で駆けていなければ、僕はきっとぼんやりしてきた頭の重さに負けて転んでいただろう。


 どれだけ時間がたったかもわからないような徒競走の末、先に少女のもとにたどり着いた彼女が必死に手を伸ばした。彼女はどうにかして少女を守る方法を選び抜いて、きっと躊躇なくそれを実行するつもりだろう。

 轢かれる前に少女を道路の端へ突き飛ばす?少女の居た位置に入れ替わり姿勢を崩す彼女は、もちろん助からないだろう。

 あるいは、少女を抱きしめて衝撃を肩代わりする?減速を知らない鉄の塊は、彼女を噛み砕いてお釣りが出る威力だろう。

 耳から流れ込むサビのシンバル音が頭を揺らす。近づいてきたアラート音が大気中に満ちていく。冷や汗が背中を伝い落ちていく感触がはっきりと伝わった。


 彼女が来て安心したからか、あるいは二人に訪れる残酷な結果が頭に浮かんでしまったからか、立ちすくむ少女の手から大きめのボールが滑り落ちていく。少女のおさげが風で靡き、状況に似つかわしくないほど穏やかに揺れた。

 彼女は減速することなく、迷いなく少女を抱きしめて、そのまま前方へ走り抜けようとした。


 彼女の選択はきっと最善だった。それでも、彼女の後ろで電子音を撒き散らす車と二着争いをしていた僕には、それが最良の結果を生まないことがわかってしまった。

 車は、彼女のすぐ真横まで迫っていた。


 彼女の死を予感して、僕の一秒が分割されていく。知覚の限界である六十フレームを遥かに超えて、周囲が限りなくスローモーションに感じられた。

 人体の不思議がもたらした猶予時間で状況を理解した僕は、二人を救う最善の方法を選び取る。もちろん、これが自分にとって最良の結果を生まないことはわかっていた。

 僕は地面を強く蹴り、両手を彼女たちに突き出して、渾身の力で突き飛ばした。

 姿勢を崩した僕の視界に、一面のコンクリートが広がる。すぐ左に在る巨大な鉄塊が大音響でアラートを鳴らす。イヤホンから流れているはずの音は掻き消されて、もう聴こえなかった。

 僕は彼女たちの無事をこの目で確認できないことを惜しみながら、この先に起こることを覚悟して目を閉じた。


 最初に感じたのは、耳に辛うじて引っかかっているイヤホンから聞こえる馴染みのアウトロ。どうやら、少なくとも耳はミンチにならずに済んだらしかった。

 ゆっくりと目を開くと、相変わらずコンクリートが眼前にある。地面に散らばるカラフルなプラスチックの破片は、ひき逃げにあった哀れなおもちゃの末路だろう。

 どうにか横たえていた体を転がすと、夕日の残滓が広がる空と、電柱にめり込んで煙を上げる車が見えた。


 やっとのことで体を起こして彼女の姿を見た瞬間、僕は自分に起こったことの顛末を理解した。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()


 つまり、僕は彼女に手を伸ばして触れた瞬間に、世界のまばたきの向こう側に行ったのだ。世界が見逃した0.6秒の間に、車は僕が居た位置を追い越して、交差点の奥でスクラップになった。

 彼女を救おうとした僕は、結果的に彼女に救われた。

 僕は、この事実を彼女にどう伝えるべきか迷って、しばらく口をぱくぱくさせていた。彼女も僕がミンチになっていないという衝撃的な事実を目の当たりにして、しばらく口を開けたままだった。


 しばらくして、彼女は一度口を閉じてから、「よかった」と呟いた。普段なら僕の無責任な行動を責める彼女も、先に自分がそんな行動をとった手前、何とも言い難いようだった。


 誰かが輸送車の断末魔の叫びを聞いて通報したのか、あるいは自動操縦の中に位置情報の通報が含まれていたのかはわからないが、警官らしい人たちが少しずつ集まってきていた。近づいてくる人たちの中には、少女とよく似た顔の女性の姿も見えた。おそらく、彼女の母親だろう。

 彼女は落ち着いたらしい少女を最後に強く抱きしめて、手を放した。


 僕が服についた土を払い落として体の無事を確認している間に、二人分の鞄を回収した彼女が、僕の鞄を投げてよこす。教科書で満ちたそれを両手で抱きとめると、全身が軋みをあげた。

 夏休みの前日、こんな日のこんな時に彼女の口がどう動くのか、僕は知っている。

 ただ一言、こう言うのだ。

「帰ろっか」


 家の前で別れるまで、彼女はそれ以上何も言わなかった。

 僕の手の甲に彼女の手の甲が触れていることについて何も説明がなかったから、話術の頼りなさに定評のある僕は、失言でこの幸運を手放さないように沈黙を選んだ。

 街灯に()()()()()()照らされた僕は、初めて文字通り()()()()()()()()を歩くことができた。


 0.3秒ごとに明滅する街灯を並んで眺める喜びも、明滅することのない彼女の横顔も、きっとこの先忘れることはない。触れた手が、世界が瞬きした瞬間も、僕と彼女を結び付けている。

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