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人魔闘諍  作者: ゆっけ
第肆章
92/113

91話 シチリア動乱 - 30 -

 ―――7時50分 ローマ


 八幡直弥“だったもの”は、暴風雨を裂くように、ただ静かに立っていた。


 青白く発光する双眸。

 濡れた髪はまったく光を反射しない漆黒に変色し、

 額の中央には一本の鋭い角が突き破るように伸びている。


 そして何より――その魔力量だった。


 常軌を逸している。


 モリスの中に巣食う魔族は、帝家魔族の血を引く者だ。

 序列は低いとはいえ、一般魔族の数十倍もの魔力量を誇る。

 彼が強いという自負も、モリスのうちにはあった。

 そしてその強さを頼みの綱にしていれば、恐れを抱くことなどほとんどなかった。


 だが――こいつは違う。


 目の前にいる存在は、魔帝すら遠くに霞むほどの圧を、無造作に撒き散らしていた。

 呼吸をするだけで肌が焼けるような、霧のような魔力の奔流。


 モリスは、喉の奥が勝手に震えるのを止められなかった。


(……馬鹿な。こんなの……見たことがない。)


 彼は依然微動だにしない。腹に空けた風穴ももはや治りきっていた。


 モリスはしびれを切らし、その魔族に言った。


「…Ehi, diavo(おい、そこの魔)lo()


 半眼で睨みつけながら、一歩だけ前に出る。


「お前、ナニモンだよ。同族って言えば聞こえはいいが──俺の邪魔すんなら潰すぞ。」


 依然八幡直弥だった魔族は何も言わない。その濡れた黒い髪の間から覗く青の双眸が、ただまっすぐモリスを射抜く。


 ただ、強い雨脚が石畳を叩く音だけが響く。

 モリスは次第に苛立ってきた。こいつはなんだ。なんなんだ。


 …イレギュラーの連続。どれだけ緻密に物事を想定しても、それらによって次々と潰されていく。


(ここまでうまくいかないなんてよ──)


 苛立ちは熱のように胸に溜まり、すぐに殺意へと進化する。奴が動かないなら、こちらから動くしかない。


 モリスは胸中に語りかける。


 ―――変われ。


 自然と後ろ足が下がる。標的を一点に絞り込み、視界の端までを黒く塗り潰すほど集中する。


 もう一度、強く。


 ―――変われ、デヴェィス。


 瞬間、地面を蹴った。空気が爆ぜ、筋肉がしなり、骨格がうねる。

 皮膚が裂けたわけでも、痛みが走ったわけでもない。ただ構造が組み替えられる。


 四手の帝家魔族――第十皇子、デヴェィス=ルシファー。

 その大きな身体が、その異質な魔族へと襲いかかる―――





 …が。


 4つある腕、そのうちの一つが青い炎に包まれる。その炎は、声を上げる間もなく勢いを増す。


 あまりに急な出来事に彼は思わず怯み、一瞬蒼眼の魔族から目線を外す。

 その直後、全身が後方へ叩き飛ばされた。


(ッ……!? 今、何が──)


 衝撃。景色がひっくり返り、雨と光が渦を巻く。


 次の瞬間、広場中央の噴水へ背中から叩きつけられた。

 砕けた石片が四方に散り、水柱が派手に弾ける。肺の空気が一気に押し出され、視界が一瞬だけ途切れた。


 何が起きたのか。本当に、何をされたのか。


 …理解が追いつかない。


 デヴェィスは困惑したまま、ただ雨に濡れた広場で身を起こす。

 モリスの内側から見ていたときもそうだったが──あの魔族は、すべてが異質だった。


 帝家のどの個体とも違う。

 魔族という分類に当てはめていいのかすら怪しい。

 そんな存在を、デヴェィスは初めて見た。


(俺では、殺せない──)


 その結論は、恐ろしいほど一瞬で形を成した。

 いや、どんな魔族であれ同じだ。あれに勝てる個体など、この世にいない。


 なら、残された選択肢はたった一つ。


 核起爆まで──ただ時間を稼ぐ。


 デヴェィスは濡れた石畳に爪を食い込ませながら片手を蒼眼の魔族へ向けた。


 次の瞬間、空が裂ける。


 轟音とともに、数十本の落雷が一直線に彼へ降り注いだ。

 帝家魔族としての誇りと力量を込めた雷撃が、夜空を白く染めながら的確にその身体を貫く。


 土煙が舞い上がり、視界が完全に遮られる。

 デヴェィスはすぐに追撃しなかった。

 あれで死ぬはずがない。だが一応、煙が晴れるのを待つ。


 そして──しばらくして。


 揺らぐ煙の向こうに、青白い双眸だけがぽつりと浮かぶように現れた。

 その目は微塵も揺れていない。傷も焦げ跡も、苦痛すら欠片も見えない。


 やはり、まるで何も効いていない。


[…舐めやがって]


 思わず魔族語でそう呟いた。

 燃やされた腕は妙に回復が遅い。なにかここにも小細工を感じる。


 すると、蒼眼の魔族はそこでようやく少し身動ぎした。


[――下らん。]


 低く、骨の髄まで震わせる魔族語。

 デヴェィスの背を冷汗が伝った。


 蒼眼の魔族は、無感動のまま続ける。


[おい、そこの魔族よ。……今は魔暦何年だ。]


 答えるべきか否か、一瞬の逡巡が胸をかすめる。

 だが、それを考え終える暇すら与えられなかった。


 次の瞬間──右脚が、再び青い炎に包まれた。


(っ……またっ…!?)


 だが今回は違う。炎は脚だけで止まらず、皮膚を這い、筋肉を噛み、骨を焼き、ついには全身へ広がっていく。


[あ、ぐっ!? っぅ゙あ゙あ゙あ゙あ゙ああッ!!]


 灼熱──いや、それよりも深い痛み。

 魔力核そのものに指を突っ込まれ、内部からえぐられるような激痛だった。


 大雨をものともしない青い炎は消える気配すらなく、

 地面を転げ回ろうが、打ち消す術は皆無だ。


 蒼眼の魔族は、その惨状をただ見下ろし、鼻で笑った。


[……遅い。早く答えろ、魔族。焼き滅びとうなければな。]


 その声音に情はなく、ただ“事実”として死を告げているだけだった。


 耐え切れず、デヴェィスは喉を裂くように叫ぶ。


[32401年!! いまは魔暦32401年だッ!!]


 すると炎は急に消えた。ただ身体には痛みだけが残る。

 蒼眼の魔族は顎に手を当て、考えにふけるよう呟く。


[ふむ…32401年…随分長う寝ておったようだな。]


 その声音には驚きも焦りもなく、ただ事実の確認のように淡々と呟く。

 まるで昨日目覚めたかのような、そんな落ち着いた口ぶりだった。


 そして、ゆっくりとデヴェィスへ視線を戻す。


[……さて。ならば状況をひとつずつ確かめねばなるまい。]


 次の瞬間、雨粒をかき分けるようにして蒼眼が細く光り──

 空気そのものが、ぐぐっと圧縮されるように重くなった。


 デヴェィスの肺が潰されそうになる。


(な……なんだ……こいつ……!)


[まずは──]


 蒼眼の魔族は、まるで天気を確認するような軽さで言った。


 [此度の戦乱を耐え抜いた始祖の血を継ぐ者らは……まだ息災か?]


[…始祖の、血…帝家のことか?]


[帝家が何かは知らぬが、それがいま一番偉い種なのか?]


[…ああ…俺も、帝家の魔族だ。]


[貴様が?]


 わずか一歩、蒼眼の魔族が前へ踏み出す。

 その瞬間だけで、デヴェィスの全身に冷たい戦慄が走った。


[末裔も末裔──枝のさらに先の朽ちた小枝といったところか。堕ちるところまで堕ちたものだな、今宵の魔族は。]


 音もなく、空間が軋んだ。

 そして──


[……まあしかし、先の雷撃は悪くはなかった。]


 蒼眼の魔族は、わずかに顎を上げ、デヴェィスを見下ろした


[もう一度やってみろ。……俺が相手をしてやろう。]


 その声音は、まるで「遊び相手を選んでやった」とでも言わんばかりの余裕に満ちていた。


 デヴェィスの胸中に、なにか感情が込み上げる。


 圧倒的強者に認められたことへの嬉しさ? 底しれぬ魔力を放つ彼への畏怖?


 ―――どれも違う。自身の中にあるのはそう、自らの、帝家魔族としての矜持が傷つけられたことへの憤りに近い。


[…そうかよ、なら手加減なんかしなくても良いんだな。無遠慮に燃やしやがって。]


 皮膚はまだひりつく。

 魔力核にも痛みが残る。

 だが、戦えないほどではない。


 むしろ、この痛みこそが活力になる。


[―――殺す。]


 その一言が空気を裂いた刹那、デヴェィスは石畳を穿ち、嵐ごと振り切る速度で跳んだ。


幽閃死紋(ゴースト・シグル)。]


 蒼眼の魔族へ向けて低く放つ。

 直後、彼の首元から稲妻形の黒い紋が、まるで浮き出すように滲む。


[…ほう?]


 興味深げに眉がわずかに動いた、その瞬間。

 紋は白熱し、爆ぜた。

 閃光と衝撃が噴き上がり、空気そのものが悲鳴を上げる。


 だがデヴェィスは止まらない。

 爆煙を突き抜け、間髪入れず再び腹部へ掌を叩きつける。


黒殲雷痕(ブラック・スカー)!]


 刃のように収束した雷撃が一直線に突き刺さり、轟音が広場を揺らす。


 しかし――


[―――それが、貴様の全力か?]


 煙が割れた先にいたのは、やはり無傷の蒼眼の魔族。

 微かに口角を吊り上げ、むしろ愉しげに微笑んでいた。


 幽閃死紋も、黒殲雷痕も。

 ――まるで、そよ風ほどの影響すら与えていない。


[こっの…!]


[もっとだ。貴様はまだまだやれる。]


 まるで教師が生徒を促すような口調。その余裕が逆にデヴェィスの逆鱗を踏む。


[黙れ!]


 怒号とともに、デヴェィスは一本の腕で石畳を踏み砕き、残る三本の腕を「手銃」の形へと変じさせた。

 指先に収束した雷が、骨の芯まで震わせるような冷たい音を立てる。


[――断魂雷骸(スピリット・スナップ)!]


 三点から同時に放たれた雷弾が、音より速く蒼眼の魔族を穿たんと迫る。

 ただの雷撃ではない。彼の魔族核を弾き折るためだけに研ぎ澄まされた、帝家魔族特有の殺意が形になった技。


 蒼眼の魔族の視線が、わずかに細められた。


 次の瞬間――


 雷弾が到達する直前、彼の周囲に “青白い揺らぎ” が走った。

 それは空気が反転したような、世界の境界がめくれたような奇妙な歪み。


 雷弾はその揺らぎに触れた途端、

 爆ぜもせず、光も散らさず、ただ――消えた。


[……は?]

 デヴェィスの表情から怒気が抜け落ち、代わりに理解不能の困惑が広がる。


 蒼眼の魔族は、ふっと肩をすくめる。

 彼の蒼い瞳が、雷光より鋭くデヴェィスを射抜く。


[まだまだ甘い。帝家を名乗るなら、“もっと深く”来い。俺を魂ごと殺すつもりでな。]


 蒼眼の声が落ちた途端、空気が震えた。

 ひび割れた石畳がふわりと浮き上がる。

 まるで彼の周囲だけ、重力の法則を書き換えられたようだった。


 デヴェィスは歯噛みしながら立ち上がる。

 ――今、何分だ。

 あとどれだけで 8時15分 になる?

 急がねば。こいつから離れなければ。

 核の爆発に、巻き込まれる。


[…核、とな?]


 その声が、デヴェィスの思考のど真ん中に踏み込んできた。


 デヴェィスは思わず目を見開く。

 こいつ…心まで読んでいるのか。


 蒼眼の魔族は一歩前へ踏み出し、興味深そうに顎へ指を添えた。


[その“核”とやらは、一体何だ? 魔族よ。]


 その声音には威圧も怒気もない。

 ただ純粋な好奇心――

 だからこそ、底知れず不気味だった。


[…鍵だ。人間を絶望の淵へ陥れるための。]


 蒼眼の魔族はわずかに首を傾げ、デヴェィスの背後へ視線を滑らせた。


[貴様の後ろにあるそれが、核というやつか?]


[…だったらなんだってんだ。]


 返す声には棘があったが、余裕は欠片もない。

 だがその瞬間、蒼眼の魔族は――

 大きく、邪悪なほど楽しげに笑い出した。


 腹を抱え、己自身を嗤うように。


[本気で言っておるのか? その爆弾一発で?]


 肩を震わせながら、嘲りを隠す気もない。


[核とやらの威力は知らんが……ははッ! 俺が生きておった時代に比べれば、貴様らも人間も、随分と頭が弱くなったものだな!]


 その嘲笑は雷鳴すらかき消すほど鋭く空気を裂き、

 デヴェィスの背筋は氷柱を突き立てられたように強張った。


[それは…お前がいつの時代の魔族か知らんが、世間知らずなだけだ。爆弾ひとつで人間を滅ぼせるわけがないとお前は嗤ったが、この一発だけで街一つ吹き飛ばす威力がある。そうすれば国同士がいがみ合い、世界各地でここと同じように街がどんどん消し飛んでいく。そこに魔族が介入すれば人間は―――]


[だから言っておるだろう。くだらんと。]


 蒼眼の魔族は短く歯噛みするように言い放つ。


[我ら魔族と人間どもの戦は、正面から殴り合うからこそ華がある。貴様のような姑息な策で勝ったところで、それは“勝ち”ではない。魔族の誇りでもない。]


 そして突然、何か思いついたように指を鳴らし、愉悦の笑みを浮かべた。


[貴様がその核とやらをどう扱おうが、俺の関知するところではない。人間が互いを殺し合おうが、実にどうでもいい。]


 一拍置き、声色が低く沈む。


[だが――それを“漁夫の利”とばかりに、貴様ら現代の魔族が魔界から攻め込むというなら……俺は人間側につき、まず貴様らを皆殺しにしてやろう。]


 デヴェィスは言葉を失った。


 魔族が――魔族を皆殺しに?


[“同胞を殺すのか”という顔をしておるな。やはり愚鈍だ。]


 蒼眼の魔族の瞳は、深海の底のように冷たい。


[今の貴様らは、俺の望んだ“魔族”ではない。堕落し、歪み、誇りも矜持も失った。だからまずは貴様ら帝家とやらを潰す。そして、昔からのあの忌々しきADFも粉砕する。]


 肩をすくめ、軽く鼻で笑う。


[そうして膿を出し切った魔族を、俺が主導で改革する。ADFは……まあ、天霧の輩か、どいつかが勝手に立て直すだろう。あ奴らのしぶとさは知っておる。]


 その名が出た瞬間、デヴェィスの胸が跳ねた。


 天霧――天霧家のことを指しているのか?


 デヴェィスは混乱した。

 人間の歴史など深く知らぬ自分でも、天霧の名くらいは耳にしたことがある。

 だが、その天霧家は約四百年前、現・朽宮家の祖によって完全に滅ぼされたはずの一族。


 まさか――


 息が詰まる。


 こいつはまさか――

 四百年前どころか、千年単位で昔の時代から生き続けている魔族なのではないか。


 デヴェィスの胸中をなぞるように、蒼眼の魔族はゆるりと目を細めた。


[そうか……天霧は滅びたか。やはり脆かったな、あの調停の家は。]


 淡々としたその口ぶりに、デヴェィスは背筋を冷や汗が伝うのを感じた。


 あり得ない。

 今の魔帝ですら魔暦29409年――人間界換算で約二百年前の生まれ。

 魔族としては十分に古参であり、帝家の中でも長寿の部類に入る。


 だが目の前の男は、その“倍以上”昔の時代を知っているどころか、

 その時代を生きた者たちをまるで昨日の出来事のように語っている。


[……お前……本当に、何者だ……?]


 問いかけながらも、喉が震えて言葉がうまく形にならない。


 その震えを愉しむように、蒼眼の魔族はゆっくりと笑んだ。


[何者か、だと?]


 一歩踏み出す。

 その足音ひとつで、空気がひび割れたように感じる。


[名乗る必要も無いだろう。貴様らが“魔族”として生を受けた頃よりずっと――ずっと前から、俺は魔族だ。]


 蒼眼の魔族の目が、冷たい光を宿した。


[もうよい。俺は帝家を潰すと決めた。もはや貴様に価値などない。]


 その声音の“終わり”の響きに、デヴェィスは瞬時に危険を悟り、身構えた。


 だが――遅い。


[……やはり鈍間だな、貴様は。]


 耳元に声が落ちた。

 そこにいたはずの距離を一瞬で詰められたことに、反応する暇すらない。


 蒼眼の魔族の人差し指が、そっとデヴェィスの胸に触れる。

 次の瞬間、胸腔の奥――魔族核が、回復不可能な熱量で焼き崩れはじめた。


 視界が青白く弾け、世界が遠のいていく。


 その中心で、不敵に嗤う彼の顔だけが鮮明だった。


 魔族の唯一の弱点。

 魂の器。

 そこを、直に、奴の青い炎が焼いた。


 身体が灰のように溶けていく感覚の中で、デヴェィスはゆっくりと理解した。


 ――勝てるはずが、ない。


 恐怖はなかった。

 憤りも劣等感も、すべて潮が引くように薄れ去っていく。


 ただ、諦めだけが静かに胸に沈んだ。


 最期まで彼の正体は掴めなかった。

 だが、現代の魔族も人間も誰一人、あれには届かない――

 そう悟ってしまった以上、負けを認めないわけにはいかなかった。


 ―――八幡直弥!お前は俺と同じ“同体変異種”だったはずだ!!


 胸の奥で、モリスが悲痛に叫ぶ。

 彼はまだ、自分の死を受け入れていないらしい。


 ―――なぜだ!なぜお前のような未熟なガキが、あんな化け物を宿せたッ!!


 その怨嗟は、消えゆく肉体の中でなお響き続けた。

 だが、もはやデヴェィスにはその意味を理解する力も残っていない。


 自身の魔術によって生み出された暗雲が、ゆっくりと晴れていく。

 指先が崩れ、腕が砂のように散り、視界が透けていく。


 デヴェィスはその空を見上げながら、最後の力を振り絞り手を伸ばした。


 そして――跡形もなく、消え去った。



 ***




 ―――8時10分 ローマ



 デヴェィスが砂塵となってから数分後。

 朝日の差し込むポポロ広場入口から、何者かが悠然と歩いてきた。


 汚れ一つない真っ白なローブを身にまとい、その肌も雪のように白い。深く被るフードから覗く髪も、同様に白い。


 その者はまっすぐ中央の噴水へと向かい、そして激しく変形した死体と、無造作に転がる割れた赤縁メガネを交互に見て呟く。


「…ありゃりゃ。一足遅かったか。新狎死んじゃってるじゃん。」


 最上シアは独特の中性的な声で淡白にそう呟く。そしてあたりを見渡した。


「…にしても随分濃い魔力気配だね。どんな奴がここにいたのかなぁ。」


 その目は期待に満ちている。そしてしばらくその気配を楽しんでいると、後方から女のすすり泣く声が聞こえてきた。


 最上はそちらを振り返る。そこには、半身が焼かれて死にかけている17,18くらいの少女に向かい、一人の女が涙を垂らしながら必死に揺さぶる姿があった。


 最上は少女の方には見覚えがあった。たしか、八幡直弥のバディとして、先の吉林省での任務で、最上が適当に選んで連れてきた魔族へ致命傷を与えた女の子だったはずだ。


 名前は何だったか。確か…サリ?いや、リサ?いや違う…なんだったか…


「沙紀っ…沙……紀……!」


 そうだそうだ。三田沙紀だ。

 女が泣き叫ぶ声を耳にして、最上はようやくその名前を思い出す。そしてゆっくりと二人へ歩み寄った。


「ねえ、そこのお姉さん。ちょっと聞きたいことがあるんだけどさぁ。」


 呼びかけても、女は最上の声など最初から存在しないかのように、焼けただれた沙紀の身体にすがりついたまま号泣している。


「沙紀っ……! 沙紀、沙紀……!」


「ねぇってば。」


 最上が軽く息を吐きながらもう一歩近づく。だが女は必死に沙紀の肩を抱きしめ、震える声で絞り出した。


「だめ……沙紀、だめ……! 貴女が……死ぬなんて……!」


 女の泣き声が静まり返った広場に反響する。

 最上はしばらくその光景を興味深そうに眺め、そして、ようやく心底うんざりしたように肩をすくめた。


「……聞こえてない感じ? まあいいや。」


 最上はしゃがみ込み、女と沙紀の横顔を覗き込む。


「ねえ、お姉さんさぁ。このあたりで、濃い魔力放った主見なかった? 私それにちょっと用事があって」


 当然、返事はない。

 女は沙紀の胸に耳を当て、まだ息があるのか、必死に確かめている。


 最上はしばし黙って眺めていたが――


「あー……これ、無理だね。」


 ぽつりと呟くと、沙紀の身体に指先で触れた。


 次の瞬間、ぴくりと沙紀の指が動いた。


 女は息を呑む。


「……え……? 沙紀……?」


 最上はにこりと笑った。


「心配しなくていいよ。死ぬのはまだ先だから。」


 沙紀の瞼がかすかに震える。

 女はその微かな反応を確かめるように抱きしめ直し、同時に最上を見上げた。


「……あなたは……一体……?」


「え、見て分からない? 延命だよ。」


 最上はまるでゴミを払うみたいな気軽さで白いローブの裾を整え、ひょいと立ち上がる。


「ていうかさ、お姉さんもわりと限界っぽいよ?肩からすごい血出てるし、熱も出てるし。見てるだけで“あ、意識つなぎ止めるのすら大変なんだろうなぁ”って分かるんだよね。私なら治せるけど……どうする?」


 優しさでも親切でもない。ただ彼女からは聞くべきことを聞いておかねばならない。


 女はゆっくりと顔を伏せ、震える声で絞り出した。


「……やめ…て……」


「え?」


「……死なせて……もう……いいの……私は……誰も……守れ…なかった……」


 声は途切れ、崩れ落ちる寸前の葉のように震えていた。


「いいの?」


「いいんだ……どうせ…私も…沙紀も…あなたも……核で…死ぬ、んだ……」


「核?ああ、あれね。」


 最上は噴水の縁に無造作に置かれているスーツケースに目をやる。そして呟く。


「大丈夫。爆発なんてしない。」


「……え……?」


「ほら。」


 最上は腕をまくり、腕時計を見せる。するとその時ちょうど、時刻は8時15分を指した。


 だが宣言通り、いつまで経っても爆発は起きない。女は困惑したようにあたりを見渡した。


「……何を…した、の……」


「ちょっとしたマジックだよ。なんてことはないさ。」


 最上は、ゆっくりフードを外す。


「まあいいじゃん。それよりさ…助けなくていいなら早く教えて。この濃い魔力残してった主はどの方角に逃げた?」


 女は最上の顔を数秒見つめたのち、ゆっくり俯いた。


「…わから、ない…。沙紀の…ことで、頭、いっぱいで……サンティスも…殺されて…私は……」


 最上は泣き崩れそうな女の肩を、まるで埃を払うような軽やかさで指先で突っつく。


「そっか。……じゃあ」


 最上は女の顎にそっと触れ、軽く押し上げた。

 大粒の涙を溜めた瞳が、ゆっくりと最上を見上げる。


「どうしたい?」


 女はしばし視線を揺らし、俯いたまま、かすれる声を絞り出す。


「……殺、して……」


 最上はしばらく女の顔を見つめる。そして笑った。


「分かった。」




 ***




 沙紀。

 私はもう一つ、お前に嘘をついていたことがある。


 実は昔、私には一人息子がいた。


 父親が誰なのかは分からない。妊娠に気づいた時には心当たりが多すぎたし、そもそも探す気にもならなかった。

 首領という立場上、子育てなどできるはずがない――そう思っていた。

 それでも、お腹の子を下ろすという選択だけはどうしてもできなかった。


 当時は、跡継ぎが必要だからだと自分に言い聞かせていた。

 けれど今振り返れば最初から分かっていた。私はもう、母として腹の中の子を愛していた。


 出産は、知り合いの闇医者の立ち会いで何事もなく終わった。

 健康な男の子だった。

 顔立ちが少しだけ私に似ていて、抱き上げた瞬間、涙が出そうになった。


 ……でも泣かなかった。

 泣く資格なんて、自分にはないと思った。


 そして私は、彼の子育てをサンティスに一任した。


 寂しさはあった。会いたいと思う夜が何度もあった。

 けれどその頃、しばらく沈黙していたファミリア・ディ・サングエ・ドーロがどういうわけか勢いを取り戻し、再び脅威になり始めていた。

 そんな状況で子を抱いて逃げ回ることなど不可能だった。


 息子と引き離されるのは地獄のように辛かったが、次第にそれにも慣れていく自分がいた。

 それに気づいた時、自分がどれほど壊れているのかを痛感した。


 そして数年後――息子が三歳になった頃。


 前にも話した通り、サンティスの夫に反乱の疑いがかかった。

 私は組織の維持のために、彼の一家の全滅を命じざるを得なかった。


 私は息子だけは保護するよう命じていた。

 だが混乱の中、荒れ果てた家屋で幼子を識別することなどほとんど不可能だった。


 結果として、息子は他の家族とともに殺された。


 その報告を聞いた時――私は絶望のあまり、涙すら出なかった。

 ただ一言、「そうか」と返すのが精いっぱいだった。


 思えば私は、その瞬間からずっと、死にたいと望みながら生きていたのかもしれない。

 首領としての責務だけが、私を今日まで無理やり繋ぎ止めていたのだと……今なら分かる。


 だからこそ、私は昨夜、あの修道院で行方をくらましていたサンティスの姿を見た時、驚きとともに贖罪の機会を与えられたことへの嬉しさ、そしてようやく死に場所を見つけられたという安堵も、感じていたのかも知れない。


 でも結局、構成員全てが皆殺しの憂き目にあっただけで私は運悪く生き残ってしまった。

 絶望した。なぜここまできて死なせてくれないのだと、神を恨んだ。


 そんな中、お前と朽宮言真に出会った。最初は何者かと思った。そして、どこの馬の骨ともわからないやつに殺されるわけにはいかないと、反発した。


 だが身体は正直だった。熱に浮かされた私にはお前達に抵抗する力もなく、私は連れて行かれた。


 次に目を覚ました時、私は丁寧に看病されていたことに驚いた。そしてさらに、その看病をしているのが私より数倍も若い沙紀、お前だったことに更に驚いた。


 そして、お前が私をお前の母親と重ねたように、私も心の内でお前と、私の息子を重ね合わせた。


 お前が私に死んでほしくないと言ったように、私はお前に死んでほしくなかった。


 私は、お前の母親になってやりたかったのかも知れない。


 だが、それを願う資格はない。

 私は大義もなく、多くの人間を殺し、悲しませ、絶望させた。

 そのツケが回ってきただけだ。


 だからこそ、お前は生きろ。

 死ぬのは私一人でいい。

 それでサンティスたちも喜ぶだろう。

 私がいなくなれば喜ぶ人間なんて、いくらでも…



『後悔の清算なら、生きてするべきです。死ぬために戦う覚悟なんて、使命とはよばない』



 ……お前は、そう言ってくれたな。

 これも、やっぱり私のワガママなんだろうか?


 ……分からないんだ、沙紀。

 もし私がここで死んだら、お前はどう思う?

 悲しむのか? 怒るのか?

 それとも――忘れて、前に進んでくれるのか?


 もう私は、楽になりたかった。

 全部投げ出して、逃げて、終わらせてしまいたかった。


 ルチアーナはそっと、焼けただれた沙紀の頬に指先を重ねる。

 痛々しいその顔を、まるで宝物に触れるみたいに優しく。


 ……ごめんな、沙紀。

 お前の願いを、私は聞き入れてやれない。


 私の分まで――どうか、お前は幸せになれ。

 私が息子にしてやれなかったことを、いつかお前の子にしてやってくれ。

 愛して、抱きしめて、守ってやれ。


 ……ありがとう、沙紀。

 ほんの数時間でも、私を“母親”として慕ってくれて。




 ……さようなら、沙紀。




 ***


 最上は、息を引き取った女を見下ろした。


 涙は流れているのに、その瞳には何の色も宿っていない。


「……んー、まあいっか。」


 ひとりごとのように呟くと、女の身体を丁寧でも雑でもない手つきでそっと地面に寝かせ、核の方へと進む。


 起爆しなかった核を拾い上げると、最上は肩を回しながら息を吐いた。


「ふぅー……やーっと回収できた。これでやっとミハイルに顔向けできるや。」


 軽い調子で言いながら核の中身を確認していると――


「――君が、最上シア?」


 幼い響きを残した声が、背後から落ちてきた。


 最上は振り返りもせず、特に驚きもなく答える。


「随分遅かったね、朽宮言真くん。」


 煤で黒く汚れた軍服。

 だがその眼は、炎の残滓よりも鋭く、ただ最上だけを捉えている。


「生憎、君がよこした刺客に手こずっちゃってね。」


「鷹觀のこと? でも、私の聞いた話だと、あの子いま瀕死らしいけど。」


「女の子の方は確かに強かったけど、そこまで手こずるほどじゃなかったよ。」


 言真は小さく笑った。

 その笑顔がひどく無邪気に見えるのが、逆に恐ろしい。


「それより厄介だったのはロシア人の武装兵だね。三百人ぐらいが一気に襲いかかってきたからさ。」


 そして、まるで買い物の感想でも述べるように――


「―――ぜーんぶ、皆殺しにしたけど。」


 焦げ跡と煙のにおいがまだ漂う空気の中、彼の言葉だけが異様なほど軽い。


 最上はスーツケース型核の内部をぱたんと閉じ、膝の砂埃を払って立ち上がる。


「…まあ、なんでもいいけどさ。」


 軽い声音。

 けれどその背中には、わずかに緊張が走っている。


「今は貴方とやり合うつもりはないんだよね。ほら、お互いのためにも一旦退いたほうがいいんじゃない? ね?」


 言真は目を細めた。


「大人しく逃がすとでも?」


 最上が答える前に、風を裂く気配が走った。


 ――ザッ。


 まるで地面から滲み出るように、十二の黒衣が最上を囲む。

 気配ゼロ。呼吸すら感じない。

 ただ、手にした鴛鴦鉞の鈍い光だけが“ここに殺意がある”と告げていた。


 最上は、鼻の前で手をひらひら振る。


「…いやいや、やめとこうよ。せっかく綺麗な幕切れだってのに。」


 風が止み、時間が張りつめたように静かになる。


「ここで長引くのは、私も嫌なんだよね。」


 黒衣たちはぴくりとも動かず、十二の殺意が最上の生命線をじりじり削る。

 対して最上は、ほんの少しだけ肩を落とした。


「……まあいいや。」


 その瞬間だけ声音が変わった。

 軽さを捨て、完全な無表情。


 最上は言真に向き直り、小さく笑った。


「どうせ、私はこの場にいなかったんだから。」


「っ……」


 言真が気づいた時――世界が、一瞬だけゆらりと歪んだ。

 視界の端に入っていた瓦礫が波紋のようにぶれ、

 黒衣たちが構えていた包囲の空間が、まるで存在そのものを薄められたように揺らぐ。


 次の瞬間。


 そこにいたはずの最上シアも、抱えていた核も、

 すべてが煙の尾すら残さず、完璧に掻き消えていた。


「……ほんっと、逃げ足だけはすばしっこいねぇ。」


 言真は小さく舌打ちし、ほんの一拍だけ眉間を押さえる。

 怒りではなく、面倒くささと警戒が半々に混じった仕草。


 だがすぐに、いつもの軽い調子へ切り替えるようパン、と両手を叩いた。


「よし! じゃあ政府軍に見つかる前に帰ろっか!」


 言真は黒衣たちを振り返りかけて――ふと何かを思い出したように指を鳴らす。


「あ、そうだリント。カルタジローネの核は?」


「既にこちらで回収済みです。」


 言真の左後方、ひときわ気配の薄い黒衣が即座に応える。

 その声色は無機質だが、その正確さはまるで機械のようだ。


 言真は満足げに頷いた。


「そっか。ありがと。じゃあ――リント、そこで倒れてる沙紀ちゃん頼むね。」


 その声の優しさとは裏腹に、言真の目は一瞬だけ鋭い判断力を宿す。


「ルチアーナとサンティスの死体は…証拠隠滅したら放置でいいよ。」


 黒衣たちは頷く間もなく散開し、素早く配置についていく。

 血の匂い、焦げ跡、散乱した武器……黒衣たちは無言で処理を開始した。


 言真はそれを横目に見ながら、瓦礫の切れ間からかすかに覗く曇天を仰いだ。

 灰色の空気の奥で、落ちてきそうな雲がゆっくりとうねっている。


「直弥くん……」


 ぽつりと名前がこぼれた。

 それは、ただ名を紡ぐ声ではなかった。

 警戒、興味、関心、そして“理解できないものへの戸惑い”が混じった、不思議な声色。


「――君は、一体何者だい?」


 風が吹き、黒衣たちの外套が揺れる。


 その言葉は風に流されるように空へ消え、

 残るのは、未だに温度の消えない殺気と、最上シアという不可解な敵の影だけだった。


 続く…

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