第3話 露天風呂
「降霊っていうと、やっぱりご両親を?」
「ええ」
綾は複雑そうな笑顔をした。どうも、死んだはずの両親と会う、ということがピンとこないようだった。
綾の両親が死んだのは一年前。死因は交通事故。
それ以来の保護者が、綾の行っている学校の理事長でもある、あの叔父。
彼は綾に対してとても優しく、長く両親の死を引きずることなく一年を過ごすことができたのも、まったく彼のおかげだった。
一年------長いような、短いような。
この一年が過ぎるのはあっという間だったが、この家から離れ、両親と離れてからはずいぶん長かったかのように、綾には思えた。
親、という言葉を口ずさむ度に、ある種の郷愁を感じるほどである。
それでも、榊とこうして話しているうちに実感がわいてきたのか、何か明日がひどく待ち遠しく感じる。
綾以上におっとりとしていて、優しかったお母さん。
痩せていて、いつも必死におっちょこちょいな二人を助けてくれたお父さん。
その様子が脳裏にくっきりとその姿が思い出され、一年前に立ち帰ったような気がする。
会いたい。
一年ぶりに、その思いが綾の心をさまよい始めた。
「降霊師の方の名前ってわかりますか?」
未杉の言葉が、体を離れかけていた綾の心を引き戻した。
「えっ………あっ、はい。確か、阿綜先生とかおっしゃる方です」
その言葉を聞いて、榊と未杉が同時にうなずいた。
「やっぱり、阿綜のじいさんか」
「そうですね」
「お知り合いなんですか?」
角を曲がると、やっと家が見えた。
広い芝生の庭、あとは一直線のコースだ。
「その筋では有名な人ですから。学園の方にも、一度お招きしたことがあるんです」
「そうなんですか」
綾は納得したようで、にっこりと微笑んだ。
降霊の話は、それで終わった。
榊達は靴できていたので玄関の方に回り、綾だけが縁側から部屋の中に入っていった。
「あら」
障子を開けたすぐそばに、けっきょく部屋の端の方で寝てしまっていた美里を見つけた。
ゆっくりとした寝息を立てる彼女の様子は、いつもの迫力のかけらも見受けられず、いつもより幾分幼く見える。
何かかけるものを、と思いたって綾はいったん部屋を出た。
それと入れ替わって、騒がしい榊達が部屋に乱入してくる。
それでも、榊がすぐに美里が寝てしまっていることに気がつき、皆を静かにすると、
「静かに遊ぼう」
といってにこやかに笑った。
榊にしては穏やかな提言だったが、皆に異存はなかった。
日本の夏はいい。木の家に入ると、夏の暑さが肌に心地よいのだ。
蝉の声も遠くに聞こえると、聞いている者の涼しさを増してくれる。
風鈴の音、そよ風はなおさらである。
くつろいでいるのは美里だけではない。
柱を背にして本を読む弥生も、縁側で将棋をさしている斉藤と未杉も、その横で盤を眺めたり庭を眺めたりする御影も、部屋の中央で綾と話している由岐も、そして理事長と話している榊も、久しぶりの自然との接触に心を開き、真からくつろいでいた。
日はだんだんと沈み、ばあやと小林さんが夕食を机に置き始めると美里も目を覚まし、全員で夕食の手伝いを始めた。
いつしか庭では蝉の鳴き声がやみ、変わって夜の虫が静かな鳴き声をあげ始めていた。
夕食はなかなか豪華であった。
山菜と言った山の幸から、明石の鯛といった海の幸まで、広い机がいっぱいになるほど置かれていた。
食べ盛りが集まったのを気遣ってだろうか…………だが、まだまだ読みは甘かった。
豪華で美味しいものが多く並ぶ卓上では、すでに激しい食べ物争奪戦が繰り広げられ始めていた。
貧困な食生活を送っていたわけではないのだが、数人の箸を運ぶ手が早くなっていくと、負けず嫌いの他の連中の手の動きも速まり、いつしか争奪戦となってしまっていたのだ。
的確に箸を運ぶ未杉や、悠々自適ながらしっかりとした勢力範囲を作り出す榊など、箸の運び方はその人の個性をかなり強く反映していた。
もちろん争奪戦に参加はしていたが、ふと視界の隅に障子の姿を認めた美里は昼間にあった子供の事を思い出し、ゆっくりと自分のペースで箸を運ぶ綾に聞いた。
「そう言えば、昼頃に子供を見たんだけど、ここの子?」
綾は箸を運ぶ手を止め、やや首をかしげた。
「どこででしょうか」
「えっと、そこのあたりで」
美里が指をさすと、一度綾もその方向を見る。
「たぶん、ふもとの子だと思います。……この家には、ここにいるだけで全員のはずですから」
綾と理事長を含め、知った人をのぞけば「ばあや」と呼ばれる老婆と「小林さん」とよばれる40才ぐらいの男性だけ。
「ふもとの子供ってよく来るの?」
「ええ、ここには町の人の先祖の墓もありますので、結構いろいろな方がいらっしゃるんです。この食卓に並んでいるものも半分は、分けてもらった物なんですよ」
美里はそれだけ聞くと頷き、しばらくはその少年の事を忘れてしまった。
そんな事よりも、目の前の食事を早く片づけなくては榊達に先に食われてしまい、食いっぱぐれてしまいそうだったからだ。
なんと言ってもまだ18。食べ盛りは、美里といえど同じなのだ。
「お風呂、入りましたよ」
腹具合も少しおさまった頃、ばあやがそう告げてくれると、
「男性陣、先に入ってらっしゃいよ。私たちは浴衣を選んでから入りたいから」
との美里の言葉に甘えて、男どもはさっさと風呂場へと出かけて行ってしまった。
女どもは浴衣の方が気になる様子だったが、男どもはそれよりも風呂の方に興味があり、そしてその風呂は、男どもの期待を裏切らない豪華さであった。
風呂は露天風呂となっていた。
こんな山奥だから外から覗かれる心配も無いせいか、背の高い草花が周りを囲むだけで、視界はかなり広い。
見上げれば、宝箱をぶちまけたように星が散りばめてあった。
十人は余裕を持って入れそうな桧の浴槽からは湯気がたちのぼり、湿気を帯びた空気は木々の新鮮な匂いがする。
床は何かの石を磨いたものらしく、それほど滑りはしないものの、まるで硝子のように良く反射していた。
「これは豪華だ」
湯にたっぷりと肩までつかり、斉藤は上機嫌の様子だった。
桧の匂いも香ばしく、油断するとそのまま寝てしまいそうなほど、気分が和らいでいくのを感じる。
「完全に理事長の趣味だね」
一言だけそう皮肉った榊も久しぶりの安穏を楽しんでいるらしく、夜空を見つめながら星の数を数え始めた。
今日は空に曇一つ無く、下弦の月が柔らかな光を放ちながらも、星々は負けじと輝いていた。
こんな山奥で見る星の数は勿論のことだが数え切れないほど空に満ち、榊はすぐに数を数えるのを諦めた。
未杉は榊の横で同じように空を見つめ、何かぶつぶつと呟いていた。
あとで聞いたところによると、
「どれだけ知らない星があるのか数えていたんです」
とのことだった。
一度見たものは忘れない彼ではあったが、
「どれだけあった?」
と榊が聞いてみると意外にも、
「それこそ星の数ほどありましたよ」
と未杉は笑って答えたのだった。
御影は相変わらず無表情で、忙しそうに手を動かし、頭を洗っていた。
ただ、彼の感情を伝える唯一の場所と言われる「瞳」は、近年稀にみるほどの澄んだ様子を示していた。彼もそれなりに刺々しくなった意識を和らげることができたようだった。
水面からたちのぼる湯気が草木の垣根を越え、風にあおられ消えていく。
気づいたように耳をすませば、じーーーーーぃ、じーーーーぃと虫の鳴き声が、静かに耳に聞こえてきた。
いい気分で風呂から上がり、榊達は部屋に戻った。
「いかがでした? お風呂」
浴衣姿の榊達に、お風呂に入る用意のできた綾が声をかけた。
「もぉ、最高! 久しぶりに風呂に入った気分だよ」
上機嫌の斉藤がそう答えると、綾は「それは、良かったです」と嬉しそうに微笑んでくれた。
「じゃあ、僕たちも早く行こうよ!」
髪の短いボーイッシュな由岐がそう言うと、綾は「そうですね」と答えて立ち上がり、美里・弥生に声をかけて広い部屋から出て行ってしまった。
広い部屋を存分に使って御影、未杉、斉藤と散らばっていたが、いつもの日課である腕立て伏せを始めた御影をちらっと見た榊は、
「ふむ………」
と呟くと、何かを考えついたのか、寝転がってテレビを見ていた斉藤のもとへ歩いていった。
一言、二言話したかと思うと、斉藤が何やらおかしな笑みを浮かべた。
すると、すかさず、好奇心旺盛な未杉が寄ってくる。
「何の話をしているんですか?」
「おっ、未杉。お前も手伝えよ」
「…………ことによりますが」
「なに、一石二鳥にも三鳥にもなるお話しさ」
榊は意味ありげな笑い顔を浮かべ、ちらっと御影の方を見た。
大粒の水が綾の肌を滑り落ちる。なめらかな綾の肢体をゆっくりと撫でながら粒は滑り、大理石の床に落ちて弾けた。一粒、また一粒と。
服を脱いだ綾は、着ていた時とはまた違う意味で、美しかった。
由岐は小柄でショートカットの似合うボーイッシュな可愛い女の子であり、弥生は眉・唇の一つ一つが整っていて端正な顔立ちをした美女であり、美里は人の目を引きつけるものを持ったやや彫りの深い顔立ちをした美人である。
そして綾は、そのどれとも違ったタイプでありながら、可愛くもあり、端正な顔立ちであり、人の目を引きつけるものがあった。
強いて言うならば、象牙細工でつくられた等身大の女神像のようであり、しかも、黒くしなやかな髪を持ち、命の吹き込まれた綺麗な瞳を持っていた。
そして、何よりも弥生と美里を悔しがらせたのは、綾が着痩せするタイプだと言う事実だった。由岐などはあどけなくも喜んでいたが、他の二人は心中穏やかではいられなかった。
しかし、それにもまして綺麗な黒髪には、美里も羨望の眼差しを送るしかなかった。
その長い黒髪を丹念に洗う綾の様子を見て、美里はただため息が出るばかりだった。
「いいなぁ、長くて綺麗な髪……」
「中国さんは、伸ばさないんですか?」
「私にはこれが限界ね。これ以上伸びないわ」
美里はまたため息をつくと、綾はくすっと笑った。
「中国さんにはやっぱりそのぐらいが似合ってますよ。それに、これだけ長くなると、手入れが大変です」
「切らないの?」
「切ってもすぐ伸びてきてしまうんです」
「私と逆ね」
またため息をついてしまう美里を見て、綾は思わず微笑んでしまった。
やっと髪をすすいだ頃にはすでに、由岐は脱衣所の方に行ってしまい、湯船の中にはそろそろのぼせてきた弥生と美里がいるだけだった。
綾は、そっと湯船の中に足をいれる。
その時、にわかに庭の虫が鳴きやみ、代わって人の声がしてきた。
数人の、しかも男のものらしい。
綾はそのまま動きを止め、声のする方向を見た。
「何かしら?」
何を垣根の向こうで話しているのかはよく聞こえず、不信に思った美里は湯船からゆっくりと体を出した。
痴話喧嘩にも似た言い争いの後、これだけは正確に「せーの」と数人のかけ声が聞こえる。
「なに」
そろそろ事態が飲み込めてきた美里と弥生が身構えると、二人の間の垣根から人が飛び込んでくる。
「きゃっ!」
綾は短い悲鳴をあげ、びっくりして立ち上がった。
弥生はすかさず手近な桶を手にとり、美里は胸を隠しながら平手をかざした。
飛び込んできた人物の半身だけが、ざばっと湯船から勢いよく起きあがる。
白色のTシャツ、鋭さとあどけなさを持った表情 ------- 御影だ。
その御影が起き上がった目の前には、綾が立っていた。
御影は最初、目の前にあるものが何なのか解らなかった。
それが何であるかを理解したとき、呆然として思わずじっと眺めてしまった。
一糸まとわぬ、綾の全裸を ----。
「せっ、誠一郎さん………」
美里が平手をみまい、弥生は桶を後頭部にたたきこむ。
ばこんっ、と風呂場に心地よい音が響くと、御影は脆くも顔から水中に没した。
難を逃れた由岐は脱衣所からおそるおそる覗き込む。
そして、全裸を見られた綾は顔を真っ赤にして、崩れ落ちた御影を見つめ続けていた。
「なっさけない。たかが裸ぐらいで」
ライトを持って夜道を歩く榊が、そう呟いた。
風呂に入った後で、全員でお墓を一周しようと決めていたのに、御影が鼻血を出して気絶、綾が看病のために居残ってしまい、結局6人で行くことになってしまったのだ。
榊と結託して御影を風呂場に放り込み、あまつさえ、御影の方に注意がよっている間にしっかりと中の様子を見ていた斉藤と未杉が、その言葉にうんうんとうなずいた。
二人は思わぬ収穫に満足気であり、さらに未杉などは出てきた鼻血をおさえるためにティッシュを鼻につめて歩かねばならないほどで、二人に反省の色など見えるはずもなかった。
「あ、あんた達ねぇ……」
無理矢理つれてきて解った大の幽霊嫌いの美里が、弥生の腕にしっかりとつかみながらどうにか反抗しようと試みたが、けっきょく榊達には「糠に釘」でしかなく、もはや弥生さえも怒る気が失せていた。
美里がそのように極度に恐がっている一方、由岐はと言えば、榊の服をしっかりとつかみすぐ横にはいたがさほど恐がっている様子もなく、弥生にいたっては「少しは恐がれ!」と言いたくなる様子であったので、男どもはもっぱら美里いじめに走った。
何しろ、「鬼の副会長」、「榊の唯一の天敵」と呼ばれ、恐れられている美里が、木がざわっと揺れるたびに悲鳴を上げるのだから、笑いが止まらない。
「かっ、帰ったら憶えてらっしゃいよ!」
精一杯の美里の声もどこか空へと吸い込まれていくようにして消え、かわって墓場に響くのは榊達の明るい笑い声だった。
その頃、御影はと言えば、あの広い部屋に先に布団を敷いてもらい、その布団にくるまるようにして寝ていた。
そして、綾はそのすぐ横に正座して座り込み、手に団扇を持ってゆっくりと扇ぎ、御影に風を送っていた。
外はもう暗く、虫の音も夜のものに変わって、静かな鳴き声をあげている。
風もいくぶん涼しく、障子の隙間からときおり吹きかけてきていた。
「ん…………」
一瞬だけ苦しそうに瞼を動かす。
綾は団扇を揺らす手を止め、御影を見つめた。
苦しそうに震えていた瞼はやがて、ゆっくりと開かれた。
「……………」
いまだ頭がはっきりしないらしく、焦点の合わない瞳を綾に向ける。
そこには、覗き込むように見つめる綾の瞳があった。
「誠一郎さん、大丈夫ですか」
御影はしばらくじっとその綾の瞳を見つめていたが、しばらくすると事態を理解したらしく、急に綾に背を向けるようにして寝転がった。幾分、その顔と耳を赤くして……。
綾の方も、先ほどの事件を思い出したらしく、いまさらのように頬を赤く染めた。
そして、二人は黙り込んでしまう。
その代わりに聞こえてくるのはただ、風鈴の音だけであった……。
孤児だった御影に、母の記憶はない。
せいぜい憶えているとしても、孤児院から綾の叔父に引き取られた頃からで、それ以前の記憶は他の人と同様に無い。
そして、綾の叔父の被保護者として育った頃からは、めだって女性と接触した事はなかったし、少なくとも意識した事はなかった。
綾の環境は御影よりはましなものではあったが、異性に対する認識は乏しく、男女分け隔てない交友関係が、今の彼女の明るさと純粋さを作り上げてきていた。
そして、二人が出会ったとき ---- それはほんの一年前の事 -初めてお互いに異性という者を認識したのだった。
それは、初恋にはほど遠く、だからといって友人としての出逢いではなく、その中間に位置するような、より淡い、純粋な出逢いだった。
榊が考えたあのいたずらは、それから一歩も進展しない二人を少し刺激してやろうとしての事だったのかも知れないし、それとも本当にただ単なる冗談だったのかも知れない。
どちらにしろ、なにか憎めない、思わず苦笑するしかないような行動をする-----それが榊という男だった。
現に、二人はもう榊のことを恨んではいない。
ただその行動が、確かに二人の間に何かを作り出し、向かい合う二人を黙らせてしまっていた。
やがてある程度落ち着いてきた綾はもう一度、団扇を揺り動かして御影の背に風を送り始めた。
同時に、鳴き忘れていた庭の虫も、ふいに鳴きだす。
そよそよそよと、背中に心地よい風を受けながら、やっと御影は低い声で、
「あの……」
と、ひと言目だけ発することができた。
綾はそれに対し、
「はい」
とだけ答える。
そしてまた、二人は黙ってしまう。
相変わらず、庭の虫は鳴いていた。
綾も、御影が何を言いたいのかわかっていた。
御影もどうしたらいいか解っていた。
ただ、純情な二人の口から、言葉はなかなか出てこなかった。
「あの………その………すまなかった」
御影はやっと一言だけ、呟くことができた。
そして、それに対する綾の返答もまた、簡潔であった。
「はい………あの、私は………気にしていませんから」
そして、ふたたび静寂があたりを包む。
ただゆっくりと団扇は揺られ、柔らかな風が御影の背中にあたる。
そんな時ただ一つ、縁側の風鈴が、ちりーん、と鳴った。
「すまない」
御影はもう一度、呟いた。
綾は何も答えず、ただゆっくりと団扇を動かす。
綾の沈黙は否定を意味しているわけではない。
不器用な彼の精一杯の言葉を聞いて、ただ微笑むしかなかったのだ。
その沈黙が否定か肯定か、そんなことには関係なく、御影は肩の荷が下りたような気がして、不意に眠気が襲ってくるのを感じていた。
目をつぶれば、背中に風を感じる。
涼しく、そして柔らかいそよ風。
そのまるで全身が綿に囲まれているような感触は、もはや憶えてもいない母のぬくもりを御影に思い出させていた。
暖かく、そして…………
「誠一郎さん?」
黙りこくってしまった御影に顔を近づけると、かすかな寝息が聞こえた。
本当にかすかな、まるで子供のような寝息が。
----まだ三分もたっていないのに
綾はちょっとだけ微笑んで、下がっていた布団を御影のためになおした。