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人魔闘諍  作者: ゆっけ
第伍章
99/113

98話 喧騒の街

 風音は、言真に貸されたパーカーのフードを深く被り、G地区の町並みを歩いていた。


 通りを行き交う人々は皆、忙しなく前だけを見ている。サビの浮いた自転車を漕ぐ者、小さな車を器用に縫うように走らせる者――誰一人、彼女に注意を向けることはない。


 入り組んだ市場に足を踏み入れると、空気が一変した。生臭い魚の匂い、少し傷みかけた野菜や肉の匂いが混ざり合い、店先では店主たちが掠れた声を張り上げて客を呼び込んでいる。喧騒と生活の熱が、肌にまとわりつくようだった。


 ここでは、誰も彼女が桜田風音だとは知らない。

 人々はただ、自分の今日を生きることに必死だ。


 ――当たり前だ、と風音は思う。

 このG地区に、単身でユートピアを統べる者が現れるなど、誰が想像するだろうか。そもそも役人が足を運ぶこと自体が珍しい街だ。風音自身も、こんな形でここを訪れることになるとは、これまで一度も考えたことがなかった。


 風音は、誰にも聞こえないほど小さくため息をひとつ吐き、心の中で言真に悪態をつきながら歩を進めた。

 数日前――あの地下鉄ホームで、あいつが語った内容が、否応なく脳裏によみがえる。



 ***



「まずは、アンナさんたち医療関係者と、バクレンさん、ミケルさん夫妻、そして曹夢瑤さん。」


 言真は一人ひとりを順に指し示しながら、淡々と告げる。


「君たちは非戦闘員だ。だから特別に目立つことはしなくていい。今まで通り、できるだけ普通の日常を過ごしてほしい。」


 一拍置いて、彼は付け足した。


「ただし、何かをきっかけに危険な情報を掴んだり、自分たちの身に危険が及ぶ兆しを感じたら、即座にここへ戻ってきて情報を共有して。とにかく命優先だ。――死なないで、それだけ守ってくれればいい。」


 そして言真は、視線を緋月と月島へ移す。


「次は君たち。」


 二人を正面から捉え、声の調子をわずかに引き締める。


「当面はアルカディア方面の防備を固めてほしい。もし朱雀、あるいは青龍が動くようなことがあれば、君たちが主導して民間人と街を守ることになる。」


 さらに言葉を重ねる。


「判断はあくまで君たちに任せる。ただ、十二分に信用できると思ったⅠ型の子たちには、この情報を共有しても構わない。」


 一瞬、口角が吊り上がる。


「――もっとも、情報が漏れるようなことがあれば……まあ、その時は許さないけどね。」


 軽い口調とは裏腹に、そこに含まれた本気は、誰の耳にもはっきりと届いていた。


「次に、實妥くん。」


 言真はそう言って、視線を移す。


「これはアンナさんと夢瑤さんから共有してもらった情報なんだけど……最近、白伊くんの様子がおかしいらしい。」


 一瞬の間。


「実際、直近の監視カメラで、彼がベンサレムやエルドラド方面へ向かうブリッツツークに乗り込む姿が確認されてる。」


「……え?」


 声を上げたのは夢瑤だった。彼女だけでなく、アンナもまた、不安を宿した目で言真を見つめている。


「……だから君には頼みたい。」


 言真の視線が、まっすぐに實妥を捉える。


「士官学校での白伊くんの動向。淸瑞刈逓学長と、その周辺。そして――璃久の動きも。」


「……璃久さんも、ですか?」


 實妥の声は低く、慎重だった。


「うん。」


 言真は一度だけ小さく頷く。


「いくら彼が家と距離を取ろうとしていようと、熊野の血を引いているのは事実だ。何をきっかけに、どちらへ転ぶかは分からない。」


 一拍置いて、少しだけ言葉を選ぶように続ける。


「……本当は、僕も信用したい。でもね。今回はそう割り切れる状況じゃないんだ。」


 實妥はそれ以上何も言わず、短く息を吐いてから、静かに頷いた。


「最後に――風音。」


 言真の視線が、今度は真正面から彼女を捉える。


「君には、ここユートピアでの役目を任せたい。罌粟須くんが使った可能性のある脱出ルートの捜索。夏芽遼と血沼亜沙実の監視。實妥くんと連携して白伊くんの動向確認。それから――四阿庸平の捜索、開発室連中の監視と暴走抑制。有事の際の防衛線構築も含めて……あと――」


「ちょ、ちょっと待って。」


 風音は思わず口を挟み、眉間に深い皺を刻んだ。


「なんかさ、私だけ明らかに仕事量おかしくない? それに…夏芽とか白伊とか、開発室の連中を警戒するのはまだ分かる。でも……なんで亜沙実まで?」


「だから言ったでしょ。」


 言真は肩をすくめる。


「璃久と同じ理由。彼女も血沼の血を引いてるでしょ?念のため、ってやつだよ。」


「いや……でも……」


「もー、文句言わないでよぉ。」


 言真は呆れたように両手を広げ、わざとらしくため息をついた。


「四堂でしょ? 風音は。」


「じゃあ――同じ四堂のあんたは、何すんのさ。」


 風音は即座に切り返す。半眼で睨むその視線には、納得していない色がはっきりと浮かんでいた。


 言真は一瞬だけ肩をすくめ、それから軽く笑う。


「僕? 僕は表の世界で、直弥くんと最上シアを捜す。」


 さらりと言ったその内容に、空気がわずかに張りつめる。


「世界中、飛び回る羽目になるだろうね。国境も勢力圏も関係なし。」


 そして、わざとらしく風音を見て付け足す。


「それに比べたらさ、ユートピアに腰据えて指揮取れる風音のほうが、まだマシじゃない?」


「……マシもクソもないでしょ、こんな状況。」


 風音は小さく吐き捨てるように言った。


 言真はくっと喉を鳴らして笑う。


「くははっ、否定はしないよ。でも――」


 一拍。


「だからこそ、四堂が頑張らないとでしょ?」


 軽い調子のまま放たれたその言葉は、逃げ場を塞ぐ楔のように、風音の胸にすとんと落ちた。


 彼女はしばらく黙り込み、やがて小さく息を吐く。


「……分かった。」


 短く、しかしはっきりと。


「やるよ。やればいいんでしょ。」


「そうこないと。」


 言真は満足そうに頷いた。


 風音は問うた。


「でもその前にもう一個質問。」


「はい桜田くん!」


「キモいからその呼び方やめて。」


 即座に切り捨ててから、言葉を続ける。


「……もし何かしらで襲われたときは、そいつ殺してもいいんだよね?」


 空気が、わずかに張りつめる。


 言真は少しだけ考える素振りを見せ、それから軽く肩をすくめた。


「うん。基本的にはね。」


 そして、補足するように言葉を重ねる。


「まあでも、バクレンさんみたいに戦闘経験も知識もない人が巻き込まれそうになった場合は、ここまで逃げ込めば大丈夫だと思うよ。瘴気と瓦礫だらけで、息のかかった連中も治安官もここには近寄りたがらない。」


「……正規の部隊なら、問答無用で来るでしょ。」


 風音の指摘に、言真は楽しそうに笑った。


「来たら来たで、そのとき考えよう。」


 そして、何気ない調子で続ける。


「君もいるし。」


 その一言に、風音は小さく鼻を鳴らした。


「便利な盾扱いしないでくれる?」


「頼れる切り札って言ってほしいな。」



 ***



 それから、およそ一週間と少し。


 風音は鍛錬を最低限に抑え、連日のように外へ出ていた。


 言真の根回しのおかげで、露骨な監視はほとんど付かない。もっとも、道場を出るたびに正面に立つ警備員が、わずかに訝しげな視線を向けてくるのは変わらなかったが――風音はそれを、最初から存在しないものとして扱っていた。


 気づかないふりをする、というより、気にする暇がない。


 今日はG地区。


 罌粟須三津が使ったとされる脱出ルートの痕跡を洗うため、あえて人の多い時間帯を選んで歩いている。


 市場の喧騒に紛れ、彼女は周囲を観察する。

 舗装の剥がれ具合、無意味に塞がれた路地、古い排水口の位置。誰も気に留めないような違和感を、一つずつ拾い上げていく。

 だが――どれも決定的な痕跡には繋がらない。


「……今日も空振り、か」


 内心で舌打ちしつつ、風音は飽き飽きした気分のままG地区の通りを歩き続けた。


 そのときだ。


 少し先で、人だかりができているのが目に入った。

 怒号と笑い声が混じり、異様な熱を帯びた空気が立ち込めている。


「……?」


 風音は興味半分、警戒半分で近づいた。


 人々の輪の中心では、二人の男が取っ組み合いの喧嘩をしていた。

 どちらも筋骨隆々の大男で、互いに胸倉を掴み、怒鳴り声を上げながら拳を振るっている。


 乾いた殴打音。

 血の混じる唾。


 周囲では野次が飛び交い、囃し立てる声が絶えない。

 中には、どちらが先に倒れるかを賭けて硬貨を放り投げる者までいる始末だった。


 ――下劣。


 風音は表情を変えないまま、しかしその輪の「熱」だけを冷静に測る。


 喧嘩そのものよりも、

 なぜここに、これほど人が集まっているのか。


 その一点に、彼女の意識は静かに向けられていた。


 すると、輪の外縁にいた一人の男が、風音に気づいて声をかけてきた。


「よう、嬢ちゃん。見ねぇ顔だな。ここは初めてかい?」


 馴れ馴れしくそう言いながら、男は当然のように腕を回してくる。

 風音は一瞬で眉をひそめ、その腕を払いのけた。


「触んないでよ。」


 低く、しかしはっきりとした拒絶。


「おっと、こりゃ失敬」


 男は苦笑しつつも距離を詰め直し、興味深そうに彼女を見下ろす。


「でもよ、嬢ちゃんが一人でこんな場所にいるってなぁ相当肝が据わってんなと思ってよ。……これが何だか、分かってて見てんのか?」


「……ただの喧嘩でしょ」


 風音は視線を闘いの中心に向けたまま、吐き捨てるように言った。


「下品で野放図で、無駄に血の気が多い…いかにもG地区らしい。」


「おお、随分と口が回るじゃねぇか」


 男は感心したように笑い、親指で後ろを指す。


「まあ、半分は当たりだ。でもな、これはただの喧嘩じゃねぇぞ」


「……?」


「これぁ…チケット争奪戦さ」


「チケット?」


「おう。――闘技場のな」


 その言葉に、風音の視線がわずかに鋭くなった。


「ユートピアに闘技場なんて聞いたことないんだけど。」


「…?そりゃそうだろ、違法賭博なんだし。」


「違法賭博…」


「何だ嬢ちゃん、どこの地区出身だい?」


 探るような視線。


 風音は一瞬だけ言葉に詰まったが、すぐに表情を緩め、肩をすくめてみせた。


「G地区。じゃなきゃ、わざわざこんなとこ来ないでしょ。」


「……だよな」


 男は納得したように笑い、軽く手を振る。


「わりぃわりぃ。反応が妙に新鮮だったから、ついな。」


 その笑顔の奥に、値踏みするような色が一瞬だけ浮かんだのを、風音は見逃さなかった。


 だからこそ、彼女は一歩だけ距離を詰め、声音をわずかに落とす。


「ごめん。私、それについて深いことあんまり知らないんだけどさ」


 視線を闘っている二人の男へと流し、興味本位を装って続けた。


「……ちょっと教えてくれない?」


 男は一瞬、フードに隠れた風音の顔をまじまじと見つめる。

 警戒と好奇心が天秤にかかり、やがて後者が勝ったのか、口の端を歪めて笑った。


「嬢ちゃん、物怖じしねぇタイプかい?」


 彼は輪の中心を親指で指す。


「見ての通り、ああやって勝ち残った奴がチケットを手に入れる。負けた方は……まあ、運が良けりゃ骨折で済む」


「随分荒っぽいね」


「G地区だぞ? これでもマシな娯楽だ」


 そう言って男は声を潜める。


「本番は別の場所だ。地下、まだまだ瘴気が残ってるH地区との境界線近くに、闘技場がある。表向きは瓦礫処理用の資材庫ってことになってるがな」


 地下。

 瘴気。

 人目を避ける立地。


 風音の中で、いくつかの線が静かにつながっていく。


「そこに出れば、何があるの?」


「金、酒、女……それに」


 男はわざと間を置き、口元を歪めて笑った。


「主催してるやつがな、相当頭んネジ吹っ飛んでるらしくてよ。嬢ちゃん、七年前の玄武政変って知ってるかい?」


 風音の胸が、微かに跳ねた。

 だが表情は動かさない。


 男は気づかぬまま、得意げに続ける。


「その時に街中引っ掻き回した八間の一人がさ、裏でその主催から“脱出ルート”を教えてもらってたらしい。で、政変のあと、そのまま姿くらましたって噂だ」


 ――罌粟須三津。


 名前を出さずとも、答えは一つしかない。


「それで今はよ」


 男は輪の中心で殴り合う二人を顎で示す。


「G地区の中でも最底辺にいる連中が、その闘技場で勝ち上がって、主催と面会する権利を狙ってる。上手くいけば、その脱出ルートを通って地上世界に逃げ込める。――一発逆転ってやつだな」


 風音は無言のまま、再び殴り合う男たちに視線を向けた。

 拳がぶつかる鈍い音が、さっきよりも生々しく耳に響く。


 命を削る音だ。


「……チケット、って」


 彼女は静かに問い返す。


「一枚あれば、誰でもその闘技場に入れるの?」


 男は一瞬だけ言葉に詰まり、周囲を見回す。

 それから肩をすくめ、軽く答えた。


「まあな」


 にやり、と。


「度胸があれば、だけどよ」


 その瞬間、風音の中で――次に取るべき行動は、もう迷いなく定まっていた。


 彼女はためらいなく輪の中へ踏み込み、喧騒のど真ん中に割って入る。


 殴り合っていた男の一人が気づき、眉をひそめた。


「……あ? ガキがなんでこんなとこにいんだよ」


 風音は答えない。二人の間に静かに立つ。


 背後で、闘技場の話をしていた男が慌てて声を上げた。


「お、おい……! 嬢ちゃん正気か!? いくら肝据わってるからって、その体格差じゃ勝てるわけねぇだろ!」


 その言葉が、火に油を注いだ。


「邪魔してんじゃねぇよ、このクソアマ!」


 大男は顔を紅潮させ、唾を飛ばして怒鳴る。


「舐めた真似してっと犯すぞ!!」


 風音は、なおも無言だった。


 その無反応が、男の理性を完全に切り落とす。


「この……ッ! 死ねぇ゙!!」


 怒号とともに、拳が振り上げられる。


 ――次の瞬間。


 風音は、その拳を片手で受け止めた。


 全身の筋肉を総動員したはずの一撃。

 だが彼女の身体は、微塵も揺れない。


「……っ!?」


 男は衝撃に目を見開いたまま、固まる。


 風音はそのまま拳を掴み、体を翻す。伸び切った腕を肩口に挟み込み、躊躇なく捻じ上げた。


 鈍く、嫌な音が響く。


「あ゙……っ、あ゙あああああ!!」


 悲鳴と同時に、男の身体が崩れ落ちる。

 上腕骨が耐えきれず折れたのだろう。激痛に顔を歪め、膝をついた。


 風音は男を一瞥すると、即座に周囲の状況を把握するため視線を走らせた。


 ――観衆は約三十名。

 ――そのうち半数以上が非戦闘員。

 ――残りは荒事慣れした下層民。刃物の携行率は三割程度と言ったところか。

 ――射撃武器はない。奇襲の可能性は…低いとみえる。


 脳内で瞬時に戦術評価を終え、彼女は静かに呼吸を整える。


 次の瞬間、もう一人の大男が遅れて動いた。拳を振り上げ、正面から突っ込んでくる。


 愚直。


 風音は一歩だけ後退し、敵の重心が前に流れ切る瞬間を待った。


 踏み込みの角度、速度、筋収縮――すべてが予測範囲内だった。

 彼女は相手の懐へ素早く入る。

 顎下に掌底を叩き込み、頸動脈洞を正確に圧迫する。


 急激な血圧低下。

 意識遮断まで約二秒。


 男は呻き声すら上げられず、そのまま前のめりに崩れた。


 風音は倒れる身体を利用し、足を払って地面に固定する。

 関節を極限まで伸展させ、逃走不能な体勢を作った。


 周囲の人間たちは、ようやく事態を理解し始める。

 さっきまでの野次と賭け声は完全に消え、代わりに広がったのは、得体の知れない沈黙だった。


 彼女は立ち上がり、周囲を半円状に睨み据える。


 誰も動かない。

 風音は満足げに息を吐き、倒れ伏す男たちを足元に残したまま、静かに言い放った。





「…で、チケットは?」





 続く…

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