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人魔闘諍  作者: ゆっけ
第伍章
98/113

97話 秘密基地

 やはり、というべきか。

 H地区は、他のどの地区とも比べ物にならないほど廃れていた。


 車を降りると、二人は警告灯が断続的に明滅する検問跡をくぐる。

 かつては人の往来を制御していたであろうゲートは半ば崩れ、役目を失った柵が風に軋んでいた。


 奥に見える建物群は、舗装が剥がれ落ち、路面は瓦礫と砂埃に覆われている。

 壁面には補修されることのなかった亀裂や焼け跡が無数に走り、まるで街そのものが傷痕を晒したまま時間だけが止まっているかのようだった。


 ――ピリ、と。


 胸の奥が微かに痺れる感覚。

 風音は無意識に呼吸を浅くする。


 瘴気だ。

 数値上は安全圏にまで処理されているはずだが、それでも空気の底に沈殿する気配は誤魔化しきれない。十三年という歳月を経てもなお、厄災の日の名残はこの場所に絡みついていた。


「……嫌な感じ」


 小さく呟くと、言真が肩越しに振り返る。


「感覚鋭いね。普通の人なら、もう少し奥まで来ないと気づかないよ」


「こんなもの、自慢にもならない」


 言真は肩をすくめるように、軽く笑った。


 瓦礫を踏みしめる乾いた足音だけが、無人の街に反響する。

 二人は、かつて人の営みがあったはずの通りを抜け、さらに奥へと進んでいった。


 やがて、崩れかけた中小ビル群の陰に、かすかだが確かな人の気配が滲む。


「……ここが?」


 風音の問いに、言真は足を止め、わずかに口角を吊り上げた。


「そう。仮初めだけどね――僕らの“秘密基地”。」


 そう言って、彼は一角の瓦礫を手早くどける。

 下から姿を現したのは、闇へと沈み込むような地下への階段だった。


「もとは地下鉄の駅になる予定だった場所。落成前に街ごと消し飛んじゃってさ。工事も途中で放り出されて放置されてたのを、ちょっと拝借してる」


「へぇ…いざという時に籠城しやすいから?」


「まあね。」


 言真は階段の縁に手をかけ、闇の底を覗き込むように視線を落とした。


「それにここ、瘴気の残滓がちょうどいい具合にノイズになっててさ。Ⅰ型の人たちでも、たぶん気づかないはず。……まあ、さっきの風音みたいに感覚が鋭すぎると、人の気配までは誤魔化せないけど。」


「私でも、かなり集中してやっと分かったくらいだし大丈夫でしょ。私以上に研ぎ澄まされてる人が、そう何人もいるとは思えないし」


「そりゃどうも。」


 言真はそう言って、先に階段を降り始める。靴底が金属とコンクリートを叩く乾いた音が、闇の奥へと吸い込まれていく。


 数段遅れて、風音もその背を追った。


 階段を下り切った先に広がっていたのは、未完成のまま放棄された改札フロアだった。もちろん、駅員の姿などない。


 言真は一切の迷いなく、自動改札をまたぐようにして通り抜ける。風音も無言でそれに続いた。


 そのまま、さらに地下へと続く階段を降りる。


 ほどなくして、二人は駅ホームへと辿り着いた。


 天井は低く、剥き出しの配線が蜘蛛の巣のように張り巡らされている。非常灯代わりなのか、等間隔に設置された簡易照明が淡く灯り、重たい闇をかろうじて押し返していた。


 その光の下に、おおよそ三十名ほどの人影があった。床に座り込む者、落ち着かない様子で立ち尽くす者、周囲を警戒するように視線を走らせる者――統一感のないその姿は、即席で集められた集団であることを雄弁に物語っている。


 風音の顔見知りも、何人か混じっていた。實妥をはじめとする玄武隊のⅠ型戦闘員たち、白虎隊所属のⅠ型戦闘員の姿も散見される。


 さらに目を引いたのは、白虎隊八間――緋月玲と月島那海の存在だった。


 だが、その一方で、いるはずの顔が見当たらない。直弥と密接に関わっていた熊野璃久や、彼とバディを組んでいた者の姿はなく、玄武隊八間である血沼亜沙実や四阿庸平の姿も見えなかった。


 璃久や、バディの一人だった三田沙紀という少女については、言真の言葉どおり療養中なのかもしれない。しかし、四阿や亜沙実まで姿を見せていないとなると話は別だ。とくに、最近まったく姿を見ていない四阿の不在は、胸の奥にじわりと不安を滲ませる。


 そんな思考に沈みかけた風音をよそに、ホームにいた全員が、遅れて現れた二人の存在に気づいた。


 ざわり、と空気が揺れる。


 動揺する者、即座に無赦の環を取る者、かすかに警戒の視線を向ける者――反応はさまざまだったが、共通していたのは、その場に緊張が走ったという一点だった。


 その只中で、言真は場違いなほど軽い調子で口を開く。


「――全員揃ったかな?」


 真っ先に、緋月が声を上げた。


「これはなんです、狂風卿…に、佳人卿。お二方がここに人を集めたのでしょうか」


「いや、僕が主体で集めた。風音も君たちと同じだよ。」


 月島は緋月の袖をきゅっと掴み、不安を隠しきれない様子で口を開く。


「アルカディアにいたら、急に狂風卿から呼び出しがかかって……よく分からないままユートピアに来て、連れられるがままここに……」


 彼女は周囲を見回し、声を落とす。


「……一体どこなんですか、ここは?」


 言真は一歩前に出て、ホーム全体を見渡した。簡易照明に照らされた不安げな顔、警戒を隠さない視線、そのすべてを受け止めるように。


「ここはH地区。厄災の日の遺構だよ。」


 間を置いて、続ける。


「君たちをここに集めたのは、なにか脅すためでも、消し去るためでもない」


 言真は軽く笑った。


「むしろ逆。これから狙われる可能性が高い――“面倒な立場の人間”を、まとめて保護するためだ」


 その言葉に、緋月の眉がわずかに吊り上がる。


「……保護、ですか?」


「そう」


 言真の視線が、ホームに集まった一人ひとりをゆっくりとなぞっていく。


「まだ話せないことも多い。

 ただ一つだけ、確かなことがあるとすれば――このまま各自バラバラでいたら、遅かれ早かれ粛清される」


 その単語が落ちた瞬間、空気が目に見えて冷えた。


 沈黙。


 誰もが言葉を失い、簡易照明の微かな唸りだけがホームに残る。


 その静寂の中で、言真は楽しげですらある笑みを浮かべた。


「だから今日は顔合わせ。ここから先の話をする前に――君たち自身に、選んでもらう」


 一拍、わざとらしい間。


「この“秘密基地”に残るか。それとも、何も聞かなかったことにして帰るか」


 まあ、と言真は肩を竦める。


「なにもせず、大人しく返すつもりは――さらさら無いんだけどね」


 最後の一言に、冗談めかした響きはあっても、そこに逃げ道を示す余地はなかった。


 視線が交錯し、誰かが小さく息を呑む。


 その沈黙を割るように、一人が前へ出た。


 實妥だった。


「――俺は、残ります」


 短く、しかし迷いのない声。


 周囲がざわつく。驚き、困惑、あるいは納得――さまざまな感情が一斉に浮かんでは消えた。


「理由は?」


 誰かが問いかけるより先に、言真が興味深そうに首を傾げた。


 實妥は一度、視線を落とす。拳を握り、ゆっくりと吐息を整えてから顔を上げた。


「……これは八幡直弥絡みの件でしょう」


 その名が出た瞬間、空気がわずかに軋む。


「彼が魔族化し、行方をくらましたことは、もうADF中に知れ渡っている。――そして、周りを見れば分かる」


 實妥はゆっくりと視線を巡らせる。


「先の四堂八間会議で彼を擁護した烈火公、海月公、そして先程来られた佳人卿。直弥の主治医だったアンナ・ファルコンさん。吉林省事件で保護された曹夢瑤さん」


 一人ひとりの名前が、重石のように落とされていく。


「それ以外にも、直接的であれ間接的であれ、彼と関わった人間がここには複数いる。……白伊涼菟や寛解公、豊麗公がいないのは少し不可解ですが……」


 一瞬だけ、言葉を切る。


「それでも――さきほど狂風卿が口にした“粛清”という言葉から考えれば、狙いが彼絡みなのは、もはや明白です」


 静寂。


 誰も反論しない。できなかった。


 實妥は続ける。


「俺は教官です。部下を、教え子を、上の都合だけで切り捨てるやり方を正しいとは思えない」


 声は低いが、確かに通る。


「残る理由はそれだけです。……それに」


 彼はわずかに口角を上げた。


「もう目を付けられてるなら、どこへ行っても同じでしょう」


 言真は数秒、黙って實妥を見つめていたが、やがて小さく息を吐き、愉快そうに笑った。


「はは……理屈が通ってて助かるなぁ」


 そして、改めて周囲を見渡す。


「さて…他には?」


 その言葉に、ざわめきが再燃する。


 誰かが足を動かし、誰かが拳を握り、誰かが視線を伏せた。


 風音は腕を組んだまま、その様子を静かに見据えていた。


 言真は、そのざわめきを肴にするような軽い調子で口を開く。


「早く決めなよぉ。じゃないと今にでも―――」


「おい」


 その言葉を遮るように、風音が低く声を落とした。


「ここにはオリオン隊員だけじゃない。民間人もいるんだ。あんまり脅すような言い方して、無駄に不安を煽るな」


 一瞬、場が静まり返る。


 言真はきょとんとした顔で風音を見やり、それから肩をすくめた。


「はいはい。配慮が足りませんでした、と」


 だが、その口元にはまだ薄く笑みが残っている。


 風音は一歩前に出た。視線は集まった人々へ、まっすぐに向けられる。


「……勘違いしないで。今ここで即座に何かが起きるわけじゃない」


 落ち着いた声だった。鋭さはあるが、威圧はない。


「少なくとも、ここにいる間は安全。瘴気の影響も管理されてるし、外から無闇に踏み込める場所でもない」


 ざわめきが、少しずつ沈んでいく。


「残るか、帰るか。選択肢があるのは事実。でも――」


 風音は言葉を切り、ゆっくりと言葉を選ぶ。


「どちらを選んでも、今すぐ命を取られるようなことはない。脅しで決めさせる気は、私はない」


 その一言で、空気が明確に変わった。


 安堵の息。肩の力が抜ける気配。だが同時に、逃げ切れない現実を悟った沈黙もまた、重く横たわる。


 言真はその様子を眺めてから、少しだけ真面目な声色で続けた。


「……まあ、風音の言う通り。今日は説明会みたいなもんだよ。僕も強制はしない。ただし…」


 彼の視線が鋭くなる。


「帰るなら、今日見たこと聞いたことは全部忘れてもらう。それが守れないなら――残るしかない」


 再び、選択の重みが場に落ちる。


 實妥は腕を組み直し、他の者たちを見渡した。


 緋月は小さく息を吸い、月島はその袖をぎゅっと掴む。


 風音は、静かに目を細めた。



 ***



 結局、その地下鉄ホームに残ったのは風音と言真、緋月、月島、實妥、夢瑤、アンナ、そしてアンナの部下らしき看護師数名と、バクレンとミケルという中年の夫婦だった。


 天井の蛍光灯は一部が壊れ、低く唸るような音を立てながら不規則に瞬いている。線路の奥からは、どこかで水が滴る乾いた反響音だけが続いていた。


 どうやらバクレンとミケルとは、直弥のバディの一人――三田沙紀の育ての親らしい。

 言真から聞かされた彼女の悲惨な現状を思い出し、風音は胸の奥がわずかに締め付けられるのを感じた。


 二人は寄り添うように立っていた。

 ミケルは終始、両手を組み、祈るように俯いている。

 バクレンはその肩に手を置き、気丈に振る舞おうとしているが、指先の震えまでは隠しきれていない。


「……あの子は、生きてるんでしょうか」


 バクレンの声はかすれていた。

 問いかけというより、縋るような確認だった。


 その言葉に、場の空気が一瞬、凍りつく。

 看護師の一人が思わず目を伏せ、アンナは唇を噛みしめた。


 言真は肩を竦め、いつもの軽い調子で答えかける。


「さぁねぇ。生きてるっちゃ生きてるだろうけど、もう元の軍人には戻れないだろうねぇ。まあ生きただけマシ―――」


「言真」


 低く、鋭い声がホームに落ちた。

 風音だった。


 彼女は一歩前に出る。

 その立ち姿は小柄でありながら、不思議と逃げ場のない圧を孕んでいた。


「流石に笑えない」


 言真は一瞬きょとんとした表情を浮かべ、やがて面白そうに口角を上げる。


「へぇ。珍しいね、風音が感情論?」


「感情論じゃない。配慮の話」


 風音はそう言い切ると、ゆっくりとバクレンとミケルへ視線を移した。

 その目元が、ほんの一瞬だけ柔らぐ。張りつめた空気の中で、それは微かな温度の変化だった。


「……大丈夫ですよ」


 落ち着いた声だった。過度に希望を煽るでもなく、突き放すでもない。


「きっと良くなります。私の部下である以上、私含め組織の人間が全力で彼女をサポートしますから。」


 その言葉には、責任と覚悟が滲んでいた。


 バクレンの目がわずかに見開かれ、ミケルは唇を震わせながら、深く頭を下げる。


 その背後で、アンナはそっと目を伏せた。


 ――彼女の言葉は、指導者としても、彼らに掛ける言葉としても、間違ってはいない。

 だが同時に、それは彼女自身が沙紀の“本当の現状”を知らないからこそ、言い切れてしまう言葉でもあった。


 佳人卿が思っているよりも、沙紀の容態は遥かに重い。


 全身を覆う火傷は、瘴気の影響によって彼女自身の自然治癒力を著しく阻害していた。時間をかければ治る、という段階ではない。どれだけ待とうとも、回復は進まない。

 あれほどの大火傷は、アンナ自身の療術をもってしても癒しきれなかった。最善は尽くした――だが、完治には程遠い。


 そして、切り落とされた左腕は、それ以上に深刻だった。


 搬送時、左腕は皮一枚でかろうじて繋がっている状態だった。その断面から瘴気が侵入し、内部はすでに腐敗を始めていた。

 もし、瘴気さえなければ。

 あるいは、もう少し早ければ。

 繋ぎ留めることも、不可能ではなかったかもしれない。


 だが、彼女が病院に運び込まれた時点で、すでに手遅れだった。


 白伊が、診察室で静かに吐き出した言葉が、アンナの脳裏をよぎる。


『奴が術を転化さえしていれば、沙紀は……全快まではいかなくても、左腕まで切られずに済んだかもしれない。』


 その言葉に、反論の余地はなかった。


 八幡直弥が――彼自身の手で、彼女を治していれば。

 左腕の切除など、必要なかったのだ。


 アンナは唇を噛みしめ、誰にも気づかれぬよう、ゆっくりと息を吐いた。

 ……今、この話を切り出す気にはなれない。この事実を知ってしまえば、あの夫婦をさらに追い詰めることになる。


 そんなアンナの様子を横目に、言真が口を開く。


「まあ、どうであれ――ここに残ったってことは、僕に協力してくれる人たち、って認識でいいんだよね?」


 視線が交差する。

 互いの顔を確かめ合うような沈黙が流れたが、誰一人として異を唱える者はいなかった。


 その空気を受け取り、言真は満足げに小さく笑う。


「……じゃあ、本題に入ろうか」


 声音が、わずかに低くなる。


「これから君たちに、何をしてもらうか――って話を。」


 続く…

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