92話 恋慕と追憶
俺は、三田沙紀のことが好きだ。
白伊涼菟は胸中でそう呟く。
俺と沙紀が出会ったのは、7年前のあの日だ。
俺は元々、直弥と同じく地上で生きる人間だった。
日本人の、父と母の三人家族で、両親とも俺の意思を尊重してくれる、優しい大人だった。
10のガキだった俺は、気性こそ荒かったが特に問題を起こすような子供でもなく、いわばごく普通の一般家庭で生きてきた。
その日も代わり映えのない日常があって、俺たちは笑って過ごしていた。
――その夜、たしか深夜12時すぎだったか。
既に眠っていた俺は、階下から響いた激しい物音と、誰かの悲鳴で飛び起きた。胸がざわつき、喉がひりつく。恐る恐る階段を降りると、リビングへ通じる扉の向こうは明るかった。テレビの音も漏れていて、一瞬だけ「ああ、なんだ」と思った。
……その油断が、きっと日常からの外れ道への最初の一歩だった。
扉を開けた瞬間、空気が変わった。
両親は、惨殺されていた。
父は椅子に座ったまま、首だけが不自然に消えていて、晩酌途中だったらしいグラスのビールには血が混ざり、濁っていた。
母は俺の足元で倒れていた。背中を深く裂かれ、血に濡れた腎臓や肺、脊髄が露わになっていた。伸ばされた手は、俺が開けた扉に向かって固まっている。きっと、逃げようとしたのだろう。
血の匂いが焦げたように鼻を刺し、見慣れたはずのリビングは別世界みたいにねじれて見えた。
腰を抜かした俺は、その現実に怯えることしかできなかった。
そのとき、ようやく視界の端で白い煙が揺らめいていることに気づいた。キッチンから出火していたのだ。だが、腰の抜けた身体では逃げることもできない。
――と、そのとき玄関の扉が開いた。
俺は絶望した。
両親を殺した奴が戻ってきたんだと、反射的に思ったからだ。
だが、入ってきた男は違った。
目元はやつれ、疲れ切った顔。濃灰色の軍服は青い液体で染まり、手には漫画でしか見たことのないような“バケモノ”の生首をぶら下げていた。そこから滴る青い液体を見て、ようやく理解した。
――この男が、バケモノを殺したのだと。
だが脳はその異常すぎる光景を受け止めきれず、理解すること自体を拒んでいた。
男は俺の姿と、玄関越しに見える惨状を見て一瞬固まった。
数秒の沈黙のあと、ゆっくりと俺の方へ近づいてきた。
俺は反射的に抵抗しようとした。
だが彼の力は強く、暴れる俺を一瞬で抱き上げると、そのまま逃げるように玄関を飛び出した。
外から見たリビングは、炎で朱色に染まっていた。
その光景を見て、やっと――
俺は、両親が死んだのだと理解した。
抵抗することも忘れ、ただ泣き喚く俺を、男は一言もかけずに抱えたまま走り続けた。
揺れる視界の端で、彼の耳の銀色のピアスが月明かりに光っていたのを覚えている。
そのきらめきを眺めながら、俺はいつの間にか意識を手放した。
次に目を覚ました時、俺は白いベッドの上にいた。
視界の隅で蛍光灯がじりじりと唸っていて、消毒液の匂いが鼻に刺さる。目をこすって身体を起こし、ぼんやりと周囲を見渡す。
そこは病室だった。
俺が目覚めたのに気づいた医師たちが、慌てて駆け寄ってきた。
脈拍、瞳孔、怪我の有無……淡々と状態を確認していく。
そして「しばらく待っていてくれ」とだけ告げられた。
どれくらい経っただろう。
扉が開き、一人の軍人が入ってきた。璃久さんだ。
当時の璃久さんはⅢ型戦闘員で、今みたいに高官でも教官でもなかった。
それでも俺のベッドの前に立つ彼は、妙に場慣れしていて、荒事の匂いをまとっていた。
彼はぶっきらぼうに、魔族のこと、ADFのこと、そして両親のことを話してくれた。
――やはり両親は魔族に殺されたのだと。
しかもそれは、本来なら防げたはずの事態だったと。
あの日、俺を抱えて逃げた玄武隊・八間の罌粟須 三津が魔族を取り逃がした結果、両親は殺されたのだと。
そんな話、小さな頭で理解できるわけがなかった。
いや、理解したくなかった。
璃久さんは、俺の混乱を見透かしたように一言だけ言った。
「じきに嫌でも理解することになる」
その声が妙に冷たくて、俺はただ呆然と立ち尽くすしかなかった。
***
数か月のメンタルケアを経て、ようやく外出が許可された。
璃久さんの付き添いのもと、俺は久しぶりに外の空気を吸った。
ユートピアの街は、地上で見てきたどんな場所とも違っていた。
異国の空気、見たことのない建物、様々な人種が入り混じる雑踏。
なのに――皆、日本語を話している。
不思議に思った俺は、璃久さんに尋ねた。
「なんでここではみんな日本語なんですか?」
璃久さんは困ったように眉根を寄せ、タバコを咥えたまま言った。
「……俺にも分からん」
日が沈みかけ、そろそろ病院へ戻ろうと璃久さんに言われたときだった。
中心街の一角で、俺は彼女を見た。
俺と同じくらいの年齢の少女。
白いコックコートにベージュの腰巻きエプロン、ベレー帽。
腕いっぱいのりんごを抱え、忙しそうに大通りを渡っていく。
ただそれだけの光景なのに、俺の目は彼女に釘付けになった。
心臓が、理由もなく跳ねた。
気づけば俺は、璃久さんの隙をついて彼女のあとをつけていた。
少女は何度か角を曲がり、小さなパン屋へと入っていった。
店の明かりに浮かぶ彼女の横顔を見ながら、入るべきかどうか迷っていたその時――
後ろから頭を小突かれた。
振り返れば、さっき撒いたはずの璃久さんが、呆れた顔で腕を組んで立っていた。
「……お前、何やってんだ」
俺は思わず口をつぐんだまま固まってしまった。
怒鳴られると思って身構えていたが、璃久さんはため息ひとつついただけで、俺の視線の先――パン屋の方へ目を向けた。
「お前…パン、好きなのか?」
意外すぎて、頭がうまく回らなかった。
俺はてっきり、付き添いを撒いたことを叱られるとばかり思っていたからだ。
質問の意味すら、一瞬理解できなかった。
俺がぽかんとしたまま答えずにいると、璃久さんは無言でポケットに手を突っ込み、じゃら、と小銭を取り出した。
「……買いたいなら買ってこい。街の人との交流も大事だ」
ぶっきらぼうな声だったが、そこに怒気はなかった。
むしろ、どこか俺を気遣っているようにも感じた。
差し出された小銭をしばらく見つめ、そっと受け取る。
掌に乗った硬貨は妙に重かった。
パンを買いに行こう――
なのに足がなかなか動かない。
あのパン屋に入ったら、俺はさっきの少女と真正面から向き合うことになる。
胸の奥がざわついて、落ち着かない。
璃久さんが横目で俺を見る。
「行かねぇのか?」
「……行く」
自分でも驚くほど小さい声だった。
けれど、その一言で、一歩が踏み出せた。
俺はパン屋の扉を押し開けた。
カラン、と鈴が鳴り、温かい匂いがふわりと包み込む。
中では、さっきの少女がりんごをレジ奥に置きながら、忙しそうに店内を走り回っていた。
近くで見ると、髪は栗色で、肌はすこし白くて――
俺と同じくらいの年なのに、働く姿が妙に大人びて見えた。
少女は振り向き、俺を見た。
少し驚いたような、でもすぐ笑顔に変わる。
「いらっしゃいませ!」
その声が、胸にまっすぐ飛んできた。
俺は言葉を返せずに固まった。
代わりに、手の中の小銭がカチャリと鳴る。
少女は首をかしげる。
「えっと……お客さん、ですよね?」
その一言で、心臓が跳ねた。
変な汗まで滲んでくるのに、俺はうなずくことしかできなかった。
だがそのぎこちない動作すら、少女には別の意味に映ったらしい。
彼女はぱっと表情を明るくして、花が咲くみたいに笑った。
「よかった〜!ほんとにお客さんだ!迷ってる子かと思っちゃった」
その笑顔の破壊力に、胸がざわつく。
なんだこれ。
少女はくるりと後ろを向き、奥の作業台へ走っていく。
するとすぐに思い出したように振り返って、両手をぱたぱたさせながら言った。
「――あ、そうだ!今アップルパイ作る練習してるんですよ!」
その声には、妙に弾むような期待が混ざっていた。
「よかったら、試食してくれませんか?」
……待て。
俺はパンを買いに来ただけだ。
それなのに“試食”なんて、そんな距離の詰め方をされるとは思ってなかった。
なぜか足が硬直し、喉が乾く。
でも、少女は俺の返事を待ってきらきらした目で見ている。
逃げ場は――ない。
「……え、っと」
声がかすれる。
少女はさらに一歩近づく。
距離が近い。近すぎる。
「ダメ、ですか?」
その小さな問いに、ぐらりと心が傾いた。
「……食べる」
ほとんど反射だった。
気づけば、そう口にしていた。
少女はぱぁっと嬉しそうに笑った。
「やった!ちょっと待っててくださいね!」
そう言って、彼女は作業台へ駆け戻る。
白いコックコートがひらりと揺れて、甘い焼き菓子の匂いがふわりと漂う。
俺はその場に立ち尽くしていた。
胸がどくどくとうるさくて、自分の鼓動が店内に響いてるんじゃないかと思うほどだった。
ああ、もう最初の一歩で完全に掴まれていたんだ。
そんな実感だけが、今でも妙に鮮明に残っている。
やがて、少女が両手にそっと何かを抱えて戻ってきた。
湯気をうっすらまとった、小さな皿。
「お待たせしました!」
差し出されたそれは、手のひらサイズのアップルパイだった。
まだ焼きたてのぬくもりを帯び、表面のグラサージュが光を受けてきらきらと艶めいている。
手渡されたアップルパイは、まるで宝石のように明るく輝いていた。
俺の掌に乗ると、ほのかに甘い香りが立ち上り、胸の奥まで染み込んでいく。
「形ちょっと歪んじゃったけど……味は、たぶん大丈夫……だと思います」
少女は不安げに笑った。
その表情が、また胸を締めつけた。
食べなきゃ、と頭では思うのに、手が震えてなかなか口元まで運べない。
なぜか、この一口がとんでもなく大きな出来事になる気がして。
「……食べてみてもいい?」
自分で言っておきながら、声が妙にかすれていた。
少女はぱっと顔を輝かせた。
「もちろんです!」
俺はそっとアップルパイにかぶりついた。
ふわっとした生地の甘さと、りんごの優しい酸味。
胸がぎゅっとなった。
――ああ、これは反則だろ。
言葉にできない何かが、喉の奥でひっかかる。
気づけば、指先までじんわり熱い。
少女が期待のこもった目で覗き込む。
「……どう、ですか?」
俺は、正直に答えるしかなかった。
「……めちゃくちゃ、うまい」
少女は、弾けるように笑った。
その笑顔だけで、世界の景色が変わった気がした。
店の奥で、パンの膨らむ香りが広がっていく。
俺の人生にとって、あの日、あの瞬間――
ここから第二の人生のすべてが始まったのだと、今ならよくわかる。
***
少女の名は三田沙紀というらしい。彼女も俺と同じく親を幼い頃に亡くしたらしく、今は彼女の知り合いであるバクレン・ミケル夫妻が運営するパン屋で住み込みで働いているらしい。
パン屋はこぢんまりしているくせに、いつもどこか賑やかだ。朝の仕込みの音や、焼き上がりを知らせる夫妻の朗らかな笑い声。そこに沙紀の、鈴みたいな短い返事が混ざる。
俺はというと、病室の退屈を理由にしながら、彼女のパン屋に通い詰めていた。
まあ結局はただ――あの小さな店の匂いや温度に、心が引っ張られていたのだと思う。
ある日、暖簾をくぐると、沙紀がカウンター越しにふっと目を丸くした。
「……また来たんですね」
「また来たよ。文句ある?」
「べつに。お客さんが来て困る店なんて、ないですから」
言いながらも、バターの香りをまとった頬が、少しだけ緩んでいた。
俺はその小さな変化を見逃さなかったし、たぶん見逃したくもなかった。
気づけば、パンを選ぶふりをして、俺はいつものあの同じ席に腰を下ろしていた。窓際の、陽がちょうどよく落ちる場所。そこから見える沙紀の横顔は、まるで店の一部みたいに馴染んでいて、でもどこか脆さを含んでいた。
彼女は忙しい時間帯でもふと立ち止まり、俺の方へ話しかけにくる。
俺も笑顔で対応しながら、その幸せを噛み締めた。
そんな日々が、いつの間にか俺の“日常”として染み込んでいった。
そして――
ある日の閉店間際、沙紀はふいに俺の横に座り、小さく息を吐いた。
「……涼菟くん。ひとつだけ、聞いてもいいですか?」
その声は、いつもの沙紀よりほんの少しだけ弱くて、けれど逃げ場のない真剣さを帯びていた。
まだ幼さの残る顔を、俺は正面から見つめる。
胸の奥が、ぐっとつかまれたみたいに跳ねた。
「なに?」
そう返しながらも、喉の奥がかすかに乾く。
店内はすでに照明が半分落とされ、奥のキッチンから漂う小麦の匂いだけが、やけに鮮明に感じられた。
沙紀は膝の上で指をきゅっと絡め、数秒ほどためらってから口を開く。
「……涼菟くんって、なんでそんなに優しいんですか?」
思っていた質問とまるで違って、俺は一瞬言葉を失った。
沙紀は続ける。
「パン買いにくるだけなのに、毎回楽しそうに話してくれて。しかも病院から来てるって…具合悪いのに無理して来てるんじゃないかって心配になるくらい、いつも笑ってて……。そういうの、私……ちょっと怖くなるんです」
「怖い?」
「うん。だって――」
彼女はそこで視線を伏せる。
長いまつげが、店の薄明かりにかすかに影を落とした。
「……優しすぎる人って、いなくなる前だからこそ一番優しいって……そう思っちゃうから」
俺は、その言葉の意味がすこしよくわからなかった。
そして、俺は沙紀に聞いた。
「何か、あったの?」
俺はできる限り優しい口調でそう聞いた。彼女は悲痛な表情を浮かべながらも、ゆっくりと語りだした。
厄災の日のこと、彼女の母のこと。
全てを語り終えた彼女は、泣いていた。俺は何も言えず、ただ黙っていた。
「お母さんに…会いた、い…」
彼女はその言葉を最後に、ただ黙って泣いていた。俺は彼女の背中をさすりながら、慰めの言葉を考える。
「……俺は別に、いなくならないよ」
そう言いかけた瞬間、沙紀がすぐに首を横に振った。
「……だめ。そんな言葉、信じちゃ…ダメなんです。……信じたら、失うから」
その言葉は薄い笑顔で包まれていたけれど、彼女の頬を伝う涙が、どれほどその笑顔が無理やりつくられたものかを語っていた。
俺はしばらくの間、何も言えなかった。
下手な言葉を投げれば、今にも崩れてしまいそうな気がして。
沙紀は袖で涙をぬぐおうとしたが、すぐに追いつかなくなって、肩を震わせながらぽろぽろと零す。
静かなパン屋に、彼女のすすり泣く声だけが残った。
俺はそっと手を伸ばし、震える背中に触れた。
細くて、あたたかくて、どこか頼りない。
「……ごめんなさい。涼菟くんに、こんな話……したくてしたわけじゃなくて」
涙で濡れた声が、かすかに震える。
「でも、誰にも言えなくて……。ミケルさんもバクレンさんも優しいけど……家族じゃないから……。本当は、ずっと……ひとりだったんです」
その言葉に胸が締めつけられた。
家族を失った痛みは、俺だってわかる。
けれど彼女の場合、その傷はずっと誰にも触れられないまま冷えて、固まって、今ようやく溶け始めたんだ。
「沙紀」
呼びかけると、彼女はこぼれ落ちる涙をそのままに、俺のほうへ顔を向けた。
弱くて、壊れそうで、それでも必死に踏みとどまる瞳。
胸がぎゅっと熱くなった。
どう言えばいいか、しばらく迷った。
沈黙が数秒、いやもっと長く感じられるほど流れる。
そして――俺は、ずっと胸の奥に押し込んでいたことを、そっと掘り起こした。
「……俺さ。沙紀には、ちゃんと言っときたいことがある」
彼女のまなざしが、また少し揺れる。
怯えじゃない。
“聞く覚悟”を決めた人間の目。
俺は静かに息を吸った。
「俺は……ADFの住人じゃない」
その時点で、沙紀が小さく肩を震わせた。
興味じゃなくて、俺が“何か重いものを出そうとしている”と気づいたんだと思う。
「……そんな重要なこと、いいんですよ。ムリに話さなくても」
優しい。
でも、その優しさに隠れた“距離”を、ようやく俺は掴めた。
だからこそ、俺はゆっくり首を振った。
「いや。沙紀だから……話したいんだ」
その言い方に、彼女はほんの一瞬目を見開いた。
「本当は、口外すんなって言われてた。でも……沙紀には、大丈夫って思った」
そう本音を吐き出した瞬間、彼女の目が少しだけ丸くなった。
驚きと、信じようとしている気配。
なら、もう逃げない。
「俺も……沙紀と同じように、両親を魔族に殺されたんだ」
静かな店内に、その言葉だけが落ちた。
「本当は……助かるはずだったんだよ。でも、八間の人が魔族を取り逃がして……それで」
沙紀の表情が、悲しみと戸惑いのあいだで揺れた。
俺は続ける。
「気づいたら、俺ひとりでユートピアに連れて来られてて。病室で目を覚まして……そこで全部、あきひ――軍人さんに、魔族のこととか、ADFのこととか…聞かされた」
自分で言いながら、当時の景色が少し滲む。
白いベッド。
冷たい説明の連続。
理解が追いつかないままの喪失。
「……あの日から、何もかも急に変わって。頭も心もついていかなかった。……でも、そんな時に」
俺は沙紀を見る。
「リンゴ抱えて走ってた、コック帽の女の子がいてさ」
沙紀はきょとんとして、涙のあとが残ったまま、ちょっとだけ頬を赤くした。
「その人が、めちゃくちゃ明るい声で……“食べてみませんか?”って、アップルパイ、渡してきたんだよ」
沙紀はその場で小さく息をのんだ。
「……それ、覚えてます」
「そりゃ覚えてるだろ。渡したの沙紀だし」
少し茶化すように言ったが、それは照れ隠しだった。
本当は胸がちょっと痛い。
「俺、あれでさ。やっと、生きててもいいのかもって思えたんだ」
沙紀はもう、言葉を飲み込んだまま、じっと俺を見ていた。
「だから……沙紀が“ひとりだった”って言ったの、わかるよ。俺も、ひとりだったから」
そう言った瞬間――
沙紀の瞳から、またひと筋、涙がこぼれた。
でも今度の涙は、さっきとは違った。
たぶん、“分かり合えた”ときに落ちる涙だ。
「……涼菟くん」
声が震えていた。
「そんなの……聞いたら……私、ほんとに……あなたを信じちゃうじゃないですか……」
俺は静かに微笑んだ。
「信じろよ。俺はもう、沙紀の前で嘘つかねぇよ」
沙紀は胸に手を当てて、小さく息を詰めた。
その仕草が、どうしようもなく愛おしい。
「……私も、涼菟くんのこと……もっと知りたいです」
その言葉を聞いた瞬間――
俺の胸の奥で、何かがそっと音を立てた気がした。
***
しばらくして、俗に玄武政変と呼ばれる出来事が起きた。
結果として、俺がADFへ来るきっかけを作ったとも言うべき八間・罌粟須三津が、もう一人の八間・瞳巍柾木を殺し、地上へ逃げてしまった。
当時、厄災の日以降最悪とも呼ばれる一大事件に、ユートピア中が大混乱した。
誰もが信じられないという顔をしていたし、軍関係者は昼夜問わず奔走していた。
まさに街ごとひっくり返ったような混乱。
――だが。
それ以上に取り乱していたのが、沙紀だった。
彼女の厄災の日の記憶。
その中で罌粟須は、壊れゆく水族館で彼女をかばい、必死に守ってくれたという。
彼女にとっては、たったひとりのヒーローだったのだろう。
そんな彼が“人殺しの逃亡者”として名を轟かせ、街中の掲示板には指名手配が貼られ、住民同士が怯えた声で名を囁き合う。
――取り乱すなという方が無理だった。
沙紀は、誰もいないパン工房の隅で、ぎゅっと自分の両腕を抱きしめながら震えていた。
「なんで……どうして……あの人が……」
声はかすれて、涙で滲んでいた。
だけど。
そんな彼女を見ていると――胸が、どうにも複雑にざわついた。
俺の両親が死んだ夜。
その原因をつくったのも、罌粟須だった。
同情なんて、できるわけがない。
許す気もない。
でも、今目の前にいる沙紀は、彼を“恩人”と呼ぶ。
その事実が、胸の奥で鈍くぶつかり続けていた。
……どうすりゃいいんだろうな。
その時の俺には、結局何も言えなかった。
しばらく沈黙が落ちたのち、沙紀はゆっくり顔を上げた。
涙で濡れた瞳は、どこか別の決意で光っていた。
「……私」
震え混じりの声で、でもはっきりと言った。
「私、お母さんみたいな軍人になりたい」
その言葉を聞いた時、胸がどきりとした。
悲しみの余韻が消えていないのに。
崩れるどころか、そこから“未来”へ足を踏み出すような強さがあった。
俺は思わず彼女の横顔を見つめた。
沙紀はまだ震えていた。
でも、瞳の奥はしっかり前を見据えていた。
「……誰かを守れる人に、なりたい。もう誰も……目の前で失いたくない。」
その声は弱くて、でも折れていなかった。
その瞬間――
俺は胸の奥をきゅっと掴まれたような気がした。
好きだと思った。
もっと強く。
そして、俺の中でもひとつの“道”が形を取り始めた。
「――なら、俺も行く。」
「…え?」
「俺も、軍人になる。」
続く…




