すべては儚く、夢のようなもの
「あちっ」
配られたコーヒーを一口飲んで、綾は思わず呟いてしまった。
「あれ、綾ちゃん猫舌?」
そのコーヒーを配った当の榊がまるでからかうかのように聞いてきたので、綾は思わずぷくっと膨れっ面になった。なにしろ、配られたコーヒーは猫舌かを問うにしてはあまりにも熱すぎたのだ。
「わたし、榊さんがあっつーーいブラックコーヒーが好きだと言うことを、すっかり忘れていました」
綾が可愛らしくぷいっと顔をそむけると、榊は吹き出しそうになる笑いを必死にこらえた。
「くくっ……、ごめん、ごめん。怒らないで」
榊がいかにも嬉しそうに綾をなだめているのを見て、横にいた沙羅がカップを両手に持ちながら言った。
「分かってて言ったんでしょ? 会長」
「わかる?」
榊の言葉に、沙羅は一つため息をつく。
「会長ってときどき人を怒らせて、楽しんでるもん」
「綾ちゃんは素直だからね、顔にすぐ出るんだよ。それが楽しくて……」
榊が手に持ったポットから熱いコーヒーをカップに注ぐと、そのカップを窓際に座っていた未杉に手渡した。
「ありがとう。しかし、変わった趣味だね。人を怒らせて楽しむなんて……」
「人を怒らせるのが楽しいんじゃないよ」
榊は軽く笑いながら、自分のカップにコーヒーをコポコポと注いだ。カップから熱い蒸気が立ち昇る。
「相手が、人として素直な反応を示してくれるのが楽しいのさ………」
「その定義でいくと、人じゃない御仁が一人いらっしゃいますね」
未杉が呟きながら横に座っている御影をみると、当の御影はあの熱いコーヒーを一気に飲み干し、しかも平然としてみせていたところだったので、思わず残りの4人は笑ってしまった。
毎日の恒例行事となったこのお茶会は、いつものとおり、ソファーだけしかない奇妙な第12会議室において行なわれていた。今回は、隣の生徒会室から抜けでてきた生徒会長の榊、どこにでも顔を出す情報屋・未杉、まだこの学園都市にきたばかりの綾、そのルームメイトの沙羅、そして不慣れな綾の案内役…………と言うよりは、ボディーガードの御影の5人が集まってきていた。
いつもなら、隣の生徒会室から書記の中条が来たり、よく暇になって歩き回っている沖などが突如乱入してきたりするのだが、今回はメインの5人だけのお茶会だった。
時計は6時を回ったところで、南側に面している窓から外の夕焼けが差し込んでいた。5人の持っているカップからゆらゆらと湯気が立ち昇り、部屋はゆっくりと静かな夕方を迎えていた。
綾が何げなく外をみていると、視界に入るか入らないかのところに奇妙なものがあることに気付いた。なにやら黒々と夕日の影に包まれた、岩ぐらいの大きさの物体。それは、この校舎に近いところにたたずんでいた。
岩………ではない、何かの人の手による建造物らしく、時折白くきらきらと光る。
(なんだろう………)
思わず綾は窓に向かって体を乗り出した。
「………どうしたの? 綾さん」
窓際に座っていた未杉が綾に気付いて声をかけた。
「ははぁ、あれに気付いたのかな?」
榊がポットを端にある机に置きながら言った。ちょうど榊のいる場所からも、そのものが見えるのだ。
「あれって…………、もしかして、あの祠のこと? この近代的な校舎に不釣合いな」
沙羅もカップを持って、体を乗り出した。
「あれって………、祠なんですか…………?」
「もう暗くなってきたから黒い塊にしか見えないね。本当はけっこう綺麗な祠なんだ」
「…………………」
綾はしばらくじっとその祠らしき黒い影をみていた。一体なんのための祠なんだろうか………と思っていたところに、自分の席に戻ってきた榊が説明してくれた。
「だいたい同時期に、二人の男女があの祠のところで死んでね。あの祠は供養のために作られた物なんだ……………… 本当に熱いわ、このコーヒー」
後半はどうやら、自分に向けての言葉のようだった。
「初めての死者事件ですね。8年前の」
自称、人間記憶集積回路・未杉が答えた。情報屋と言うだけあって、彼はよく知っている。長く垂れた前髪を軽くかきあげながら、未杉はすらすらと説明していった。
「二人とも創立するまでの工事に立ち会っていた二人で、ともに強力な霊能力者。まず女性の方が創立間近に事故死、1カ月後に男性が自殺。二人の場所はまったく同じ、あの場所であったためその頃、工事に関係していた理事の一人息子、北村惣一さんがその一ヶ月後に祠を造った……。もっと詳しいことは御影くんの方が御存知ですよね? その工事に立ち会った内の一人ですから」
未杉が顔を向けると、まるで初めて気がついたように御影は口を開いた。
「ん? ああ……………………、あそこには井戸があったんだ…………」
無口な御影はそれ以上のことを話そうとはしなかったが、その顔には明らかに何かを懐古している様子が読み取れた。
綾と沙羅も元の席に戻ると、榊は待っていましたとばかりに口を開いた。
「今日はあの祠の話だね。この話は前生徒会長に聞いた話なんだ………」
この学園を建造するにあたって、綾の叔父にあたる、創立者「北村啓治」は土木工事の人達とは別に、吉凶・方角・霊など、いわゆる「その方面」の人達を二人ほど雇った。これが後の事件につながる二人なのであるが、男性の方が21才で大槻博司、女性の方が20才で沢野井夏美と言った。
特にこの「沢野井夏美」という女性 --- その道ではかなり有名な一族のうえ力も強く、選ばれたのは当然のような人物であった。美人で、ややプライドも高かったが、明るく、工事現場でもアイドル的存在であった。
一方、男の方は、「力だけならば夏美よりも上」と噂されたものの、いかんせん、その力も突然変異で得た力だったためコントロールもきかず、どちらかと言えば、なぜ選ばれたのか? と言わざるを得ないような人物であった。そのうえ、かなりの人間不信。
そんな二人であったのだから当然、仲は悪かった。その仲の悪さは、工事に従事する人達に
「顔を見合わせちゃ、飽きるまで喧嘩をしている」
と言わせるほどのものであった。
確かにまともな会話と言えば仕事に関することぐらいで、ほかの会話と言えば、やれ「力では私の方が上よ」だの、「幼い頃から鍛えれば、俺の方が上だった」だのとかなり単純なことを言い争っている様子であった。
そうはいっても工事の方はどんどんと進み、二人は喧嘩しながらも職務をまっとうせざるを得なかった。その様子は一見して、ほほえましくも見えた。
その頃の様子はその二人の唯一の関係者とも呼べる、当時16才であった創立者北村啓治の一人息子、北村惣一がよく知っている。
高校はこの学校へ、と決まっていた惣一は暇な毎日をここにきてはみんなの邪魔をして過ごしていた。そうであるから、彼の友達と言えば年の近い夏美と博司の二人となるのは、ごく当然の現象であった。事実、惣一の大方の時間は二人の後ろについて回って過ごすこととなったのだった。
そんなある日、事件は起きたのだ。
まだ真夏 --- 8月の半ばのこと。外は、残したままにされていた木になっている蝉が、うるさいほどに鳴いていた頃のこと。土地内にあるプレハブの宿舎の中で、夕食後の空いた時間をみんなでわいのわいのと騒いでいたとき、
「ジュースを買ってきます」
と笑顔で夏美が出て行った。まるで風のように姿を消し、そして、二度と帰ってくることはなかった。
あの頃、あの祠のあった場所は深い井戸となっていて、工事のために中の石を取り外しにかかっている時であった。石は上から崩され、井戸は落し穴となんら変わりはない状態ではあったのだが、周りはしっかり縄で囲まれていて、故意に飛び込まない限り決して危険とは言えなかった。
しかし、その危険ではないはずの井戸の底から夏美が死体となって発見されたのは、夏美が出て行ってから4時間後のこと………。誰もがその死を理解できなかった。
刑事がきて捜査した結果は、まことに単純明快であった。
「もともと井戸に積んであった石が、あの近くて積まれていましたよね? その積まれていた所からこぼれ落ちていた石の一つに……………ほら、あそこらに転がっている石ですよ。あれに、彼女はつまずいたようですな。そのまま体勢を崩して紐に体を引っかけ、頭から井戸の中へ…………という具合のようです」
聞いていた者はすべて口をつぐんだ。
誰のせいでもない、ただの神の気まぐれ………。人々は、かえってやるせない気持ちになった。
いつもとなんら変わることのない、ある暑い夏の夜のことだった………。
「自分が、この不気味な力のせいで周りから化物扱いされていた頃、なんだったか、何かの本に、『人は必ず会い、離れるものである』と書いてあって…………、俺はその言葉を信じてきたんだ。」
「化物扱いする奴なんかと離れて、いつか必ずこの力を素直に受けとめてくれる人が現われると、信じてきたんだ。」
「そりゃ、夏美とは仲が悪かったよ…………。だけどよ……………、早すぎるよ。離れてしまうには………。」
夜中、刑事等も引き上げ、静かになった井戸近くで、博司が呟いた。
惣一は、ただうなずくしかなかった。
少し涼しい風がまだ荒涼としている大地に吹きわたる。
井戸は何事もなかったかのように、そこにぽっかりとたたずんでいた。
夜もだいぶ更け、惣一は帰ろうと思いたち博司の方を向いた。
そして、声をかけようとしたのだが、その言葉は途中で止まった。
博司は、泣いていた。
一陣の風が吹く。
惣一はどうすることもできずに、ただたたずむしかなかった。
そして博司は、ただ井戸をじっと見ながら、大粒の涙をこぼした。
博司が自殺したのは、夏美が死んでからきっかり一ヶ月後。遺書には、親と友人、工事の人と惣一にすまないと…………。
そして最後の詩のように一つ。
「 すべては儚く、夢のようなもの 」
と書いてあるだけだった。惣一ははじめて人の命の儚さ、朝霧のように消えてしまう存在というものを、嫌と言うほど思い知った。博司が、あの強気な博司が、あのあと「寂しい」と呟いた。その言葉がいまなら解る気がした。
彼にとって人と呼べる人は彼女しかいなかったのだ。化物扱いをせず、彼を人として扱ってくれる人は彼女しかいなかったのだ。
そのたった一人がいなくなった…………、だから彼は寂しいといったのだ。
横にいてくれればいい。喧嘩できればなおいい。人として、生きていて当たり前の、ごく当然の振舞いをして欲しい。
彼は寂しかったのだ。
人として扱われなかった者の、彼女はたった一人の<人>であったのだ。
だから死んだ。
すべてが、現実にあるもすべてが儚くなり、博司は夏美を追いかけに行ったのだ。
しかし、博司は大事なことを忘れている。それは、残された者の気持ち。
博司には確かに夏美しかなかったのかも知れない。だから自殺したのだろう。
だが、しがらみの中に生きて、死ぬことのできない者は、いくら辛くともその「人の命の儚さ」を享受しなくてはならないのだ。何度も、何度も。自分が朽ち果てるまで。
惣一は、自分が何もできなかったことが辛かった。もう二度と会えないことが辛かった。当たり前のように感じるこうやって生きていることが、ひどく儚かった。
空を見上げればこれだけは変わらぬ空が、いつものと変わらぬ陽光をなげかけてきている。不思議にいつもより陽光がきつく感じ、惣一は片手で太陽をさえぎった。
昔、神は雲の上にいると考えられていた。なるほど、空を見上げればいなくなった博司と夏美が、まるでそこにいるように思える。二人で、惣一に微笑んでいてくれるような、軽い郷愁に似た気持ちにかられ、惣一は空を遠く、いつまでも見つめた。
「博司………、夏美さんに会えたか…………?」
呟く声は、しかし、蝉のうるさく鳴く声でかき消された。
惣一は自分の足で祠を買いにいき、許されるわずかな場所にそれを自分で立てた。力も何もない彼にできる、ただ一つのはなむけだったのだろうか………。
その後、惣一は生徒会長となるのだが、その彼の生徒に対する接し方は誰よりも優しかったと言う…………。
部屋の中にすすり泣く声が響いた。暗い話をしていることもあってびっくりしてみんなが振り向いてみると、綾が大粒の涙をぼろぼろこぼしていた。
「綾ちゃん………どうしたの?」
思わず沙羅は後ろから抱きつき、心配そうに綾に声をかけた。しかし綾は、首に回された沙羅の腕をぐっとつかみ、下を向いて泣くだけだった。
皆が困惑している中、榊だけはしまったと後悔の表情を顔に浮かべ、苦々しげに持っていたコーヒーを一息に飲み干した。
「綾ちゃんも、人の命の儚さを知った人だったね…………ごめん。失敗した………」
そう呟くと、榊は黙ってしまった。未杉も沙羅も御影も、榊の言葉を聞いて思い出した。綾の両親は、つい最近死んでしまったばかりだった。彼女が転校してきたのは、両親を交通事故で失い、たった一人の肉親である叔父を頼ってきたからではないか。
気まずい雰囲気が流れ、しばらく沈黙が続いた。外はだいぶ暗くなり、日は今にも消えようとしていた。
部屋には蛍光灯の光が満ちていたが、それさえもやや薄暗く感じた。
「…………あの祠は、死んでいった人達のための…………、供養塔なんですね………」
綾がか弱々しい声で呟いた。
しかし、榊の答は否だった。
「いや………、違うよ」
「え……………?」
それぞれ下を向いていた綾と沙羅の顔が同時に上がる。
綾の涙も驚きのためか、すっとその流れを止めた。
榊は優しい、いつもの自信に満ちた笑顔で話しかけてきた。
「いやね、もちろん供養のためもあるんだけど、あれは供養塔じゃないんだ。なにしろあそこには、縁結びの神がまつってあるのだからね」
「えん…………結び?」
綾の顔にふたたび元気が取り戻して来たのを見ると、榊はややほっとした。その時、わざわざ温かい程度のココアを入れてくれた未杉が、綾にそのカップを手渡してくれた。ミルクと砂糖の入った、温かいココアだった。
「たとえあちらの世界にあっても、ふたたび会えますようにってね…………。生き残った惣一さんの、いわばシャレなんだろうね」
(いつまでも変わらず…………会えるように…………)
綾はやっと、笑顔になった。温かいココアを一口だけ飲む。
「……………会えると………いいですね…………」
榊はにっこり微笑んでくれた。綾はやっと安心して、ほんの少しだけ涙をこぼれ落とすと、横にいた御影が気恥ずかしそうにそっと綾の頭の上に手をおいて、無骨な手で頭を撫でてくれた。
恥ずかしがりやの彼の精一杯の温かさを感じながら、できることなら、周りの誰もかれも、もういなくならないで欲しいという思いが、綾の胸をよぎった。
首周りにある、沙羅の腕と髪の柔らかさ。
慰めるように頭の上においてある御影の手。
心までも温めてくれるような、未杉のいれてくれたココア。
そして、おそらくは慰めるために「縁結びの話」を即興で作って話してくれた榊。
その温かさを心と体で感じながら、綾は唯一の肉親である叔父に、無性に会いたくなった。