その28 「主の祈り」
――終わった。
殺す事が出来なくとも、暫くは立ち直れぬほどの深手を与えた事は確かだ。
これで十分当初の目的は果たしたと言える。
言葉なく銅像の様に立ち尽くす第九神から右腕を抜く。
栓を失った蛇口の様に、第九神の血が溢れだした。
右腕は第九神の概念干渉を受け、それでも無理な使用を続けた事により直視するのも無残な姿となっている。
もう使い物にならないかもしれないな。
そんな他人事の様な事を思った。
それが俺の緊張の糸の切れる合図となった。
宙に体を浮かせることも叶わず、そのまま背中から落下する。
俺はただただ体に受ける風の気持ちよさを感じながら、左手のパフェを胸の上に持ってくる。
最早契約すら消えかけた体だが、パフェのクッションくらいにはなるだろう。
そんな事を考えながら、そう言えばコイツ…物理攻撃は効かないんだったか? と思い出し、苦笑する。
パフェが何かを叫んでいる様な気がするが、聞こえない。
俺はそのまま墜落し、誰かの家があったであろう場所に激突し、破壊した。
霞みゆく意識の中、鈍い痛みが体中に走る。
実際はかなり痛いのかもしれないが、マナを使い果たし、精根尽き果てた俺は周りを見る事すら億劫となっていた。
青天井となった部屋から今し方自分が落ちてきた場所を見上げる。
何時意識を失ってもおかしくない状況で何故そんな事をしたのか。
予感めいたものがあったのかもしれない。
「……――――っ……………―――――っ……―――――っ」
――声が聞こえる。
俺の? パフェの? それとも第九神か?
疲れ切った意識の中、ある種の確信と共に第九神に視線を送る。
奴はあれから動いていない。
それどころか喉を概念干渉で停止させたわけだから声など出せるはずがない。
だからこれは幻聴だ。
幻聴であってくれ。
そんな俺の願いを一笑に付す様に第九神の唇が動いているのを視認する。
「そん……な……」
音は無い。
だがはっきりと声が見える。
声無き詠唱の意味が空間を伝播していやでも俺に実感させた。
第九神に残された本当の意味での奥の手。
そして既に俺に残された手段は無い。
そんな絶望の中、何らかの術式が完成する。
――何か……来る。
あの状態から第九神は俺達へと無慈悲な一撃を放つ気だ。
強大な神気を感じ取りながら俺は歯を食いしばる事しか出来ない。
足りなかった。
甘かった。
パフェが命懸けで築いてくれたチャンスすら俺は物にする事が出来なかった。
だがそれでも―――
襤褸切れの様になった右腕に力を込める。
ブチブチと僅かに残った筋肉が次々と断線し、あふれ出る血と激痛で意識がとびそうになる。
それでも諦める訳にはいかない。
まだ守らなければならない者がいる。
この腕にはまだ掴んでいるものが居る。
――ああ、そうだ、まだ腕の中にはパフェがいるんだ。
ここで諦めなければパフェだけでも救えるかもしれない。
最早痛覚以外感覚すらない右腕は微かに震えるだけで、持ち上がりすらしない。
右腕を動かすのは諦め、左腕を少し持ち上げる。
そしてパフェを今出せる力全てを振り絞って投げ飛ばす。
これが今俺に出来る精一杯。
ご都合主義の覚醒は何度も起きない。
諦めなければ奇跡が起こるなんて事も信じちゃいない。
ほんの数メートルしか飛ばなかっただろうが、それでもやれるべき事はやった。
――まだ何が出来る?
今の俺に何が出来る?
「何を……しておる」
怨嗟の様なパフェの声が聞こえる。
先程から何も聞こえなかったはずの耳がパフェの声を捕らえる。
まだ俺はパフェの声を聞く事が出来るんだ。
なら、最後までこの声に耳を傾けよう。
目線は上空へ向けたまま、天空より飛来してくる何かをパフェの声を聞きながら最後まで見つめた。
†
空中に金縛りのように静止する男が一人。
先程カノンの概念により停止させられた第九神ティルロイン=コミットだ。
如何なる手段を以てか、彼の口は詠唱文を読み上げている。
魔術は通例詠唱文は声を出して読まなければならない。
それは魔術的意味のある言葉の組み合わせを言霊とし、それを発する事によって魔術の補助とする意味や、己を所謂トランス状態に変え、魔術を行使しやすくする意味もあるからだ。
勿論無言詠唱や高速詠唱、略式詠唱、詠唱破棄など言葉を使わないで魔術を行使する手段はいくらでもある。
事実ティルロインは二人との戦いの間、何度か魔術を行使したが唯の一度も詠唱を行う事は無かった。
詠唱とはそもそも術の精度を高めるための技術。
人間の魔術師ならいざ知らず、終焉神まで上り詰めた彼に詠唱など無用の長物と言えよう。
ならばこの詠唱は何か。
考えられる通りはおよそ二つ。
一つは詠唱を必要とする魔術の行使。
もう一つは魔術以外の何か。
前者は術式その物が詠唱を必要とする場合と詠唱をせざる負えないほど第九神が疲弊している場合がある。
後者はそもそもこの話の前提を覆すので考察する意味は無い。
兎にも角にも第九神ティルロインの勝利は揺るぎないと言う事だ。
それは彼が圧倒的に強かった、からではなくパフェを犠牲にせず勝利を掴もうとしたカノンの選択故の結末だ。
IFの話をするならばあそこでカノンがパフェを犠牲にしていれば第九神はほぼ確実に倒せていたであろう。
このカノンの選択を愚かだと思うかもしれない。
しかしそれは結果を知っているからこそ言える結果論であり、更に言えば結果が全てと言うのであればこれこそ最善の目とも言える選択肢にもなりえるのだ。
何故ならまだ二人とも生きている。
どちらも満身創痍だが欠けてはいない。
ここから彼らが逆転する展開などまずあり得ないが、彼らが生き延びる選択肢はいくらでもあり得る。
つまりは、全ては結末次第。
どんな選択肢であろうとも結末がBAD ENDに繋がるのであればその選択は愚かだと断ずる事が出来る。
逆に言えばどんな愚かな選択でもHAPPY ENDに繋がるならば英断と言える。
ならばここで彼らの選択を評価する一因となるのは誰か。
それは今までこの戦いを見ていたものに他ならない。
そしてこの状況を打破し得る存在と言えばそれは即ち―――――。
『天にまします我らの父よ
願わくは 御名をあがめさせたまえ』
突如天上を震わすかのような天使の歌声が第九神に降り注ぐ。
優しく、慈しみと愛を以て歌いかけてくるその声に第九神の術式が静止する。
そしてまだ動かせる目を歌声のする方へと向ける。
『御国を来たらせたまえ 御心の天に成る如く地にもなさせたまえ
我らの日用の糧を今日も与えたまえ』
ソレを見咎めると同時に第九神の元に再び声が届く。
そこには薄氷色の髪とロップイヤーの帽子を揺らしながら一人の少女が眼を閉じ、両の手を組み合わせて祈る様に佇んでいた。
溢れる神気は空を飽和させ、尚超密度で少女から放たれ続けている。
空間を今にも歪めそうなそれは、禍々しさを一切感じさせず、寧ろ荘厳な神聖さが満ちていた。
まるでパフェたちと第九神の闘いの残滓を掻き消すかの如く、そこに僅かに存在するだけで少女はその場の空気を全て塗りつぶしてしまった。
そして第九神はその少女が何をしようと祈っているのか一瞬で悟る。
理由はどうであれ、少女は第九神をここで滅するつもりだ、と。
第九神が術式の目標を少女へ変更しようしてか、術式の完成を早める。
しかしそれより更に速く、もう一つの神格が現出する。
「――っ!!」
如何なる術を以てか、概念心具を握っていた第九神の左手が掌の根元から先が吹き飛ぶ。
いや、それでは順序が逆だ。
第九神がもう一人の神格を認識した時には既に左手は無くなっていた。
これがどれほど非常識な攻撃かは、考えるまでも無い。
第九神に攻撃を受けたという認識すらさせなかったのだから。
それは凡そ真っ当な手段で攻撃していない事を意味する。
「てめぇの役目は終わりだ。足掻かずとっとと死ね」
行き場を失った第九神の概念心具がゆっくりと落下していく最中、現れた神格、黄褐色の長髪の男はこれでもう用はないと言う様に吐き捨てた。
そして早く終わらせろと言わんばかりの冷たい視線で少女を射抜く。
『我らに罪を犯す者を我らが赦す如く我らの罪をも赦したまえ
我らを試みに遭わせず悪より救い出したまえ』
男の眼光を知ってか知らずか、少女はゆっくりと目を開く。
「概念心具第二契約『Ⅱnd-KARMA-』」
その詠唱と共に空に満ちていた神気が少女の右手にすべて集約される。
拡散されていた状態ですら空を歪ませるほどの超密度の神気の塊だったのだ。
それが収束されればどうなるか。
少女は何も感情を写さない瞳で巨大な鎚を右手に出現させる。
荘厳な装飾など一切鏤められず、唯々壊す事のみを追求したフォルム。
金も宝石も紋章も描かれていないそれは、宝剣などとは違った美しさを見せる。
如何なるものも破壊し尽くすと言わんばかりのその神槌を振りかぶり、少女は第九神を見下ろす。
恐怖と驚愕で見開かれた第九神の目を見ながら何のためらいも無く少女はその神威の心具を振り下ろした。
瞬間、世界全てが揺れるほどの超振動が発生する。
一つの魂が無慈悲なる一撃を受け、散華した事による世界の悲鳴だ。
「―――Amen」
何事も無かったかのように少女は概念心具を片手に、黙祷する。
パフェの最後の一撃ですら、致命傷を与えるに至らなかった第九神の体が一瞬で塵へと帰った。
ただの物理攻撃では核弾頭を何発撃とうが傷付く事もしない終焉神の体を少女はただの一振りで消滅させたのだ。
何と馬鹿げた威力。
少女の前では如何なる物質も如何なる魔術も無に帰すだろう。
これが本当の終焉神の業の領域の攻撃。
終焉の三の数字を背負う神の力。
そしてそれをさも当然と見送る第七神。
「……一々まどろっこしいこった。それでどうだ? 転生の余地なく消し飛ばせそうか?」
第七神ベイグウォードが黙祷中のミュールヒルに尋ねる。
先程までの神気は嘘の様に霧散し、形だけの安寧を取り戻す。
「運が良ければ消し飛んだかもしれんけど、まずありえへんな。こいつが自分の命に保険掛けて無いなんて考えられへんし」
ミュールヒルは心具を空へとしまうと口をへの字に曲げ、第九神が居た辺りの上空をぐるぐると歩み始める。
先程までの壮麗さは何所へやらだ。
「…………チッ」
ベイグウォードはその光景に舌打ちすると戦闘の余波で更に荒れた街並みを見下ろす。
二人の目的がカノンとパフェの救出ならば重傷を負っているカノン達を助けるなり、別の人を呼ぶなりすればいい。
だが、二人ともそこから動く気配どころか、気にかける素振りすらしない。
それもそのはずだ。
そもそも二人はカノン達を助けるつもりなどこれっぽっちも持ってはいない。
何故なら二人とってこれはついでの副産物にすぎない事柄だからだ。
本来果たすべき目的は別にあり、カノン達の修行を手伝ったのも、今ここで第九神を殺した事さえも棚から牡丹餅程度にしか認識していないのだ。
「まあでも第九の神がこれで別の神に変わる可能性は結構あるし、これはこれで十分ちゃう?」
「ぁ? てめぇ、第九神の転生先の『世界』まで追わない気か?」
ベイグウォードの問いにミュールヒルは溜息を吐く。
副産物とはいえ終焉神を完全に葬れる又とない機会。
ミュールヒルも第九神を見逃そうとは思ってない。
「そんな事一言も言ってへんやろ。ただまあ、ちょっと気になる事があって後回しにしてもいいかな~とは思ってるけど」
「……あの餓鬼の事か?」
そこで二人は初めてカノン達へと意識を向ける。
衰弱しているがまだ生きてはいる。
「うん、まあそんなとこや。―――――――何にせよ今回も無駄骨そうやな。あと数回様子見たらこの『世界』ともおさらばしよか」
ミュールヒルはベイグウォードの問いに対して言葉を濁す様な答えを返すと、再び空を見上げる。
じっと、まるでその外を見る様に。
二人は無言でその場に留まり続けた。




