一 怨霊もののツッコミどころ
「怨霊ものは馬鹿げている。いえ、ツッコミどころがある」
そう言い出した阿僧祇那由多。『ああ、またか』と僕は思う。本を閉じて、深緑色の装丁のそれをカウチに置き、話に付き合う。
「それで? 一体、何処が馬鹿げていると言うんだい?」
言いながら肘掛けを右手で掴み、深く腰を沈めていたカウチから起き上がって彼女を振り返る。
アンティークなデスクの向こう、革製のロッキングチェアに収まっている小柄な女の子。に見える成人女性。その『記録的な』低身長と童顔は、『如何にも人生経験豊富なご老体が座っていそうな椅子』に似つかわしく無い筈なのに、今日もやけに様になっている。
きっとバレンシアオレンジを彷彿とさせるようなハッキリとしたオレンジ色の革と、彼女のパーソナルカラー━━━所謂スプリングカラーとかイエベ春と言われるようなタイプ━━━が調和しているのだろう、と、僕は静かに結論づけながら、彼女を見つめつつ、二の句を待つ。
ブラブラと足を放り出して、完全に椅子に抱き込まれている様な彼女には、似合うかどうかはさておき、実用性の意味であの椅子は不釣り合いなのだが、本人曰く、『地に足つかないのが楽しい』らしいので、僕は『彼女が楽しいならいいか』と思っている。
そんな思いに僕がまた耽っている間中、彼女は何事か考えていたが、遂に口を開く気配があった。
「紅茶を淹れて。今日はホットで、お砂糖ひとつね」
ズコーっと漫画か芸人みたいに前に倒れた。心の中で。現実の僕はしっかりしているので、ちゃんと前に向き直ってから『きょとん』とした顔をしたのだが、きっと彼女にはバレていないので、セーフだ。兎にも角にも、立ち上がってキッチンに向かった。
∵ ∵ ∵ ∵
「例えば現世の誰か、そうね、あなたを怨んでいる霊がいるとするでしょう?」
紅茶を机に置くや否や、『ありがと』と手短に謝意を述べてから間をおかず、彼女は切り出した。僕はそのどちらにも応える意味で『うん』という、最も面白みのない相槌を打った。
「その霊があなたを呪い殺しました! これで終わればまだ『わかる』のだわ。けれど、多くの映画やドラマの怨霊は、その後も人を呪い殺し続けるじゃない?」
彼女は好んで前時代的な女性口調を使う。それが少女然とした見た目と相俟って、独特な雰囲気を醸し出していた。僕はいつもこれに惹かれて、酔いしれてしまう。つまるところ、似合っている。僕はまた「うん」という詰まらない相槌を打つに留めた。
「私はそこが馬鹿げていると思うの。いえ、ツッコミどころがあるわ。だって、呪い殺されたあなたは? 成仏したの? まさか! あなたは呪い殺されて素直に成仏できる人間である筈がないわ。だから、呪い殺されたあなたが怨霊となって、あなたを呪い殺した最初の怨霊をどうにかしたりしないのは、無理筋だと思うのよ」
暗がりに橙のランプが揺れて、彼女の顔に影を落とす。その透き通る様なブラウンの瞳は真っ直ぐに僕を見上げ、僕は射抜かれるような心持ちになって、相槌と言えば「そうだね」という、個性の薄いものとなってしまう。
「だから、怨霊ものは馬鹿げているわ。いえ、ツッコミどころがあるの」
ここで一寸、僕は気になっていた事を訊いてみる事にした。
「わかった。ところで、さっきから如何して、『馬鹿げている』という結論を、言い直しているんだい?」
そう言われても彼女は依然、微動だにせずに僕を見つめている。いや、僕の目を見つめている。そうして見つめながら、静かな所作で、紅茶にティースプーンの先端を沈ませて、矢張り静かにくるくると回した。僕は視界の隅でそれを捉えながらも、しかして彼女から目を離せないでいた。いや、彼女の瞳から、目を離せなかったんだ。
「理由は三つ。一つはあなたの真似」
『はぁ』と、俄かに息を吸い込んでから、即座に彼女はそう言い放った。僕は堪らず、蹌踉めく様な感覚に見舞われながらも、なんとか姿勢を崩さない事に成功する。しかしこれには参った。どう応えようか。
「二つに、実際に怨霊ものの話を書いている方々への配慮と、自戒、というか自重ね」
僕がどう応えよう思案している内に、彼女はもう次の理由を述べてしまうのだった。このまま三つ目の理由を言われてしまっては立つ瀬がない、というか、話が終わってしまう気がして、僕はここで彼女のペースを遮る事にした。
「待って待って、僕の真似ってどういうこと?」
相も変わらず僕を見据える彼女は、そこで破顔一笑。真っ白で整った並びの歯や、血色のいい頬など、彼女の全てに目を奪われる。軽いパーマの掛かったロングヘアーは栗色で、きっと亜麻色という言葉を連想する人もいるのだろう。息を呑む。
「そのままの意味よ。今日のあなたがよくそうしているから、真似てみたの」
僕のときめきなど何処吹く風か、彼女は構わずに続ける。
「そうかな? そんな自覚なかったから、驚いてるよ」
また失笑して、それで視線が逸れる。僕は蛇に睨まれた蛙が生きながらえた場合の心境に通づる様な心持ちになる。しかし彼女は『そうでしょうね』と悪戯っぽい笑顔で言いながら、今再び僕を見上げた。蛙はどうにも、蛇に遊ばれているだけなのかもしれない。
「他に質問はあるかしら?」
出し抜けに彼女が問う。僕はここぞとばかりに、先ほどの話題に話を戻すことにした。こうする事で、彼女が三つ目の理由を口に出して、話が終わってしまうのを避けられる筈だと踏んだのだ。
「そうだね、さっきの話だけど、実際に呪い殺された人が霊的な存在として舞い戻り、自分を呪い殺した怨霊をどうにかするという話も、いつか観たことがあるよ、僕は」
急拵えで言葉を紡いだので、『文法が怪しいなぁ』と自分で感じたのだけれども、よく考えたらいつも文法が怪しくないと如何して言えようか、とも思うので、そして何よりも、もう言葉は放ってしまったので、これで良しとせざるを得なかった。
「そうね、そういうお話もあるわね。それは認めるわ」
彼女は意外にもあっさりと僕の指摘を受け入れた。
「だから私は決して、『全ての』怨霊ものは、とは言わないの。私が何のプレフィックスも付けない場合は概して、『私の観測範囲に於ける多数派はそうなのだけど』という言外の意図、前提を無意識に含ませているのだと、自己分析するわ」
胸の内を詳らかにしようと試みる彼女は何処か儚げというか、可憐に見えた。
「そっか。なゆちゃんはそうなんだね」
「なゆちゃんって呼ばないでって何回言わせるの? 呼び捨てでいいってば」
そんな恐れ多いことは出来ないよ、なゆちゃん。
「ごめん阿僧祇さん」
「余所余所しいなぁ」
そう言われてもなぁ。僕は話を逸らす事にした。今日の僕は話を逸らす事に余念が無い。
「えっと、他にも訊きたいことがあるんだけれど、いいかな?」
「いいわ。言って」
「さっきの話に対するまた別のパターンとして、怨霊に殺された人は、なゆちゃ……阿僧祇さんも触れた様に、成仏するのかもしれないよね」
「ああそれ。そうね。それについても全くその通りだと思うわ。成仏してしまうから介入出来ない。尤もな話ね。他にも、亡くなった人が全て霊になる訳ではない、という考え方などを採用すれば、この『ツッコミどころ』には『ツッコミどころ』が生まれる訳よね。この『怨霊に呪札された者が、何故霊となってその後の怨霊の活動に干渉出来ないのか』という『ツッコミどころ』のね」
「そうそう、僕が言いたかったのはそこら辺の事だよ。流石だね」
僕がそういうとなゆちゃんは、ふっと一つ笑ってからゆっくり首を振った。その表情は半笑いだとか、苦笑という言葉で分類出来そうなものだった。
「ねぇそんなに私とお話したいの?」
ひゅっと息が止まる。心臓を掴まれた様な気分だった。
「それについては宗教観や死生観というものによって様々な解釈が行われ得るでしょう? 同じ宗教でも宗派によってそこら辺の考え方って違ってくるのだし、語ればキリがないでしょうね。つまりあなたは、キリがない話をしたいから、話を伸ばしたいから、このことを私に訊いているのでしょう?」
それは、正確に僕の動機を言い当てていた。
「最後の理由を言うわ」
そういうとなゆちゃんは、僕が止める隙もなく、三つ目の理由を述べるのだった。
「三つめ。実際の怨霊や悪霊、ひいては幽霊とその類全般への配慮、というか気遣いね」
僕はとても残念な気持ちになっているのだけれど、ここまでなゆちゃんとお話出来ただけ上々だし、上出来だと自分を慰める。短い時間だったが、彼女と過ごせて幸せだったから。もっと長く一緒に居たかったけれどね。
「つまりあなたへの配慮よ、未来」
その言葉を聞いて僕は、遂に立っている力を失ってしまった。
∴ ∴ ∴ ∴
「さっきあなたの生き霊が来てたわ」
「へぇあ!?」
コートを掛けていたら、なゆちゃんがそんな事を言うもんだから、往年の水タイプモンスターか、腕から光線を出す巨大異星人の様な、素っ頓狂な声を出してしまった。
いつも通りの定位置で、いつも通りにハードカバー本を(今日は深緑色の装丁の本だった)読んでいた彼女はそこで本を降ろして僕を見つめる。今日も可愛いね。
「心の中を全部話していたわ。あの様子だと、きっと本人は気づいていなかったのでしょうけれど。聞いているこっちが恥ずかしいくらいだったわね。ふふ」
あちゃー、という言葉を口に出した事があるだろうか。僕はこの時まではなかったと思う。
「それは……なんというか、ご迷惑をお掛けしました」
「ほんと迷惑。ふふふ」
そう言うなゆちゃんは言葉に反してご機嫌である。僕の恥部を覗いたり、痴態を眺める事がそれなりに愉快だったらしい。なんて事してくれてんだマイソウル。
「可笑しいかい?」
「可笑しいわね。とっても」
「やれやれ、困ったな。どんな事を言ってた?」
僕はいつものカウチに腰掛けながら、なゆちゃんを問いただす。
「イエベ春とか言ってたわ」
「なんだそれ……他には?」
「なゆたなんて呼べないよ〜恐れ多くて〜とか?」
なゆちゃんの小馬鹿にした態度の小芝居はとっても可愛いのだけれども、そういう事を本人に伝えられるのは心外であり、プライバシーの侵害である。自分の生き霊に対して、訴訟も辞さない考えを示したい。
「あとはそうだなぁ、可憐だ、とか言ってたっけ」
彼女のクスクスと笑う声が室内に反響する。とても心地いい音であるのだけれど、その言葉の内容に僕の心は穏やかでは居られない。
畜生! 畜生! 生き霊の野郎! もしバッタリと出会したら説教してやろう! こちとら許せない気持ちが迸ってるんだぞう!
「また来ても良いからね?」
あーあぁ、と、笑い終えながら彼女はそう言った。行かせるもんか! 絶対行くなよ!? 頼むぞマイソウル。
僕は心の中で自分の生き霊に謹慎令を出しつつ、話題を変える事にした。
「しっかし、僕の生き霊かぁ。遂に出たって感じだねぇ。今まで夢にも思わなかったけどさ」
「そうね。私も想定していなかったわ。あなたって生き霊を飛ばす様なタイプには見えないもの」
「飛ばした覚えはないんだけどなぁ」
「ふふ、そうでしょうね。多くの場合、生き霊は無意識に飛んでいってしまうものですからね」
「呪いとかの場合でも、生き霊の存在を確信してそれを飛ばそうと思って呪う人となると、少ないだろうもんねぇ」
「ええ、この領域が人々に確信されない限りは、そんなことはそう多く起きるものじゃないでしょうね」
「ほんと、不思議だよ。今だに慣れない」
「不思議ねぇ」
「あっ」
僕はなゆちゃんを振り返る。なゆちゃんは、悪戯っぽい笑顔で満足げに言い放つ。
「私の名前の方が不可思議だけれど」
「出たねそれ。今日も聞けて僕は嬉しいよ」
僕もきっと、悪戯っぽい笑顔で満足げな顔をしているのだろう。
今日もなゆちゃんは可愛い。
……こういうのも全部、生き霊の僕も思っていたのだとすると……そして洗いざらい全部なゆちゃんの前で口に出していたのだとすると……嗚呼、穴にでも入りたい気分だ。
僕は努めて冷静を装いながら、一寸この場を離れたい気持ちと、そういえば今日はまだそれをしていなかったなという想起から、なゆちゃんにお茶でもと思って立ち上がる。
「紅茶はいいわ。もう飲んだから」
「えっ」
機先を制された。そう思った。出端を挫かれた、の方が適当だろうか。どちらも的確では無い様な気がするし、こんなこと如何でもいいかもしれないし、そもそもなゆちゃんにそんなつもりなど全然無いのだろうけれど。というかこんな事を考えている場合では無い。紅茶をもう飲んだ? 自分で淹れたのかな。珍しい。
「試してみたかったの。何処まで出来るタイプなのかなぁって」
「あっ、生き霊のヤロウ?」
「そうだけど野郎って。自分でしょう?」
思わず恨めしい気持ちの混じった呼称をしてしまったが、なゆちゃんにはちょっとウケたらしい。クスりと笑う姿は愛らしい。この愛らしいなゆちゃんにお茶を淹れるという僕の楽しみを奪った生き霊めは益々許せないのだけれども。自分の生き霊を恨みつつ再びカウチに腰掛ける。
「って、お茶を淹れられるって、なかなかじゃない? 確か生き霊って」
「そう。生き霊は物に触れないものも多いわ。けれど彼は触るどころか、細かい操作を果たしてお茶を淹れた。あなたがいつもしない様な事も出来た。私はお砂糖ひとつ、と言ったの」
「お砂糖? 珍しいね?」
「だから、試したんだってば。あなたが普段しないことも出来るのかなって。私の注文はちゃんと果たされていたわ。彼が瓶を開けて角砂糖をシュガートングで摘む姿は、生きてるあなたそのものだった。あの彼を見て生き霊だと気づける人は殆ど居ないでしょうね」
「そんなにか」
「それに今日はホットにしたの」
「へえ、最近はアイスティーばっかりだったのに」
「ええ。アイスティーだと作り置きが冷蔵庫にあるから、都合が悪かったの」
「またそれも試す為に?」
「勿論。ホットならいちから淹れないといけないでしょう? この家にティーバッグはないし」
「それで?」
「出来上がって机に置かれた紅茶を確かめてみたけれど、霊的なものは感じなかったわ。いつも通りちゃんと淹れられた、美味しそうなお茶だった。いつもと違う砂糖入りで」
「生き霊は習慣的な行動を取りやすい傾向があるって言ってたよね。それじゃあ生き霊の中でも、力が強かったってことになるのかな?」
「そうね。ふふ」
そこまで言って彼女は、再び本を掲げて、読書に戻る。ハードカバーの本によって顔が見えなくなってしまって僕としては大変遺憾であるが、仕方ない。ところで、深緑色の装丁のそれは、しかして題名も何も無く、何の本なのかなどは全くわからなかった。
『何読んでるの?』
そう訊き掛けて、やめた。邪魔しちゃ悪いからね。
『邪魔なんて言葉使わないで』
その生き霊野郎よろしく、なゆちゃんにもし僕の心の声が聞こえていたら、きっとそう言われるのだろうな。こういうの全部筒抜けだったんだとしたら、軽く死ねるくらい恥ずかしいのだけれども、起きてしまったことは仕方がない。僕は切り替えて、とりあえず自分の分のお茶でも淹れようと、席を立った。
……何か忘れている気がする、というか、何か見落としている気がするけれど、なんだろう。まぁそのうち思い出すか、気づくだろう。僕はもう一度だけ振り返ってなゆちゃんを見た。何故かなゆちゃんもこっちを見ていたようで、慌てて再び本を掲げた様子を垣間見た。
なゆちゃんが僕のことを気になってくれているのでは? という気になるけれど、これは男性特有の勘違いという奴だろう。勘違い野郎になってなゆちゃんに嫌われたらコトなので(生きていけないので)、僕は努めて冷静に、単に僕がまた立ったからなゆちゃんもまた僕を見ていたのだろうと結論付けて、キッチンに向かった。