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ジンアン 人身安全対策課

作者: ノルン
掲載日:2026/06/15

深夜二時、警視庁本部庁舎の一角にある生活安全部人身安全関連事案総合対策本部の部屋は、換気扇の低い唸りだけが響く静寂に包まれていた。

壁に掛けられたホワイトボードには、マグネットで留められた数枚の顔写真と、それらを結ぶ複雑な矢印が乱雑に書き込まれている。その中心にあるのは、ある女子大学生の写真だった。まだ二十一歳の、どこにでもある日常を生きていたはずの顔。その横には、冷徹なフォントで印字された警察白書の抜粋がピンで留められていた。

『令和〇年度における人身安全関連事案の認知件数は――』

「テレビの前の連中は、これをただの『色恋沙汰の縺れ』か何かだと思っている」

デスクの端で、冷めきった缶コーヒーを口に含んだ警部補の遠藤が、誰に言うでもなく呟いた。その声は、何日も不眠不休で現場を這い回った男特有の、砂を噛むような掠れを含んでいる。

「ニュースの女子アナは、綺麗な顔をして『路上で女性が暴行を受ける事件があり、実行犯の男が逮捕されました』と一秒で読み上げる。だがな、俺たちが今立っているこの現場は、そんな生ぬるい言葉で片付けていい場所じゃない。不同意性交。人間の尊厳を根こそぎ破壊する、文字通りの地獄だ」

遠藤の向かいで、キーボードを叩く手を止めた若手刑事の佐々木が、充血した目を向けた。佐々木は半前まで刑事課強行犯係にいた。死体が出てから動くのが刑事の仕事だと信じ込んでいた男だ。だが、この人身安全の部署に配属されてから、その常識は完全に覆されていた。

「被害者の宮坂さんは、まだ意識が戻りません」

佐々木の言葉には、怒りと無力感が混ざっていた。

「病院の医師の診断書には、全身の打撲、そして……性的暴行による精神的・身体的重傷とあります。これをテレビは『暴行』という二文字で濁す。世間は、彼女がただ殴られただけだと思っている。だからネットの掲示板じゃ、『夜遅くに出歩くからだ』なんて無神経な言葉が並ぶ。誰も、彼女の人生がどれほど残虐に踏みにじられたかを知ろうとしない」

「それがメディアの配慮ってやつさ」

遠藤は缶を机に置き、歪んだ笑みを浮かべた。

「生々しい言葉は公共の電波に乗せられない。だがそのオブラートが、犯人の実態を隠蔽し、被害者をさらに孤立させる。強姦なんて言葉、今のテレビじゃ死んでも使えないからな。だが、俺たちの扱う帳場(捜査本部)の書類には、その生々しい現実がすべて一文字も漏らさず記録される。そして、今回の敵はさらにタチが悪い」

遠藤は立ち上がり、ホワイトボードの一角を指で叩いた。そこには、被害者の元交際相手である男、坂口の顔写真があった。大手IT企業に勤めるエリート。周囲からの評判も良く、一見すれば犯罪とは無縁の男。

「坂口には完璧なアリバイがある。事件のあった時刻、彼は都心の高級ホテルのラウンジで、取引先の役員と会食していた。ホテルの防犯カメラにも、彼の姿ははっきりと映っている。物理的に、彼が現場の路地裏で宮坂さんを襲うことは不可能だ。だが、宮坂さんのスマホに残された何百通もの非通知着信、そして『お前がどうなっても知らない』というメッセージの文体。これはすべて坂口のものだ。精神的暴力で彼女を極限まで追い詰めた上で、最後の引き金を自分で引かなかった」

「闇バイト、ですか」

佐々木が忌々しげに吐き捨てた。

「そうだ。匿名・流動型犯罪グループ、通称『トクリュウ』のシステムを、ストーカーが個人利用した。SNSの『高額案件』という闇のアカウントから、捨て駒を募集したんだ。応募してきたのは、借金に追われた二十歳の大学生。取調室でその実行犯のガキは、泣きながらこう供述したよ。『指示役の顔も名前も本当に知らない。アプリで指定された場所に、指定された時間に待機して、通りかかった女を襲えと言われただけだ。金が欲しかっただけなんです』とな」

「通信アプリはTelegram。履歴は閲覧直後に自動消去される設定になっていた。実行犯のスマホをいくら解析しても、指示役である坂口のアカウント名すら残っていない。犯行の指示はすべて音声通話で行われ、それもボイスチェンジャーで声を変えられていた。加害者は直接手を汚さず、法律の死角から被害者を蹂躙した。これが、現代の『ガチの犯罪』だ」

佐々木は拳を握りしめた。

「実行犯を現行犯で逮捕しても、首謀者の坂口に辿り着く糸口が完全に遮断されている。これがなろう小説なら、主人公の刑事が超能力か何かで犯人の記憶を覗き見るか、自白剤でも飲ませて一発解決なんでしょうね。ステータス画面を開いて、犯人の犯罪スキルを確認できたらどれだけ楽か」

「寝言を言うな」

遠藤の声が冷たく響いた。

「俺たちにはステータス画面も、チート能力も、都合のいい追放劇もない。あるのは、泥臭い手続きと、法律という不自由なルールだけだ。相手が法律の隙間を突いてくるなら、俺たちはその法律を限界まで使い倒して、奴の足元をすくい上げる。サイバー犯罪対策課からフォレンジックの報告書はまだか?」

「今、最終のログ解析を行っています。ただ、Telegramの通信そのものを復元するのは不可能に近いです」

「通信がダメなら、物理的な『足』で追うだけだ」

遠藤はコートを手に取った。

「実行犯のガキが、坂口から最初の『着手金』を受け取ったとされる個人間送金アプリの履歴がある。電子マネーのIDは偽名だったが、そのチャージが行われたコンビニが特定できた。世田谷区内のファミリーマートだ。チャージされた日時は一週間前の午後三時十四分」

遠藤の目が、獣のように鋭く光る。

「坂口はその日、会社を体調不良で早退している。そのコンビニの防犯カメラ映像を、周囲の街頭防犯カメラ、民家のインターホン、通りかかった車のドライブレコーダーの映像に至るまで、すべてリレー形式で繋ぎ合わせる。奴が自分のスマホのGPSを切っていたとしても、物理的な肉体はこの世界に存在する。その歩跡を一本の線に繋ぎ止めるんだ。行くぞ、佐々木。一万時間分の映像チェックが俺たちを待ってる」

二人は深夜の庁舎を飛び出し、冷たい雨が降る東京の街へと車を走らせた。魔法も奇跡もない、ただ人間の執念だけが武器の、長い夜が再び始まろうとしていた。

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車内の空気は、フロントガラスを叩く雨の音と、エアコンの不快な作動音だけで満たされていた。

運転席の佐々木は、迫り来る夜の闇を見つめながら、ハンドルを握る手に力を込めた。

「遠藤さん」

赤信号で車が止まった瞬間、佐々木が重い口を開いた。

「もし、防犯カメラのリレーが途切れたらどうしますか。今の世の中、防犯カメラの死角なんていくらでもあります。特に坂口のようなITに詳しい奴なら、地域のカメラの設置位置くらい事前に調べて避けるルートを計算しているはずです」

遠藤は助手席で目を閉じたまま、微動だにせず答えた。

「途切れたら、その場所からもう一度、半径五百メートルの聞き込みだ。犬の散歩のルート、深夜まで明かりがついている受験生の部屋、新聞配達のバイクの車載カメラ。人間が生きている限り、必ず誰かの視界に引っかかる。カメラがダメなら人間の目を使う。一世代前の捜査方法だがな、それが一番確実だ」

「でも、時間がありません」

佐々木の焦りはピークに達していた。

「実行犯のガキが逮捕されたというニュースは、もうネットで拡散されています。指示役である坂口がそれに気づけば、スマホを破壊し、証拠となるパソコンを処分して、高飛びするかもしれない。いや、それどころか、自分の身を守るために、別の『闇バイト』を使って、病院にいる宮坂さんの口を完全に封じにくる可能性だってあります」

遠藤がゆっくりと目を開けた。その瞳には、恐怖ではなく、冷徹なまでの計算が宿っていた。

「だから、仕掛けたんだよ」

「え?」

「夕方のニュースを見たか? どの局も『実行犯の男は黙秘を続けており、単独犯の可能性が高い』と報じていたはずだ」

遠藤はポケットから煙草を取り出そうとして、車内禁煙であることを思い出し、苦笑いして手を戻した。

「あれは俺が本庁の広報に無理を言って流させたガセ(虚偽の情報)だ。警察はまだ組織犯罪だと思っていない、ただの通り魔だと思い込んでいる――坂口にそう油断させるための餌だ。奴は今頃、自分の完全犯罪が成功したと確信して、自宅で祝杯でもあげている頃さ。人間、安心した瞬間が一番大きなボロを出す」

車は世田谷区内の警察署、いわゆる「所轄」の駐車場に滑り込んだ。

捜査本部が置かれた会議室には、すでに数十人の捜査員が集まり、巨大なモニターに映し出された防犯カメラの映像を凝視していた。部屋の中は、汗と夜食のカップ麺の匂いが混ざり合い、異様な熱気に包まれている。

「遠藤警部補、佐々木巡査長、待っていたぞ」

班長である生真面目な管理官が二人を迎えた。

「例のコンビニの映像から、不審な男の動線が一本出た。だが、君たちの予想通り、男は徹底してフードを深く被り、監視カメラの死角を選んで歩いている。顔の特定は不可能だ。さらに、コンビニから三つ目の交差点を曲がったところで、映像から完全に姿を消した」

佐々木が息を呑む。やはり、プロの手口だった。

「消えた場所は?」

「古い住宅街だ。防犯カメラの設置率が低く、街灯も少ない。そこから先はどのルートを使ったか追えない状態だ」

モニターに表示された地図を見つめながら、遠藤は顎を擦った。

「管理官、その住宅街の周辺に、コインパーキングはいくつありますか」

「コインパーキング?……三箇所だな。だが、どれもカメラは設置されていないタイプだ」

「車ですよ」

遠藤の口元がわずかに歪んだ。

「坂口は潔癖症だ。公共交通機関を使って、闇バイトに会うための現金を運ぶようなリスクは冒さない。自分の足跡がつかないレンタカーか、あるいはカーシェアの車両を使ったはずだ。今のカーシェアはスマホ一つで解錠できる。だが、利用履歴は会社のサーバーに確実に残る」

佐々木はハッとして、すぐに自分のタブレットを起動した。

「国内の主要なカーシェア会社三社に、その日、その時刻、そのエリアで利用されていた車両のデータを照会します!」

「急げ」

遠藤が指示を出す。

「名義は坂口本人のものであるはずがない。偽名か、あるいは別の誰かのアカウントを買い取って使っている。だが、決済に使われたクレジットカードの暗号化データを追えば、どこかで坂口の資金源と繋がるはずだ。サイバー課に、決済代行会社のサーバーログを直接叩かせろ」

会議室の中に、キーボードの激しい打鍵音が響き渡る。

なろう系の小説なら、ここで「検索魔術」の一振りで犯人の名前が赤く浮かび上がるのだろう。しかし現実は違った。深夜のカード会社への照会には、法的な手続きと、当直の社員を叩き起こすための粘り強い交渉が必要だった。電話口での怒鳴り合い、令状請求の書類作成、FAXの送受信。すべてのプロセスが、人間の肉体労働によって進められていく。

「出ました!」

一時間後、佐々木が声を裏返らせて叫んだ。

「該当の時間帯に、その住宅街のカーシェアを利用していたプリウスが一台あります。名義は半年前に行方不明になっている人物のものです。しかし、そのアカウントの月額料金の引き落とし口座を辿ったところ……海外のペーパーカンパニーを経由して、最終的に坂口が管理する隠し口座から資金が流れていました!」

「ビンゴだ」

遠藤がデスクを叩いた。

「そのプリウスの車載GPSのログを引っ張り出せ。どこへ向かった?」

「ログ、表示します……」

佐々木の操作によって、モニターの地図上に赤い線が描かれていく。それは世田谷の住宅街を出発し、首都高速を抜け、ある場所へと向かっていた。

その終着点を見た瞬間、会議室の全員が凍りついた。

赤い線は、宮坂さんが入院している――まさにその病院の駐車場で止まっていた。それも、今からわずか一時間前のことだ。

「しまっ……!」

佐々木の顔から血の気が引いた。遠藤の流した「警察は単独犯だと思っている」というガセのニュース。それは坂口を油断させるためのものだったはずが、逆に坂口に「実行犯が口を割る前に、被害者を完全に処理しなければならない」という凶行の決断を急がせてしまったのだ。

「奴はまだ病院内にいる可能性がある!」

遠藤が怒号を飛ばした。

「全員、動け! 病院の警備員に連絡して、宮坂さんの病室の警備を最優先させろ! 所轄のパトカーをすべて病院に回せ!」

遠藤と佐々木は、再び激しい雨の中へと飛び出した。パトカーのサイレンが、深夜の街を切り裂いていく。

「俺のミスだ……」

運転席で、佐々木は悔しさに歯を食いしばっていた。

「僕がもっと早くカーシェアに気づいていれば……!」

「バカ野郎、前を見ろ!」

助手席の遠藤が怒鳴った。

「後悔は奴を捕まえてからしろ! 俺たちは刑事だ。目の前の命を守るために、コンクリートに爪を立ててでも前に進むんだよ!」

病院に到着した時、ロビーは静まり返っていた。しかし、エレベーターホールの前で、警備員が頭から血を流して倒れているのを発見した瞬間、その静寂は恐怖へと変わった。

「佐々木、拳銃の安全装置を外せ」

遠藤の声から、一切の感情が消えていた。

「ここからは本物の殺し合いだ。躊躇すれば、死ぬのは俺たちか、あの娘だ」

二人は階段を駆け上がり、宮坂さんのいる五階の集中治療室へと向かった。

ナースステーションの前を通り過ぎる時、床に飛び散った新鮮な血液が目に入った。看護師たちが恐怖で部屋の隅にうずくまっている。

「病室は……あの奥です!」

看護師の一人が震える指で、廊下の突き当たりを指さした。

遠藤が先頭に立ち、背中を壁に預けながら病室のドアへと近づく。ドアはわずかに開いており、中から無機質な医療機器の電子音に混ざって、男の低い笑い声が聞こえてきた。

「本当に、しぶとい女だ……」

その声は、ホワイトボードにあった坂口のものに間違いなかった。

「あんなガキどもに襲わせて、まだ生きてるなんてな。でも、これで終わりだ。お前さえいなくなれば、誰も俺をストーカーだなんて証明できない。テレビのニュースじゃ、お前はただの通り魔の被害者として死ぬんだよ」

病室の中に潜入した遠藤の目に、恐るべき光景が飛び込んできた。

点滴のチューブを持った坂口が、ベッドの上で意識を失っている宮坂さんを見下ろしている。チューブの中には、どこからか調達してきたであろう、空気の泡(塞栓を引き起こすための気泡)が注入されようとしていた。

「警察だ! 動くな!」

佐々木が叫び、拳銃を構えた。

坂口は驚いた様子もなく、ゆっくりと振り返った。その目は完全に狂気に染まっており、エリート会社員の面影はどこにもなかった。

「警察? 遅かったな。これを抜けば、彼女は数分後に心不全で死ぬ。医療ミスか、あるいは容態の急変として処理されるさ。俺を逮捕する証拠なんて、お前たちにはないはずだ」

「証拠なら、お前の足元に転がっている」

遠藤が冷酷に言い放った。

「お前が使ったカーシェアのプリウス、そこから検出されるであろうお前の指紋とDNA、そして今、お前がその手で持っている点滴のチューブ。すべてが、お前が『直接手を汚した』決定的な証拠だ。もう闇バイトの裏に隠れることはできない」

坂口の顔が歪んだ。自分の完璧な計画が、泥臭い警察の「足」によって完全に破綻したことを理解した瞬間だった。

「ふざけるな……! 俺の人生が、こんな、こんな底辺の刑事どもに邪魔されてたまるか!」

坂口が懐からナイフを抜き、ベッドの宮坂さんに向けて振り下ろそうとした。

「させま……せん!」

佐々木が体当たりで坂口に組み付いた。銃を撃つ暇はなかった。二人の体が病室の床を転がり、医療機器が激しい警告音を鳴らしながら倒れる。

坂口は狂ったような力でナイフを振り回し、佐々木の腕を浅く切り裂いた。

「どけ! 邪魔をするな!」

だが、その隙を見逃す遠藤ではなかった。ベテランの容赦ない蹴りが、坂口のナイフを持つ手首を正確に捉えた。金属音が響き、ナイフが遠くへ吹き飛ぶ。

「終わりだ、坂口」

遠藤は坂口の背中に膝を叩きつけ、床に組み伏せた。そして、金属製の加重手錠を、奴の手首に容赦なく叩き込んだ。

「午後三時四十二分、不同意性交等教唆、および殺人未遂の容疑で現行犯逮捕する」

手錠の冷たい音が、病室に響いた。坂口は床に顔を押し付けられたまま、「俺は悪くない……あの女が俺を拒絶したのが悪いんだ……」と、ぶつぶつと意味の無い呪詛を吐き出し続けていた。

「佐々木、大丈夫か」

遠藤が息を荒くしながら尋ねた。

「はい……かすり傷です」

佐々木は腕を押さえながら立ち上がり、すぐに宮坂さんの点滴を確認した。空気の泡は、彼女の体に入る直前で止まっていた。

「宮坂さん、無事です……。守れました」

遠藤は窓の外を見つめた。いつの間にか、夜明けの光が東京のビル群を薄暗く照らし始めていた。雨は上がっていた。

「これで、明日のニュースの原稿は少しは変わるかもな」

遠藤が呟いた。

「『ストーカーの男が、闇バイトを利用して女性を襲撃。警察の執念の捜査により、首謀者の男を逮捕』――綺麗にまとめるのは癪だが、世間の奴らに、現実ってやつを少しは見せつけられただろう」

チート能力も、都合のいい奇跡もない。

ただ、一万時間の映像を睨みつけ、深夜のコンクリートを走り回った人間たちの血と汗の結果が、そこにあった。

「行こう、佐々木。まだ帳場の手続きが山ほど残ってる。俺たちの戦いは、書類を書き終えるまで終わらないからな」

二人は、静かに息を吹き返し始めた被害者のベッドに一礼し、再び自分たちの主戦場である、泥臭い現実の世界へと歩き出した

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