三 名前についてのツッコミどころ
「前から思ってたんだけどさ」
「なぁに?」
「店の名前、安直じゃない?」
最近、ナユちゃんの機嫌が頗る良かったので、僕は思い切って不躾な質問をぶつけてみることにした。ローテーブルを挟んだ向こうでナユちゃんは眉を顰める。芝居がかった所作で片眉だけあげるのが器用だなと思った。ナユちゃん今日も可愛いね。
「随分じゃない」
「ああごめん、気を悪くしたよね」
「何を期待してそんな言葉を吐いたのかしら?」
「純粋に気になっちゃったのさ」
「なっちゃったのね」
「うん」
紅いベルベット地のソファに踏ん反り返るような仕草で座り直すナユちゃん。先ほどまでは浅く腰掛けて、楽しげにニコニコしていたのだけれども、今は不敵に笑っている。決して怒ってはいないと思うのだけれど、こちらの出方を窺っているみたいだ。
それはそうと、距離をとられたみたいで、それがなんだか心の距離が開いちゃったみたいで、ちょっと寂しいね。
「自分でもどうかと思ったんだけどね。もし嫌だったら忘れて」
「嫌とは言ってないわ。それに忘れない。あなたがそんな質問をしたことを」
「アレ? もしかしてオレ、またなんかやっちゃいました?」
「ふっ」
渾身のギャグを披露して場を和ませようとしたところ、何とか成功した様だ。ナユちゃんの笑いのツボに謎が多くて助かった。謎なので困る事もあるけれど、やり甲斐はある。これ何の話ですか?
「悪いね」
「ええ、悪いわ」
言葉とは裏腹に、ナユちゃんは何だか愉快そうである。それが先ほどの僕のボケによる効能だけと思えるほど、僕は単純ではない。多分ね。
「嫌い? 恒河沙って」
「嫌いじゃないよ。寧ろ好き」
これは事実だ。決してナユちゃんのご機嫌取りでリップサービスしている訳ではない。これについては本当にそうなのだけど、果たしてこの気持ちが伝わるだろうか。伝わったらいいなぁ。
「ふうん、好きなんだ」
「うん」
そう言うとナユちゃんはニッコリ笑う。なぜだろう? 元々口角はあがり気味だったけど。そういう怒り方をするタイプではないし。謎である。
ところで、心なしか、ナユちゃんの古めかしい女性口調に綻びが見られたと思う。これは、ナユちゃんが動揺している時とか、興奮している時なんかに時たま見られる現象であり、今日がはじめてではない。はじめてではないのだが、偶に出るそっちの口調も、やっぱりかわいいなって思うワケ。
「……好きなのに安直って思ったの?」
「思ったよ」
「……ほんと、変な人」
失礼な。僕ほど地味で普通な人間はいない。それにナユちゃんに言われたくはない。僕はナユちゃんの事は好きだけど、『変な人だなぁ』とは常日頃から感じているのだから。それは別に矛盾しないしおかしな事じゃない。わたし何か変なこと言ってます?
「まぁ、いいわ」
「いいんだ」
「よくない方がいいのかしら?」
「ナユちゃんと話せるのであれば、どちらも捨てがたい」
「ナユちゃんって呼ばないで。呼び捨てて」
「恒河沙」
「それじゃない」
てやんでえ! ナユちゃんを呼び捨てなんで出来っこないぜアハハァ!
「ふっ」
「? どうしたの、急に」
不意に失笑するナユちゃん。軽く握った右手で口元を隠しながら、左手を挙げて応じる。
「なんでもないわ。ちょっと思い出し笑いをしただけ」
「へぇ、何を思い出したんだろうナァ」
「さぁ。なんでしょうね? それより、最初の質問に答えるわ」
「お、嬉しいね」
「ほんとに思ってる?」
「勿論」
今度は僕が椅子に浅く座り直し、前傾姿勢になる。『聞く姿勢』ってヤツだ。口角をあげて目をギラギラと光らせたニコニコ笑顔も欠かさない。序でに両手を組み、両肘を其々の膝の上に置く。バッチリだ。さっきナユちゃんがやった芝居掛かった所作への仕返しではない。ちがう。ちがうったら!
「ふふっ……どういう積もり?」
「『聞く姿勢』だよ」
「なにそれ」
「ビジネスマンに求められ、そして推奨される態度のひとつかな」
「ビジネスマンだったの?」
「たった今なったんだ。阿僧祇様のお話を拝聴するのがマイビジネスゆえ」
「お安い御用なのね」
「確かに私にとって阿僧祇様のお話を拝聴する事は呼吸も同然ですけれど、他ならぬ止ん事無き阿僧祇様のお話。いつも決死の思いで臨んでおりますデスハイ」
「ながいわ。節分の日の恵方巻きくらいながい」
「畏れながら、あんまりピンと来ませんデスハイ」
「長かったのよ。実際」
「ああ、アレですかハイ」
そういえば先月、ナユちゃんに恵方巻きを買ってきたんだったか。僕としたことが、こんなことすら忘れてしまうとは……。最近物忘れが激しくて困る。
「誠に申し訳!」
「いいの。美味しかったわ、ありがとうね」
「ははぁ、勿体なきお言葉……」
僕は態とらしい程に恭しくお辞儀を一つ。
「ハイハイ。ねえ話が進まないでしょう?」
「ごめんなさいデスハイ」
バッと顔を上げて大仰に応える。仕方ない、戯けるのを止めるしかない。でもこんなの、マグロが泳ぐのを止める様なものですよ! これじゃしんじゃうわ!
「今日は五月蝿いキャラなのね。まだ三月なのに」
「誰が蝿ですか! 先生はそんな言葉許しませんよ!」
「ちょっと今日は骨が折れそうね」
すまない。ナユちゃんに心の中でもう一度謝りながら、僕は抑えきれない自分の衝動に歯痒い思いをしていたのだが、これはナユちゃんが知らなくてもいい話である。鎮まれ右手! ならぬ、鎮まれ戯け! である。
「大した話じゃないし、あんまり引っ張りたくもないのだけれど。ちゃちゃっと話して終わりの予定だったのに!」
「ごめんごめん、いい加減にするよ。ここらが潮時だね。反省しました。猛烈に。激烈に。鮮烈に」
「……どうして未来って、そう、好印象なキャラと悪印象なキャラを交互に演るのかしら」
なんだか言葉の刃が飛んできた気がするが、物凄く糖衣されていたので気づかなかった。事にした。
「それで、ナユタ。お店の名前はどうしてゴウガシャなのかね?」
「っ!」
戯れと、時には呼んでみたいという気持ちと。4:6ぐらいの配合でこの行動に至ったのだが、これで良かったのだろうか。ナユちゃんは目を丸くしている。その様はなんだか黒猫を連想させるものであったが、ナユちゃんが黒猫っぽいキャラであるという意味ではない事はちょっと断っておく。
「もう。急に呼ばれたら、吃驚するでしょう?」
「ダメだった?」
「いいけど。いつも呼んでくれたらいいのに」
「勇気が足りなくてゲスね」
「誰よあなた」
「ミライはミライでゲス」
「今日凄いわね。何かアブナイ粉でも吸ったのかしら」
「しあわせの白い粉を少々。砂糖ってブツなんスガ」
「それはシュガーハイね」
ナユちゃんが、面倒臭いものを見る目で見つめてくる。あんまり調子に乗っていると嫌われちゃうかもしれない。ナユちゃんに嫌われるのは本意ではないので、ここは一つ、鞘を収めてくれませんかね?
「恒河沙ってどういう意味なんだろうって気になって、ネットで調べたんだ」
「へえ、調べたのね」
「うん。それで、元は仏教の言葉だっていうのはどっかで聞いたことがあって。やっぱりそれはそうだったんだけど、恒河沙はガンジス川の砂の粒の数くらい無数にあるよって、そういう意味だって書いてあった。ガンジス川のことをサンスクリット語では『ガンガー』と言うらしくて、その音写なんだって」
「ええ、そうみたいね」
「この由来って何か、このお店の命名に関係しているの? それとも、君の名前に連ねる形で決めたのかな?」
「両方よ」
「あっ…そうなんだ。なんだ、随分とこう、アッサリ味だね」
「だから言ったでしょう? 大した話じゃないし、ちゃちゃっと済むって」
僕は顔を覆って泣き出すような身振りをする。
「こんなに引っ張ったのに!」
「未来が勝手に引っ張ったんでしょう? 私に言わないで」
「ごめん。そうだね。しくしく」
「なんなのこの人……」
本気で引かれたら困る。まだ本気じゃない筈。知らないです。だって人の心は読めませんデスハイ。
「いつもの、というか、よくある、真面目で落ち着いてる感じの未来がいいのだけれど。出来ない相談かしら?」
「お安い御用ですぜ姉貴ィ」
「もう違う」
そう言うとナユちゃんは、両手をポンと軽く膝に打ち付けながら、天を仰いでしまった。これは、ギリギリのラインかな?
僕とナユちゃんの間にはローテーブルくんが挟まってくれているので、もしナユちゃんが突然として鬼の如く激昂したとしても、直ちにナユちゃんに叩かれることは無く、その意味では安心である。
まぁ、ナユちゃんに叩かれたことなんて、無いのだけど。というか、人を叩く様なタイプじゃないよね、多分。わかんないけどさ。わかるのさ。わかんないけどさ。どっちだよ。
それはそうと、あんまりナユちゃんにこれ以上迷惑を掛けるのは、趣向からズレてしまうし、もう目的は十分果たされたと思うので、ここらでお巫山戯はおしまいにしよう。そう、心に決めた。
「そっかそっか。やっぱりそうだったんだね。なんとなくそうなんだろうなぁとは思ってたんだぁ。このお店、物が溢れるほどいっぱいあるし、ガンジス川の砂の粒くらい無数にあるんだよっていう意味の恒河沙に因んで名付けるのは、ナユちゃんらしいネーミングセンスだなぁと思ったからサ」
「どういう意味よ。それ」
ナユちゃんは天を仰いだまま聞きつ応える。その声音から何やら不満げな色を感じ取ったのは気のせいではない筈だ。アレまた俺なんかやっちゃいました?
「いいセンスだと思ってさ」
「絶対ウソだ……」
ナユちゃんは今日はよく口調が崩れるなぁ。これはこれでナユちゃんの心に触れられている様な気がして僕は嬉しいのだが、ナユちゃんの事も考えないとね。失敬失敬。
「あそうだ。序でに阿僧祇様と那由多様についても見てみたんだった。あと不可思議も」
「……ふうん。それで?」
なゆちゃんが椅子に仰け反ったまま首だけを動かしてこちらに視線を向ける。こっちを向いてくれて嬉しい。『様』を付けた事は華麗にスルーされたけれど、それは大した問題じゃない。心配なのはナユちゃんの首とか背骨だ。華奢だからいいものの、もし太っていたら二重顎が出来ていそうな、そういうヤバイ角度だな、と思った。
「今失礼なこと考えたでしょう」
「エッ!? ナンのことカナ」
「またワザとらしいカタコト……助けてぇ、ミライの生き霊さん……」
むっ。アイツに助けを求めるとはナユちゃんめ。こちとらバリバリ嫉妬しちゃうかんな。
「えっと、阿僧祇は『数えることが出来ない』って意味で、那由他は『極めて大きな数量』って意味だったよ。不可思議は『思う事も議論することも出来ない』って意味で、いちばん読んで字の如くだったね。どれもやっぱり元は仏教の言葉で、阿僧祇と那由多様については恒河沙同様サンスクリット語の音写だった」
「そう。よく調べたわね。えらいえらい」
「どうもどうも。 それでね、これを調べたから、もう良い加減、訊こうって決めてたんだ」
「……何を?」
僕はこれまでの態度とは打って変わって身も心も真剣そのものという雰囲気を纏って━━実際真面目な心持ちである━━意を決して本当に訊きたかった事を訊ねた。そう、これまでのは前座前菜。明確に狙っていた訳ではないけれど、結果としてこれはドアインザフェイスなのだ。
「ナユちゃんの名前ってさ、本名なの?」
刹那、時が止まった様にしんと静まり返って、そしてそれが『そうではない』のだと告げる様に古時計の『カッ、コッ』という時を刻む音が部屋に響く。ように感ぜられた。
実際はそんなドラマチックな程ではなかったかもしれないけれど、『なんだかこれは訊いてはいけない気がする』と思って、ずっと訊かないできた事を遂に訊いたので。その心理的緊張からそういう風に感じられたのかもしれない、なんて、ナユちゃんが答えるの待ちながら考えていた。
ナユちゃんはアームレストに左肘を突いて頬杖をしつつ口元を覆い隠している。これはナユちゃんが考え事をしている時にする仕草の一つで、その手の形は例えるならそう、拳銃を軽く持つ時のような、そんな形だ。それで口元を覆い隠し乍ら、小首を傾げ、じっと僕を見つめている。ナユちゃんはいつも左手でこれをする傾向にあり、この時右手は腕を組む時の様に左肘の方まで曲げられる。
そしてこれをする時、その答えは決してあまり望ましいものではないのだ。
……誰にとって?
今は、僕だ。
「ごめんなさい。その質問には答えられないわ。本名でも偽名でも、どちらでも好きな方で考えて頂戴。飽くまで、『答えられない』の」
「……そう、なんだ。……ありがとう。答えられない事を、教えてくれて。あとごめんね、答えられない事、訊いちゃって」
「んーん」
ナユちゃんは伏目がちに成り乍ら、ゆっくりと小さく首を振った。
「訊いてくれていいよ。訊いてくれてありがとう。こっちこそ答えられなくてごめんね」
「全然! とんでもないことです! また一つナユちゃんの事が知れて嬉しいよ」
「そう。良かった。ところで、ナユちゃんって呼ばないで。なんなら、ナユでもいいわよ?」
「ナ」
「バカにしてる?」
そうして二人で僅かに笑い合う。それはぎこちなくて、まだ二人の間の、というか、この場を占める変な空気が完全に入れ替わった訳じゃないことをまざまざと見せつけていた。だから僕は、お店の話に話題を戻そうと思って、口を開き掛けた。
「阿僧祇や那由多について、他にどんな事が書いてあったかしら」
まさかのナユちゃんからの続投許可。これには僕も黙っていられない。
「なんか、阿僧祇は『成仏するまでに必要な時間』として、『三阿僧祇劫』っていう風に使われる、とか。』
「そうね、私も読んだことあるわ。菩薩が発心、つまり成仏しようと心に決めてから、成仏するまで、つまり悟りを開くまで━━これを仏果とも言うらしいのだけれども━━それに必要な時間の長さを表す時に、数の単位などとして使われたりするという話よね。他にもその修行そのものを三段階にわけるという意味でも使われる言葉みたいだけど。とにかく、インド哲学の長大な時間の単位『劫』の『三阿僧祇倍』の長さの時間が必要だという、そういう意味だと書かれる事も多いわ。恰も、それくらい、長い時間掛けないと、成仏は出来ないのだと」
一息に彼女は言い遂げてから、身を起こしてテーブル上の紅茶を音を立てずに啜った。もうすっかり冷めているだろうに。
「劫ってどれくらいの長さなの?」
「ヒンドゥー教だと43億年くらいね」
「なっっっっがいね」
「なっがいわ」
劫単体でそれだとすると、予想以上の長さだ。規格外すぎるというか、理解の範囲を超えているし、議論の余地を埋められているような、そんな感覚だ。正に不可思議。
今はまだ、三阿僧祇劫が『菩薩が修行に要する時間のこと』だと彼女にやんわり注釈されたのでまだいいが、最初に『成仏するのに必要な時間』という字面を見た時は、ちょっとびっくりした。
現にこの世界には数えきれない幽霊が彷徨っているのだと、彼女に教わった。それまでの僕はてっきり、亡くなってから長くても数年もすれば、人は成仏するのだとぼんやりと思っている節があった。或いは無神論の唯物論者で、幽霊など居ないと言う考えに傾倒した事もあったっけ。
三阿僧祇劫は結局、菩薩の成仏の話だったけれども、最初は一切の衆生が成仏するのにそれだけの時間が必要なのだという風に誤解してしまったから、『なるほどこれは然もありなん』という気持ちになったのだけれども、それが誤解で本当に良かった。
……とはいえ、三阿僧祇劫も結局は人間の考えたことなんじゃないか。それも仏教の開祖ではなく、ずっと後世の人間がだ。そうすると、それが果たしてこの世界の真理であるかどうかなんて、何の保証もありゃしないし。別に『仏教的に正しい事』がこの世界の真理かというと、それは仏教を信じるかどうか次第の話なのではないか。
『信じる』なんて生やさしいものじゃないか。『信仰』、かな。
そもそも、『仏教的に正しいこと』も宗派や人によって少しずつ異なっている様に見受けられるのだから、最後は結局は自分が何を信じるか、何を信じたいか、なのかな。
僕がこの世界の一般的な人たちよりも少しだけ知識の上でリードしてる点があるとすれば、それは実際に幽霊はいて、それが見える人がいて。世の中には実際に、不可思議な事が満ち溢れていて。神秘的なものも、呪いも妖怪も存在するとか。そういう、この世界の『怪しい裏側』を、実感をもって確信しているということぐらいだ。
そんな僕が果たして現行の宗教について何をどう考え、どのようにいきるべきなのか。もっと言えば、『不可思議』が実在するとわかっているのだから、宗教の開祖やその教えを継いだ人々。果ては加上を以って教えを発展させてきた歴史上の偉人たちや、日常と生活を営んでいる実際の宗教家などが、実際に本物の霊能者や妖怪等であるかもしれないという事を知っているのだ僕は。そんな僕が、どうこの世界を見通して、どうポジショニングして、どう立ち振舞っていくべきなのか。
……わかんないけど、多分、流れに乗って。風に押されたり、吹き上がったり、逆に地面に落とされたりしながら、揺蕩っていくのだろう。
そしてそんな僕もいつか死ぬ。僕も幽霊になるのだろうか。それともならないのだろうか。行くのは極楽浄土か、天国か。はたまた地獄か、煉獄や辺獄なのか。
今日はどうしても、『恒河沙』『阿僧祇』『那由多』の話をしているから、どうにも仏教寄りになるけれど、キリスト教やユダヤ教、イスラム教にヒンドゥー教、神道にジャイナ教、まぁ他にも、色んな宗教があって、色んな思想がある。
そのどれもが死と死後について、一定の重みを持って肝となるテーマとして扱っている様に思うけれど。果たして自分はどうなるのだろうか。そして自分が自分である前は、あったのだろうか。あったとすれば、どんな人間だったのだろう。成仏したのだろうか?
…………そもそも、成仏ってなんなのだろう?
もし成仏するのに、誰しもが非常に長い時間を要するとしたならば、それは一種の地獄なのではなかろうか。無間地獄にも通ずる様な。
……。
……………………さっきの紅茶。
紅茶が冷めるのはたった数分だ。
冷め始めるのはたった数秒か即座に始まる事だとも言えように。
どうしてこう、成仏だなんだというのは、長大な時間を要求するのだろうか。
そもそもそれは誰が言い出した事なんだろう。
「お〜い」
その言葉で、ハッと我に帰った。ナユちゃんが身を乗り出し、僕を覗き込んでいる。その美しさにちょっと慄く。
「あ、、え……………………ごめん。ちょっと考え事してた」
「ふふ、いいよ」
どうも思索に耽っていたらしい。いけないいけない。ナユちゃんを前にして、自分の世界に浸るなんて、言語道断だ。僕の中のナユチャン原理主義者が怒りを顕にしつつ、誠に遺憾であると会見しているが、まぁ気持ちはわかるし、今からちゃんとするので取り敢えず放っておこう。
…………ええと、なんの話をしていたっけ?
……記憶を遡る。
そしてすぐに行き当たる。
ああそうか。
なんか、『劫』って時間の単位が、ヒンドゥー教だと43億年くらいって言ってたっけ。
地球の歴史くらい長いな。
………………アレ?
「ん? そう言えばさっき『ヒンドゥー教だと』って言った?」
「言ったわね」
「仏教じゃないんだ」
それを聞くや否や、まるで『用意してました』とでも言わんばかりの即応でナユちゃんは返答した。
「仏教だと色んな種類の劫があって、一概に長さも決めてないみたいなの。ヒンドゥー教と同じ長さを指す『大劫』という概念があるらしいけれど」
『ふうん』と、僕は鼻で返事をする。ナユちゃんはまたティーカップを手にとってから、それを口に運ぶ前に付け加えた。
「まぁどれも最近の仏典よね」
「最近の仏典って、ここ数百年とか?」
僕が記憶を辿る為に無意識に余所見をし乍らそう言った時、彼女の動きがピタっと止まったのを、視界の隅で捉えた。怪訝に思ってちゃんと彼女の方を見遣ると、彼女は手に持つティーカップの中にある紅い液体に視線を落としたまま微動だにしない。どうしたのだろうと思ってまじまじと彼女を見つめていると、一瞬唇を噛んでから、再び口を開いた。
「『比較的』という意味よ。お釈迦さまがいらしたのは紀元前7世紀〜5世紀ごろのどこかというじゃない? それに比べると例えば5世紀なんかに成立した仏典というのは、『比較的』最近のものだと言えるでしょう?」
彼女はそう言ってから、間髪入れずにまた喋り始めた。
「そういえば、恒河沙についてだけど。恒河沙自体はガンジス川の砂の粒くらい多いという意味というよりは、ガンジス川の砂の粒そのものの事を指しているんだと、私は受け取っているわ。結構調べたから、多分合ってると思うのだけど。といっても瑣末な違いよね」
そういう彼女はもう、いつのも『ナユちゃん』だったのだけれども。なんだか釈然としないというか、腑に落ちないというか、怪訝だ。
だがまぁ、彼女がもう阿僧祇などの話題には触れたく無いであろうことくらいは察したので、それに逆らう積もりなんかもないから、いいか。流れに乗ろう。
「そうだったんだ。ありがとう、教えてくれて」
「いえ……いや、うん。どういたしまして」
そうしてイタズラっぽく笑いながら肩を竦める彼女は、やっぱりいつもの『ナユちゃん』なのだ。
「にっしても、まさか本当に安直な理由だったとはなぁ〜」
「ちょっと。実際そうだけれど、不躾な言い方をしないで頂戴」
「『実際そうだけれどは』というのは、可笑しいね」
「もう」
僕もテーブルの上の紅茶を啜る。うん、やっぱり冷め切っている。まぁでも、美味しいかな。
「まぁでもピッタリかもしれないね。何より覚えやすい。『恒河沙の阿僧祇那由多は不可思議を追い、無量大数の原子が蔓延るこの世界を探求する』なんてどう? 今適当に思いついたんだけれど」
「今適当に思いついたのね」
「今適当に思いついたのさ」
「それに、無量大数についても読んだのね。大体、あなたがどこサイトを見たかわかったわ。私も人のこと言えないけれど━━だからこそ言うとも言えるけれど━━あんまりネット知識弁慶にならない方が身の為かもしれないわね。なんて、烏滸がましいわね、こんなこと」
「そうだね」
「……それは、どちらに対する肯定なのかしら? 私の忠告? それとも私が烏滸がましいと自嘲したこと?」
「両方」
「この」
そう言って彼女は立ち上がり僕を思いっきり引っ叩く━━━━
なんてことは起きず、ただジト目で非難の意を表明するに留まる。ちょっとぐらい、戯れとして小突かれても文句は言わないのだけれど。まぁこれはこれで、僕と彼女の間柄なのだろう。
…………彼女?
『ナユちゃん』じゃなくて?
…………………………………………なんでだろう?
「お店の名前だけど、もう一つ最後に付け加えさせて」
僕が疑問の萌芽をしげしげと観察していると、彼女がそう言って僕の注意はそちらに向いた。
「なんだい?」
「ふふ、くだらない話よ。『語感も気に入ってる』ってだけ」
「へえ、語感かい。ゴウガシャの。確かに良い響きだよね」
これも本心からの同意だ。なんだか良い響きだな、と思う。こう、「ごしゃっ」とした感じが、このお店にピッタリだ。「ごちゃっ」ともいう。決して散らかってる訳ではないけれど、如何せん物が多すぎるし、統一感もない。『統一感がないと言う統一』があるかもしれない程だ。どこかの島の得体の知れない土着信仰のトーテムの置物とか、よく探せば髪が伸びてる気がする和人形から、普段僕らが使っているTHE・アンティーク然とした西洋式の家具。日本の津々浦々のお祭りで使われる祭具に、謎の蛙やら鳥の置物。あの真鍮の鳥なんか今にも動き出しそうだ。挙げればキリがない。
これだけの事を思い起こすのに十分な『間』が、確かに存在した。間を打破したのはナユちゃんだった。
「なんていうのかなぁ。こう、『ごしゃっ』てした感じが、このお店らしくて、いいじゃない?」
…………驚いた。
ナユちゃんも僕と同じ感想を抱いていたなんて。
もう僕たちは運命で結ばれることが宿命づけられているんだね!
なんて、一文に運命と宿命を込められるぐらいの感想をいだきつつ、そんな風に心の中でまで戯ける自分を自嘲している自分も、心の視界の隅にチラリ。
……ああそうかい。そんなに思い出させたいのかい。
わかってるよ、あのことは忘れてない。
僕は絶対にナユちゃんを守ってみせるから。
だから一々、心の視界の隅に現れては、冷や水をぶっかけないでくれ。
……………………刹那の抗議を終えて、元の調子を取り戻す。
「う〜んわかる。超わかる。ピッタリだよねぇ」
「でしょー? わかってくれるか〜」
もう今日のナユちゃんはすっかり口調が崩れちゃってるなぁ。
……こうなるともっと反応が見たくなる。
「アレ? ちょっと待って! ヤバイよ! よく考えたらさ!」
「え? え? なになに、どうしたの?」
ナユちゃんが俄かに色めきだつ。しめしめ。
「ナユちゃんさっき、こう『がしゃっ』って言ったよね? オヤジギャグやんけ! 流石のナユちゃんと言えどもオヤジギャグはちょっと……」
「ちょっ、ちっちゃっ、違うわ! 違うちがう違う! 本当に違うの! ていうかミライが無理矢理こじつけて、勝手に言ってるだけでしょうが!」
「そうお? いや今のは明らかに狙ってましたよねぇ、お嬢さん」
「違うからぁ!」
うん、今日のナユちゃんはちょっとカリスマがなくてかっこ悪いけれど、これはこれで可愛くていいね。
そうして僕は、まだ抗議している阿僧祇那由多を尻目に、冷め切った紅茶を飲み干した。