【短編】婚約破棄からの円滑な立ち直り方
政治力、というものは才能と血統の総合力である。一を聞いて十を知るような機を読む力や、不都合な展望に対して方向を変えることができる人脈、それらを下支えする人たらしであれる人格、そして何世代にもわたる努力により掴んだ地位である。
一つ目の機を読む力や人脈は本人の努力如何によりある程度伸ばせるかもしれないが、人たらしを装い続けることは中々難しいだろう。それに輪をかけて難しいのは世代を渡る努力が必要な家柄である。生まれた家に望む力が無ければ、成り上がりと呼ばれることを覚悟しつつ自力で地位を掴み取るしかない。しかし、その過程で恨まれずに居られることは至難の業であろう。
「愛しているのはお前だけだ、」
シスラント国王と、国内でも指折りの資産家であるフェイン侯爵家の出身である母から生まれた、この国随一の血統である第一王子は、しかし、その与えられた地位の価値を正確に把握するには頭の出来が足りないようだった。
「アルフレッド様ぁ……!!」
隣で盛り上がっているのは、流行のデコルテの開いたドレスを着たロザリア男爵令嬢マリーである。当然アルフレッド王子の婚約者ではないが、彼女はそう思われても不思議ではない程密着して王子の隣に座っている。
こうやって王家の人間の寵を得ようとする輩は枚挙にいとまがない。彼女は非常にわかりやすい。金も領土も伝手も何もかも貧弱な男爵家の娘であって、武器は己の美貌と媚び諂う態度だけである。地頭の悪い女であれば、愛妾の地位につけても問題は無いが、彼女は小賢しいのが問題である。
アルフレッド王子も暗愚という程ではない。彼は早くから王家の直轄地の一つの経営を任されていたし、その親の期待に応えられる程度の成果を収めている。経営能力はあるのに、立場の理解が弱いのは致命的ではないだろうか。
テレーゼ・ウッドヴィル侯爵令嬢は報告を聞きながら頭痛を感じ、こめかみを軽く押さえた。
「自分のお立場を理解しておられないのですか」
生家のフェイン家を後ろ盾に、嫡子を生んだ国母として権勢をふるったのは今は昔、領地を潤していた産業は少しずつ衰退し、経済力という翼に翳りが見え始めた母と、その母の実家の明らかな偏重を許した弱い王としての地位を確立しつつある父が、王子の権力基盤を安定させるために選んだ婚約者がテレーゼである。テレーゼ・ウッドヴィルは紛争を回避すべく差し出された、いわば王家の威信を復帰させるためのギフトとしての婚約者である。
テレーゼが王家に嫁ぐことにより、ウッドヴィル侯爵家に近い貴族は王家に対する反抗心を形式上ひっこめるし、王家の威光を笠に権力を揮い、今は零落しつつあるフェイン家とは対立ではなく、王家を支えるという意味で調和を図るという目論見である。これは国王夫婦も納得の上であり、国内の安定のために必要な政略結婚と目されている。
そうだというのに。
「あのお坊ちゃまは、王妃が育て上げた作品ですからね」
馬鹿にする姿勢を隠さないこの男は、国王の愛妾マグダレナが産んだエドワード・バイロン伯爵である。アルフレッドよりも五つ年上で、母親の家の爵位が高ければ嫡男となっていてもおかしくなかったが、アルフレッド誕生のタイミングで子の居なかったバイロン伯爵の養子に出され、今はその家を継いでいる。マグダレナはすでに王宮を離れ、バイロン伯爵の家で穏やかな生活を送っているらしいが、お会いしたことは無い。
そもそも、エドワードがテレーゼの居室に居座っているのは幼馴染であり、今はウッドヴィル家との関係を保ちつつ王子の補佐の仕事を受けているからである。適当な理由をつけてバイロン伯爵への報告のあと、日課としているテレーゼのお茶の時間に乱入してくる。
「このままいけば私にも王座のチャンスがあります。
どうですか、手をつけておきませんか」
社交界でも評判の美貌を自覚し、ウインクなどしてくるエドワードはまだ婚約相手を決めていない。単なるバイロン伯爵家の当主であれば別に何も気にする必要は無いが、彼は国王の庶子である。年齢の近いアルフレッドの婚姻が成立し、政治的な安定を待ってからの婚姻となるだろ。
「私に王家の血筋で乗り換えろと唆すのですね」
「テレーゼだけの特別な先行販売ですよ」
父であるモーガンの目論見としては、エドワードとも親密な関係を築くことによってどう転んでも王家に近い家としての地位を得ることである。彼がこうしてウッドヴィル家の庭を自由に歩いているのもモーガンが目を瞑っているからで、“先行販売”を暗に受け入れているという状態でもある。
そもそも、ウッドヴィル家が侯爵として派閥の代表などに担がれている理由の一つに、モーガンの母が王家から降嫁した姫であったという高貴な血筋がある。
「王家の血筋には碌な人間が居ないのですか」
このつぶやきは自分に向けられた言葉でもある。テレーゼが睨むと、エドワードは楽しそうに笑った。
「冗談は別にしても、あのおバカなお嬢さんはそろそろ仕掛けてくるだろうね」
「頭の痛いことです。
リリアナ様主催のパーティーあたりでしょうか。
スタンレー家は中立の立場を崩しませんから、どちらの派閥の人間もおりますし」
「すでにあちこちのお茶会でテレーゼが手をあげていると噂を流しているからね」
「浮気相手の候補者がエドワード様を含め3名、
マリー嬢の私物を破壊・汚損したとする器物破損容疑が数件、
突き飛ばしなどの傷害容疑も数件……まあ、粗暴な女ですわね、私ったら」
噂を流そうとするたび、ぺラム伯爵夫人やラングレー子爵夫人あたりの発言力のあるサロンの主が火消しに当たってくれているので大した影響は出ていない。ただ、マリーやテレーゼと年の近いご令嬢の中には噂を真実と信じている間抜けも数名出てきている。
「そろそろ仕掛けの総精算の時期とは思っておりましたが」
「ですから、私がエスコートを」
頭が痛い。
「マリー嬢を紹介したのはエドワード様ですか」
テレーゼの問いかけに、エドワードは笑って答えなかったが、スタンレー家のパーティーのエスコートはエドワードにお願いすることになった。
エドワードがウッドヴィル家の屋敷を出てから、テレーゼは父であるモーガン・ウッドヴィル侯爵に事情を説明し、承諾を得た。
「こちらも準備は終わっているから問題はないよ」
モーガンがそう言ったのなら、そうなのだろう。これで家からの支援は受けられる。
ぺラム伯爵夫人やラングレー子爵夫人にも手紙を出した。二人からは非常に良い返事が返って来たのでこちらも問題はない。同世代の令嬢よりも、その尊敬を集めている彼女らの方が手っ取り早いし、察しが良い。
スタンレー家のパーティーを前に、エドワードからドレスが贈られた。彼の特徴的な紫色の瞳の色が差し色として使われた、非常に主張の激しいドレスである。デコルテが開いている流行りのデザインであるが、繊細な花柄のレースが首まで覆うデザインで、肌の露出は抑えられているのがテレーゼの趣味を押さえている。
そのドレスを見て、メイドたちはざわついていた。婚約者であるアルフレッドではなく、エドワードからのプレゼントである上に、己の色を主張するドレスだから当然だ。そもそも、アルフレッドからは申し訳程度に花束や小物なんかのプレゼントしか届いたことはない。モーガンは「良い仕上がりだ、どこの店なんだ」などとすっとぼけたコメントをしたので、誰も何も言えなくなっていた。
パーティー当日、テレーゼは栗色の髪をパーティー用に編み上げて、スミレを模した髪飾りと紫色のリボンで飾り付けてもらった。贈られたドレスに合わせた、上品なタンザナイトのネックレスと揃いの耳飾りをつける。
鏡の中に映る紫の主張が激しい自分の姿を見て、少しくどいだろうかと迷った。ウッドヴィル家の令嬢テレーゼはアルフレッドではなく、エドワードを選択したと明示するにしてもあからさますぎるだろうか。モーガンの根回しは完了しているので、同じ派閥の家の人間に衝撃は走らないだろう。あまり把握しきれていないが、おそらく中立を掲げている家の中でも複数の家も同様である。
アルフレッド王子はウッドヴィル家のお眼鏡には適わなかった。
それが今回の主張の全てである。そこまで考えて、疑義をさしはさむ余地がない方が良いかと思い直す。化粧を施してもらう間にエドワードが到着したらしく、応接室に入るとモーガンとエドワードがお茶を飲みながらのご歓談の最中だった。
「お待たせいたしました」
テレーゼが部屋に入ると、エドワードが立ち上がった。ドレスの贈り主なので当然であるが、テレーゼのドレスと揃いの衣装である。
「似合ってよかった、いつもにまして美しいですね」
エドワードの笑みを眺めつつ、彼との結婚を夢見て結婚を先延ばしているご令嬢たちに対して少々申し訳なく思った。彼の容姿と血統は、彼の希望とは反対に下心のある人間をよく引き付ける。
「伯爵ともお話ししていたのだが、今日は特別なお祭りの日だ。
あのボンクラに現実を突きつけて差し上げなさい」
「承知いたしました、お父様」
王子と年の近い娘が生まれてから、男児並みの教育を叩き込むことを決めたのはこの父である。テレーゼがにっこりと微笑んで見せると、モーガンは満足そうに頷いた。
「侯爵のご厚情を理解しないなんて、アルフレッドは馬鹿だ」
馬車の中で、エドワードが窓の外を眺めながら薄ら笑いを浮かべた。その表情はいつもの人当たりの良さそうな笑みとは異なり、容貌が整っていることも相まって酷薄な印象を与える。
「理解しておれば、マリーを上手く丸め込んで愛妾にするでしょう。
別にそれを咎めはいたしませんでしたのに」
「逆に丸め込まれたのだから」
「まあ、馬鹿なのは本当なのですけれど」
そんな会話をウッドヴィル家の屋敷の庭以外でするのは初めてだった。
スタンレー家に到着し、テレーゼたちが馬車から降りると、ぺラム伯爵夫人とラングレー子爵夫妻が待ってくれていた。
「お待ちしておりましたわ、テレーゼ様、バイロン伯爵。
本日は楽しいパーティーになると伺っております」
他所の伯爵夫人や子爵が客の対応をすることを妨げる訳でもなく、驚く訳でもなく、テレーゼ達を待つためにテントが設置されているあたりスタンレー家の配慮を感じる。
「ご無沙汰しております。
お騒がせしてしまい申し訳ありません」
テレーゼとエドワードが謝罪すると、ぺラム伯爵夫人が苦笑した。
「原因はあちらにございますからね。
首尾は万端整っております」
「それにしても、今日のお召し物もよく似合っておりますわ」
ラングレー子爵夫人がテレーゼのドレスを見て艶やかな笑みを浮かべた。
「お褒めにあずかり光栄です。
ですが、お二人のお美しさに比べれば足元にも及びませんわ」
子爵という階級でありながら有力なサロンの主で居られるのは、社交界随一の美貌と知識を誇るラングレー子爵夫人自身の力である。また、ぺラム伯爵夫人も年齢を感じさせない美貌を持ち、夫亡きあとも伯爵家の経営を一手に引き受けてきた女傑である。
「過分なお言葉ですわ」
うふふ、と笑う二人の姿は大人の色香をたっぷりと放っている。
ラングレー子爵夫妻が常に一緒に夜会に現れるのは、彼女の色香に誘われて妙な虫が寄ってこないか子爵が心配しているためだ、と夫妻のそれぞれから聞いた。仲睦まじい夫婦なのである。ぺラム伯爵夫人のエスコートは伯爵家の騎士である。護衛もかねてということで見目の良い、外見の年齢的にもつり合いの取れた騎士を連れているが、恋仲という噂は無い。
彼らの先導で会場に入ると、きらびやかに着飾った貴族の男女が会場に集まっていた。アルフレッド王子もご臨席のパーティーということで、随分賑やかである。
「バイロン伯爵がテレーゼ様をエスコートなさっているわ」
「あのドレスの色、やっぱり」
「アルフレッド殿下は別の女性と」
ざわめきが広がっていくのがテレーゼの耳にも届き、狙い通りの効果に満足する。
「気分が良いですね、この、遠巻きにしてくれる感じは」
エドワードがテレーゼを見下ろしながら、ささやくように言った。いつもパーティーで見かけると、未婚のご令嬢に取り囲まれているので新鮮なのかもしれない。どう牽制しても阿呆は寄ってくるのだ。
「次があれば、ざわめきなど起こらない程度の下準備をしたい所です」
「次など起こさせません」
エドワードがクスクスと笑った。
「テレーゼ様、バイロン伯爵、本日はご出席いただき恐悦至極にございます」
皆がテレーゼらを遠巻きにする中、スタンレー家の長女、リリアナが婚約者を伴って挨拶に現れた。主催者席をちらと見ると、リリアナの父であるご当主がこのパーティーで一番の貴賓であるアルフレッドと、その腕にしがみついているマリーと何やら話をしている。
「リリアナ様もご婚約おめでとうございます。
以前からお互いに思いを寄せておられたと伺っておりますけれど――…」
二人は互いを見やって照れたように笑った。
「お幸せそうで何よりです」
これには苦笑するほかない。
「ぺラム伯爵夫人のサロンにお招き下さったおかげですわ。
男性と難しい話もできるようになりました。
知識や教養は女にも必要だと、父も今回の件で身に染みているようですもの」
流行の範疇を越えて、やや下品なほどデコルテを晒したマリーがアルフレッドの腕にしがみついている姿に、リリアナが冷ややかな視線を送る。それが表情に出ているあたり、彼女はまだ脇が甘い。
「貴族たるもの、相応の責任がございます。
今回もリリアナ様の婚約のお祝いの場ですのに、ご迷惑をおかけします」
「迷惑だなんて!
スタンレーの立場をそろそろ明らかにすべき頃合いでしたもの。
お二人からの祝福を最初に賜れるのは僥倖にございます」
スタンレー家とその派閥はウッドヴィル家につく。そう言ってもらえてうれしい。
「スタンレー家の計らいにウッドヴィル家を代表して感謝申し上げます」
「私からも感謝を」
二人の言葉に、リリアナは「大した事はございません」とほほ笑んだ。
リリアナと言葉を交わしたのを皮切りに、スタンレー派閥の人間の挨拶を受けた。その様子を確認したウッドヴィル派閥の人間の挨拶も続く。会場の大勢が、当主と話し込んでいるアルフレッドとマリーではなく、エドワードとテレーゼに先に挨拶をすることになる。さすがに状況に気が付いたのか、アルフレッドがこちらをちらちらと見ているが、そこはずっと中立を保ってきた老獪なスタンレー家のご当主がのらりくらりと話を続けて離さない。
(本当におバカなアルフレッド様)
マリーにけしかけられて、この場でテレーゼの罪を糾弾するつもりのアルフレッドである。自分の立場をこの瞬間にでも理解できたならば、糾弾すること自体を撤回してただただパーティーを楽しんで帰れば良い。ただ、次の王がウッドヴィルの顔色を伺わねば政治が立ち行かぬことを理解してくれれば、それで。
ただ、そうはならなさそうだというのが、彼の懇意にしているお仲間の様子で分かる。乳兄弟のアンドリュー・ボイル伯爵令息と視線が合ったので、軽く会釈しておく。彼がアルフレッドを見限ることは、今日の茶番を整えるために必要なカギだった。
ご当主の妨害工作はきっちりと実り、アルフレッドと女主人であるスタンレー夫人とのダンスがあり、皆のダンスが始まってからも思うように動けていない様子が見て取れた。さりげなく話を切ったり、挨拶をしようと待っている方に声をかけるなどの操作をテレーゼに任せていたツケである。
フロアではリリアナが婚約者と息の合ったダンスを見せ、注目を集めている。長身で優美な動きのリリアナとつり合いの取れた婚約者殿の二人のダンスは動きが大きく華やかだ。
「さ、僕たちもフロアに出ましょう。
パートナーがいるのに踊らないのは不自然だ」
「ええ、参りましょう」
テレーゼは捨てられたのではなく、テレーゼが捨てたのだと見せつけてやらねばならない。エドワードに手を引かれてフロアに出る。ダンスの練習の相手をしてもらったことはあるが、こうして人前で踊るのは初めてである。
曲が始まり、エドワードのリードで踊る。広いが苦ではない一歩目の歩幅に、想定していた技量との差に笑ってしまいそうになる。
「随分お上手になられましたこと」
「今日は完璧でないといけませんでしたからね」
アルフレッドのサポートをするようなダンスではなく、お互いの意図を汲みながら踊るのは楽しい。何曲も踊るのは苦しいが、目を引くには一曲で十分である。マリーとのダンスを披露したかったらしいアルフレッドの顔がちらりと視界に入ったが、自業自得である。
曲が終わり、エドワードと共にフロアを去る。テラスの専用の席につくと、すぐにシャンパンが運ばれてきた。給仕が下がって、ようやく一息つく。
「これで仕事はいち段落でしょうか」
楽しそうなエドワードがグラスに口をつける。
「ええ、あとはアルフレッド様がお声を上げた所で」
「緊張します。
しかし、ウッドヴィル侯爵もよくフェイン侯爵を頷かせられたものですね」
テレーゼも「そうですね」と苦笑するしかない。現時点では、王家に近いのはウッドヴィルよりもフェインである。そのフェイン侯爵が推すのは当然フェインの血が入ったアルフレッドであるはずである。その、血の縁という強固な繋がりを持つ後ろ盾を離脱させたのはモーガンである。
「私はエドワード様こそ恐ろしく思いますわ。
いつから今日のような日が来ることを思い描いておられましたのでしょう」
「そうですね、正直に明かすと養子としてウッドヴィル侯爵に初めてお会いしたときです。
まだ幼いテレーゼと挨拶を交わしたときに、目標地点を悟りました」
「ご冗談を」
「まずはウッドヴィル侯爵に将来有望な男と思われなければなりませんでした。
挑み始めて、難易度が高いことに気が付いたが遅かった」
笑いながら、エドワードは庭を歩く若いペアに視線を移した。その顔には薄ら笑いではなく満足げな微笑を浮かべている。
「あんな風にテレーゼをエスコートしてパーティーを楽しみたいと思っていましたが、難しいですね。
今後はもっと難しい」
「冗談でなければ、嘘ですわね」
「手厳しい。
ちっとも絆されてくれませんね」
「絆されてほしいのなら、お相手を選べばよかったでしょう」
「いや、テレーゼが絆されてほしいのです」
なんというリップサービスであろうか、とテレーゼが言葉に窮していると、「ご歓談中失礼いたします」と、ぺラム伯爵夫人をエスコートしていた騎士の声が聞こえた。
「演目も佳境ですかね」
他人事のように言いながらエドワードは立ち上がって、テレーゼの手をとってフロアに戻る。人を押しのけたのか、フロアの真ん中でマリーと踊る王子が見えたが、マリーの技量が届いていないのか彼女の顔がひきつっている。
曲が終わり、まばらな拍手が起こった。リリアナやテレーゼのダンスが終わったときより人がホールから分散しているのと、マリーのダンスの水準が明らかに劣っているためである。息が上がっているらしいマリーを引きながらアルフレッドが「皆、聞いて欲しい」と声を上げた。
(ついに、来る)
テレーゼは瞼を閉じた。
「今日、このマリー・ロザリア男爵令嬢を伴ったのには理由がある。
私の婚約者であるテレーゼ・ウッドヴィルの性根の悪さに嫌気がさしたからである。
皆も知っていると思うが彼女はマリーに嫉妬し、マリーに嫌がらせを続けてきた」
講演会が始まったが、アルフレッドが想定したほどの反応は当然ながら無い。彼らが想定したほど噂は広まっていないし、どちらかというと不埒な噂を広めようとした輩という風向きの方が強いことを理解できていないのだろう。
「しかも、ご覧の通り、あろうことかバイロン伯爵と浮気して隠す気配すらない。
そのようなふしだらな女を王家に迎える訳にはいかない。
よって、婚約は解消する。
そして、新しい婚約者はこの、マリー・ロザリア男爵令嬢とする」
テレーゼが瞼を持ちあげると、どうだ、とでも言いたげなアルフレッドとようやく息が整ってきたマリーが寄り添って立っているが、しらけ切った場に少々戸惑っている様子である。
「皆、私の新しい縁を祝ってもらいたい」
そう言って拍手を催促したアルフレッドだったが、当然ながら拍手は起こらない。
「アルフレッド殿下、マリー嬢、ご婚約おめでとうございます。
ここで、私からも皆さまにお知らせしたいことが御座います」
エドワードが大きな声で言ってテレーゼを連れて前に進み出る。
「バイロン伯爵、私は卿の発言を許していない」
アルフレッドが頬をひくつかせて遮るが、エドワードは笑顔でそれを無視した。
「ここに、国王陛下からの書状を賜っております。
後程皆さまにもご確認いただけるようにいたします。
内容は、アルフレッド殿下がもし陛下の意に反してテレーゼ嬢を婚約者から下ろすならば、
私エドワード・バイロン伯爵を王族へ復帰させ殿下を王族籍から離脱させるというものです」
エドワードの発言に、アルフレッドは「嘘だ!」と叫んだ。
「破棄されぬようケースに入れて掲示いたしますので、そちらでご確認を。
なお、先ほどの殿下の宣言はアンドリュー・ボイル伯爵令息が王に届けるためここを発ちました」
先ほどまで隣に立っていたはずの乳兄弟の名前に、アルフレッドの顔色が変わる。立場上、アンドリューは王に直接進言することが許可されている数少ない人物である。
「殿下、貴方の暴挙が国を揺るがすことをご理解くださらないのは致命的でした」
エドワードが今までで一番甘やかな、美しい笑みを湛えてそう吐き捨てた。スタンレー家のご当主がエドワードの手から王からの書状を恭しく頂戴し、皆が見られるよう掲示する。
「また、今しがた婚約を解消されたテレーゼ・ウッドヴィル侯爵令嬢を私の婚約者とします。
こちらもすでに王の許可を頂戴しています。
皆、私たちの新しい門出を祝福してほしい」
テレーゼを引き寄せて、エドワードが皆に声をかける。元からこの茶番を見守っていた面々と、何事かとホールに戻って来た面々に新たにグラスが配られる。
「おい、テレーゼ!
これはどういうことだ!」
アルフレッドが取り乱してテレーゼに掴みかかろうとしたが、スタンレー家の騎士がその間に進み出たため叶わなかった。捨て置かれた状態のマリー嬢は、事情を正しく理解したのか顔を真っ赤にしてテレーゼを睨みつけている。
「どうもこうも、私は以前から妃殿下に相談しておりました。
アルフレッド殿下が妃となる予定の自分をないがしろにして、最初から愛妾を囲うご予定のようだと」
マグダレナという愛妾に男児を先に生まれた悔しさを思い起こさせて差し上げて。
「愛妾や側妃を置くことは当然の事かと思いますが、あろうことか正妃に据えるおつもりだと。
国益を考えぬ行いをどのようにお考えですか、と」
対立ではなく調和のための婚約をないがしろにする痴れ者をどのように処罰するおつもりか、と。
「フェイン家のご当主にも父はご相談に上がったようです。
この婚約は王家とウッドヴィル侯爵家だけではなく、フェイン家にも関わることでしたので」
落ち目のフェイン家に対し、対立する訳ではないと姿勢を明確にするための婚約をどう考えているのかと。
さすがにアルフレッドは気が付いたらしい。自分が後ろ盾を全て失っていることに。
「わ、私はアルフレッド殿下のお求めに応じただけですわ!」
マリーは早速アルフレッドを見限ったようで、そう叫びながら一歩下がった。
「マリー!?」
「これは頂いたお返事をそのまま陛下にご報告した結果でございます。
シスラント王国としての安定のためにやむなしとのお返事でした。
マリー様、お望み通りアルフレッド殿下とのご婚約は成立しておりますよ」
テレーゼはにっこりと震えるマリーに微笑みかけた。
「アルフレッド殿下は王族籍を離脱されますけれど」
「良かったですね、これで何も障りは無いのでしょう。
おめでとうございます」
エドワードが追い打ちをかけるように言うものだから、マリーは手の中の扇子を今にもへし折りそうなほど握りしめていた。
「グラスは皆にいきわたりましたか?
では、私とテレーゼの新たな門出と、スタンレー家のリリアナ嬢の婚約を祝って。
二度目ですが、乾杯」
エドワードがグラスを掲げると、会場から「乾杯」という声と歓声が返って来た。その反応の差が全てだった。アルフレッドはその場で崩れ落ち、お仲間に支えられて用意された王子の席に座った。マリーはスタンレー家の騎士に取り囲まれながら、アルフレッドの隣の席に押し込められていた。
再び優雅なワルツの調べが流れだしたところで、テレーゼはエドワードともう一曲ダンスを披露した。万雷の拍手を受けて退場し、その足で王宮に向かった。兵士にはすでに話が通じており、バイロン伯爵の家紋が掲げられた馬車にも関わらず、咎められることはなく中に入ることができた。
「これまで、本当に長かった。
王子としての地位も、愛する人も、全て手に入れるために努力した甲斐がありました」
ウキウキと弾んだ声で、王宮の中をエドワードはテレーゼの手を引いて歩く。
「愛する人だなんて」
困惑しつつテレーゼが言うと、エドワードは立ち止まった。
「君を手に入れるために王子に復帰したと言っても過言ではありません。
君の父上がただの貴族の若造に君を託すと思いますか」
「それは順序が逆ではありませんか」
「王子になるにはテレーゼが必要で、テレーゼを得るには王子になる必要がありました。
順序というか、並立する訳ですね」
テレーゼを見下ろすエドワードの瞳は、蠱惑的に輝いている。
「君は信じないかもしれませんが、愛しているよ」
義務的な付き合いしかなかったアルフレッドの口からは、放たれることのなかった言葉と、熱っぽい視線。テレーゼは急にこうしているのが恥ずかしくなってきた。
「ま、まずは陛下にご報告に参りましょう」
「そうですね、急ぎましょう」
再び歩き出したエドワードの手は、しっかりとテレーゼの手を掴んでいる。
王家がウッドヴィル侯爵家の後ろ盾を手に入れたこと、フェイン家の影響力が下がったこと、スタンレー家を筆頭に中立派閥を取り込んでいること、それらの要素から考えるに、陛下に対するエドワードの発言力はかなり強いはずである。
(――…アルフレッド殿下の方が御しやすかったでしょうか)
ちら、とそんなことを思ったが、支え合うという関係性はアルフレッドとは成立しなかっただろう。エドワードであれば、二人で荷を分かち合える気がする。
今後は確実に忙しくなる。陛下への報告が完了すれば、アルフレッドの王族離脱の手続きとエドワードの王族への復帰、婚約の成立とその布告をしなければならない。エドワードの年齢を考えれば、婚姻の時期も少し急ぐだろう。元々良好ではなかった妃殿下との関係は完全に悪化するが、勢力図が書き換わった今となってはテレーゼのほうが優位に立てる。王宮の人員の配置も、今後テレーゼの希望を通してもらうことも増えるから考えていかねばならない。
しかし、そんなことよりも。
(顔色の調整が出来たら嬉しいのですけれど)
少し熱い。テレーゼはエドワードの手を軽く握り返しながら、自分の顔色が厚化粧でいつもと同じであってほしいと願いながら廊下を進んだ。
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