93話 黒い感情
俺は、三田沙紀が好きだ。
だが同時に――
ずっと前から気づいてもいた。
三田沙紀は、八幡直弥のことが好きだ。
数ヶ月前に俺と同じようにADFへ転げ込んできたあいつは、最初こそ情けなくて、弱くて、何も知らないただの一般人だった。
俺は内心馬鹿にしていたし、沙紀が彼と笑い合うたび、胸の奥がざらついて、どうしようもなく不快だった。
けれど――吉林省の一件で、俺は思い知らされた。
あいつは強かった。
俺なんかが測ってた“物差し”の、何十倍もの器を持っていた。
廃工場で人民解放軍に包囲されたあの瞬間、全員が詰んだと悟った中で、直弥だけが冷静で、あいつの案があったからこそ、俺たちは生きて帰れた。
その夜。
洞窟の薄暗い灯りの下で、肩を並べて語り合う二人の背中を、俺は寝たふりをしながらずっと見ていた。
ああ――こいつなら。
沙紀を託してもいい。
そう思えた。
バディとしても、友人としても、本気で信頼できたはずだった。
……はず、だったのに。
***
「沙紀!!」
気がつけば、俺は病室の扉を乱暴に押し開けていた。
そこには――
シチリアでの任務を終えた沙紀が、変わり果てた姿で横たわっていた。
全身が血の滲む包帯でぐるぐるに巻かれ、
そのたびに苦痛が走るのか、寝息をするたびに呻く。
包帯の隙間から覗く顔色は紙みたいに白く、手足は細くこわばり、汗がにじんでいた。
そして何より――
彼女の左腕が、肘から先ごと失われていた。
「……沙、紀……」
息が詰まる。
喉の奥が焼けるように熱くなり、視界が揺れた。
崩れ落ちそうになる膝を、必死に踏ん張る。
ここで倒れたら、もう二度と立ち直れない気がした。
背後から看護師が駆け込んできて、焦った声で叫ぶ。
「白伊さん!ここは面会謝絶です!入っては――!」
わかってる。
そんなこと、わかってる。
でも――どうしても、どうしても来ずにはいられなかった。
ベッドに横たわる彼女の姿が、胸に鋭く突き刺さる。
涙なんて、絶対に見せないつもりだった。
なのに、気づけば視界が滲んでいた。
「……なんで……なんでだよ……沙紀……」
震える指先で、触れることすらためらった。
壊れそうで、触れたら消えてしまいそうで。
駆けつけてきた医師の一人、直弥の主治医だったはずのアンナ・ファルコンがその様子を見て申し訳なさげに呟いた。
「…白伊涼菟くん。すこし、場所を変えてお話しましょう。」
***
シチリア島で起きた惨事の全貌は、想像を絶するものだった。
魔族が陰で糸を引いたマフィア抗争は瞬く間に拡大し、構成員のみならず警察や軍関係者を含めておおよそ八百名が命を落とした。栄華を誇った三大マフィア――イル・サングエ・ロッソ、ファミリア・ディ・サングエ・ドーロ、ラ・ローザ・ネーラ――は同様に首領と幹部の大半を失い、事実上の解散を余儀なくされた。
抗争を仕組んだ魔族は最期を迎えたが、その代償は大きかった。派遣されたオリオン隊員たちも甚大な被害を被り、玄武隊の熊野璃久は重出血で瀕死の重傷を負い、青龍隊の柏谷狭も同様に重傷を負った。三田沙紀は現地で全身に大火傷を負い、特に左腕の損壊が激しく、やむを得ず切除されるに至った。
そして、何より衝撃的だったのは八幡直弥の失踪だった。
現地の監視映像と断片的な証言がつなぎ合わされるにつれ、事態の輪郭が明かされていく。直弥は魔族の攻撃を受けて瀕死の状態に陥ったが、その瞬間彼は魔族化し、驚異的な力で魔族を圧倒して次々とねじ伏せた。魔族を一掃した直弥は、瀕死の沙紀と、ラ・ローザ・ネーラの首領(重傷あるいは致命傷であったとされる)を残して、そのままどこかへ消え去ったのだ。
「…それで、ここからが重要なんだけどね。」
アンナは資料を手渡す。白伊は呆然としながらも、それを受け取った。
「彼は…元々“特別な人間”で、人間と魔族の混血だったの。鳴矢高校事件で捕らえられた時には、まだ魔族の気配が微かに残っていたのだけれど……あなた達士官学校生と出会う頃には、本人すら気づかないうちに、彼の中の魔族が同体変異種化を完遂させていた。だからあなた達は、あの子から魔族の気配を一切感じなかったのよ」
アンナは脚を組み替え、指先で資料をとんとんと整えてから続けた。
「――で、ここからは開発室の仮説を踏まえた、あくまで私個人の見解。鵜呑みにはしないでほしいのだけれど…」
白伊は何も言えず、ただ黙って聞き続ける。
「おそらく彼が致命傷を負った瞬間、リビドエネルギーとマギアエネルギー――要は生力と魔力の比率が逆転したの。同体変異種って、もともと両方を同じ器に押し込んでるせいで、極端なダメージを受けるとより“強い方”が表に出て肉体を支配する傾向があるのよ。いわば、生存のための“優先権の奪い合い”ね」
アンナは壁のモニターを指す。
「その結果、彼は意図せず――いや、ほぼ強制的に――中に潜んでいた魔族へ身体を明け渡したのだと思う。同体変異種の特性そのものと言ってもいいわ。どちらか片方が死にかければ、もう片方が肉体の主導権を奪って、組織を“初期化”する」
そこでアンナは一度間を空け、言葉を選ぶように言った。
「簡単に言うなら――残機がひとつ増えるみたいなものよ。ただし復活する側が、必ずしも本人とは限らないというだけでね」
白伊はモニターに映る、魔族化した直弥をじっと見つめた。
「……それで、どうなるんです。直弥は。」
アンナはうつむきがちに、沈痛な声で言った。
「…私自身、それでも彼を信じたい気持ちはあるわ。でも…」
彼女は苦々しげにため息をつく。
「――上層部は、そんな情に流される連中じゃない。特に熊野家や血沼家なんかは、“ここぞ”とばかりに動くでしょうね。直弥くんの死刑執行の猶予期間を一気に短縮して、正式に討伐対象として扱うはずよ」
アンナはさらに言葉を続けた。
「それだけならまだマシ。問題は、“その過程で何をするか”よ。彼らにとって邪魔な家系――朽宮家なんか、真っ先に巻き込まれる可能性がある。佳人卿だって、直弥くんの庇護に立つなら標的にされる」
アンナは、最後に最も言いにくい言葉を搾り出した。
「……最悪の場合、今もこの病院で療養している直弥くんの妹――八幡楓ちゃんにまで、火の粉が降りかかるかもしれない」
白伊の視界がゆっくりと揺れた。
胸の奥がきしむ。だが同時に――腹の底で、何か真っ黒いものがぶくりと膨れ上がる。
言ってはいけない。
分かっている。
けれど、もう堰が壊れたように、止まらなかった。
「……自業自得ですよ」
「…え?」
アンナの反応が耳に届く前に、言葉が勝手に続く。
「沙紀が…あんな目にあって、左腕まで失って。なのに奴は、助けるどころか……逃げたんですよ。尻尾巻いて。こんな結末になっても――自業自得だって、俺は……そう思います」
「白伊…くん?」
アンナの声は戸惑っていた。
だが白伊には届かない。もう止められなかった。
「そもそも、あいつは最近人術に目覚めたはずです。それも相反療術。奴が術を転化さえしていれば、沙紀は……全快まではいかなくても、左腕まで切られずに済んだかもしれない。……それなのに、何もしてやらなかった」
胸に巣食う黒い渦が、言葉になって次々と溢れ出す。
「だから……仕方ないんですよ。あいつの妹がどうなろうが、もう知りません。むしろ――味わったほうがいい。自分にとって大事な人を傷つけられる痛みを……!」
瞬間――
「白伊涼菟くん。」
氷のように冷え切ったアンナの声が、鋭く空気を裂いた。
はっとして顔を上げる。彼女は怒っているわけでも、呆れているわけでもなかった。
ただ、真っ直ぐに、静かに彼を見ていた。
「……あなたの気持ちは分かるわ。でも、それは心の中で押さえておきなさい」
少し間を置いて、アンナは静かに続けた。
「もしその言葉を――あなたが大切に思っている沙紀さんが聞いたら、彼女がどう思うかを考えなさい。」
アンナは立ち上がり、資料を紙束の上に重ねる。
「さて、お話もここまでにしましょう。貴方も明日朝早いのでしょう?もう日も暮れたし、ちゃんと学校へ帰って寝なさい」
言われるがまま、白伊は部屋の外へ出た。
彼は廊下を歩きながら、ひたすら思案にふける。
腹の底の黒い感情は、いまだ消えずに沸き立っていた。
続く…




