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人魔闘諍  作者: ゆっけ
第伍章
93/112

92話 恋慕と追憶

 俺は、三田沙紀のことが好きだ。



 白伊涼菟は胸中でそう呟く。



 俺と沙紀が出会ったのは、7年前のあの日だ。


 俺は元々、直弥と同じく地上で生きる人間だった。

 日本人の、父と母の三人家族で、両親とも俺の意思を尊重してくれる、優しい大人だった。


 10のガキだった俺は、気性こそ荒かったが特に問題を起こすような子供でもなく、いわばごく普通の一般家庭で生きてきた。


 その日も代わり映えのない日常があって、俺たちは笑って過ごしていた。


 ――その夜、たしか深夜12時すぎだったか。


 既に眠っていた俺は、階下から響いた激しい物音と、誰かの悲鳴で飛び起きた。胸がざわつき、喉がひりつく。恐る恐る階段を降りると、リビングへ通じる扉の向こうは明るかった。テレビの音も漏れていて、一瞬だけ「ああ、なんだ」と思った。


 ……その油断が、きっと日常からの外れ道への最初の一歩だった。


 扉を開けた瞬間、空気が変わった。


 両親は、惨殺されていた。


 父は椅子に座ったまま、首だけが不自然に消えていて、晩酌途中だったらしいグラスのビールには血が混ざり、濁っていた。

 母は俺の足元で倒れていた。背中を深く裂かれ、血に濡れた腎臓や肺、脊髄が露わになっていた。伸ばされた手は、俺が開けた扉に向かって固まっている。きっと、逃げようとしたのだろう。


 血の匂いが焦げたように鼻を刺し、見慣れたはずのリビングは別世界みたいにねじれて見えた。

 腰を抜かした俺は、その現実に怯えることしかできなかった。


 そのとき、ようやく視界の端で白い煙が揺らめいていることに気づいた。キッチンから出火していたのだ。だが、腰の抜けた身体では逃げることもできない。


 ――と、そのとき玄関の扉が開いた。


 俺は絶望した。

 両親を殺した奴が戻ってきたんだと、反射的に思ったからだ。


 だが、入ってきた男は違った。

 目元はやつれ、疲れ切った顔。濃灰色の軍服は青い液体で染まり、手には漫画でしか見たことのないような“バケモノ”の生首をぶら下げていた。そこから滴る青い液体を見て、ようやく理解した。


 ――この男が、バケモノを殺したのだと。


 だが脳はその異常すぎる光景を受け止めきれず、理解すること自体を拒んでいた。


 男は俺の姿と、玄関越しに見える惨状を見て一瞬固まった。

 数秒の沈黙のあと、ゆっくりと俺の方へ近づいてきた。


 俺は反射的に抵抗しようとした。

 だが彼の力は強く、暴れる俺を一瞬で抱き上げると、そのまま逃げるように玄関を飛び出した。


 外から見たリビングは、炎で朱色に染まっていた。

 その光景を見て、やっと――

 俺は、両親が死んだのだと理解した。


 抵抗することも忘れ、ただ泣き喚く俺を、男は一言もかけずに抱えたまま走り続けた。

 揺れる視界の端で、彼の耳の銀色のピアスが月明かりに光っていたのを覚えている。


 そのきらめきを眺めながら、俺はいつの間にか意識を手放した。



 次に目を覚ました時、俺は白いベッドの上にいた。

 視界の隅で蛍光灯がじりじりと唸っていて、消毒液の匂いが鼻に刺さる。目をこすって身体を起こし、ぼんやりと周囲を見渡す。


 そこは病室だった。

 俺が目覚めたのに気づいた医師たちが、慌てて駆け寄ってきた。

 脈拍、瞳孔、怪我の有無……淡々と状態を確認していく。

 そして「しばらく待っていてくれ」とだけ告げられた。


 どれくらい経っただろう。

 扉が開き、一人の軍人が入ってきた。璃久さんだ。


 当時の璃久さんはⅢ型戦闘員で、今みたいに高官でも教官でもなかった。

 それでも俺のベッドの前に立つ彼は、妙に場慣れしていて、荒事の匂いをまとっていた。


 彼はぶっきらぼうに、魔族のこと、ADFのこと、そして両親のことを話してくれた。


 ――やはり両親は魔族に殺されたのだと。

 しかもそれは、本来なら防げたはずの事態だったと。

 あの日、俺を抱えて逃げた玄武隊・八間の罌粟須 三津が魔族を取り逃がした結果、両親は殺されたのだと。


 そんな話、小さな頭で理解できるわけがなかった。

 いや、理解したくなかった。


 璃久さんは、俺の混乱を見透かしたように一言だけ言った。


「じきに嫌でも理解することになる」


 その声が妙に冷たくて、俺はただ呆然と立ち尽くすしかなかった。



 ***



 数か月のメンタルケアを経て、ようやく外出が許可された。


 璃久さんの付き添いのもと、俺は久しぶりに外の空気を吸った。

 ユートピアの街は、地上で見てきたどんな場所とも違っていた。

 異国の空気、見たことのない建物、様々な人種が入り混じる雑踏。

 なのに――皆、日本語を話している。


 不思議に思った俺は、璃久さんに尋ねた。

「なんでここではみんな日本語なんですか?」


 璃久さんは困ったように眉根を寄せ、タバコを咥えたまま言った。


「……俺にも分からん」




 日が沈みかけ、そろそろ病院へ戻ろうと璃久さんに言われたときだった。


 中心街の一角で、俺は彼女を見た。


 俺と同じくらいの年齢の少女。

 白いコックコートにベージュの腰巻きエプロン、ベレー帽。

 腕いっぱいのりんごを抱え、忙しそうに大通りを渡っていく。


 ただそれだけの光景なのに、俺の目は彼女に釘付けになった。

 心臓が、理由もなく跳ねた。


 気づけば俺は、璃久さんの隙をついて彼女のあとをつけていた。


 少女は何度か角を曲がり、小さなパン屋へと入っていった。

 店の明かりに浮かぶ彼女の横顔を見ながら、入るべきかどうか迷っていたその時――


 後ろから頭を小突かれた。


 振り返れば、さっき撒いたはずの璃久さんが、呆れた顔で腕を組んで立っていた。


「……お前、何やってんだ」


 俺は思わず口をつぐんだまま固まってしまった。

 怒鳴られると思って身構えていたが、璃久さんはため息ひとつついただけで、俺の視線の先――パン屋の方へ目を向けた。


「お前…パン、好きなのか?」


 意外すぎて、頭がうまく回らなかった。

 俺はてっきり、付き添いを撒いたことを叱られるとばかり思っていたからだ。

 質問の意味すら、一瞬理解できなかった。


 俺がぽかんとしたまま答えずにいると、璃久さんは無言でポケットに手を突っ込み、じゃら、と小銭を取り出した。


「……買いたいなら買ってこい。街の人との交流も大事だ」


 ぶっきらぼうな声だったが、そこに怒気はなかった。

 むしろ、どこか俺を気遣っているようにも感じた。


 差し出された小銭をしばらく見つめ、そっと受け取る。

 掌に乗った硬貨は妙に重かった。


 パンを買いに行こう――

 なのに足がなかなか動かない。


 あのパン屋に入ったら、俺はさっきの少女と真正面から向き合うことになる。

 胸の奥がざわついて、落ち着かない。


 璃久さんが横目で俺を見る。


「行かねぇのか?」


「……行く」


 自分でも驚くほど小さい声だった。

 けれど、その一言で、一歩が踏み出せた。


 俺はパン屋の扉を押し開けた。

 カラン、と鈴が鳴り、温かい匂いがふわりと包み込む。


 中では、さっきの少女がりんごをレジ奥に置きながら、忙しそうに店内を走り回っていた。

 近くで見ると、髪は栗色で、肌はすこし白くて――

 俺と同じくらいの年なのに、働く姿が妙に大人びて見えた。


 少女は振り向き、俺を見た。


 少し驚いたような、でもすぐ笑顔に変わる。


「いらっしゃいませ!」


 その声が、胸にまっすぐ飛んできた。


 俺は言葉を返せずに固まった。

 代わりに、手の中の小銭がカチャリと鳴る。


 少女は首をかしげる。


「えっと……お客さん、ですよね?」


 その一言で、心臓が跳ねた。

 変な汗まで滲んでくるのに、俺はうなずくことしかできなかった。


 だがそのぎこちない動作すら、少女には別の意味に映ったらしい。

 彼女はぱっと表情を明るくして、花が咲くみたいに笑った。


「よかった〜!ほんとにお客さんだ!迷ってる子かと思っちゃった」


 その笑顔の破壊力に、胸がざわつく。

 なんだこれ。


 少女はくるりと後ろを向き、奥の作業台へ走っていく。

 するとすぐに思い出したように振り返って、両手をぱたぱたさせながら言った。


「――あ、そうだ!今アップルパイ作る練習してるんですよ!」


 その声には、妙に弾むような期待が混ざっていた。


「よかったら、試食してくれませんか?」


 ……待て。

 俺はパンを買いに来ただけだ。

 それなのに“試食”なんて、そんな距離の詰め方をされるとは思ってなかった。


 なぜか足が硬直し、喉が乾く。

 でも、少女は俺の返事を待ってきらきらした目で見ている。


 逃げ場は――ない。


「……え、っと」


 声がかすれる。

 少女はさらに一歩近づく。

 距離が近い。近すぎる。


「ダメ、ですか?」


 その小さな問いに、ぐらりと心が傾いた。


「……食べる」


 ほとんど反射だった。

 気づけば、そう口にしていた。


 少女はぱぁっと嬉しそうに笑った。


「やった!ちょっと待っててくださいね!」


 そう言って、彼女は作業台へ駆け戻る。

 白いコックコートがひらりと揺れて、甘い焼き菓子の匂いがふわりと漂う。


 俺はその場に立ち尽くしていた。

 胸がどくどくとうるさくて、自分の鼓動が店内に響いてるんじゃないかと思うほどだった。


 ああ、もう最初の一歩で完全に掴まれていたんだ。

 そんな実感だけが、今でも妙に鮮明に残っている。


 やがて、少女が両手にそっと何かを抱えて戻ってきた。

 湯気をうっすらまとった、小さな皿。


「お待たせしました!」


 差し出されたそれは、手のひらサイズのアップルパイだった。

 まだ焼きたてのぬくもりを帯び、表面のグラサージュが光を受けてきらきらと艶めいている。


 手渡されたアップルパイは、まるで宝石のように明るく輝いていた。

 俺の掌に乗ると、ほのかに甘い香りが立ち上り、胸の奥まで染み込んでいく。


「形ちょっと歪んじゃったけど……味は、たぶん大丈夫……だと思います」


 少女は不安げに笑った。

 その表情が、また胸を締めつけた。


 食べなきゃ、と頭では思うのに、手が震えてなかなか口元まで運べない。

 なぜか、この一口がとんでもなく大きな出来事になる気がして。


「……食べてみてもいい?」


 自分で言っておきながら、声が妙にかすれていた。


 少女はぱっと顔を輝かせた。


「もちろんです!」


 俺はそっとアップルパイにかぶりついた。

 ふわっとした生地の甘さと、りんごの優しい酸味。


 胸がぎゅっとなった。


 ――ああ、これは反則だろ。


 言葉にできない何かが、喉の奥でひっかかる。

 気づけば、指先までじんわり熱い。


 少女が期待のこもった目で覗き込む。


「……どう、ですか?」


 俺は、正直に答えるしかなかった。


「……めちゃくちゃ、うまい」


 少女は、弾けるように笑った。

 その笑顔だけで、世界の景色が変わった気がした。


 店の奥で、パンの膨らむ香りが広がっていく。

 俺の人生にとって、あの日、あの瞬間――

 ここから第二の人生のすべてが始まったのだと、今ならよくわかる。



 ***



 少女の名は三田沙紀というらしい。彼女も俺と同じく親を幼い頃に亡くしたらしく、今は彼女の知り合いであるバクレン・ミケル夫妻が運営するパン屋で住み込みで働いているらしい。


 パン屋はこぢんまりしているくせに、いつもどこか賑やかだ。朝の仕込みの音や、焼き上がりを知らせる夫妻の朗らかな笑い声。そこに沙紀の、鈴みたいな短い返事が混ざる。


 俺はというと、病室の退屈を理由にしながら、彼女のパン屋に通い詰めていた。

 まあ結局はただ――あの小さな店の匂いや温度に、心が引っ張られていたのだと思う。


 ある日、暖簾をくぐると、沙紀がカウンター越しにふっと目を丸くした。


「……また来たんですね」


「また来たよ。文句ある?」


「べつに。お客さんが来て困る店なんて、ないですから」


 言いながらも、バターの香りをまとった頬が、少しだけ緩んでいた。

 俺はその小さな変化を見逃さなかったし、たぶん見逃したくもなかった。


 気づけば、パンを選ぶふりをして、俺はいつものあの同じ席に腰を下ろしていた。窓際の、陽がちょうどよく落ちる場所。そこから見える沙紀の横顔は、まるで店の一部みたいに馴染んでいて、でもどこか脆さを含んでいた。


 彼女は忙しい時間帯でもふと立ち止まり、俺の方へ話しかけにくる。

 俺も笑顔で対応しながら、その幸せを噛み締めた。


 そんな日々が、いつの間にか俺の“日常”として染み込んでいった。


 そして――

 ある日の閉店間際、沙紀はふいに俺の横に座り、小さく息を吐いた。


「……涼菟くん。ひとつだけ、聞いてもいいですか?」


 その声は、いつもの沙紀よりほんの少しだけ弱くて、けれど逃げ場のない真剣さを帯びていた。

 まだ幼さの残る顔を、俺は正面から見つめる。

 胸の奥が、ぐっとつかまれたみたいに跳ねた。


「なに?」


 そう返しながらも、喉の奥がかすかに乾く。

 店内はすでに照明が半分落とされ、奥のキッチンから漂う小麦の匂いだけが、やけに鮮明に感じられた。

 沙紀は膝の上で指をきゅっと絡め、数秒ほどためらってから口を開く。


「……涼菟くんって、なんでそんなに優しいんですか?」


 思っていた質問とまるで違って、俺は一瞬言葉を失った。


 沙紀は続ける。


「パン買いにくるだけなのに、毎回楽しそうに話してくれて。しかも病院から来てるって…具合悪いのに無理して来てるんじゃないかって心配になるくらい、いつも笑ってて……。そういうの、私……ちょっと怖くなるんです」


「怖い?」


「うん。だって――」


 彼女はそこで視線を伏せる。

 長いまつげが、店の薄明かりにかすかに影を落とした。


「……優しすぎる人って、いなくなる前だからこそ一番優しいって……そう思っちゃうから」


 俺は、その言葉の意味がすこしよくわからなかった。

 そして、俺は沙紀に聞いた。


「何か、あったの?」


 俺はできる限り優しい口調でそう聞いた。彼女は悲痛な表情を浮かべながらも、ゆっくりと語りだした。

 厄災の日のこと、彼女の母のこと。


 全てを語り終えた彼女は、泣いていた。俺は何も言えず、ただ黙っていた。


「お母さんに…会いた、い…」


 彼女はその言葉を最後に、ただ黙って泣いていた。俺は彼女の背中をさすりながら、慰めの言葉を考える。


「……俺は別に、いなくならないよ」


 そう言いかけた瞬間、沙紀がすぐに首を横に振った。


「……だめ。そんな言葉、信じちゃ…ダメなんです。……信じたら、失うから」


 その言葉は薄い笑顔で包まれていたけれど、彼女の頬を伝う涙が、どれほどその笑顔が無理やりつくられたものかを語っていた。


 俺はしばらくの間、何も言えなかった。

 下手な言葉を投げれば、今にも崩れてしまいそうな気がして。


 沙紀は袖で涙をぬぐおうとしたが、すぐに追いつかなくなって、肩を震わせながらぽろぽろと零す。

 静かなパン屋に、彼女のすすり泣く声だけが残った。


 俺はそっと手を伸ばし、震える背中に触れた。

 細くて、あたたかくて、どこか頼りない。


「……ごめんなさい。涼菟くんに、こんな話……したくてしたわけじゃなくて」


 涙で濡れた声が、かすかに震える。


「でも、誰にも言えなくて……。ミケルさんもバクレンさんも優しいけど……家族じゃないから……。本当は、ずっと……ひとりだったんです」


 その言葉に胸が締めつけられた。


 家族を失った痛みは、俺だってわかる。

 けれど彼女の場合、その傷はずっと誰にも触れられないまま冷えて、固まって、今ようやく溶け始めたんだ。


「沙紀」


 呼びかけると、彼女はこぼれ落ちる涙をそのままに、俺のほうへ顔を向けた。

 弱くて、壊れそうで、それでも必死に踏みとどまる瞳。

 胸がぎゅっと熱くなった。


 どう言えばいいか、しばらく迷った。

 沈黙が数秒、いやもっと長く感じられるほど流れる。


 そして――俺は、ずっと胸の奥に押し込んでいたことを、そっと掘り起こした。


「……俺さ。沙紀には、ちゃんと言っときたいことがある」


 彼女のまなざしが、また少し揺れる。

 怯えじゃない。

 “聞く覚悟”を決めた人間の目。


 俺は静かに息を吸った。


「俺は……ADFの住人じゃない」


 その時点で、沙紀が小さく肩を震わせた。

 興味じゃなくて、俺が“何か重いものを出そうとしている”と気づいたんだと思う。


「……そんな重要なこと、いいんですよ。ムリに話さなくても」


 優しい。

 でも、その優しさに隠れた“距離”を、ようやく俺は掴めた。


 だからこそ、俺はゆっくり首を振った。


「いや。沙紀だから……話したいんだ」


 その言い方に、彼女はほんの一瞬目を見開いた。


「本当は、口外すんなって言われてた。でも……沙紀には、大丈夫って思った」


 そう本音を吐き出した瞬間、彼女の目が少しだけ丸くなった。

 驚きと、信じようとしている気配。


 なら、もう逃げない。


「俺も……沙紀と同じように、両親を魔族に殺されたんだ」


 静かな店内に、その言葉だけが落ちた。


「本当は……助かるはずだったんだよ。でも、八間の人が魔族を取り逃がして……それで」


 沙紀の表情が、悲しみと戸惑いのあいだで揺れた。

 俺は続ける。


「気づいたら、俺ひとりでユートピアに連れて来られてて。病室で目を覚まして……そこで全部、あきひ――軍人さんに、魔族のこととか、ADFのこととか…聞かされた」


 自分で言いながら、当時の景色が少し滲む。

 白いベッド。

 冷たい説明の連続。

 理解が追いつかないままの喪失。


「……あの日から、何もかも急に変わって。頭も心もついていかなかった。……でも、そんな時に」


 俺は沙紀を見る。


「リンゴ抱えて走ってた、コック帽の女の子がいてさ」


 沙紀はきょとんとして、涙のあとが残ったまま、ちょっとだけ頬を赤くした。


「その人が、めちゃくちゃ明るい声で……“食べてみませんか?”って、アップルパイ、渡してきたんだよ」


 沙紀はその場で小さく息をのんだ。


「……それ、覚えてます」


「そりゃ覚えてるだろ。渡したの沙紀だし」


 少し茶化すように言ったが、それは照れ隠しだった。

 本当は胸がちょっと痛い。


「俺、あれでさ。やっと、生きててもいいのかもって思えたんだ」


 沙紀はもう、言葉を飲み込んだまま、じっと俺を見ていた。


「だから……沙紀が“ひとりだった”って言ったの、わかるよ。俺も、ひとりだったから」


 そう言った瞬間――


 沙紀の瞳から、またひと筋、涙がこぼれた。


 でも今度の涙は、さっきとは違った。


 たぶん、“分かり合えた”ときに落ちる涙だ。


「……涼菟くん」


 声が震えていた。


「そんなの……聞いたら……私、ほんとに……あなたを信じちゃうじゃないですか……」


 俺は静かに微笑んだ。


「信じろよ。俺はもう、沙紀の前で嘘つかねぇよ」


 沙紀は胸に手を当てて、小さく息を詰めた。


 その仕草が、どうしようもなく愛おしい。


「……私も、涼菟くんのこと……もっと知りたいです」


 その言葉を聞いた瞬間――


 俺の胸の奥で、何かがそっと音を立てた気がした。



 ***



 しばらくして、俗に玄武政変と呼ばれる出来事が起きた。

 結果として、俺がADFへ来るきっかけを作ったとも言うべき八間・罌粟須三津が、もう一人の八間・瞳巍柾木(まさき)を殺し、地上へ逃げてしまった。


 当時、厄災の日以降最悪とも呼ばれる一大事件に、ユートピア中が大混乱した。

 誰もが信じられないという顔をしていたし、軍関係者は昼夜問わず奔走していた。

 まさに街ごとひっくり返ったような混乱。


 ――だが。


 それ以上に取り乱していたのが、沙紀だった。


 彼女の厄災の日の記憶。

 その中で罌粟須は、壊れゆく水族館で彼女をかばい、必死に守ってくれたという。


 彼女にとっては、たったひとりのヒーローだったのだろう。


 そんな彼が“人殺しの逃亡者”として名を轟かせ、街中の掲示板には指名手配が貼られ、住民同士が怯えた声で名を囁き合う。


 ――取り乱すなという方が無理だった。


 沙紀は、誰もいないパン工房の隅で、ぎゅっと自分の両腕を抱きしめながら震えていた。


「なんで……どうして……あの人が……」


 声はかすれて、涙で滲んでいた。


 だけど。

 そんな彼女を見ていると――胸が、どうにも複雑にざわついた。


 俺の両親が死んだ夜。

 その原因をつくったのも、罌粟須だった。


 同情なんて、できるわけがない。

 許す気もない。


 でも、今目の前にいる沙紀は、彼を“恩人”と呼ぶ。


 その事実が、胸の奥で鈍くぶつかり続けていた。


 ……どうすりゃいいんだろうな。

 その時の俺には、結局何も言えなかった。


 しばらく沈黙が落ちたのち、沙紀はゆっくり顔を上げた。


 涙で濡れた瞳は、どこか別の決意で光っていた。


「……私」


 震え混じりの声で、でもはっきりと言った。


「私、お母さんみたいな軍人になりたい」


 その言葉を聞いた時、胸がどきりとした。


 悲しみの余韻が消えていないのに。

 崩れるどころか、そこから“未来”へ足を踏み出すような強さがあった。


 俺は思わず彼女の横顔を見つめた。


 沙紀はまだ震えていた。

 でも、瞳の奥はしっかり前を見据えていた。


「……誰かを守れる人に、なりたい。もう誰も……目の前で失いたくない。」


 その声は弱くて、でも折れていなかった。


 その瞬間――

 俺は胸の奥をきゅっと掴まれたような気がした。


 好きだと思った。

 もっと強く。


 そして、俺の中でもひとつの“道”が形を取り始めた。


「――なら、俺も行く。」


「…え?」



「俺も、軍人になる。」



 続く…

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