95話 前に言ったよね
「ふっ……ふっ……」
桜田風音は一人、特別に設えられた剣術道場で竹刀を振っていた。
吐く息は短く鋭く、床に落ちる音だけが、静まり返った空間に規則正しく響く。
研ぎ澄まされた横顔。凛と張り詰めた眼差し。
鍛え抜かれた肢体が描くしなやかな曲線と、無駄の一切ない太刀筋。
そのすべてが、張り詰めた緊張と静かな美を宿していた。
前足を摺り出し、後ろ足を引き付ける。
体幹を軸に竹刀を高く振り上げ、踏み込みと同時に一気に振り下ろす。
ダン、と鋭い踏み音。
次の瞬間、竹刀が空を裂き、乾いた風切り音が走った。
額から弾けた汗が宙を舞い、
その一滴一滴が、彼女の集中と研鑽の深さを物語っていた。
四堂八間会議で謹慎処分を受けてから、はや五ヶ月が経とうとしている。
その間、彼女は一日も欠かすことなく、この道場で鍛錬を積み重ねてきた。
謹慎期間のあいだ、彼女は意図的に外界との接触を断っていた。
無駄な噂や情勢は、思考を鈍らせるだけだ。剣術を磨くうえで、それらは不要――そう割り切っていた。
だが、ここ最近になって、どうしても胸に引っかかるものがある。
一ヶ月前まで、共にこの道場で汗を流していた男。
同じく謹慎処分を受けていた四阿庸平が、ある日を境にぱったりと姿を見せなくなったのだ。
事前の連絡も、伝言もない。
まるで、最初からそこにいなかったかのように。
風音は竹刀を下ろし、静まり返った道場を一瞥した。
踏み慣れた床板の軋みが、今日は妙に大きく響く。
壁際へと歩み、左座右起の作法に従って正座する。
竹刀を丁寧に左へ置き、背筋を伸ばすと、深く息を吐いた。
そして黙想を取り、静かに目を閉じる。
――その間、風音の思考は自然と過去へと遡っていた。
四阿が明確に姿を見せなくなった、その前日。
確かに、何もなかったわけではない。
あの日、稽古の合間の休憩時間に、熊野璃久がこの道場を訪ねてきたのだ。
彼は一通の手紙を携えており、朱雀隊四堂・熊野焔冥から四阿宛てのものだと告げた。
内容は、驚くほど簡素だった。
朱雀隊管轄の街――ベンサレムへ来い。それだけ。
「……なにこれ」
風音は訝しげに呟き、四阿が開いた手紙の文字を目で追う。
横から覗き込んでいた璃久も、表情を曇らせたまま、低く声を落とした。
「……父のことです。恐らくですが……ろくな用件じゃないかと」
「まあ、だろうな」
風音は額の汗を拭いながら、即座にそう返した。
四阿もまた、腑に落ちない様子で言葉を重ねる。
「……それにしたって、なぜ閻魔卿は謹慎中の俺なんかを呼び出すんでしょうね。……ほんとに、璃久は何も聞いてないんだよな?」
「ええ。まったく、何も……」
短い沈黙が落ちた。
道場に残るのは、三人の呼吸音と、遠くで鳴く風の音だけだった。
やがて四阿が、覚悟を固めたように口を開く。
「……まあ、でも。行かないわけにはいかないでしょう」
一度、言葉を切り、彼は淡々と続けた。
「所属隊は違えど、閻魔卿は上官です。命令である以上、無視するわけにはいきません」
「……明らかに、危ない気配しかしないけど」
風音は眉間に深い皺を刻み、はっきりと釘を刺す。
「四阿。それ、ちゃんと分かってるよね?」
四阿は一瞬だけ視線を伏せ、すぐに小さく頷いた。
「ええ。分かってます」
それでも、彼は目を逸らさずに言う。
「ただ……疑ってばかりじゃ、何も前には進まないのも事実ですから」
その声音は穏やかだったが、どこか決意めいた硬さを帯びていた。
四阿はゆっくりと立ち上がる。
床板に足を下ろす音が、やけに大きく響いた。
手慣れた動作で竹刀を袋へ納めながら、彼は風音へと向き直り、軽く頭を下げる。
「……稽古中にすみません、佳人卿。少しの間、外出します」
一瞬だけ言葉を切り、続けて璃久に視線を向けた。
「……璃久、着替えたらすぐ行く。表に車を手配しておいてくれ」
「え、あ……はい。了解、しました」
璃久はわずかに戸惑いながらも応じる。その声が道場に消えたあと、静寂だけが残った。
……その日を境に、四阿はめっきり顔を見せなくなった。
胸の奥に、じわりと嫌な予感が広がる。
何が起きているのか。――いや、何が起きてもおかしくはない。
下手をすれば、もう殺されている可能性すらある。
熊野焔冥という男の性格を思えば、それは決して突飛な想像ではなかった。
「……」
風音は、閉じていた瞼の奥で思考を巡らせる。
久々に、外へ出てみるべきか。
謹慎中とはいえ、彼女の外出が完全に制限されているわけではない。怪しまれるような行動を取らなければ問題はないはずだ。無論、外には警備員がつくだろうが――撒けない相手ではない。
面倒ごとは承知の上だ。
それでも、後のことは後で考えればいい。
風音は静かに黙想を解き、すっと立ち上がる。
竹刀を手に取り、いつも通りの所作で丁寧に片付けに入った。
竹刀を袋へ収め、道場の片隅に置かれた着替えを手に取る。
道着を脱ぎ、肌に張りついた汗を拭い去る。
「……変態。私、今着替えてるんだけど」
振り返りもせず、風音は突然低くそう言い放った。
すると、背後から少し間の抜けた、幼さの残る声が返ってくる。
「……別に覗きに来たわけじゃないよ。目のやり場に困るからさっさと着替えて。」
風音は、わずかに視線だけを後ろへ走らせる。
そこには――
道場の入口、垂れ下がる暖簾にもたれるように立つ、朽宮言真の姿があった。
場違いなほど気の抜けた態度と、しかし決して軽くはない存在感。
静まり返った道場の空気が、彼の出現によって微かに軋んだ。
風音は下着を手に取りつつ、皮肉げに言う。
「だったら何しに来たの。むっつりスケベに見せる身体なんて持ち合わせてないんだけど。」
言真は肩をすくめ、わざとらしくため息をつく。
「なんで風音はそう僕に対してあたりきついのかな。同じ兄貴に育てられた身じゃんかぁ。ちょっとは優しくしてよ。」
「育てられたってよく言う。拾い子の私をあんたは見下してたじゃん。」
一拍。
言真は、どこか楽しそうに口角を上げた。
「さあ。……なんのことだか」
風音は下着を身につけ終えると、その上から無造作にジャージを羽織る。
続いて、腰元の袴の紐をほどきながら、肩越しに言真を一瞥した。
「……もう少し、まともな格好にしなよ。スポブラの上にジャージって……今冬だよ?」
その言葉に、風音の動きがぴたりと止まる。
「……キモっ……」
低く吐き捨てるように言い、彼女は竹刀へと手を伸ばす。
「セクハラする時間あるならさっさと要件言え。じゃないと――本気で頭弾くよ。」
冗談めかした響きは一切なく、
そこにあるのは、いつでも振り抜ける距離と、本気の眼だった。
言真はヘラヘラと笑いながら、両手を上げる。
「冗談冗談。そんな怖い目で見ないでよ。」
「なら向こう向いてて。次見たら殺す。」
「はいはい。」
彼は両手を上げたままくるりと身体の向きを反転させる。そして言った。
「…んで、来た理由なんだけど…前僕達が行った任務のこと、聞いた?」
「知らない。あんたが絡んでるなら尚更興味ない。」
「まあそんな怒んないで聞いてよ。それでね…まあ要点だけ言えば、直弥くんが行方不明になった。」
着替えていた手が止まる。言真は言う。
「やっぱ動揺してる。直弥くんのこと大事に思ってるもんねぇ。」
「殺すぞ」
「振り返ってもないし馬鹿にもしてないよ。ほら、いいから早く着替えて。ちゃんと話そう」
道場の空気が、じわりと冷えた。
風音の沈黙が、その温度をさらに下げていく。
やがて彼女は袴を脱ぎ、動きやすいジャージに着替え終える。
髪を後ろで一つに結びながら、静かに言真へと向き直った。
「……前に言ったよね」
声音は低く、刃のように研がれている。
「私の謹慎中に、部下に何かあったら――真っ先にあんたを殺すって」
言真は肩越しに振り返らず、どこか呑気に返す。
「一年後とも言ってたでしょ?まだ五ヶ月も経ってないけど」
「それでも」
風音は一歩、間合いを詰める。
「今こうして、のこのこ現れたってことは――その覚悟があるってことでしょ」
一拍。
彼女は息を吐き、視線を鋭く固定した。
「……まあ、いい」
竹刀に手をかけながら、淡々と言う。
「続きを聞かせて」
風音が再び竹刀を構えようとしているのを眺めながら、言真はため息混じりに言う。
「……で、その“消えた理由”なんだけどさ」
軽い口調とは裏腹に、内容は重い。
「直弥くん、魔族化してどっか行っちゃった。混血だったでしょ、彼。で、命の瀬戸際に立った瞬間――彼本人と、彼の中にいた魔族が入れ替わった」
風音の眉がわずかに動く。
「……同体変異種、ってこと?」
「そ。正解」
即答だった。
「でも」
風音は静かに言葉を継ぐ。
「私が鳴矢高校で見たときは、ちゃんと魔族の気配もしてた」
「そこが面白いところでさ」
言真は指先でこめかみを叩く。
「死刑回避が決まった直後に、完全な同体変異種化が進んだみたいなんだよね。本人も気づかないうちに、きれいに“馴染んだ”ってわけ」
一拍置いて、淡々と続ける。
「で、その直後。直弥くんに致命傷を与えた魔族を、魔族化した彼が圧倒して殺害。そのまま――逃亡」
風音の視線が鋭くなる。
「現在も所在不明。監視網にも引っかからないし、生死も不明。……要するに、完全に“行方不明”って感じ」
言真は軽く締めくくったつもりだったが、道場に落ちた沈黙は重く、逃げ場がなかった。
「……で?」
風音が短く問う。
「え? で、って?」
とぼけた声を返した瞬間、風音の視線が鋭く突き刺さる。
「あんたと直弥くんだけじゃないでしょ。他に誰が同行して、――結果、どうなった?」
言真の目が一瞬、わずかに泳いだ。
「あー……えっと……」
言葉を探す間も与えず、風音は一歩踏み出す。
竹刀の先が、床板をかすめて低い音を立てた。
「言え」
声音は低く、冷たい。
「言ってから殺す」
冗談の余地は、微塵もなかった。
言真はついに観念したように、肩を落とす。
「……直弥くんと一緒にいたのは、三田沙紀ちゃん」
風音の瞳が、ほんのわずかに揺れた。
「それから……夏芽と、璃久。それに柏谷っていう…ほら、結構前に問題起こして、玄武隊から青龍隊に異動になったやつ」
「……あんまり覚えてないけど」
風音は淡々と返す。
「それで?」
言真は言葉を慎重に選びながら、続けた。
「沙紀ちゃんは、全身に重度の火傷。左腕は……切断せざるを得なかった」
一瞬、道場の空気が完全に凍りつく。
「璃久と柏谷は背中に複数の刺し傷。それで璃久は……その、左脚を複雑骨――」
言い終わる前に、言真の身体が反射的に跳ねた。
「うおっ――!」
目にも止まらぬ速さで、風音の竹刀が一直線に突き出される。
鋭い切っ先が、言真の喉元すれすれで止まった。
言真は即座に片手でそれを受け止める。
だが、風音は無表情のまま、力を緩めない。
竹刀は、突きの形で確実に致命傷を狙っていた。
「……それで、」
低く、冷え切った声。
「つまり、あんたと夏芽は無傷で生還ってわけ?」
一拍。
「柏谷はともかく――うちの隊員に尽くそこまでの怪我を負わせておいて、それはないでしょ」
風音の視線が、言真を射抜く。
「さすがに、それは見過ごせない」
言真はとくに態度を変えずに応える。
「びっくりしたなぁ、もぉ。一回下ろしてよそれ。僕殺しちゃうと君も色々まずいよ?」
「…」
「――無視?……まあいいけどさ、こうなるのも想定済みだし。」
言真は言い終わると同時に踏み込み、掌で竹刀の剣先を掴んだ。ぎし、と嫌な音を立てて、軌道が強引に逸らされる。
風音の腕に伝わる抵抗は、生身の人間のそれとは思えないほど重かった。
風音は即座に体重を乗せ、引き戻す。
「……」
一瞬だけ、彼女の眉が動いた。
言真は剣先を掴んだまま、わずかに首を傾ける。
「……君との力比べは得意じゃないんだよ、僕。」
次の瞬間、彼の指がわずかに締まる。竹刀がきしりと悲鳴を上げ、風音の手首に鋭い衝撃が走った。
――握り潰そうとしている。
そうはさせない。風音は咄嗟に力の向きを前へと切り替え、言真の懐へ踏み込む。
一瞬、彼の力が緩んだ。その隙を逃さず、竹刀を引き抜き、拘束を脱する。だが、追撃に移ろうとした瞬間には、すでに言真に隙はなかった。
風音はステップを刻みつつ後方へ跳び、距離を取って体勢を立て直す。中段に構え直し、鋭く睨み据えた。
言真は小さくため息をつき、拳を軽く掲げる。
「……ぽん」
その声と同時に拳がぱっと開かれ、瞬間竹刀の先端が破片を散らしながら唐突に弾け飛んだ。
風音は舌打ちし、構えを解く。もはや使い物にならない竹刀の剣先を下へ向けながら、苛立ちを隠そうともせず髪をかき上げた。
「……私にも人術あればなぁ……」
「だから落ち着いてって。僕に君を傷つける気なんて、これっぽっちもないんだから。」
「苛立たせたのはあんたでしょうが。」
吐き捨てるように言うと、風音は彼から視線を外し、荷物をまとめてある隅へ歩く。竹刀を立てかけ、ペットボトルを取り出し、キャップを捻って一口だけ喉に流し込んだ。
言真はその様子を横目に、肩をすくめる。
「……まあ、それで結局。直弥くんは死刑猶予を撤回されて、今じゃ完全にお尋ね者。ここまでは、言ってみりゃ前座だね。」
風音は聞き耳だけを立て、言真の方は一切見ない。折れた竹刀を拾い上げ、静かに破損部分を確認しながら処理を始める。
言真は一拍置いて、声の調子をわずかに落とした。
「問題はさ……直弥くんが魔族だって情報が知れ渡った今、あの四堂八間会議で彼の擁護に回った僕たちの立場も、相当危うくなるかもしれないってこと。」
言葉を選ぶように、ゆっくりと言葉を継ぐ。
「――それを、君に伝えに来たんだ。」
続く…




