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純喫茶のホームズ

作者: H2O

鈴のなる重たいガラス戸を開けると、コーヒー豆の香ばしい匂いが漂ってくる。

創業以来50年以上使われ続けている焙煎機が、今日もこの純喫茶の売りである自家焙煎のコーヒーを用意して客を待っているのだ。


入り口からすぐのカウンターの手前の席が、幸江さんの定位置だ。


幸江さんはこの店の創業者の妻だ。

もともとは夫を手伝って店のウェイトレスをしていたが、夫の亡き後は彼女がオーナーになった。

以来彼女は夫の残したこの店を守り続けている。

現在のマスターは幸江さんの長男、恭一さんだ。

最近ではアルバイトの和田さんがウェイトレスをしてくれるようになった。

だから幸江さんはカウンターの手前の席で、しゃんと背筋を伸ばしてゆったりとコーヒーを飲んで過ごしている。

けれども、常連客の大半が幸江さんに会いにきているのだと思う。

かく言う俺も、幸江さんに会いにきたのだ。


今日も幸江さんはいつも通り、艶やかな銘仙の着物を身にまとい、砂糖もミルクも入れないコーヒーを飲んでいた。


「晶、そんなとこで立ってないでさっさと座りな。

邪魔になるよ。」


入り口付近に立っていた俺に、幸江さんが声をかける。

俺は彼女の隣のカウンター席へ腰掛けた。


「久しぶりだね晶。

ココア飲むかい?」


「幸江さん、俺もうコーヒー飲めるようになったって。」


苦いのが嫌いでコーヒーが飲めなかったのは小学生の頃の話だ。

ちょっと悔しくて、恥ずかしくて拗ねる俺を幸江さんは「なぁに、クリーム入りじゃないと飲めないくせに偉そうにしちゃって。」と笑う。

そんな彼女を恭一さんが「母さん、いじめないの。」と嗜める。


「晶くん、甘いのだとウィンナーコーヒーにする?」


悔しいがブラックは飲めないので俺は恭一さんに勧められたウィンナーコーヒーをお願いした。

恭一さんは「クリームたっぷりで用意するね。」と微笑んだ。

何年経っても俺はこの店では子供扱いなのが照れ臭いが、可愛がってもらえるのはちょっと嬉しかったりする。


「それで晶、あんた何しにきたのさ。」


「ばぁちゃんの遺品のことで相談に来たんだ。」


俺の祖母、眞知子は幸江さんの古くからの友人だ。

幼い頃から俺は祖母に連れられてよくこの店に来ていた。

その祖母が先月亡くなった。


「ばぁちゃん、元気だった時俺に封筒をくれたんだよ。

何かの時助けになるから取っておけって。

それでこの前中を開けてみたんだけど、何書いてあるのかさっぱりわかんなかった。

幸江さんならわかるかと思って。」


幸江さんは「晶、あんた文字が読めないわけじゃないだろ。」とけらけら笑う。


「そうじゃねえよ、暗号になってんだよ。」


「へぇ、暗号ねぇ。

面白そうじゃない。」


恭一さんが俺にウィンナーコーヒーを渡しながら笑う。

恭一さんは幸江さんに視線をやる。


「これはホームズの出番なんじゃない、母さん。」


幸江さんはただの老婦人ではない。

この店の常連客からはホームズと呼ばれている。

人々は彼女に助けを求めて店を訪れる。


「仕方がないねぇ。助けてやろうじゃない。」


幸江さんはにやりと笑った。


祖母が残した桜模様の封筒には、一枚の便箋と干した紅葉の葉が入っていた。

便箋に書かれていた暗号は次のようだった。



ADF ACF ADF ACF F A G F C H C D A

F D F D F ADF D ACF F ADF D ACF



俺は最初にこれをみた時、金庫のダイヤル番号かと思ったのだ。

しかし家にそれらしき金庫は見当たらなかった。

第一、ダイヤル番号であるならばアルファベットではなくて数字だろうし、番号が多すぎる。

ではこれは何を示しているのか。

幸江さんは「決まってるだろう。遺産の在処を記したのさ。」と言う。


「やっぱりそうなのか。

紅葉の葉といっしょに入ってるだろ。

だから俺は紅葉の木の下かと思ったんだよ。

でも庭に紅葉はないから、山かな。」


俺がそう言うと幸江さんは「そんなわけないね。」と笑う。


「山になんか埋めてどうすんだ。熊にでもくれてやるのかい。」


「じゃあばぁちゃんは何処に遺産を隠したんだ。」


「眞知子は気前よくヒントをくれたよ。」


幸江さんは便箋を裏返しトントンと人差し指で叩く。

祖母は便箋の裏側にも暗号を書き残していた。

それが次の文言だ。



ゆっくりと、苦しみを持って


「晶、あんたもこれを見つけたんだろう。」


もちろん俺もこれに気づいた。

その穏やかでない言葉に少なからずぎょっとした。

それを伝えると幸江さんはけらけら笑った。


「なぁに、べつに呪いの文じゃないさ。

これは作家が残した指示だよ。

眞知子はそれを引用したのさ。」


「指示?」


「そうさ。

演奏する上でのね。

この暗号はある曲を表してるのさ。」


幸江さんはメモを取り出して、そこにボールペンで書き付けながら俺に説明する。


「アルファベットはドレミを表すことができるんだよ。

こんなふうにね。」


幸江さんは次のようなメモを書いた。


C D E F G A H


「暗号のアルファベットは2行になっているだろう。

ちょうど楽譜と同じように1行目が右手の、2行目が左手の旋律を表している。

さっきも言った通り便箋の裏側に書いてあるのは演奏する上での指示で、この曲の楽譜の冒頭に書かれているのさ。」


「あぁ、あの曲か。」


カウンターの向こう側から便箋を覗いた恭一さんが手を叩く。

幸江さんは「お前も知っていると思ったさ。」と満足げに笑った。


「エリック・サティのジムノペティ第1番さ。」


「レコードがあるから流してあげるよ。」


恭一さんはレコードを取ってくると、蓄音機の用意をしてくれた。

俺は題名を聞いてもぴんとこなかったが、蓄音機から流れ出すメロディには聞き覚えがあった。


「ばぁちゃんのオルゴールの曲だ。」


祖母が持っていた、紅葉の模様が彫られたオルゴールつきの宝石箱。

蓋を開けると二つに仕切られていて、右側がオルゴール、左側は小物入れになっていた。

祖母はその小物入れにベッコウ飴をいれていた。

子供の頃、おつかいをしたご褒美にその小物入れから取り出したベッコウ飴をくれたのをよく覚えている。



「この暗号は、あのオルゴールつきの宝石箱を示してたってことか?

でも、あの小さな箱に遺産は入らないだろ。」


幸江さんはけらけら笑う。


「眞知子はしっかり者で用心深いからね。

遺産は銀行の貸金庫に預けてたんだろう。

宝石箱の飴玉の下に金庫の鍵を隠してあるはずさ。」


「ばぁちゃん、なんで俺にそんな大事な暗号を預けたのかな。」


「眞知子はあんたを大学へ行かせたかったんだと思うよ。

晶、大学へ行きたかったんだろう。」


「ばぁちゃん、覚えてたんだ。」


「眞知子が応援してくれてんだ。

頑張って勉強なさいな。」


「わかった。」


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