その21 「帰宅」
インターホンを押し、付属しているカメラに映る様に数歩下がる。
ここはマンションの最上階である13階の部屋だ。
第三神の修行と言う名の一方的な暴行に耐え、ようやく帰宅したところだ。
蓄積したダメージは疲労へと変わり、インターホンの硝子に不機嫌そうな己の姿が映っていた。
魂と肉体を共有しているパフェも例外ではなく疲弊して、俺の首筋に背中を合わせる形で座り込んでいる。
この戦闘形態で戦闘状態を維持するのは思った以上に疲れるみたいだ。
そんな事を考えていると、ややあってインターホンから間の伸びた声が返ってくる。
『はぁ~い、どちら様ですか?』
「―――俺だ」
どこか、裏社会の人物の様なセリフで答える。
霊能力者も分類的には裏社会の様な物なのであながち間違いではない。
間違いではないが、場違いではあるだろう。
『…………』
インターホンからは無機質な音が途絶え、何も聞こえない。
やはりダメか、と溜息をつく。
自宅を出る前に予め暗号を決めており、その言葉を口にしない限り開かない様に取り決めたのだ。
それが解っていながらなぜ別の言葉を口にしたのか。
理由は簡単である。
「………どうしたのじゃ。はよう暗号とやらを言わんのかや」
何時まで経っても無言でいる俺を疑問に思ったのか、パフェが急かし始める。
どうあっても俺はコレを口にしなければならない運命らしい。
「………すぅ」
大きく息を吸い、吐き出す。
もう一度大きく吸い込み、更に少し吸い込む。
この暗号にはこの前準備が必要なのだ。
よし、と気合十分で凹みや傷一つ無い平らなドアを見据える。
二度目のインターホンの音と共に俺は言葉を吐き出した。
「海軍機関学校機械課今学期学科科目各教官協議(かいぐんきかんがっこうきかいかこんがっきがっかかもくかくきょうかんきょうぎ)の結果下記のごとく確定、科学幾何学機械学国語語学外国……っ!!」
当然の事ながら噛んだ。
パフェが肩から転がり落ちながらも爆笑した。
†
冷蔵庫からペットボトルのアイスコーヒーを取り出し、ステンレス製のマグカップに注ぐ。
普段はコーヒーメーカーからドリップして淹れているが、現在使用不可と言う事なので備蓄のコーヒーを使用している。
ペットボトルのキャップを握りしめ、肩口からそっとパフェの様子を窺う。
戦闘形態を解いた事により普段のサイズに戻っており、袖で口元を隠しながら肩を震わせていた。
あれから何回かのトライの末、漸くクリアした訳だがその間パフェはずっと爆笑しており、今も突発的に噴き出している。
ムカつかないと言えば否だが、誰が悪いと言えばこんな暗号にした姉貴が悪い。
少し肩を竦め、ペットボトルのキャップを閉めると冷蔵庫へと戻す。
両手でそれぞれマグカップを持つと、パフェの横まで歩いていく。
パフェは俺を視界に収めるとニヤッと笑う。
からかう気満々の様子だ。
パフェの目の前のテーブルにコーヒーを置くと、俺も斜め前の場所に腰かける。
そしてそのままコーヒーを口に含む。
乾いて張り付きそうな喉を通り、胃に流し込まれる。
ここで感嘆詞でも漏らせばおっさんなどと揶揄されるだろう。
そういう習慣が無いので精々溜息だけだが。
背中を深くソファーに預け、目を閉じる。
生き返る思いだ。
「ふむ、コーヒーか。取り込んだ知識によると美味しいらしいが………」
片目を開けてみると、パフェの興味は目の前の黒い液体に移ったらしく、両手の指先でマグカップを抱えていた。
そしてちろりと舐める。
「苦味、酸味、そして微かな甘味。と言った所かの」
美味しい、不味いではなくある種機械的を感じる評論を下す。
「口に合わないか?」
すんすんと今度は匂いを嗅いでいるパフェに質問してみる。
この際美味しい不味いは然して問題でなく、この神が何故このような感想を漏らしたかが気になったからだ。
パフェはキョトンとすると、静かにカップをテーブルの上に置いた。
「………如何ほどでも飲めると言う意味ならば口に合っておる。が、習慣的に飲みたいかと言う意味でなら口に合ってはおらぬ。しかし主様よ、吾の形を見て人扱いするのは構わぬが、同じ反応をしないからと言ってガッカリするのはやめてくれんかの。主様の前では在りのままでいたいのじゃが、そう残念そうな顔をされると秤が傾いでしまいそうになる」
眉をハの時に変えながら困った顔をするパフェ。
照れからか、白い頬にほんのり朱が浮かぶ。
「――――そんなに残念そうな顔をしているか?」
己の頬を指でなぞり確認するが、全く解らない。
確かにお気に入りのブランドのコーヒーだが、好みは人それぞれであり自分の趣味趣向を押し付けようとは思わない。
共感を得たいという気持ちは無きにしも非ずだが、落胆はないはずだ。
………恐らく。
「今はしておらぬが、先程捨てられた飼い犬の様な眼をしておった。犬は嫌いではないが、吾は猫の方が好きじゃ」
真面目な顔でこちらに迫るパフェ。
もしかするとこいつは…。
猫派で犬派に傾きたくないからやめてくれと言っているのか。
「冗談じゃ。そんな塵溜めを見る様な眼をするでない、流石の吾も傷付く」
俺の視線を飄々と受け流しながら、パフェはカップの中身を一気に流し込む。
「本来神に食事など必要ない。食物からとれるエネルギーなどたかが知れておるし、何より本来の身の丈に合う量など食せば忽ちその星は食い尽くされてしまう事になる。だからという訳ではないが吾らには美味い不味いと感じる事はない。――――――――これで主様の疑問は解けたかや?」
手で空になったマグカップを弄びながらいつもと同じ意地の悪い笑みを浮かべる。
そこでやっと俺は自分がからかわれていた事に気付く。
俺は溜息をつき、カップに口付ける。
「処で、お義姉様は何所へ居るのじゃ。敵襲に遭えばまず護らねばならぬのじゃから、ある程度の場所を把握しておらねば面倒な事になると思うのじゃが?」
俺はカップから口を離し、天井を見上げる。
それに釣られる様にパフェも上を見る。
「……自分の部屋にでも引きこもっているだろ。今朝がたも色々やってたみたいだしな」
「なるほど、納得じゃ」
俺が再び目線を戻してもパフェは上を黙って見つめたままだった。
俺とパフェは互いにそれ以上口を開かず、無言となる。
30分か、1時間か、或いはもっと長くか。
息遣いと身動ぎばかりが部屋を支配する。
そんな永久に続きそうな時間に終止符が打たれる。
無機質な音のインターホンが鳴り響いたのだ。
俺はパフェと視線を交差させる事無く立ち上がる。
「……はい」
『カノン? 今日のプリント持ってきたんだけど』
そこには煌びやかに揺れる橙色のショートヘアー。
金色の瞳を持った紅天が立っていた。
「ちょっと待ってろ、今出る」
手短かに会話を終えると玄関へと向かう。
その際に一瞬パフェへと視線を向けるが、既に姿はなく消えていた。
俺は大して気にもせずに進む。
「悪いな、態々届けてもらって」
扉を開けると所在なさそうに前髪を弄る紅天の横顔があった。
それも一瞬の事で、俺の姿を確認すると肩を竦めて見せた。
「それは別にいいけどさ、二日連続で休みって大丈夫なの? 別に学力や出席日数なんかは心配しなくても大丈夫だろうと思うけどさ、昨日放課後学校に来てたみたいじゃない。そん時に何か厄介な事に巻き込まれてないかなぁ~って思って」
はいこれ、と無造作に差し出されたプリントを受け取る。
序でに体を半分だけ出してドアの外側を確認する。
紅天の姿を確認するために使用したドアスコープの調子があまり良くないのでその為の確認だ。
「厄介なことと言うか、何処かの銀細工馬鹿の所為で喧嘩に巻き込まれて休みが一日追加されただけだ。大したことじゃない」
「いや、それ大したことでしょ。色々と大丈夫なのあんた? ―――――――――どうしたの、突然ドアの外側を確認しだして」
俺の行動を見咎めると、同じ様に扉を見つめる紅天。
「…………ドアスコープの調子が悪くてちょっとな。立ち話もなんだし、うちに寄っていくか? 珈琲くらいは出すぞ」
見た限り外側には異常はなかった。
となると問題は内側なのか。
俺が扉から目を離しても見つめ続けていた紅天が此方へ向き直る。
扉を見つめていたときから顔は思案顔に変わっており、扉には何ら興味の無い、フリの行動だったことがよく解る。
「ん~、そうね。ほんの少しお邪魔しようかな。ちょうど喉も乾いてたし」
アンティークなデザインの金色の腕時計を確認しながら紅天は了承した。
†
「それにしても随分早い時間に来たな。まだ最後の授業終わってないくらいだろ、この時間だと」
紅天の前に洋菓子とコーヒーを置くと、青い空に視線を送る。
今リビングには俺と紅天の二人しかいない。
「そうね、普段通りだったらそんな時間ね。でも今街を騒がせる狼の所為で短縮授業中でしょ、忘れたの?」
「あぁ」
そう言えばそんな事もあったなと納得する。
最近と言うか24時間以内に色々な事があり過ぎてすっかり忘れていた。
「ホントに大丈夫? その様子だと色々参ってるみたいだけど。あたしで良ければ相談に乗るけど」
洋菓子を一口で口に入れながらこちらを見つめる。
珈琲と一緒に味わって…、と思わないでもない。
「悪いが今回は気持ちだけ受け取っておく。参ってないと言えば嘘だが、本当に参っているなら形振り構わず助けを求めているさ。だからその時はよろしく頼む」
「あはは、そーかもしれないね。でも明日期限だから今日何とかしてくれ~、ってのは無しね。そう言うのなら初めから頼んでね」
「それは無理だと思うがな。期限ぎりぎりまでやらない奴はそもそも初めに頼むと言う選択肢が無い。何せその初めと言う所が余裕という状態だからな」
「あ~、いるいる、夏休みの最後の日に焦って宿題やるタイプ。夏休み遊び呆けて結局最後の日に『夏休みの最初の日に戻りたい』とかいいながら泣く泣く徹夜する羽目になるのよね、あれ」
ソファーで他愛もない雑談をしながら紅天が持ってきたプリントを手に取ってみる。
今日はやたらとプリントを配る先生の日だったか。
ちょっとした広告雑誌程度の厚さと重みがある。
これを学年全員の分用意するとなるとちょっとしたタワーが出来るに違いない。
そんな事を思いながら一枚一枚ページを捲っていく。
別段目立ったものはない。
うちの学校は校則もそうだが教育についてもかなり適当で、受験のための勉学ではなく教育規定を曲解した教師によるマニアックな授業が行われている。
それでいいのかと思うかもしれないが進学率は悪くなく、大学で役に立ったと言うOBからの意見もあるので賛否両論だ。
何が言いたいのかと言うと俺の見ているプリントもそう言う類と言う事だ。
例に挙げると日本史で授業の8割が戦国時代を占めていると言えば分って頂けるだろうか。
教育者の好みが出ているとかそういうレベルじゃない。
隠す気の無い依怙贔屓が蔓延している学校なのだ。
「えーっと、それわかる?」
ぱらぱらと捲っていると紅天が苦笑い気味に覗き込んできた。
「―――解っていたら俺はきっと学校へは来ないだろうな」
「まあ、そうだよね。ん~、あたしも夢渡や沙良紗ほど自信はないけど一応今日の授業のさわり位は教えれるけど、どうする?」
肩が触れ合うほど近くに寄った紅天が俺の目を覗き込みながら尋ねてくる。
謙遜してはいるがこれでもコイツは学年上位の学力を持っている。
比べた相手が学年トップの二人だっただけだ。
うちは校則やらなんやらが緩い分、試験に対する慈悲が一切ない。
結果がすべてであり、補修や課題などの救済措置が全く設けられていないのだ。
だからこの申し出は渡りに船と言った所だ。
「悪いが頼めるか?」
「もち、まかせて」
笑顔でウィンクすると自分の鞄を漁り始める紅天。
その間に全てのページに目を通そうとパラパラ漫画を見る様にプリントを捲る。
「ん?」
ふと目に入ったページに変な記号の様なものが書かれている。
手を止め、目を凝らしてみてみる。
子供が適当に記号を書きなぐった様な、そんな字面に見える。
そのプリントだけを抜き出し、紅天に悪戯かどうか確認しようと首を向ける。
瞬間、胸部に衝撃が走る。
「がっ!! ぁっ?!!」
口から血飛沫が飛び出す。
同様に胸からも血が毀れ出る。
呼吸さえままならない状態で必死に原因を見止める。
そのプリントのちょうど記号があったページから漆黒の槍が突き出していた。
―――油断。
結界の貼られた自宅では攻撃されないと思いこんでいた致命的な油断。
学園の教師が敵かもしれないのにそのプリントに何の警戒もしなかった俺の責任。
体の内側からミキサーで無理やり撹拌しているかのような激痛が走る。
「天の……瓊矛か……」
ノイズによって齎された光景がよみがえる。
全力状態のパフェを傷付けた神器。
それが今の弱体化したパフェに、パフェと同化している俺に対して使えばどうなるか。
答えなど考えるまでも無く最悪だ。
終焉神を殺すには何よりも相性が重要。
互いに能力が高過ぎて千日手になるからだ。
その相性という点においてこの天の瓊矛と言うものは俺達にとって最悪の相性だ。
契約も結んでいない体の記述が見る見るうちに書き換えられていく。
「おおおおおおおおぉぉぉぉ―――――っ!!!!!!」
咆哮と共に胸に突き刺さった槍を引き抜く。
傷口自体は闇の衣が覆い、塞がるがダメージが無くなった訳ではない。
体内のマナを胸部に集中させ、契約を結ぼうとする。
「か、カノン………それ…。あの…何…それ? どう、なって…るの?」
混乱しているのか、それとも何かしようとしてか紅天が近づいてくる。
忘れていた、ここにはコイツもいたのだった。
手の中の槍が消える。
――――次が来る。
「いいかっ!! 俺の後ろ…から動くな!!」
振り向きもせず紅天を背中に引っ張り込むと臨戦態勢をとる。
息を吸い込み深く違う次元へと接続する為に意識を深層へ潜り込ませる。
ぶっつけ本番に近いものだがそんな事は言ってられない。
第三神の時とは違う、これを失敗すればすべては終わりなのだ。
結べるかどうかではなく結ぶ。
決意と共にアザトースの笑い声が甦ってくる。
『概念心具第一契約…』
平衡感覚が無くなり、その場に居ながら別の空間に飛ばされたかのような酩酊感が起こる。
が、その時冷たく憐れみを籠めた声が俺の詠唱を遮った。
「えぇ、永遠にあなたの後ろにいてあげるわ」
風切り音と共に俺の視界が斜めへと滑っていく。
―――何が……。
ごろりと首が落下し、フローリングの床を転がる。
そして噴水の様に首から血飛沫が上がり、雨の様に俺の顔を濡らす。
―――なにが……。
「ゲームオーバー。これにて閉幕」
顔についた血を舐めながら機械の様な冷たさで笑う紅天がそこに立っていた。
その手には見覚えのある槍が一本。
天の瓊矛だ。
―――どう……して…?
俺の疑問を無視し、紅天が天の瓊矛を俺の顔めがけて振り上げた。
俺は何かを言おうと口を開けるが、血泡しか出てこない。
「ばいばい、カノン。お友達ごっこ楽しかったよ」
紅天はそれを虫けらの様に突き刺した。