追いかけろ!
振り子時計をちらりと見やって、彼女は重いため息をついた。ああ、もうあと10分ほどしかいられない。寂しいけれど約束は約束、守らなくては奇跡が消える。
「なに、また帰るの?」
問いかけられて顔をあげた。目の前で彼女と同じステップを踏んでいる青年が、どこか不貞腐れたように唇を尖らせている。その人懐っこい顔を見て、彼女は心の底で笑った。何かしらこの可愛い生き物。
一緒にダンスを踊っている彼はこの舞踏会の主催者だ。この催しは、彼の花嫁を決める為に行われる。……とはいえ、よほど彼女が気に入ったのか、この三日間でどれだけ周囲を別の娘が囲んでいようが、お構い無しに彼女を探す彼の態度に、周囲は半ば諦めの境地に達していた。
まあ仕方ないよね、という視線もどこ吹く風、というよりこちらの方がムカッ腹の立ちそうなドヤ顔で、彼はご満悦である。対して、寄せられる賞賛と嫉妬の視線を心地よく浴びながら、しかし彼女は発したのは、内心を伺わせないシニカルなセリフであった。
「門限も守れないようなふしだらな娘嫁に迎えてどうする気なの。国中の笑い者よ」
「その点は問題ないね。君って門限守るためならそんなドレスにヒールで男の僕を振り切って走って帰る娘だし。ふしだらとかあり得ないっしょ」
即座に返ってきた言葉に一瞬だけ息を詰める。褒め言葉というよりは、より非難に近い彼の声色は、この場合歓迎すべきか、否か。
周囲はこの可愛げなどかけらもない応酬など予想もしていないだろう。だがそう、事実、彼女は彼の好意を受け止め、こうして一緒に踊っておきながら、この三日間の舞踏会で、途中で彼の誘いを断り、送るという彼の厚意を振りきって、全力疾走で家に帰るという行動に出ているのである。
「……連れないよねホント。僕もうちょっと君と踊りたいんだけど……てかぶっちゃけていい? オレの嫁宣言したいんだけどみんなの前で。みなさーんこの人オレの嫁でーすこれから嫁になりまー……むぎゅ」
「……ちょっと何してるの。立場わきまえなさいよ。ぶっちゃけすぎよ」
「何も口ふさぐことなくね?」
「……口で済んで良かったと思うくらいの事されたいの?」
「さーせんw」
「全く。それにその事は私に追いついてから言ってって言ったはずだけど」
「ヒールで全力疾走できる君に? 正直さ、一回目は完全に油断したけど、二回目はそれなりに準備して臨んで、で、惨敗したんだけど。君って足速すぎ」
「……ならそんな女追いかけなくても、貴方なら花嫁候補なんて掃いて捨てるほどいるでしょうに」
わかってないなぁ、と彼は心底楽しそうにかぶりを振った。
「正に! そんな君にキュン死したのにさ。僕の地位や立場なんてお構い無しに、捕まえられるものなら捕まえてみろ的な態度とかさ」
……嬉しくない、はずがない。しかし彼女は振り子時計を見るタイミングにかこつけて巧みに表情を隠すと、低く呟いた。
「普通幻滅するわよそんな女見たら。貴方ってストライクゾーンズレてるの?」
「至って標準でしょ? 美女好きなとことか。あとやっぱりさ」
彼は引き寄せる振り付けに合わせて彼女の耳元に囁く。軽い口調が一変、恋情と尊敬を複雑に孕んだ深く低い声に変わった。
「何があろうが折れない君のタフさ、絶対追いついて捕まえてやるから。覚悟しとけ」
ぞくりと背筋を走った正体不明の衝動から逃げようと、彼女はさっと彼から手を放す。淑女らしい上品な一礼をしてから、目を見張った彼に挑むような視線をむけた。
「偉そうなセリフは、本当に追いついてからいうことね」
「ハンデとかない?」
一瞬だけ、身を翻そうとした彼女の足が止まる。あれだけのことを言っておいて何をそんな情けない。
だが、あの一瞬、本気で彼になら捕まってもいいかもしれないと考えたのも事実。
彼女はシニカルな笑みを浮かべると、小さく囁き身を翻した。
「……このヒール特別製なのよね。私しか履けない靴だから」
「なるほど、その靴を履ける駿足の女性がいれば嫁確定、と」
振り子時計が定時を知らせる音を聞きながら、彼女は思わず振り返って言い返した。
「だ、誰が嫁よ!」