愛、みつる――
「今日、転校生が来るんだって!」
窓枠の青空に浮かぶ雲の動向を注意深く見つめていた濟藤 満は、教室の反対側から聞こえてきた同級生の声に、「なるほど」と頭の中で相槌を打った。
朝から教室の雰囲気がどこかそわそわしていると思っていた。きっと情報通な誰かが、朝っぱらから噂を流していたのだろう。
早速噂好きの女子から「マジで!」とか「うちのクラスかな?」とか「女子? 男子?」とか、かしましい歓声が上がっている。一気に騒がしくなった教室に一瞥をくれて、満はまた雲の動きに意識を向けた。
(転校生転校生って……ただ教室の中に人間がひとり増えるだけのことじゃない)
満にとって、教室にいる同級生たちは他人で一括りにされていた。だからほかの女子のように騒ぐ気にはならなかったし、第一満には一緒に騒ぐ相手がいなかった。
はっきり言ってしまおう。満には友達がいない。
不穏な意味ではない。別にいじめにあっているわけではなかったし、単純に満の無愛想が人を寄せ付けないだけのことだった。それに「いつもひとりで窓の外を眺めている変わり者」という位置は、満にとってはとても居心地が良かった。
もし現状に問題があるとすれば、今この教室で空いている席が満の隣しかないことくらいだった。そこにいるだけで注目を集める転校生の隣の席なんて、きっと面倒なことになるに決まっている。
とはいえ、その転校生がこのクラスにやってくるとは限らないし、万が一このクラスに来たとしても、空いた机の反対隣は学級長の千島 幸であるし、面倒ごとはみんなあちらへいくだろうと、たかをくくっていた。
チャイムが鳴り響き、担任の姿がドアの向こうに見えると、騒いでいた生徒たちが慌てて席へ戻る。その後ろに続いてくる見慣れぬ少女の姿に、満は露骨に眉を寄せた。
担任が教壇に立つのと、幸の「起立」の声がかかるのはいつもほぼ同時だ。皆形式的に頭を下げて席に着くが、もう頭の中は前に立つ少女のことでいっぱいだろう。
満は一番後ろの席から見渡す教室の様子に嫌気がさして、すぐに窓の外へ視線を投げた。
「さて、多分もう話題になっていると思うけど、我がクラスに新しい仲間が増えます。ようするに転校生ですね。じゃあはい、自己紹介を」
「はい。久保田愛です。親の転勤で引っ越してきました。まだ街の様子もよくわからないから、色々教えてもらえたら嬉しいです。よろしくお願いします」
教室中から拍手が起こる。聞こえた歓迎の声は女子の物が多かったが、やたらばしばしうるさい拍手が多かったから、きっと男子が大喜びしているのだろう。朝のホームルームなど大概はあくびばかりしているというのに、現金なものだ。
「席は、あの後ろの空いてるところでよろしく。あ、千島、放課後久保田に校内の案内をしてやってくれないか」
まったく想像していた通りの展開だった。あとは休み時間に適当に席を外して、この転校生フィーバーをやり過ごしてしまえばいい。一週間もすれば、大抵のことは落ち着いてくる。それまで耐え切れば、なにごともない平穏が戻ってくるはずだ。
一通りの見通しが立って、満が気を緩めて正面に向き直ったところで、ふと幸が満に視線を向けてきた。なんだと思っているうちに、幸は手を挙げながら正面に向き直った。
「先生、私今日委員会なので、濟藤さんに頼んでください」
「ああ、そういえばそうだ。じゃあ濟藤、よろしく」
「……え? ち、ちょっと千島」
「ごめんみっちゃん。委員会のあとはすぐ部活行かなきゃなの。みっちゃんなら大丈夫だって! ね!」
「え、えええ……」
幸はこのクラスで、唯一保育園から付き合いのある人物だった。かといって特別仲が良いわけでもなかったが、幼馴染だけあって気心は知れていた。
頼られると断れないのが満の性分で、幸はそれを知っていて任せると言ってきている。満にも幸のその思惑はわかっていたが、クラス中、なにより愛本人からの視線が突き刺さって、結局満はこくりと頷いてしまった。
「はい、話がまとまったところでホームルーム始めます。久保田も席に着いて」
頷いた愛は壇上から降り、当たり前だが満たちの方に歩いてくる。席までたどり着くと、机の上にカバンを置いて、イスに座る前に幸と満にそれぞれ「よろしくね」と小声で挨拶してきた。幸は朗らかに、満はぎこちなく「よろしく」と告げて、居心地悪くてたまらなくなった満は、再び外へと視線を投げやった。
だから、席に座った愛がちらちらと満の方を気にしていることに、気づくことができなかった。
休み時間のたび、愛は同級生の質問攻めにあっていた。まさに転校生フィーバーである。
騒ぎに巻き込まれたくなくて席をはずすつもりでいた満だったが、朝のやり取りもあり露骨に避けるのも気が引けて、結局外の景色を見てやりすごすことにした。
背を向けていれば、あえてこちらに話を振ってくる者もいない。けれど会話の内容だけは耳に届いてしまって、満はそれをまた煩わしく思った。
「さっき親の転勤って言ってたけど、久保田さんのお父さんって転勤族ってやつ?」
「そうなの。小学校の頃から何回も学校が変わってて。でも今度は、私の卒業まで転勤は無さそうだって」
「へえ! じゃあ一緒に卒業できるんだ」
「うん。だからね、はやくみんなと仲良くなって、思い出いっぱい作って、卒業式で号泣したいんだ」
「なにそれ、めっちゃ熱いじゃん」
「だって青春したいんだもん」
「青春って」
背後から沸き起こる笑いに、これが転勤族の子どものコミュ力かと、満は感慨深く思った。
昼休みになると満はいつも弁当を持って庭へ出るため、教室の様子は知らなかったが、後で聞いた話では、愛は幸のグループに混ぜてもらって問題なく食事を済ませたらしい。満はそれに安心して、安心した自分に少し驚いた。
不思議なもので、初めこそ煩わしいと思っていた愛の存在は、たった半日で満の中に馴染んでいた。満自身も驚く脅威のスピードだった。
騒がしいのは周りの同級生ばかりで、愛はただ愛想のいい受け答えを繰り返しているだけだと気がついたからかもしれない。悪い言い方をすれば八方美人だが、無愛想を標準装備している満から見れば、それは大層高等な技術のように感じられた。
正反対な相手への不思議な興味は、満の中で不快感なく好意へ変換されつつあった。
今日最後の授業は日本史で、満が終業のチャイムで目を覚ますと、ノートはミミズ文字で埋め尽くされていた。ひとまず終わりの挨拶をしてから残念な気持ちでそれを見下ろしていると、隣からくすくすと笑い声が聞こえた。
愛である。どうやら満の居眠りに気づいていたようだ。
「……」
「あ、ごめんね。そのうち起きるかと思ってたんだけど。起こしたほうがよかった?」
「いや、別に……」
「そっか」
愛は微かに笑って、教科書などを片付け始めた。満もはっとしてミミズ文字を封印し、それらをさっと机の中に入れた。
決して案内のことを忘れていたわけではない。どちらかというと、寝ぼけていたせいで今のが最後の授業だということを忘れていた。
満が慌てているうちに、愛の向こうで幸が「お先に」と手を振ってくる。片手を上げて短く返事をすれば、幸は教室中に挨拶をしながら小走りで出て行った。
誰より早く教室を出ていった幸を視線で追って、愛は感心したように息をついた。
「千島さん、本当に大忙しだね。それとも五分前行動ってやつかな」
「あれは両方だよ。会議自体、授業が終わって十分後だかに始まるらしいし。後はまあ、あいつがせっかちなだけ」
その言葉に、愛はまたくすくす笑 笑った。冗談を言ったつもりがなかった満は少し動揺して、それをごまかすように席を立った。
「じゃ、案内するから。とりあえず、移動教室とかでいいよね」
「うん。ありがとう」
同級生の視線を背中に感じつつ、満は愛を伴ってそそくさと教室を出た。
放課後とはいえ、授業が終わったばかりの学校はまだまだ人の気配が多い。移動教室から戻ってくる団体とすれ違いながら、ひとつひとつ、簡単に説明を加えながら案内をしていった。
例えば、月曜の三限と四限は体育の後の化学だから移動をとにかく急いだ方がいいとか、水曜四限の音楽はのんびりしすぎると昼休みが短くなるとか。一応有益な情報を織り交ぜながら、満なりに親切に案内してやっているつもりでいた。
そして最後の物理室。三階の端にあるこの教室は、いつも人気がない。グラウンドや音楽室などとは反対側にあり、そろそろ始まる部活の声や音も遠くなる。
静かな空間では気まずさが倍増されるのが目に見えていたので、後回しにしていたのだ。
「物理室はあまり使わないけど、数学の先生がここの研究室使ってるから。日直とかで用事はあるかもしれない」
「そうなんだ。でも、今日はいなさそうだね」
「バレー部の顧問してるから。そっちに行ってるんじゃない」
「そっか。じゃあ私たち、今ふたりっきりなんだ」
場の空気が一瞬凍る。ジョークかなにかかと思って愛の様子を伺ったが、その表情は普段通りのように見えた。──が、満はそれを転校生ジョークだと思い込むことにした。そして乾いた笑いで受け流してしまうことにした。
「ははは、……廊下でふたりきりもなにも」
「他の誰にも話を聞かれないんだから、実質ふたりっきりじゃない。あ、でも変な意味じゃないから! ほら、濟藤さん、あんまりクラスの人と話してないみたいだったから。ここでなら色々話せるかと思って! そういう意味で!」
どうやら、本当に転校生ジョークではなかったらしい。しかしそれはそれで、まったく心当たりのない満は困惑してしまった。
相手が幸であったなら納得できる。人望も厚いし、仲良くしていればあっという間にクラスに溶け込むことができるだろう。対して満はといえば、変わり者枠に押し込まれており、むしろその仲間だと判断され嫌煙されてしまうだろう。いや、むしろだからこそ近づくなという忠告か。満の頭の中は静かに混乱していた。
戸惑いのせいで次の言葉が見つからず黙っていると、愛は困ったように笑って見せた。
「あのね、隣で色々話してたからもう知ってるかもしれないけど、うちの親、転勤族ってやつでね。一箇所にいた時間は、一番長くて三年くらいかな。だから、色んな学校を転校して回ったの」
「ああ、うん……聞こえてきてた、かも」
「ふふ、やっぱり。そんなだから、今朝みたいな登校初日みたいなシーンって、もう慣れっこのはずだったの。でもね、今回は教室に入って、びっくりしちゃった。一番後ろの席の子──あ、もちろん濟藤さんのことだけど、その子が、全然興味なさそうで。今までの経験上、転校生って嫌ってほど注目されるものなのに。濟藤さん、私より窓の外なんか見ちゃって」
「ああ、あれは……まあ」
「ほら、やっぱり興味なさそう。でもいいんだ。そういう方がなんだか楽なの」
言いながら、愛は壁に背を預けた。白いコンクリに影を落とす愛は、教室となにも変わらぬ笑顔のはずなのに、どこかいたずらっぽい印象を受けるのが不思議だった。
「転校してきたばかりの時は特に思うんだけど、私、むやみに八方美人になってしまうところがあって。新しいクラスに早く馴染もうとするからかな。理由はよくわからないんだけど。でもそうするとね、段々、自分の好みとか、好きだった音楽とか、わからなくなってくるの。みんなに合わせてしまうから」
「はあ」
「だからほら、そうやって濟藤さんみたいに、八方美人だろうがなんだろうが、興味なさそうにしてくれる人と話すのって、すっごく楽なの。濟藤さんはきっと、素の私でも同じ反応をするんだろうなって思えて。変な安心の仕方なんだけど」
その時の愛が浮かべた笑顔は実に自然で、満はますます居心地の悪さを覚えた。元より愛とは適度な距離を置きたいと思っていたのだ。こんなところで心を許されても正直困る。
そんな満の考えが顔に出たのか、愛はまた苦笑して、壁から背を離した。
「ごめんね、変なこと話して。やだな。濟藤さんと話すっていって、私ばっかりになっちゃった」
「別にいいよ。こういうの、慣れてる」
「そうなの? でもやっぱり、なんだかもったいない。……ねえ、濟藤さん。私と友達になってくれないかな」
「……ん? どういう流れでそうなったの」
「流れも何も、濟藤さんのことをもっと知りたいから」
だめかな? と首をかしげる愛は、やはりコミュ力が相当高い。こういう仕草は女子ウケはあまり良くないが、満には十分効果があると感覚でわかっている。なにしろ満は、こうした打明け話をしてくれる相手もする相手もおらず、まともに仲のいい女友達が初めてできようという場面なのだ。
満は考えるそぶりだけして、すぐにくすくす笑って見せた。
「久保田って、結構変なやつだね。もっと人当たりのいいだけのやつかと思ってた」
「え? やだ、ひどい。そんなこと面と向かって言われたことないよ」
「そう? こっちこそ、私と仲良くなりたいなんて言われたことない」
「じゃあ、おあいこ?」
「そうなるね」
同時にふたりの表情が和らぐ。正反対のふたりは、こうして友情の第一歩を踏み出した。その友情がさらに深い愛情に育っていくのは、これからまた数年後のお話。