第1話 実家
京都駅から車で一時間ほど走ったところに、綾のふる里はある。
雄大な山々に挟まれる小さな村。
住民はわずか数百人。素朴で純粋で、昔ならどこでも見かけられたような山村。そこが、生まれた時から高校一年までの16年のあいだ暮らした、綾のふる里だった。
その村の中心には広場があり、すぐ側には築80年はたとうかと言う木造の校舎がある。
叩けば壊れそうなこの校舎は、しかし、幾人もの子供達をその中に抱きかかえ、いまも立派にその役目をはたしている。
綾は、その全校生徒わずか百数十人の学校に、かつて通っていた。
朝早くからここを訪れ、夕にいたるまで学び、そして遊んでいたのである。だが、その学校から綾の家にいたるまでの道程は、かなり長い。
十分もあれば着いてしまう村の端まで友達と仲良く歩き、そして綾は迎えにきてくれた家のばあやと二人で、北側の山道をゆっくりと歩いて行かなければならないのである。
深い森を抜け、崖の横を通り過ぎ、川を越え、30分も歩いてようやく家にたどり着くことができる。
その道を綾は、10年近くもの間、歩き続けたのだ。
そして、その長い道の果てに、綾の家はある。
日本風の木造建築に、畳張りの三百坪近くもある大きな家。
その古さは、学校に劣らずとも勝らないものであったが、使われている木はいまだに光沢を放ち、大きく広がる家はまるで一本の樹木であるような錯覚を人に与えるほど生き生きとしていた。
庭はさらに広く広がり……………そしてその奥には、管理をしている者さえその果てを知らぬほど広大な墓地がある。
しかし、その広大さに反して家の中に人気はなく、今も綾を含めた三人だけがこの家に暮らしているだけであり、蝉の声も風鈴の音も、その微かな音が家中に響きわたることができるほどであった………。
学園で残りの余暇をぶらぶらと過ごしていた榊達がこの家の玄関についたのは、そんな夏の暮れの、まだ暑い日の正午過ぎのことである。
「暑い日が続いておりますが、御身体にお変わりはないでしょうか。もしよろしければ、山奥の私の郷里に涼みにいらっしゃいませんか? 炎城綾」
電話一本かければすむような用事に、わざわざ古風にも招待状をよこしてくれた彼女の好意に甘えて、暇を持て余していた学園の御人達はさっそく電車に乗り込み、京都駅から迎えに来てくれた車に乗って、長々と山道を走ってきたところであった。
日はまだ南天に輝き、空気はむしっとした湿気をおびながらも、木漏れ日をうける樹木の幹では、必死につかまっている蝉がうるさいほどの鳴き声をあげている。
真夏の昼。
外に立っているだけで汗がにじみ出るような暑さに、クーラーの効いた車から下りた榊は、思わず呟いてしまった。
「暑いな……」
心から出た、正直な感想である。
「でもいい所じゃない?風も気持ちがいいわ」
榊の監視役でもある副会長の中国美里は反対のドアから降り、白いスカートの裾をはためかせながら答えた。
確かに、都会にはない涼しい風が、幾分その暑さを還元してくれていた。
やがて斉藤徹、岡田由岐、御影誠一郎、阿蒙弥生、未杉清隆、そして運転をしてくれた小林さんは順に乗っていた車から降り、木と磨り硝子で作られた妙に古めいた玄関をくぐり、一人一人暗く落ち着いた土間に足を踏み入れた。
外とは遮断された空間であるかのように土間は涼しく、そして暗かった。
家に一歩足を踏みいれると、あたりをゆっくりと見回し、どこからともなくため息がもれた。
歴史を経てきたモノだけが持つ重みと暖かさを、この家から感じるのである。
「上がったところの左手の部屋にはいっていて下さい。今、お茶を持ってきます」
ここまで車を運転してくれたまだ40代前半と言う感じの小林さんがそう言うと、
「おじゃまします」
と一言だけいって順に説明された部屋へと向かった。
「かなり古いお屋敷だね…………」
「一部改築したそうだけど、基本的には百年も前からのものらしいですよ」
由岐の呟きに、未杉がいつもの調子で説明してくれた。
なるほど、ミシミシと音をたてた床からも、未杉が言った言葉はまんざら嘘ではないことが解る。
しかし、柱も天井も、かなり古いものではあったがしっかりと磨かれ、それほど老朽化している様子も見えなかった。
障子の扉もしっかりしたもので、先頭の榊が開けたときもほとんどきしむ音がしなかった。
小林さんの言う「入って左手の部屋」は、とにかく広い部屋だった。
80畳ほどもある部屋には、真ん中に小さな長方形のテーブルと壁際にやや大型のTVがあるぐらいで、そのほとんどの空間はただ畳が敷かれているだけの、だだっ広い部屋だった。
おそらくは、一族郎党全てがこの屋敷を訪れたとしても大丈夫なよう、設計されているのだろう。
反対側の障子はその半分が開けられ、さらに広い庭も見渡せる。
まるで大海原か大草原に出くわしてしまったかのような景色であった。
しばらく立ち止まって、庭、部屋、部屋の奥へと視線を動かすと、そこには先客がいる事を榊は知った。
やや大柄な背中を見せ、その浴衣姿の男性はくつろいでTVを見ていた。
「……あれ、もしかして理事長?」
見覚えのある背中に対し榊が呟くと、気配を察したのかおもむろに振り向き、40代後半の少し太った顔を見せてくれた。
精悍であり、それでいて人懐っこい笑顔の似合う顔立ち。
大柄で、人に安心感を与えるしっかりとした体格 --- 確かに彼は榊達の学校の理事長、北村啓治であった。
「おぉ、榊じゃないか。やっとついたか」
「ええ、たった今」
一同は何はともあれ、理事長のところに寄って行った。
「でも、理事長が何故こちらへ」
いちばん近くに座り込んだ榊が理事長にそう聞くと、今度は理事長の方が不思議そうな顔をした。
「自分の家に帰ってきて、何が悪い……」
意地悪そうにそう言って、理事長は笑った。
確かに、理事長は綾の叔父であるのだからここは自分の家なのかも知れないが、まだ本宅もあるだろうし、もっといい別荘もあるだろうし、第一………
「仕事の方は大丈夫ですか? 夏は忙しいと言ってらしたのに」
榊はやや皮肉を込めてそう言ったのだが、その皮肉も今回は空振りに終わった。
理事長は持っていたビールをごくりと一息に飲むと、意外そうにこう答えたのだった。
「なんだ、綾からなんにも聞いていないのか………。綾の両親の一周忌だよ。三日後は」
理事長がそう呟くと、一同は顔を見合わせた。
綾は一年前、両親を交通事故で亡くしている。
その後、彼女の叔父にあたる理事長に引き取られたために、暮らし慣れたこの地を離れ、榊達のいる学校へ入学することとなったのだが……。
「もう、一年もたつのですか。綾さんが入学してから」
「月日がたつのも早いな」
理事長は何か思うところがあるらしく、縁側の柱にかかる風鈴をしばらく見つめていた。
肌にやっと感じることのできる程度の弱い風に、風鈴はその身を揺らし、ちりーん、とどこか寂しげな音を出した。
「理事長……では、私たちは何のために呼ばれたのでしょうか……そんな忙しいときに」
「私は、お前らを雑用にこき使ってやろうと思っていたのだが………」
「ざっ、雑用……」
斉藤と弥生あたりが、思わず呻いてしまった。
「私はそう思って呼ぶよう、綾に招待状を書かせたのだが、何も言っていないところを見ると綾はあくまでお前らを客として呼んだらしいな。……まあ、それも良かろう」
榊達はお互いに顔を見合わせ、暗黙の了解を交わしあった。
力一杯遊ぼうと思ってきた気持ちは変わらないが、綾一人に世話をかけるつもりなど初めからない。
ここは一つ、綾のために一肌脱ごうと、誰もが考えていた。
そこにいたって、初めて思い出したかのように、榊がこう呟いた。
「そういえば、綾ちゃんは」
見渡しても広い部屋には他に誰もなく、ただ廊下からずいぶんと年のとったばあさんが冷たい麦茶を持って、こちらに向かって来ているだけだった。
軽快な調子で由岐がすっくと立ち上がり、7つのコップの乗ったお盆を受け取る。
「すまないねぇ。お嬢ちゃん」
「いいんです!お世話になる身ですし」
由岐が一つ一つ冷えたコップを手渡していると、理事長が
「ばあや、綾はどこに行ったかな?」
と聞いた。
「いつものお墓参りですよ。旦那様……」
ばあやと呼ばれたおばあさんは、皺だらけの顔に満面の笑顔を浮かべた。
「もう、そんな時間か」
呟くような理事長の声に、ばあやはゆっくりとうなずいた。
郷里に帰ってきてからは毎日、綾は決まった時間にお墓参りをしているらしい。
規則正しく、そして優しい彼女の、彼女らしい行動であり、一同は説明された後に納得したようにうなずいた。
ばあやの満面の笑顔も、おそらくそんなところから来たのであろう。
外を見ると、夏の日差しが庭の草花を照らし、弱い風が庭一面に広がる雑草を揺らしていた。
その向こう、視界に入るか入らないかの所に、墓石の灰色の光の反射が見える。
特にすることもない榊達は、先ずは綾とその両親に会いに行くことにした。