8話 日常・裏 - 4 -
――咳き込む自分の声が、やけに耳に響いた。
背中に鋭い痛みが走る。頬のすぐそばには透明なガラス片が無数に散らばっていた。混乱の中で、桜田風音は必死に思考を巡らせる。何が起きた……?
そして思い出した。自分は今、投げ飛ばされたのだと。
重たい体を引き起こすと、右肩と背中に生ぬるい感覚が広がっていた。血だ。どうやらガラス片が刺さったらしいが、幸い致命的な傷ではない。肩に刺さっていた破片を無造作に引き抜き、床へと投げ捨てた。鋭い痛みが走ったが、声を漏らすほどではない。風音はもともと痛覚への耐性が高かった。
そして前方に目を凝らすと、そこに一人の男が立っていた。
――大門鎮雄。
かつて玄武隊のⅠ型戦闘員として名を馳せた男。だが、今の彼にはかつての気迫も誇りもない。空虚な瞳は、明確に風音へと敵意を向けていた。魔族に心を操られた者――それは、彼女が階下で幾度も目にしてきた「敵」の証だった。
無表情のまま、大門は重々しい足取りで風音が吹き飛ばされた教室へと踏み入る。その巨体から漂う異様な威圧感に、風音は小さく息を呑んだ。武器を持たぬ今の状態で、これほどの殺気をまとえるとは。彼の実力を、思わず見直す。
風音も静かに立ち上がった。周囲を見回して、ようやくここが家庭科室であることに気づく。不幸中の幸いだ。調理器具や刃物、使えるものはいくらでもある。
だが、それは敵も同じだった。
大門は無言で傍らの棚へ向かい、ガラスの扉を拳で砕く。散った破片をものともせず、中から分厚い出刃包丁を取り出した。そして――何を思ったか、もう一本の包丁を掴み、それを風音の足元へと投げ捨てる。
刃先が硬い床を打ち、カラン、と音を立てて跳ねた。
銀色のペティナイフが、風音の足元で静かに転がっている。それは明らかな挑発だった。敵に武器を渡すなど、尋常な判断ではない。魔族は彼女を嘲笑っているのだ――ここまで追い詰めておいてもなお、敵ではない、と。
風音は無言でナイフを爪先で蹴り上げ、胸元まで浮かせてキャッチする。構えを取った。右足を半歩前に出し、腰を落とす。ナイフを握る左手を胸の前に、右手を前方に広げる独特の構え。左手に刃を持つのは本来好ましくないとされているが、彼女にとってはこの構えが一番しっくりきた。子供の頃からずっとこの構えをするのが常だった。
対する大門も構えを取る。出刃包丁を逆手に握り、左手を前方にクロスさせて低い体勢で構えた。玄武隊の戦闘員が多用する、いわばオーソドックスな姿勢だ。
互いに間合いを取り、睨み合いが続く。
相手はⅠ型、それも熟練の域にある。強さは八間にも匹敵するだろう。ほんの一瞬でも気を抜けば、死が待っている。
その時、教室の前後両方の扉が勢いよく開かれた。銃口が一斉にこちらを向く。M4カービン。Ⅱ型、あるいはⅢ型の兵士たち。先ほども襲ってきた敵だ。だが、彼らは引き金を引かない。
風音は冷静に分析する。大門が自分と向かい合っている――その射線上にいるため、敵は撃てないのだ。操られた者に理性などない。しかしそれでも撃たないのはつまり、これは魔族自身の意志が働いているということ。
それほどまでに、大門は“あの魔族”にとって重要な駒ということだ。
そして――それは同時に、風音にとって一つの確信をもたらした。
四阿が今、どこで何をしているかは分からない。だが、あの男が心を折られるとは思えないし、死ぬような無様な真似をするはずもない。彼はそれだけの力を持っているし、風音は彼を全面的に信じていた。
――ということは、今襲撃において、魔族の最大戦力は間違いなく大門であり、単体でそれ以上の脅威となる者は存在しない。
風音の眼差しが鋭くなる。いずれ彼を放てば、必ずや大きな脅威となる。そうなる前に――誰にも手を汚させず、自分が決着をつける。
彼には悪いが、もう戻っては来られない。
今、ここで、彼を屠る。
自らの息遣いが聞こえるほど張り詰めた空気は、突如動き出す。
風を切るように大門が動いた。爆発するような初動とともに、風音に向かって一気に踏み込む。視界に残像すら残さない速さ――低い姿勢から繰り出された横薙ぎの斬撃。だが、風音の目はその一瞬の動きを捉えていた。
包丁が空を切るよりも早く、彼女は高く跳躍する。宙に浮いた身体をひねりながら、大門の顔面へ両足蹴りを放つ。しかし大門も咄嗟に身を反らしてそれをかわし、空中に浮いた風音の両足首を掴んだ。そのままの勢いで彼女を再び投げ飛ばす。
だが、風音は空中で体勢を立て直し、見事に着地する。音を立てずに床を捉えた両足。反射的に腰を落とし、次の行動へ備えた。
だが、安堵の暇は与えられなかった。
家庭科室の出入口――そこにいた隊員たちが、一斉にカービンの銃口をこちらに向け、次の瞬間、怒涛の銃撃が始まる。風音は瞬時に動き、固定された長机の裏へ飛び込む。背後で木材が砕け、弾丸が壁や棚に跳ね返る。耳をつんざく轟音とともに、破片や木片が容赦なく降り注いだ。
蛇口が弾を受け、水が天井に向かって噴き出す。風音の服が濡れ、重みが増した。だが、こんな狭い遮蔽物の裏に長く潜んでいられる状況ではない。移動すれば撃たれる――その確信に、風音は低く舌打ちした。
その瞬間、銃声が止まった。
直感が危機を告げる。それに従い風音が身を屈めた直後、真上から大門が襲いかかってきた。出刃包丁が振り下ろされ、風音が転がるようにして横へ跳ねると、包丁は床へ勢いよく突き刺さる。鈍い音、すぐさま彼はそれを引き抜き、再び風音へ向けて刃を突き出す。
風音はすかさず迎撃する。包丁を突き出す大門の動きをさばきつつ、懐に入り込むようにして首元を狙う。手にしたペティナイフの切っ先が、大門の喉元を目指す。
だが、大門の反応も早い。わずかに首を引き、刃先を肩にかすらせるだけにとどめる。傷は浅い。だが風音は焦らなかった。直後、重心を乗せた力強い蹴りを彼の心窩へ放つ。
細身の身体から繰り出されたとは思えぬほどの威力。大門の巨体が宙に浮き、三メートルは飛ばされる。完全に倒れることはなかったが、彼は苦悶の表情を浮かべて片膝をついた。
だが、風音は追撃には向かわない。
彼女の目は、別の一点を捉えていた。――カービンを構える隊員の一人。その銃口が風音を正確に捉えている。距離はある。だが、迷っている時間はなかった。
風音は即座に進路を変え、低く姿勢を落として駆ける。隊員は引き金を引いた。火花とともに弾丸が吐き出される――それでも、風音は止まらなかった。
身体を小さく、しなやかに動かしながら、全ての弾をギリギリでかわしていく。紙一重の間合いを読んで、ついに敵の懐へ飛び込んだ。
銃を持つ隊員は、銃尻での殴打を狙ってきた。だが風音はそれを片手で受け止め、即座にもう一方の手でナイフを振るう。ネックガードとフェイスマスクのわずかな隙間――そこへ、刃を縦に突き立てた。
くぐもった声が、マスク越しに漏れる。
風音は躊躇わない。ナイフをひねり、そのまま横一文字に切り裂く。血が噴き出し、隊員は銃を取り落としながらうつ伏せに崩れた。首元を抑える手が小刻みに震え、やがてその動きすら止まった。
静寂が、ほんの一瞬だけ辺りを支配した。
桜田はその時、感情を締め出していた。迷えば命取りになる。たとえ相手がかつての部下であっても、危機は排除しなければならない。
これこそがADF的な思考だ。護るべきものは護る。しかし、反逆者には容赦しない。そこに情けや憐れみが入り込む余地はない。たとえそれが人間であろうと、ADFの関係者であろうと、例外はなかった。
昔の桜田なら、そんな考え方に疑問を持つことはなかった。小さな頃から、それが当たり前だった。オリオンの「はみ出し者」が「処分」される様を幾度も見てきたし、そうされた者は見下されて当然だと、教え込まれていた。
――今なら分かる。あれは歪んだ思想だった。
……いや、違う。あの狂った組織の中で生き残るためには、むしろそれが「正しさ」だった。四堂まで昇り詰めることができたのも、その思考があったからに他ならない。
桜田は足元に倒れた隊員の死体を転がし、血に濡れたカービンを拾い上げた。そのまま照準を合わせ、机の陰から立ち上がった大門へと引き金を引く。
激しい反動と共に、弾薬が薬室から排莢された。銃弾は正確に大門を捉えた――はずだったが、彼は素早く伏せてそれを回避した。直後、タイミングを合わせたもう一人の隊員が、桜田へ銃撃を仕掛ける。
桜田はそれを回避しつつ、地面を転がって大門が隠れていた机の影へと射撃。しかし、大門もすぐに動き、再び死角へと身を潜める。
互いに射線をずらし、隙を突き合う。いたちごっこのような銃撃戦の最中、不意にもう一方の銃を持った敵が倒れた。銃撃音が止まり、代わりに肉が裂けるような音と、液体が飛び散るような異音が耳を打つ。
桜田は音のした方へ視線を向ける。机の陰から覗くように、倒れた隊員の姿が見えた。周囲に大門の姿はない。危険を承知で、桜田は警戒を最大限に高め、ゆっくりとその死体に近づく。
異常さは遠目にも明らかだった。床にも軍服にも、赤黒い血が大量に染み渡っている。フェイスマスクで表情こそ見えないが、呼吸の気配はなく、首は左側まで裂け、頭部と胴体はわずかに皮一枚で繋がっているような惨状だった。
十中八九大門の仕業だろう。味方にまで手を出すとは思わなかった。肉どころか骨まで断ち切るなど、尋常な力ではない。短時間でこれだけの破壊を可能とするなら、八間と同等の身体能力を持っていると見ていいだろう。
ふと、死体に銃がないことに気づく。その瞬間、桜田は本能的に床を転がった。
次の瞬間、耳をつんざく銃撃音が室内に木霊した。さっきまでいた場所で銃弾が床を跳ねる。大門が教室の反対側から攻撃してきていた。手にしているのは、桜田と同型のM4カービン。彼もまた、隊員の死体から銃を奪ったのだ。
――あの隊員を殺すメリットは、それ以外にない。
気づくのが遅れたことが悔やまれた。怪我を負わなかったのは僥倖に過ぎない。判断を誤れば即死だっただろう。
物陰に身を潜めつつ、桜田は大門と一対一の銃撃戦を展開する。互いに高い射撃技術を持ち、撃つたびに壁や机に銃痕が刻まれていく。だがどの一発も、決定打にはならなかった。
隠れ、撃ち、走り、また撃つ。少しずつ距離が詰まり、顔のすぐそばを銃弾が掠める。銃声はあまりに大きく、鼓膜が裂けそうだった。
やがて、間にあった机が一つだけとなり、二人の距離はわずか二メートルほどにまで縮まった。一瞬の油断が死を招く。
桜田は呼吸を整え、再び銃を構え直す。そして身を乗り出し、大門に向けて発砲した。
同時に大門も飛び出し、こちらを銃撃する。だが――やはりカービンは近距離戦には不向きだった。
それでもなんとか机の影を使い殺し合いが続く中、ついに桜田のカービンが空虚な音を立てて弾切れを告げた。
替えのマガジンは手元にない。だが死体から補給するには時間が足りない。撃たれて終わりだ。もはやこの銃は重りにすぎなかった。
桜田はカービンを投げ捨て、懐からナイフを引き抜く。大門が銃を構えたまま机を飛び越えようとしたその瞬間、彼女は獣のように飛びかかった。
ナイフを振り下ろす。しかし大門はそれをあっさりと避けた――だが、それも想定内だった。振り下ろした刃が床に届く前に空中で止め、そのまま横へと薙ぐ。
大門は反応し、体をそらして回避。だが刃先がわずかに鼻を掠め、血が散った。
桜田はすぐさま畳み掛けるように刺突を繰り出す。大門はカービンを盾にして応戦。桜田は攻撃の手を止めず、言葉を投げかけた。
「受けてばっかじゃ、いずれ刺されるんじゃない?」
当然、大門からの返答はない。だがそれでよかった。
右足で大門のカービンを思いきり蹴り上げる。想定していなかったのか、大門は距離を取られる形で弾き飛ばされた。
倒れることこそなかったが、桜田はにやりと口元を歪める。
言葉を発した時、彼の意識はわずかに攻撃から自身の言葉へと逸れていた。もし黙っていたら、あの蹴りにも対応できただろう。むしろ、桜田の隙を突き、反撃に転じていたかもしれない。
――つまり、大門にはまだ人間としての意思が残っている。
完全に魔族に操られているのであれば、言葉など無意味だし、痛覚も存在しないはず。階下で襲ってきた刺客たちのように、無表情のまま動き続けるだけの殺人兵器になっていたはずだ。
しかし大門は違った。桜田の言葉に、微かだが反応を見せた。かつて腹を蹴った際には、苦悶の表情すら浮かべていた。
もしかすると、彼を救えるかもしれない。
そう――ほんのわずかにだが、希望を抱いた。
大門は体勢を立て直すや否や、銃口をこちらに向けて容赦なく引き金を引いた。
桜田は横へと走り抜ける。机二つ越しに、大門も追いかけてくる。硝煙と血の匂いが教室に充満し、かつてあった埃臭さは消えかかっていた。
その時、教室の外から足音が聞こえた。
間もなく、前扉から三人の大人が教室に入ってくる。私服姿の彼らの目には、光が一切なかった。
――敵の増援か。
桜田は苦々しい表情を浮かべた。無線は使えない。使えば、その電波を傍受した爆弾がどこかで即座に起爆する恐れがある。つまり、こちら側は援軍は望めない。ならば、自らの手でこの三人を殺すしかない。
桜田が最も警戒している点は、主に二つある。一つは敵の増援だった。
魔族の力を得た大門は、もはや四堂に迫る実力を備えていた。桜田と肩を並べるには及ばぬとしても、もし相手が四阿であったならば、おそらく勝敗は決していただろう。それほど、彼の強さは脅威だった。
その彼に、増援が加われば――状況は一気に厳しくなる。自分が討たれることはないにせよ、玄武隊の支援を期待できぬ今、全員を迅速に処理するのは困難を極める。その間に、この階に仕掛けられた爆弾が起爆すれば……そこから先は想像に難くない。
だが現実に増えたのは三人。武装しているとはいえ、元は素人の域を出ない者たちだ。これが十人、十五人となれば話は別だが、三人ならば許容範囲と言えなくもない。
刺客たちはベレッタM9を構え、逃げる桜田へと容赦なく弾を撃ち込む。だが彼女は靴のグリップを活かして急停止し、反動を使って身を翻すと、逆方向――すなわち刺客たちの方へと猛然と駆け出した。
一瞬遅れて大門も追いすがるが、その速度では桜田には及ばない。教室を弾丸のごとく突っ切り、身を低くして刺客の一人へとナイフを突き立てる。
まるで猪のように、その男の腹を貫いて黒板へと叩きつける。肩を掴んで抵抗する男を無視してナイフを横に薙ぎ払い、腹部を切り裂いた。血飛沫とともに内臓が飛び出し、濁流のように床を赤く染める。男はその場に崩れ落ちた。まだわずかに呼吸はしていたが、もはや助かる見込みはない。
すかさず身を翻し、隣にいた別の刺客に目を向ける。男は怯むことなく銃を向けたが、それを桜田は力強くはね除けた。銃は彼の手から落ち、床に転がる。
隙を与えず前蹴りで男を突き飛ばす。扉に激突したその身体を無理やり髪を掴んで引き起こし、壁面へ額を叩きつける。二度、三度、四度――やがて頭蓋が砕ける感触が掌に伝わった。
ぐったりと力を失った男の身体を支え、そのまま背を向けて後方へ蹴り飛ばす。倒れ込んだ先、そこには大門の射線があった。
銃声。盾にされた男の身体が弾丸に穿たれ、仰向けに倒れる。額が凹み、白目を剥いた顔からは脳が露出し、血しぶきと共に命が零れ落ちていく。
残る一人は、大門の近くにいる。殺すには距離が近すぎると判断し、桜田は再び駆け出した。銃撃音が響き渡るが、それもすぐに止む。
――弾切れ、か。
心の中で呟く。大門の持つカービンも、桜田と同じく弾を使い果たしたようだった。振り返ると、大門が倒れた隊員を指さしているのが見えた。
替えのマガジンを取ってこい、という指示か。刺客は特に抵抗もせず従おうとする。だが桜田はそれを許さない。
地を蹴り、刺客にタックルを仕掛けた。側面からの衝撃に、男はなす術もなく地面に叩きつけられる。
間髪入れず、太腿にペティナイフを突き立てた。抜いて、再び刺す。だが男は呻きすらしない。痛覚が鈍っているのか、それとも――。
それでも脚の力は失われ、男は膝をついた。桜田は彼の背後に回り、右腕を首に絡めて締め上げる。男は苦しげに手を伸ばして気道を確保しようとするが、回された腕はぴたりと密着し、わずかな隙間すらない。そしてしだいに男の力が次第に抜けていく。
――違和感。なぜ、大門はこの隙だらけの背中を襲わないのか?
それが、桜田の頭を過った。
人間の気道を完全に塞いでも、絶命には約一分かかる。彼女はそれを知っていた上であえて、大門のいる方に背を向けて男を絞めていた。誘っていたのだ。隙を見せることで、大門が飛び出してくることを期待して。
だが、それは起こらなかった。
隊員の遺体にも目立った変化はない。だがしかし、背後からは一切殺気を感じないどころか、周囲に彼の気配すら感じられない。まるで、今この教室には自分とこの男しかいないような――そんな錯覚に陥る。
嫌な予感。
桜田は腕を少し緩め、周囲を見渡す。そして――見た。
教室の後方。三列四組、十二あった長机の一つ――最後列の中央。その机の上に、大門が、立っていた。
腰を据え右足を一歩前に出し、左足の踵をわずかに浮かせ、両腕を大きく広げて。
戦慄が走る。本気でやるのか。最大限に警戒していたとはいえ、実際に手を出すとは――
大門は鋭くこちらを睨みつけ、静かに、だが冷酷に口を開いた。
「火術開放」
その声に、桜田は咄嗟に腕をほどき、絞めていた男をその場に残して走り出す。
同時に、大門が言い放つ。
「――散」
広げた両手を勢いよく前に突き出す。その瞬間を狙い、桜田は跳躍。近くの机の上へと跳躍する。
そして――教室に、パンッ、と乾いた音が一度だけ響く。大門が手を叩いた、その刹那。
床が、黄橙色に染まり、教室全体が閃光に包まれた。
だがそれも一瞬に過ぎなかった。次第に、目が潰れるほどの白い光を放つ床とともに、真夏の蒸し暑さが一気に灼熱へと変貌する。桜田の脚先が長机に触れた刹那、床一面が火の海と化した。
視界が赤く染まり、床に倒れていた刺客らは無言で悶え、やがて黒焦げとなって動かなくなる。肉の焦げる生々しい匂いが鼻腔にこびりつき、服は熱を吸収して肌を焼くように熱い。
汗が止まらない。物理的な暑さが主因ではあるが、冷や汗も確かに混じっていた。その理由は、あまりに単純だった。
人術の使用――本来、魔族に向けられるべきその術が、桜田に牙を剥いたのだ。
これこそが、桜田が最も警戒していた要素の一つだった。大門が使用したのは、人術の中でも特に危険な「火術」。その名の通り、火を自在に操る術である。
極めて厄介だ。使用される前に殺すこと、それが桜田の当初からの狙いだった。刺客の介入がなければ、十分に実現可能だったはずだ。さらに厄介なのは、その威力が明らかに底上げされていること。彼が「八間」と言われても、不思議には思わない。
思わず歯噛みする。目の前で無表情に佇む大門の顔は、炎に照らされて赤黒く染まっていた。その様子はまるで地獄からの使者のようだ。不気味で、冷酷で、無慈悲。いまの彼に、それらすべてが当てはまる。
だが、希望が皆無というわけでもない。人術の使用には、自らが持つ何かを代償に差し出さねばならない。威力、持続時間、効果範囲……それらを術者自らが設定し、その分に見合った代価を払ってようやく成立する奥義のようなものだ。一部の例外はあれど、原則としてリスクはつきまとう。
あれほどの威力を見せた以上、大門が何らかの重大な代償を払ったことは間違いない。その代償は、術の効果時間が切れた瞬間に自動的に回収される。つまり、術の時間内を耐え抜けば、相手は大きく弱体化する可能性がある――。
そんな淡い期待を抱いた桜田だったが、現実は甘くなかった。
大門が軍服を脱ぎ、それを火の中へと投げ入れる。その下に巻かれていたのは、自爆ベストだった。中央には親切にもタイマーがくくりつけられており、赤い数字が残り5分弱を刻んでカウントダウンを始めていた。
なるほど、と桜田は小さく舌打ちする。大門が差し出したのは、爆発以後の寿命そのものだった。どうせ爆死する運命なら、その残りを術に変換するという選択。無駄のない、極めて効率的な使い方だ。
――いや、違う。これが彼自身の意思によるものだとは思えない。すべては、あの魔族の仕業。ならばせめて、大門だけでも……。
「射」
弓を射るような構えとともに、彼は低く呟いた。次の瞬間、どこから現れたのか、炎の矢が桜田目掛けて飛んできた。
長机を飛び移り、それを回避する。一歩でも踏み外せば、即座に火達磨。極限の戦いだった。しかも時間が経てば、いま燃えていない十二の長机も焼け落ちるのは時間の問題。その前に全てを終わらせねばならない。
大門の攻撃は止まらない。再び火矢が放たれ、それをかわしても次の矢が追いかけてくる。距離が一向に縮まらない。武器になり得るのは、手元のペティナイフただ一つ。ならば、近接戦闘に持ち込むしかない。
深く息を吐き、一気に彼の元へと駆ける。火矢がすぐ脇を掠め、髪が焼け縮れる。度重なる運動で、呼吸は既に限界に近い。教室中に立ち込めた煙が肺を焼き、酸素を奪う。
それでも、猿のように跳び、駆け抜け、ついに同じ長机にまで距離を詰める。近すぎると判断したのか、大門は火矢の構えを解き、代わりに包丁を抜いた。
ついに接近を果たした桜田は、勢いそのままに低い姿勢で刺突を試みる。だが、それを大門は見事に迎撃し、素早くブラジリアンキックを放つ。
左腕でそれを受け止める。強烈な衝撃で体勢が崩れかけるも、なんとか踏ん張る。痛みを堪えつつ大門の脚を押しのけ、その反動でバランスを崩した隙に回転蹴りを叩き込む。
だが彼は身を引き、そのまま机一つ分の距離を空けて後退する。焦りは隠せない。ベストのタイマーは三分半を切り、火は着実に教室を呑み込んでいく。このままでは確実に爆発に巻き込まれるし、たとえ解除できたとしても教室ごと業火に焼かれるのは避けられない。
いよいよ酸素が足りなくなってきた。解除云々以前に、体力が尽きる可能性すら見える。――四堂である自分が、ここまで追い詰められるとは。
そんな状況でも、大門は容赦しない。右手を突き出した次の瞬間、拳ほどの大きさの真紅の火球が現れ、高速で飛来する。
窓際の長机へ跳び退く。だが、脚力も限界だった。何とか着地には成功したが、本当にギリギリであった。
火球が先程までいた場所を飲み込み、机ごと焼き払っていく。もう足場は残されていない。それでも、桜田はふと一つの可能性に気づき、それを試す。
斜めに跳び、大門の立つ長机へギリギリで着地する。迎え撃とうとする大門に対し、桜田はナイフで攻撃を仕掛ける。
激しい刺突と横振り。そのすべてを大門は的確に防ぎ続ける。目にも止まらぬ近接戦。その最中、大門は出刃包丁を取り出そうとするが、その隙を与えぬよう桜田は連続攻撃を続ける。
――だが、そのとき、彼女はある違和感に気づいた。
今の自分の攻撃速度は、あえてわずかに落としている。それでも、大門はぎりぎりでしか対応できていない。先程の彼なら、もっと俊敏で容赦なかったはずだ。隙を見せれば即座に潰しに来た。それが、いまは違う。
体力が落ちている? だが桜田よりも屈強な彼が先に酸欠になるとは考えにくい。――では、もっと重大な要因があるとすれば。
そう、もしかすると本来の大門の意思が、魔族の支配と戦っているのかもしれない。
彼の呼吸は荒くなり、目に光が戻りつつあった。予想は的中しているかもしれない。ならば、やるべきことはただ一つ。
「大門!! あんたの身体は、あんたの意思で動かせ! 魔族なんざに負けてちゃ一生の恥だぞ!」
攻撃の手を止めぬまま、声を張り上げる。無言を貫いていた大門だったが、明らかに受けの力が弱くなっている。その証拠に、肩や腕にいくつもの切り傷が刻まれはじめていた。
さらに言葉を重ねる。
「目ぇっ……覚ませ! ここまでしちまった以上、私はあんたを殺すしかない! だけど、そのままじゃあんたは一生、逆賊の汚名を着せられて終わるんだよ! だったらその前に自刃しろ! けじめを見せろ! そしたら私が――っ!」
その時だった。濃密な煙を思い切り吸い込んでしまい、桜田は激しく咳き込む。その一瞬で、致命的な隙が生まれる。
――そして、彼女は悟った。自分がいま、どれほどの失態を犯したのかを。
だが、もう遅かった。
大門は一瞬の隙を突き、ベストの懐から出刃包丁を抜き放つや否や、横へ薙ぐように切り裂いた。
はっとして上体をそらす。だが遅い。刃先が頬を掠め、鋭い痛みとともに、視界の中で自身の血が飛び散る。だがそれすらも一瞬。大門は包丁を投げ捨てると、がら空きとなった己の腹部に、これまでで最も強烈な蹴りを叩き込んできた。
全身が耐えきれず、勢いそのまま後方へ吹き飛ばされる。奇跡的に後ろの長机に乗り上げるも、手にしていたナイフは燃え盛る床へと滑り落ちた。頭を強く打ちつけ、脳震盪と腹部の激痛により、立ち上がることさえ叶わない。
大門は躊躇なく、苦悶する桜田の上に飛び乗る。そして逃げ場を塞ぐように、残った机をすべて、先ほどと同じ火球で焼き払った。
全てが燃え落ちた後――彼は無言で彼女に馬乗りになり、そのまま全力で首を絞め上げた。
呼吸ができない。気道を塞がれ、目の前にある大門の瞳に、自分の顔が映っているのが見えた。頬も髪も煤と返り血で汚れ、見るも無残な姿だった。
彼の腕を必死で掴むが、力は微塵も緩まない。血が頭に上り、目に染みる煙が涙を誘う。視界が霞み、思考がまとまらない。
それでも、希望にすがるように、わずかに言葉を搾り出した。
「だ……いもっ……まだ……まだ、まにあ……ぐっ……」
駄目だ、苦しい。意識が遠のいていく。瞳に映る自分が、苦悶の表情でもがいているのを、ただ傍観するしかできない。血中酸素濃度の低下でろくに力も込められない。ベストのタイマーは残り二十秒を切っていた。
死が、確実に迫っている。
――嫌だ。もう嫌だ。もう二度と、あの苦しみを味わいたくない。
――もう二度と、死など経験したくない。
嫌だ……嫌……だ……
そのときだった。
喉を、なにか冷たいものが通った感覚がした。すると、今まであれほど苦しかった胸が、一気に楽になった。飛びかけていた意識が、じわじわと現実に引き戻される。
一体なにが起きたのか、最初は理解できなかった。だが、やがて首の締め付けが消えていると気づき、そこでようやく状況を把握した。
大門の手が、緩んでいたのだ。
空いた気道に一気に空気が流れ込み、思わず咳き込む。
彼の表情は、歪んでいた。苦悶と混乱が入り交じるような表情。その目の奥で、なにかが必死にもがいていた。
そして、その“なにか”は次第に微かな光となり、彼の瞳に宿る。
それが、大門自身の意志であると、桜田は悟った。
魔術に支配された男が、わずかとはいえ自我を取り戻したのだ。
その目が、彼女をまっすぐに捉える。
言葉はない。だが、何を伝えようとしているのか、彼女にははっきりと分かった。
胸のうちに、複雑な思いが交錯する。
迷い、葛藤、悲しみ、そして、憎しみ――。
数え切れない感情の中から、桜田が選んだのはひとつの決意だった。
「ごめん、大門。絶対に……絶対に忘れないから」
彼の手を振り払い、震える脚で立ち上がる。痺れに抗いながら、机の端までよろめき走り、割れた窓に向かって跳躍する。
その直前、彼の姿を振り返った。
大門は彼女を見ることもなく、ただ虚空を見つめ、静かに座っていた。タイマーは残りわずか四秒。爆発は、もう止められない。
彼の瞳は、たったひとつの言葉を語っていた。
『逃げろ』
たった三文字。だが、その短い言葉に宿った覚悟の重さは、計り知れなかった。
本当は助けたかった。彼を、救いたかった。
けれど、それは彼の覚悟を裏切ることになる。仮に助けたとしても、待っているのは民衆の糾弾とADFの冷酷な裁き。彼が望んだ最期が、それではないことを桜田は知っていた。
誰一人、救えなかった。地域住民も、仲間たちも、クラスメイトも、部下も、そして――自身すら。
恒田や都美のように、一般人として平穏に暮らしたいという夢など、所詮幻想だった。桜田風音として生まれた時点で、あの組織の鎖から逃れることは不可能だった。
魔族を絶滅させるという使命。その果てにある殺戮に満ちた生涯。
彼らはそれでも、そんな生き方しかできない自身を許してくれるだろうか。
窓を突き破り、身体が宙に放り出される。
ふわりと浮く感覚の後、重力が容赦なく引き戻してくる。眼下には硬いコンクリート。このままでは、骨の一本二本では済まない。
割れた窓越しに、大門の姿が微かに見えた。やつれたその目に、確かな光が宿っている。
一瞬、視線が交差する。彼は、微笑んだ。
死を目前にした男の表情とは思えないほど、穏やかな微笑みだった。
そして、
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彼のその微笑みは、タイマーの数字がすべて“0”に揃った瞬間、巨大な火炎に呑まれた。
直後、複数の火球が連鎖的に炸裂し、校舎四階全体を包み込むように炎が吹き上がる。爆発音が響き渡り、そしてその轟音は耳の奥で反響し、鼓膜を押し潰すような耳鳴りとなって残った。
だが聴覚が異常を訴えるよりも早く、今度は激しい爆風と、皮膚を焼くような熱波が容赦なく桜田の身体を襲った。
彼女の体は空中で翻弄されるように吹き飛ばされ、バランスを崩したままおよそ十五メートルの高さから真っ逆さまに落下していく。
不幸中の幸いか――爆風が落下地点を変えてくれた。真下はコンクリートではなく、木々や草が生い茂る植栽エリアへと軌道がずれていた。わずかながらも、草木がクッションになってくれるだろう。しかし油断はできない。
急速に迫る地面を目にしながら、桜田は全身の痛みに耐えつつ、わずかな余力で受け身をとる体勢に入った。
その直後、木の枝が彼女の頬、腕、脚を次々に掠め、鋭い痛みと共に血が飛び散った。勢いのまま太い枝の幹に背中を強打し、最終的には草地へと叩きつけられるように落ちた。
受け身と地面の草が衝撃を和らげたおかげで、致命傷は免れた。だが、それまでの戦闘で満身創痍となっていた身体には、関節の痛みや打撲が重くのしかかり、指一本動かすのも困難な状態だった。
それでも、もがくようにして仰向けになり、視界に広がる空を見上げる。
灰色の雲が空を覆っていた。それは、この悲惨な光景をそのまま象徴しているようだった。
痛みが、全身から突き上げてくる。肺が膨らんで収縮し、心臓が鼓動を打ち続ける感覚。草木の土と湿気が混じった匂いが鼻腔を抜けていく。
――生きている。
その実感が、ほんの僅かばかりの安堵となって胸を満たした。
すると、張り詰めていた精神の糸がぷつりと切れたかのように、意識がすーっと遠のいていく。
かすかに、遠くの方で人々の逃げ惑う叫び声と、雷鳴にも似た銃声が耳に届いた。だが、その音さえも次第に霞み、まるで深い水の中に沈んでいくように、音も光も何もかもが遠くなっていく。
――駄目だとは分かっていた。けれど、もはや抗う気力は残っていなかった。
そのまま、彼女の意識は静かに闇に沈んでいった。
***
「……ん……じん……佳人…起きてください、佳人卿!」
誰かが自分を呼ぶ声が聞こえた。意識の淵から引き戻されるように、まぶたをゆっくり開く。
目の前には、部下であり八間の一人でもある四阿庸平がいた。彼は覗き込むようにして桜田の身体を揺さぶり、その表情には安堵の色が浮かんでいた。
彼に支えられ、桜田はゆっくりと上半身を起こす。視界に飛び込んできたのは、混乱の極みとも言える戦場の光景だった。
武装した隊員たちが、右手方向にバリケードを築いていた。机や棚を即席の盾とし、その背後から正門方面へ逃げる生徒たちを守るように銃撃を行っている。その対面には、私服姿の敵が物陰から反撃してきていた。
戦っているのは、生き残った玄武隊の五名。そして敵は――魔族に操られた人間たち。私服のほか、制服姿、さらには玄武隊と同じ灰色の迷彩服を着た者まで混在していた。
戦況は圧倒的な不利。敵は二十人を優に超え、殺しても次から次へと湧き出してくる。持ちこたえてはいるが、時間の問題だった。
「佳人卿、何があったんです!」
四阿がなおも支えながら問い詰めてくる。「貴女様が、そこまで追い詰められるなんて……!」
「……私の心配なんていい。今は一般人の避難を最優先しろ。」
「ですが――!」
その言葉を遮るように、桜田は咄嗟に四阿の身体を引き倒し、自らも地面に伏せた。
次の瞬間、乾いた破裂音とともに弾丸が頭上をかすめ、壁や床を撃ち抜いた。敵がこちらを狙っていたのがはっきりと分かる。
桜田はすぐに四阿の持っていたMP5を奪い取って地面をロールし、銃口を敵へ向けた。そして躊躇なく引き金を引く。数発の銃弾が敵の胸と腹を貫き、血飛沫を上げながら仰向けに倒れていく。
しかし、敵の何人かはこちらの位置に気づいており、玄武隊のバリケードから離れていた桜田たちに照準を合わせ始めていた。
「ボサッとするな四阿。撃ち殺されんぞ」
そう言い捨てると同時に、桜田はバリケードへと駆け出す。すぐ背後の床に弾丸が跳ねた。
玄武隊員らの援護射撃が飛び、二人はなんとかその防御線へ滑り込んだ。盾代わりの机に背を預け、物陰に座り込む。四阿も隣にしゃがみ、ぼやくように呟いた。
「ほんと、油断も隙もありゃしねぇ……」
隊員たちの射撃と合わせ、桜田も一人、また一人と確実に敵を撃ち抜いていく。その合間に、彼女は隣の四阿へ問うた。
「ショッピングモールのほうはどうなった? まさか、それ放り出してこっちに来たわけじゃないよね」
「いえ、あちらの敵はほぼ一掃しました。現在はSATによる完全な制圧下にあります。新たな襲撃がない限り、大きな被害は出ないはずです。ただ……」
四阿は一拍置き、言葉を続ける。
「鳴矢高校を中心に、敵は強固な防衛線を敷いています。俺はなんとか隠れてここまで来ましたが、警察組織はこの周辺には近づけていません」
「……そう。政府は何て言ってるの?」
「先ほど内閣のほうで、本件に関する緊急対策本部が設立されたと報告がありました。あと二時間弱で、自衛隊の派遣も可能になるとのことです」
桜田は、ぎりっと唇を噛み締める。
「悠長すぎる。憶測だけど、もう周辺地域の死者は三百を越えてる。これはもはや、無秩序な内戦状態だ。現状を即時共有し、早急に自衛隊を投入するよう要請して。それには私の名前を使って構わない。」
「了解しました」
四阿が頷くのを確認しながらも、桜田の内心は重く沈んでいた。
――要請しても、意味はない。
民主国家は総力戦には強いが、突発的なテロや紛争への対応は後手に回る。それが現実だった。
一人の意志で戦略が動くことは許されない。それを許せば独裁と何ら変わらない。だからこその「対魔特別排除協定」であり、ADFだったはずなのに――結局、日本という国家を非常時に貶めてしまった。
この事態における信用の失墜は、もう避けられない。
だが、それでも最善を尽くさなければならない。
桜田は顔を上げ、周囲の隊員へ視線を巡らせる。
「こっちの残存兵力は?」
一人の隊員が即座に答えた。
「現在、連絡のつく隊員は三十三名。しかしその半数は市街地に残る敵勢力の掃討に出ており、他も高校内の避難民誘導と敵の排除で手一杯です。この防衛線は、正直言ってこのメンツで限界です。」
「……了解。ここにいる者のうち三名はこの防衛線の維持に専念しろ。背後の警戒も怠るな。まだ魔族は校舎内に潜んでいるはずだ」
そこで一瞬、言葉を切る。だがすぐに、鋭い声で命じた。
「…四阿含め残り三名は、私について来い」
名を呼ばれた四阿が驚愕の表情を浮かべる。
「佳人卿、なにを……」
「魔族との決着がまだついてない。私はそれの捜索ついでに残された生徒の避難と残党狩りをしてくる。」
「で、ですが……今の貴女様の身体は傷だらけで……!」
四阿が必死に制止しようとするも、それを遮るように桜田は淡々と口を開いた。
「いいか。これは最期の命令だ。私を引き止めるな。どう足掻こうと私は、上層部に断罪される」
それを聞いて、場の空気が一変した。周囲にいた隊員たちも皆、目を伏せ、痛々しい表情を浮かべる。
誰もが分かっていた。この事態の責任者である桜田が、組織の裁きを免れるはずがないことを。
ADF、人類と生族を魔族の脅威から守るための強硬な軍事組織は、強権的な独裁体制のもと、魔族だけでなくあらゆる反逆者や失策者に容赦のない制裁を加えることで知られている。
反体制派、逆賊、異端者、そして組織の秩序を脅かす者は、例外なく「処理」される。そうして維持された軍事的な圧倒性と恐怖によって、人類の防衛線は保たれてきた。
だが桜田風音は今、その防衛線を破られ、数百人もの犠牲者を出した作戦の責任者だった。彼女がこのまま生還したとしても、待っているのは無慈悲な処分だけ。
「ならせめて……この手でケリをつける」
彼女はそう言いながら、手にしていたMP5を四阿に放り投げた。代わりに、コンバットナイフと、その辺にあったシグ・ザウエルM17を手に取る。
無線のイヤホンを装着し、チャンバーをチェック。機械のような動作で銃の状態を確認すると、背後の隊員たちに告げる。
「裏口から校舎内へ侵入する。そこまでの道は私が切り開く。お前らは後方からの援護射撃を頼む」
返事は待たない。桜田は身を沈め、瞬時にバリケードを跳び越えた。
敵の銃口が彼女に向けられるが、その直後、隠れていた隊員たちが一斉に援護射撃を開始。敵の狙いを逸らし、その間隙を縫って桜田は懐へと飛び込んだ。
ナイフが閃き、次々と敵兵の喉を断ち切る。切っ先が触れるたび、鮮血が宙を舞い、銃撃音の中に肉が裂ける音も響いた。
たった十秒。その短い時間で辺り一帯は血の海と化し、二十数名の敵が、誰一人として反撃すら許されず倒れていた。
四阿と、後に続く二名の隊員がバリケードを越えて彼女の元に追いつく。
桜田は振り返らないまま、裏口の近くまで移動。壁に背を預け、息を殺して気配を探る。
四阿たちもそれに倣い、静かに呼吸を整える。
そして桜田が合図するまでもなく、四阿が裏口のドアを勢いよく開け放った。
――瞬間、無数の敵が眼前に現れた。
反応するより先に、引き金を引く。フルオートの掃射で近距離の敵はバタバタと倒れるが、次の瞬間、廊下の奥から一斉に銃弾の嵐が巻き起こる。
「下がれ!」
桜田は即座に判断し、壁に身を預ける。味方もろとも巻き込む銃撃がコンクリートに弾け、破片と血が舞う。入口付近は既に肉片と血飛沫に塗れ、惨憺たる光景が広がっていた。
そのとき、戦場の混乱を切り裂くように、低く響く男の声が聞こえてきた。
「――桜田風音ぇ゙!! そこにいんだろ!? 二人で話そうじゃねぇか! お前が出てくんなら、一旦撃つのはやめてやらぁ!」
横井亮太、彼のその声を聞いた桜田は、目を細める。そして、四阿に裏口の扉を開くよう言う。
それを聞いた四阿が慌てて止めようとする。
「なっ、そ、それは危険すぎます!」
だが桜田は静かに首を振り、「大丈夫」とだけ答えた。
四阿は不満を露わにしつつも、「知りませんよ」と吐き捨ててドアを蹴破る。
撃ち合いが止んだ。
張り詰めた空気が、場を支配する。お互いに銃を構えたまま、指一本で地獄が始まるような緊張。
その奥――敵の背後には、縛られて横たわる複数の生徒たちがいた。人質か、と桜田は歯を噛み締めた。
ゆっくりと、彼女は一歩前へと足を踏み出す。
「呼び出すなら、てめぇも姿見せろや」
すると、敵の集団が自然と道を開けた。その奥から、拳銃を手にした横井亮太が悠然と歩み出てくる。
だがその表情には疲労が滲み、青い出血が止まらぬ肩は明らかに致命傷に近い。
「立ってるのもやっとって感じだな。それで私とタイマン張るつもり?」
桜田が皮肉めいた笑みを浮かべる。
「生憎、てめぇが見殺しにして爆ぜたあいつに魔力の大半を使っちまってな。もはや触手すら出せねぇよ」
眉間に皺が寄る。胸に重くのしかかる怒りが、静かに噴き出す。
「……見殺し? ふざけんな。あいつはあんたに殺された。それだけじゃない。罪のない人間が、何百人も死んだ。それも全部あんたのせいだろ。」
「そりゃあ、そうだな。だがよ……お前の不注意も要因の一つだってこと、分かってんのか?二週間も泳がせてくれて、ほんとありがたかったなぁ。お陰でお前をここまで追い詰められた。魔族にとっちゃ、これは歴史的な快挙だぜ?」
「命あってこその快挙だろ……あんたは私がぶっ殺す。」
「へっ、やれるもんならやってみろよ。やれるもんなら、な。」
その時、横井が口角を吊り上げると、左側の教室すべての窓と扉が一斉に開いた。
そこから、無数の銃口が桜田に向けられる。
その数、六十は下らない。既に姿を現していた敵と合わせれば、彼らの戦力差はこちらの二十倍を超える。
その光景を前に、桜田の目が細まった。
これが、魔族の主戦力。
四阿たちの動揺が背中越しに伝わってきた。しかし、桜田は微動だにせず、冷たい視線で横井に化けた魔族の顔をじっと見据えた。
「いちばん強かった大門が死んだからって、今度は数の暴力? 笑わせる。」
「だが実際、今は俺の圧倒的優勢だ。そこから一歩でも動いてみろ。お前もお仲間も一瞬で蜂の巣にしてやる。」
魔族は左手を高く掲げると、周囲の敵たちが引き金に指をかけ、一斉に桜田を狙った。
「佳人卿!!」
四阿の声が廊下に響き渡る。だが桜田は振り返らず、冷静に告げた。
「四阿、合図があるまでそこから一歩も動くな。」
「なっ、、、!?」
「闇雲な銃弾の消費、人術の使用、その他無駄なことは同様に一切禁ずる。自身の命が危ぶまれる場合のみ最低限の銃器使用及び戦闘は許可する。これはお前の隣にいる隊員もだ、いいな。 分かったなら扉を閉めろ。合図があったら突撃してこい。」
「し、しかし、、、!」
「無闇な詮索も禁止。いいから黙って待っとけ。」
返事をまたずして、今度は眼の前にいる魔族へ語りかけた。
「狙うのは私だけでいいだろ、お前らもその方が的も手間も減ってやりやすいだろうし。」
「、、、ふん、強気に出たな。いいだろう。こいつらにはてめぇしか狙わないよう命令してやる。代わりにこの女の後ろにいる雑魚共も手出すんじゃねぇぞ。」
長い沈黙の後、ゆっくりと裏口が閉ざされた。周囲にひしめく敵の銃口は、桜田ただひとりを狙い撃つ。だが彼女は動じることなく、不敵な笑みを浮かべた。
「なんか思い上がってるみたいだから言っとくけど、この人数で本当に私を殺せると思ってんの?」
「あ?全方位からの射撃だぞ? しかも人質がいる。四堂でもまともに抵抗できるはずが……」
「それはお前が私を目視できたなら、でしょ。」
言い終わるや否や、桜田は温存していた最後のスモークグレネードを宙に放った。魔族は振り上げていた左腕を振り下ろそうとするが、動きを察する前に桜田は既に動き出していた。
コンバットナイフを巧みに構え、疾風怒濤の如く敵の喉元を掻っ切る。血が噴き出すよりも速く、的確かつ容赦なく刃を振るい続ける。魔族が腕を振り下ろす寸前には、彼女の周囲の敵は切られたことに気づく間もなく絶命していた。
最初の敵から鮮血が吹き出すと同時にグレネードが炸裂し、煙が一帯を覆う。間もなく、煙の向こうから複数の銃火が閃き、耳を裂く発砲音が轟いた。
しかし、狙いを定めた敵のいる場所には桜田の姿はなかった。彼女は割れた窓から教室に忍び込み、電撃の如くMK48短機関銃を構える敵の腹部へ9mm弾を撃ち込み、伏せたその首にナイフの刃を突き立てた。続けて頸動脈を切り裂き、無力化する。
敵の銃を奪い取り、機関銃を両手で抱えて正確に射撃を開始した。
「セーラー服には機関銃ってな。」
一般的にMK48短機関銃は約9キロもの重さがあり、加えて射撃時の反動は訓練を積んだ軍人でも苦しむ。しかし桜田は軽々とリコイルを抑え込み、正確な射撃で敵を次々と倒す。
薬室から連続して7.62mm弾が撃ち出され、教室の壁や黒板は弾痕だらけとなり、積み重なった死体は数知れない。すべて無言で、ただ静かに息絶えていった。彼らにとってそれは二度目の死なのだろう。
弾切れを起こしたMK48を投げ捨て、代わりに教室にあった角椅子を掴み、片手で敵へ向けて放る。椅子は頭頂部を直撃し、鈍い音と共に敵は後ろの壁に倒れ込んだ。
教室の敵はこれで最後。だが廊下にはまだ敵があふれている。桜田は床に転がる手榴弾を拾い、教室の前に駆け寄った。
ピンを抜き、高く跳躍して跳び蹴りで扉を吹き飛ばす。衝撃で扉は破壊され、桜田は廊下へと身体をさらけ出した。
煙幕の中、魔族が焦りの色を浮かべ拳銃を構える。しかしその前に、桜田は手榴弾をサイドスローで投げ込む。弾は教室の割れた窓から入り込み、爆発音とともに敵を肉片に変えた。
残りの敵は20人。桜田はすぐ近くの倒れた敵の脛を突き刺し、間髪入れず首を貫いて無力化した。
背後の敵が銃尻で殴りかかろうとしたが、素早く受け止め目を切りつける。怯んだ敵の腹に前蹴りを叩き込み、離したAKのセレクターとハンドガードを握りしめて引き金を引き、敵を蜂の巣にした。
終始冷静なまま膝射姿勢で次々に敵の眉間を撃ち抜き、さらに13人を無力化する。
元々80人を超えていたはずの敵は、わずか1分足らずで魔族を含め5人にまで減っていた。魔族は明らかに動揺し、震える手で拳銃を構えていた。
桜田は悠然と立ち上がる。血と煤にまみれたセーラー服、同じく血に染まった白い肌、澄んだ黒い瞳。どれもが異質で、まるで幻のようにこの場に浮かび上がっていた。
「どうした?撃てよ。」
透き通るようなその声に抑揚はなく、研ぎ澄まされた怒りがまっすぐ魔族の心臓を射抜くようだった。その威圧に耐えかねたのか、魔族は生き残った手下たちに一斉射撃を命じた。
敵は即座に構え、容赦なく掃射する。しかし、桜田に向けられた無数の弾丸は、なぜか一つも彼女に当たらない。怯む素振りすら見せず、無表情のまま桜田はゆっくりと、ただひたすらに魔族へ歩を進める。
一歩、また一歩。その一歩ごとに、魔族にとっての死が確実に迫っていた。弾丸は高速で彼女の傍らをかすめるだけで、狙いを定めていた敵の焦りは募るばかりだ。
「てめぇ……!なんで当たんねぇんだよ! 一体なんの小細工だ!答えろ!!」
桜田は答えず、手元のライフルをポイと投げ捨てた。無言のまま、じっと魔族を見据えながら歩き続ける。焦りからか、魔族は後ずさりし、やがて言葉を失い、恐怖の叫びをあげ始めた。
「ああっ!あああああああああああっ!!」
敵との距離がわずか一メートルとなった瞬間、彼女の帽子の下で黒かった瞳が血の色に染まる。瞬きする間もなく、桜田は忽然と姿を消し、次の瞬間には掃射していた四人の背後に立っていた。
その刹那、四人の首筋に赤い線が浮かび上がる。血が噴水のように吹き出し、四つの首が宙を舞った。
――ドスッ、と重みを伴う鈍い音が反響し、銃声は途絶えた。頭上からは真っ赤な血の雨が降り注ぎ、頬を伝う血の感触と生臭い匂いが空気を満たす。周囲には死体や肉片、薬莢やガラス片が散乱していた。
その光景が、かつて脳裏をよぎった忌まわしい記憶を呼び覚ます。
一方の魔族は、体を震わせ顔面蒼白になり、尻餅をついて自身を見上げていた。かつての威勢はどこへやら、子鹿のように震えながら後ずさる様は、あまりにもみっともない。
拳銃の銃口はかろうじてこちらを向いていたが、無意味な銃撃は全く桜田に当たらない。やがて銃口を下げ、ただ逃げることだけに専念した。
奥の人質たちは怯えながらも、静かに戦況を見守っている。壮絶な戦いを見続けてきた彼らがこうして静観できるのは、地獄に慣れてしまった証でもあった。だがそれは長期的には決して好ましい兆候ではなく、深刻なPTSDを引き起こす可能性を孕んでいた。
桜田は歩みを止めず、高圧的な声で魔族に告げる。
「Ça va? えらく大人しくなっちゃったね。」
「ざっけんなっ……ざっ……けんなあああっ!!」
怯えた魔族を見下ろし、桜田は目元をゆっくり指差し、不気味に微笑んだ。
「久しぶりに使っちゃった、私のこれ。あの日以来だよ。」
「あの、日……ま、まさかお前、あん時のガキか!」
やはりそうか、脳裏をよぎったのはただそれだけ。横井の家の前にいた時の妙な胸騒ぎは、この気配に既視感があったからだと、今になって理解する。
「やっぱりね。どう?また追い詰められた気分は?」
「黙れ!黙りやがれ!! …まさかこれも、あいつの策略なのかよ!? ざっけんじゃねぇ!!」
「あいつ、ね……ほんとに誰なの、それ。」
独り言のように呟く魔族に、桜田の言葉は届かず、彼は虚空に向かって訳の分からぬ言葉を叫び続けた。
教室で口走っていた「あいつ」という存在。今回の襲撃テロは彼単体の仕業ではないということか。だが、その協力者を魔族は信用していない様子で、考えれば考えるほど謎は深まるばかりだ。
「そうか……そういうことならな、こっちもやってやるよ!お前らがグルなら、俺が計画をめちゃくちゃにしてやるだけだ!」
「あいつ」のことに気を取られている間に、魔族は後方の人質に銃口を向けていた。
感情を差し置いて、桜田の身体が反射的に反応する。銃身に蹴りを入れて銃口を逸らそうとしたが、引き金はそれより早く引かれ、弾丸は人質の一人、女子生徒のふくらはぎを撃ち抜いた。
彼女の絶叫が廊下に響き渡る。桜田は魔族の側頭部を蹴り飛ばし、壁に叩きつけ意識を失わせてから、撃たれた女子生徒へと駆け寄った。
撃たれたのは顔見知りだった。2−1のクラスメイト、都姫の友人の一人で、よく彼女を「みやちん」と呼んでいたはずだ。生存を知って一瞬安堵するよりも、苦しげに喘ぐ彼女の応急処置を急がねばならなかった。
服の袖を引きちぎり、膝下あたりを強く縛って止血を試みる。そのまま声を張る。
「四阿!入ってこい!」
裏口が勢いよく開き、四阿ら三名が警戒しつつ入ってきた。しかし、廊下の地獄絵図を目にしてすぐに状況を察し、銃口を下げてこちらへ近づく。
「佳人卿!よくぞご無事で……」
四阿の表情は固まった。予期していた反応だった。
「その目……使ったんですね、あれを。」
「今はいい。とにかく、今ここにいる人質の拘束を解いて。んで四阿、転化ができるならこの子の傷を塞いでくれ。縛ったけど出血が酷くて手に負えない。」
「わかりました……!」
四阿ら三人は動き出し、隊員たちはナイフを使って人質の拘束を解く。四阿は座り込み、女子生徒の傷に片手を添え、唱えた。
「相反療術、開放。転化。」
彼の手から薄緑の光が漏れ、十秒ほどで消えると、傷口は嘘のように塞がっていた。出血もかすり傷も見当たらない。
光が消えた途端、四阿の左手の爪が親指を除いて根元から剥がれ落ちていた。これが術による代償だ。彼は慣れているのか表情を変えなかったが、痛みは相当なものだろう。
「…貫通してなくて良かった。もしそうなら代償はもっと重かっただろうし、俺の粗い人術じゃ完璧には塞げなかったかもです。」
四阿の痛む手を見ながら、短く感謝を告げる。女子生徒はショックで気を失い、まだ目を覚まさない。隊員らはほぼ拘束を解き終えた。
ふと裏口を見ると、満身創痍の魔族が血を流しながら逃走しているのが見えた。
桜田は立ち上がり、四阿らに告げた。
「私はあいつを追う。君らはこの子たちを安全な場所へ避難させて。連絡は適宜無線で取る。…あとは、任せた。」
返事を待たず、拳銃を握りしめ、駆け出す。
追うは人殺しの少女。逃げるは人殺しの魔族。種族を越えた追走劇は、正門を抜けて続く。
奴だけは必ずこの手で殺す。たとえそれで、相討ちになろうとも。
***
桜田は、前方を走る魔族の背中を追っていた。だが、その背後――二十メートルほど離れた場所から、新たな、そして奇妙な気配が近づいてくるのを感じ取った。
『こちら本隊一班より佳人卿へ。後方に八幡直弥と思われる人物を確認。注意されたし。どうぞ。』
無線機から淡々とした声が響く。やはり、あの気配の正体は直弥か。殺意は感じられないが、彼が魔族方の増援を連れている可能性は十分にある。油断は禁物だった。
「こちら佳人、了解。最大限、警戒する。」
街はもはや、完全なる混沌と化していた。乗り捨てられた車は大破して炎上し、道路にはところどころ死体が転がる。瓦礫が散乱し、遠方にはいくつもの黒煙が立ち上る。だが一方で、警察や消防の姿もすでに現れており、保護された市民の数も多いと、無線を通じて報告があった。
魔族の気配は次第に膨れ上がっていく。それに呼応するように、亮太に化けた魔族が何度も振り返り、桜田に恐怖と憎悪の入り混じった眼差しを向けてくる。胸の奥に、微かに高揚感と愉悦が湧き上がった。
(ああ……これが、いつもの私だ)
ADF隊員としての、研ぎ澄まされた感覚。平凡な女子高生など、自分には最初からなれはしなかったのだと、桜田は改めて悟る。
魔族は招福商店街へと侵入した。その背を追いかけて路地へと進む。すると、途端に視界が開けた。
目の前に広がるのは、想像を超えるほど複雑に入り組んだ迷路のような街区だった。四叉路の先にまた四叉路が続き、その奥にもさらに四叉路……。まるで、誰かが意図的に仕掛けた罠のようだった。建物の配置からして、そう考えるのが自然だ。
だが迷う暇はない。魔族の気配は色濃く残っており、よほど焦っていたのか、その痕跡ははっきりと辿ることができた。曲がり角ごとに注意を払いながら、桜田は慎重に前進していく。
五度目の角を曲がったとき、不意に視界が開けた。そこは一坪ほどの空き地。周囲を高さ四、五メートルの小ビルに囲まれ、地面には砂利が敷かれている。曇天の空は灰色で、陽光は差し込まず、昼間とは思えぬほどの薄暗さだった。
その中心に、魔族が佇んでいた。
しかしそれだけではなかった。彼の背後、地面に座り込む二人の人間がいた。一人は中学生ほどの少女で、顔は腫れ、体中に青痣が浮き出ている。明らかに酷い暴行を受けた痕だった。
もう一人は三、四十代の女性。怯えきった表情を浮かべながらも、少女を庇うようにして魔族を見上げている。
「や、やめて……お願いだから!もうこれ以上、この子を傷つけないで!!」
女の必死の叫びに対し、魔族は冷笑を浮かべた。
「どけババァ。てめぇらはもう用済みなんだよ。」
魔族の背中――脊椎のあたりから、藍色の触手が伸びた。鋭利な刃のような先端が、女と少女を捉える。
女は震えながら少女を抱き寄せた。
その瞬間だった。
乾いた銃声が空き地に響き渡る。青い血が円を描くように飛び散り、伸びかけていた触手が吹き飛んだ。
銃口から、白い硝煙がふわりと立ち昇る。桜田は静かに銃を下ろし、冷たい声音で呟いた。
「私は仲間外れなの? 魔族――いや、魔族帝家第二皇子・ベピラ=ルシファー。」
その名を聞いた瞬間、魔族――ベピラは触手を引っ込めたまま、こちらを振り返らずに低く唸った。
「……てめぇにフルネームで呼ばれると、寒気がする。」
桜田は、銃口を魔族――ベピラの頭部に向けたまま、鋭い眼差しで睨み据えていた。
「魔族の中で上から三番目くらいに偉いんでしょ? だったら、ちゃんと敬意を払ってやらなきゃね。」
皮肉と挑発を込めた声に、ベピラは鼻で笑った。
「人間ってのは、敬ってる相手に弾丸ぶち込むのが風習か? そりゃ立派な文化だな。」
桜田はわずかに息を整え、問いかけた。
「……あんたがここにいる理由を聞かせてよ。普段なら幹部級のあんたが、こんな目立つ真似して。まさか、それほどまでに――八幡直弥の存在が大事なの?」
ベピラは無言だった。答えの代わりに、背中から新たな触手が二本、粘着質な音を立てて伸び、桜田へと狙いを定める。
しかし彼女は一歩も退かず、照準をずらさぬまま、言葉を重ねた。
「……お前さ、いい加減諦めな。さっきので分かったろ? 私のこと、殺せない。お前に残された道は二つ。私に捕まって死ぬか、今この場で死ぬか。」
挑発的な口調に、ベピラの目が細まる。
「自惚れてるな……俺ぁ、まだ――」
だが、桜田が先に言い放った。
「私を殺したいなら、お兄様かお父様でも連れてきなよ。あんたじゃ、力不足だ。」
その瞬間、ベピラの中に明確な変化が起こった。爆発的な殺意が迸り、空間を満たす。魔力が空気を震わせ、視界さえも歪ませるほどだった。
「……へぇ、やっと本気ってわけ?」
桜田が呟いたのとほぼ同時に、ベピラがゆっくりと振り返る。その顔はもはや人間の面影を留めておらず、青黒く歪んだ異形へと変貌していた。
「俺ぁなァ――兄貴も、親父も、だいっっっきらいなんだよ!!!」
咆哮とともに、彼の背中が膨れ上がる。そこから、五本の触手が矢のように桜田めがけて放たれた。
即座に床を転がってそれを回避し、同時に銃の引き金を二度引く。弾丸は正確にベピラの頭部を撃ち抜いたが、彼の肉体はそれをまるで無視したかのように微動だにしなかった。
触手が薙ぎ払われ、桜田は腕でガードして後退。衝撃を殺しつつ体勢を立て直す。そのとき、女の悲鳴が空間に響いた。
目を向けると、先ほどの女性と少女が、触手によって首を捕まれ、宙に吊るされていた。ベピラは完全に横井亮太の姿を失い、体長三メートルほどの、六つ目を持つ怪物へと変貌していた。
触手に込められた力が増していく。女性の顔は赤黒くなり、必死にもがいていた。時間がない。
桜田は即座に照準を定めたが、別の触手がそれを阻むように飛びかかってくる。顔すれすれを掠めたそれを紙一重で避けるが、反撃の隙を与えてはくれない。苛立ちが口を突いて出た。
「チッ……邪魔なんだよ!」
桜田は懐からコンバットナイフを抜き、襲い来る触手を一閃。ねじ切られた触手が悲鳴のような音を立てて地面に落ちる。そのまま、目にも留まらぬ速さで周囲の触手を次々と切り裂いた。
周囲の妨害が止んだ。
桜田は再び銃を構え、窒息しかけている女性を掴んでいる触手へと照準を移す。
だがそのとき、女性と目が合った。彼女の虚ろな瞳が、何かを訴えていた。
一瞬、桜田の中で葛藤が揺れる。だが決断に迷っている時間はない。
銃口は女性の触手から外れ、代わりに気を失っている少女を掴む触手へと向けられた。
引き金を引く。乾いた銃声。弾丸は触手の根元を撃ち抜き、それは力なく崩れ落ちた。
少女の身体が落下する。桜田は即座に駆け寄って受け止め、自身の体で庇いながら再び銃を構える。そして、もう一度、女性を捕らえる触手へと狙いを定め――引き金を引いた。
だが、銃から弾は射出されなかった。桜田の中で急激な焦りが生まれる。まさか、弾詰まり―――
触手が一層強く女性の体を締め上げ、悲鳴が空気を裂く。その直後、耳をつんざくような「ブチッ」という嫌な音とともに、彼女の首が千切れた。真紅の鮮血が空に舞い、地面を染める。
無惨に首を失った胴体がドサリと落ち、あたりに赤黒い血溜まりが広がっていく。それは魔族の青い血と混ざり合い、見る者の不安をかき立てるような不気味な色に変わった。
転がった頭部が跳ね、桜田の足元まで転がってくる。その顔は、苦悶と苦痛を湛えたまま、彼女をじっと見上げていた。
――立派な人だった。
死の間際、彼女は娘を助けてほしいと、目で強く訴えてきた。自分の命が尽きるとわかっていても、先に娘を――それが母の願いだった。触手は明らかに、彼女のほうにより強く力を込めていたというのに。
だからこそ、途轍もない申し訳なさと悔しさが募った。自身が事前に銃の状態が万全か確認しておけば、彼女は死ななかったはずだ。全ては自身の不注意が招いた惨劇だ。私はやっぱり、誰も守れない。誰も救えない。
べピラが咆哮を上げる。次の瞬間、無数の触手が沸き立ち、頭上から地面から、まるで怒りそのものが形を取ったかのように迫ってきた。
赤い目の効果はすでに切れている。加えて、娘を守りながらの戦闘では、さすがの桜田でも分が悪い。包囲され、追い詰められるのは時間の問題だ。
全ての触手が、桜田を狙っていた。無線で応援を要請する暇すらない。それほどの速さで、触手は彼女に襲いかかろうとしていた。
――万事休す。
そんな言葉が脳裏によぎる中、桜田はナイフの柄を握りしめる。どうせ殺られるのなら、せめて女性が命を懸けて守ろうとしたその娘だけは、自分が――
そのときだった。
すべての触手が、桜田に触れる寸前でピタリと動きを止めた。
まるで時間が凍りついたかのように。何が起きたのかわからず、彼女は一瞬、肩の力が抜けた。
「ごっ゙……がぁっ……!?」
べピラの呻きが響いたのは、そのすぐ後だった。
彼の腹部から、青い血が噴き出す。目を剥き、声にならない悲鳴をあげるその身体には、一本の“柱”が突き刺さっていた。
それは――血でできた柱。あの時、横井の家で桜田を襲ったそれと酷似している。
まさか……。さっき死んだ女性の血から生まれたのか?
助けるために? だが、それならば、なぜ自分はかつて襲われた? 矛盾が渦巻く。理解が追いつかない。
混乱する桜田の視界の中で、異変はさらに続いた。桜田に狙いをすませていた触手たちが、踵を返す。そして今度は、主であるべピラ自身へと向かって襲いかかっていったのだ。
べピラが叫ぶ。怒りと恐怖、混乱が入り混じった魔族語で。
[なんでだ! なんでだ!! 俺は命令に従ってただけだ! 俺は、なにも……なにも……!]
桜田は、その言葉を理解できた。幼少期から魔族語を学んでいたからだ。黙って拳銃を構え、事態を注視する。
[ふざけるな! ふざけるな!! 最上っ……最上シアぁぁぁあぁアアアっ!!!]
その叫びが終わるより早く、触手がべピラの身体を貫いた。断末魔とともに、全身から青い血が吹き出し、べピラは地面に崩れ落ちる。
なおも意識が残っていたのか、彼は桜田を睨みつけ、血に濡れた唇を震わせた。
「……なんだよ……なんで……っ!」
その刹那、雷鳴にも似た轟音が響いた。
直後、べピラの頭部の一部が、弾け飛んだ。
唖然とする桜田。あれは――50口径の対物ライフルだろうか。通常、戦闘機や重装甲車両に使われる破壊力。だが、驚くべきはそれではなかった。
まったく、殺気を感じなかった。
いや、それどころか、気配すら――存在そのものすら、何一つ感じ取ることができなかった。
桜田のような感覚の鋭い者ですら気付けない存在。そんなものが、この世に存在するのか?
気配とは、些細な物音、呼吸、体温、空気の揺らぎ――どれほど抑えても、生きている限り絶対に発されてしまうもの。それを完全にゼロにするなど、本来不可能だ。
それなのに。
無線機からの報告が、重く沈んだ空気を破った。
『こちら本隊1班。全ての敵が行動停止した。何が起こっている? どうぞ。』
『2班も同様、どうぞ。』
『別隊も同様です、どうぞ。』
『こちら寛解。俺も状況は把握できていないが、佳人卿の指示があるまで避難民の誘導と治安維持を継続しろ。警戒は怠るな。』
どうやら、ベピラの死と同時に魔術の効果も切れたらしい。操られていた人々が、一斉に沈黙していったようだ。
桜田はゆっくりと立ち上がり、無線機のスイッチを押す。
「こちら佳人。魔族は死んだ。全員、退避の準備を。……四阿だけ、招福商店街に来い。場所は気配で辿れるはずだ。」
返答を待たずに通信を切る。その瞬間、背後から微かに魔族に似た気配がした。だが、それは敵意あるものではなかった。
「母さっ……か、かえ……で……ッ、ぷっ……!」
背後で八幡直弥が嘔吐していた。目の前で斃れた女性と、そして少女は、彼と血縁関係にあったのだ。
――だから拘束していたのか。
彼らの目的は、まだ不明のままだ。だが、たった一つだけはっきりとわかることがある。
最上シア。
あれは、新たな、そして恐るべき脅威だ。四堂に並ぶか、それ以上。あの存在を目にしただけで、十分に理解できる。
戦いの時代が来る。果たして、自分はその時代を生き延びることができるのだろうか。
桜田は小さくため息をつく。そして、そのままゆっくりと振り返った。
***
ビルとビルの狭間にある薄暗い空き地――その光景を、遠く離れた場所からひとり静かに見下ろす者がいた。
純白のローブをまとい、頭まですっぽりと覆うフード。その隙間からわずかに覗く髪さえも、雪のように白い。そしてその姿の隣には、場違いなほど巨大で漆黒の銃――バレットM82が無造作に置かれていた。
対物ライフル。人を撃つにはあまりに過剰な殺傷力を持つその武器が、まるで彼の影法師のように静かに横たわっている。
白衣の人物の視線の先、桜田風音が膝をつく八幡直弥の背後に立ち、無言で手刀を振り下ろす。その一撃で意識を断たれた直弥は、そのまま地面に崩れ落ち、すかさず四阿庸平が彼の体を肩に担ぎ上げた。
二人の姿は、ビルの陰へと消えていく。まるで物語の幕が一旦下りるかのように。
その様子を見届けると、白き人物は口元にわずかな笑みを浮かべた。
冷たく、そしてどこか愉悦に満ちたその笑みの奥で、彼は静かに、しかし確かに何かを感じ取っていた。
そして、ほとんど独り言のように、小さく呟く。
「くはは……これは中々、面白いことになりそうだなァ……」
続く、、、




