94話 真っ直ぐになんて
そして翌日。
アンナが予期した通り、いや……彼女でなくとも予想できてしまうほど当然の流れのように、現ADF総統・血沼蠟兆は、八幡直弥の即時追討命令をオリオン四隊へ正式に発令した。
同時に直弥の士官学校退学も決定。
さらに、三田沙紀には一旦「休学措置」が下されたが、實妥教官の話では――
「……実質的な復帰は厳しいだろう。軍人である以上、左腕の喪失は致命的だ」
その言葉が脳裏にこびりついて離れない。
璃久教官も療養中らしいが、彼のタフさなら数週間で戻ってくるだろう、と皆が言っていた。
沙紀とは違い、致命的な損傷ではないからだ。
そして白伊には、新しいバディが編成された。
だが――
味気ない。
心に何も響かない。
隣に立つ者の足音が、ただのノイズにしか感じられなかった。
以前のあの喧しい日々が、どれほど鮮やかで、どれほど大切だったか。
その反動だけが、今の白伊を、底の抜けた器のように虚しくさせていた。
そんな中で――唯一、ほんの少しだけ呼吸ができる場所があった。
曹夢瑤だった。
彼女はすでに退院しており、ADFから貸し出された小さな家でひっそりと暮らしている。
白伊が訪ねると、玄関の扉を開けた彼女は、以前よりずっと滑らかな日本語で微笑んだ。
「大丈夫? なんだか……目、すごくやつれてるよ?」
「…いや、なんでもないよ。ただ、最近の訓練がちょっとキツくてさ」
苦笑して誤魔化す白伊を、夢瑤はほんの数秒だけ見つめ――
ふっと、優しく首をかしげた。
「……直弥くんと、沙紀ちゃんのこと?」
まるで心の影まで透かして見ているみたいな声音だった。
白伊は思わず足を止めた。
胸の奥にしまい込んでいたつもりの痛みを、そっと指でなぞられたみたいで。
「……まあ、うん。そうだよ」
彼が答えると、夢瑤はゆっくりと靴を揃えて、室内へ迎え入れてくれた。
小さな家なのに、どこか温かい。煮物みたいな匂いと、柔らかい照明のせいだろうか。
リビングに置かれた丸いテーブルを挟んで腰を下ろすと、夢瑤は湯気の立つマグカップを差し出した。
「飲んで。ココア、あったかいのが良いかなって。」
白伊は礼を言って、口をつける。舌に触れた瞬間、優しい甘さがじわっと広がった。
「…大変なことに、なっちゃったね。」
夢瑤はそう、心配するように言った。
「…ああ。」
「…白伊くんはさ、直弥くん、本当に裏切ったんだと思う?」
白伊はマグを両手で包み込み、しばらく黙った。
ココアの甘さは、胸の奥のざらつきをまったく薄めてくれない。
「……わからないんだ。」
その答えは、弱々しくテーブルの上に落ちた。
「昔みたいに『あいつなら絶対そんなことしない』って、胸張って言えればいいんだけど……。あれからいろんなものがめちゃくちゃに壊れてさ。沙紀のことも、新しいバディとの関係のことも……全部、直弥の影と一緒にこびりついてくる。」
夢瑤はカップをそっと置き、静かな仕草で白伊の顔を覗き込んだ。
その瞳には責める影も慰めようとする圧もなく、ただ彼の痛みに触れようとする、透明な誠実さだけがあった。
「白伊くん、こんな言葉を知ってる?」
そう言って、彼女は母語の響きを大切にするように、柔らかな声で続けた。
「人生就像爬坡、要一步一步来――人生は坂道を登るみたいなもの。焦らず、一歩ずつ行けばいい。」
その言葉は、部屋の温度に溶けるように静かに落ちた。
白伊は瞬きを一つして、息をゆっくり吐き出す。
胸にへばりついていた黒い重さが、わずかに動いた気がした。
「……一歩ずつ、か。」
「うん。」
夢瑤は微笑む。その笑みは飾り気がないのに、なぜか胸にしみる。
「坂道を一気に駆け上がろうとしたら、転んじゃうでしょ?いまの白伊くんは、いっぱい転びそうになってる。だから……ちょっとずつでいいんだよ。」
白伊は手元のマグを見つめる。
湯気はまだ立っているのに、自分の指先は冷たいままだった。
「……俺、どうしたらいいんだろうな。」
夢瑤は少しだけ迷ってから、そっと彼の手に触れた。
驚くほど優しい温度が、指先に広がる。
「まずは、“ここにいる自分”をちゃんと許してあげて。怒っても、悲しくても、迷ってても……それ全部、登ってる最中の姿だから。」
彼女の声は決して大きくないのに、不思議なほど強かった。
白伊は、ようやく彼女の手を握り返す。
小さく、今にも壊れそうなほど頼りない力で。
「……ありがとな、夢瑤。」
言葉にすると、胸の奥の張り詰めた糸が少し緩んだような気がした。
夢瑤はにっこり笑った。
「うん。白伊くんは、ちゃんと前に進んでるよ。ゆっくりでいいの。ほんとに。」
その声は、坂道の途中で差し出された一本の杖みたいに、彼の心をそっと支えていた。
***
「……白伊くん……」
白伊が去ったあとの部屋で、夢瑤の小さな呟きが静かに落ちた。
カップの中のココアはまだ温かいのに、部屋は妙に冷えて感じられる。
彼女は、彼の目の奥に宿っていた“光”を思い返していた。
――あれは安堵でも、希望でもない。
もっと、危うく、張り詰めたもの。
「……あなたは、何を考えているの……?」
夢瑤は、記憶をたどる。
彼は「ありがとう」と言った。
けれど、その目は一切、笑っていなかった。
沙紀が大怪我をして帰還したと知らされた日。
士官学校が久々に休みだったこともあり、様子を見るついでに――そう言って、彼はふらりと私の家を訪ねてきた。
その直後だった。
インターホンを鳴らしたのは、士官学校の教官である實妥だった。
白伊くんは彼の報告を聞いた瞬間、表情を失い、持ってきた荷物にも目を向けず、焦ったように外へ駆け出していった。
私は、取り残された彼の荷物を實妥に託した。
その日、白伊くんが戻ってくることはなかった。
――それから、約一週間。
先ほど、ようやく彼は私の前に現れた。
顔色が少し悪く、目の下には濃い影が落ちていて、明らかにやつれていた。
眠っていない。
きっと、まともに食べてすらいない。
胸の奥に、じわりと不安が広がる。
「……壊れて、しまったんじゃないかな……」
自分に言い聞かせるように、夢瑤は小さく息を吐いた。
君は前に進んでいる――私はそう、言葉では言った。
でも、本当に進もうとしているのか、それとも……無理やり、壊れたまま歩こうとしているのか。
夢瑤は、テーブルの上に残されたもう一つのマグカップを見つめた。
その中のココアは、もう湯気を立てていなかった。
***
――悪い、夢瑤。
白伊はブリッツツークの駅構内で、黒いパーカーのフードを深く被り、顔を伏せたまま電車の到着を待っていた。
人の流れはあるのに、音は遠く、世界が一段薄くなったように感じられる。
――悪い、夢瑤。
俺はもう、真っ直ぐ前になんか進めない。
沙紀は、俺のすべてだ。
失って初めて気づいた、取り返しのつかない重さ。
もう二度と、これ以上、彼女が傷つくのを見るつもりはない。
ブリッツツークの警笛が、鋭く駅構内に鳴り響いた。
直後、電車が風を切り、金属音を立てながらホームへと滑り込んでくる。
――もう、誰にも傷つけさせない。
そのためなら、
正しさでも、規則でも、未来でも――
必要なら、すべて踏み越える。
どんな手段を使ってでも、
脅威は、俺が先に取り除く。
白伊は顔を上げないまま、一歩、電車へと足を踏み出した。
その背中には、戻れない覚悟だけが、静かに張り付いていた。
続く…




