88話 シチリア動乱 - 27 -
―――5時30分 カルタジローネ郊外
前を走るその背中には、もはや“首領”の風格など微塵も残っていなかった。
夏芽は無表情のまま、その情けない背中を追いかける。
エンツォ・カルヴァーニ――ファミリア・ディ・サングエ・ドーロの首領として恐れられ、裏社会の顔役とまで呼ばれた男。
だが今、薄闇の林道を逃げ惑うその姿に、かつての威光の影すらない。
カルヴァーニはときどき肩越しに振り返り、汗まみれの顔で挑発めいた笑みを浮かべては、また必死に走り出す。
だが夏芽の後ろに追っ手など、とっくにいない。
彼が誇った圧倒的な構成員らは、イル・サングエ・ロッソや警察、軍隊との抗争でほぼ使い潰された。
そして残った幹部格の数名も、つい先ほど――夏芽の手で全員殺した。
残っているのは、走るたびに息を荒げ、振り返るたびに必死に笑う、この哀れな老獪だけだ。
背後にはカルタジローネの町並みが見えている。
瓦礫の隙間から立ち昇る煙。
散発的に響く銃声。
数時間前よりは落ち着いたが、それでもまだ“戦場の余韻”は完全には消えていない。
その奥、地平線近くの空には黒雲が重く垂れ込めていた。方角的にローマ方面だろうか。あちらでは大雨でも降っていそうだ。
夏芽は、そんなことをぼんやりと頭の片隅で考えながら、ただ淡々と歩を進める。
逃げるカルヴァーニに焦りはない。追う側にも焦りはない。ただ、終わりに向かうだけの狩りだ。
そしてその鬼ごっこの終わりは、唐突に訪れる。
カルヴァーニが木の根に足を取られ、みっともなく前のめりに転倒した。
わずかに土埃が舞う。
肩で息をしながら、泥まみれの顔だけを夏芽へ向ける。
そこにはもう、裏社会の支配者の面影はなかった。
数十年もの間、あらゆる抗争と陰謀を生き延びてきた男の威厳は剥がれ落ち、残っているのは――ただ生きようともがく、人間の弱さだけだった。
「…ははっ。ここまでかよ。もう疲れで脚すら動かねぇっての。年ってなぁ…ほんっと馬鹿にできねぇな、ナツメ。」
わざと軽口を叩くように聞こえたが、その声には震えが混じっていた。
それでもカルヴァーニは最後の意地で、懐から拳銃を抜き放つ。
照準も雑、狙うというより叩きつける勢いで、夏芽に向けて引き金を連打した。
乾いた銃声が連続し、火花が散る。
だが――夏芽の身体を傷つけるには至らない。鉄術を全開にしている彼にとって、鉛弾など紙屑同然だった。
「……クソがよ」
弾倉が空になった瞬間、カルヴァーニは苛立ちと諦念の混じった声を漏らし、握っていた拳銃をそのまま夏芽へ投げつけた。
夏芽はわずかに手を動かしただけで、それを空中で捕らえる。
そして、ゆっくり――指先で銃身を握り潰した。
金属が悲鳴を上げるような軋みを立て、拳銃は一瞬でひしゃげた鉄塊と化す。
それを足元に投げ捨てると、夏芽は無言のままカルヴァーニの前へ歩み寄った。
その立ち姿には、怒りも興奮もない。
ただ、長い連鎖にピリオドを打つ者の静かな確信だけがあった。
そこでようやく、夏芽は口を開いた。
声は低く、凪いだ水面のように揺らぎがない。
「エンツォ・カルヴァーニ……お前に、いくつか聞きたいことがある。」
その言葉に、カルヴァーニは乾いた笑いを零しながら、抵抗する素振りも見せずに身を投げ出した。
バタリと仰向けに倒れ、両腕を広げ――まるで“やれるならやれ”と言わんばかりに空を見上げる。
「――あぁ? 聞きてぇことだぁ? 今さら取り調べかよ……はっ、笑わせんなっての。」
「一つ。」
夏芽は一歩近づき、見下ろす角度をほんのわずかだけ下げる。
「お前は――核をどこに仕掛けた。」
その瞬間、カルヴァーニの口角がピクリと吊り上がった。
恐怖とも、諦めとも、愉悦ともつかない、不気味な笑み。
肩を震わせながら、彼はゆっくりと目を閉じた。
「……核、ねぇ。やっぱそこ聞くわな。あぁ、そりゃそうだ……」
呼吸が浅くなり、喉が擦れるような声で続ける。
「だがよ、ナツメ……それを教えたところで、お前らに止められんのかね? “あれ”をよ。」
カルヴァーニは不敵に笑い、かすかに指先を動かした。
まるで“もうすべて手遅れだ”と宣告するかのように。
次の瞬間――骨の砕ける、鈍く生々しい音が響いた。
夏芽は微動だにしない顔で、鋼鉄化した足をカルヴァーニの趾に重く落としたのだ。
「っ……あ゙あ゙あアぁ゙ッ!! いってぇぇ゙ッ!!」
地面を掻きむしり、身体をねじるカルヴァーニの悲鳴が林間に木霊する。
夏芽はその反応すら無視して、低く問いを重ねた。
「質問に答えろ。――核はどこだ。」
痛みに呼吸を乱しながらも、カルヴァーニは歯ぎしりしつつ吼えた。
「ローマっ……! ローマにある!!」
額から血のような汗を流しながら、さらに続ける。
「だがよ……おめぇが行ったところで、もう遅ぇ……! あの核はあと三時間もしねぇうちに……ドカンだ!! へっ……ざまぁみろ、化け物が!!」
その笑いは、絶望と悪意のあいだでねじれた、哀れな勝利宣言にすぎなかった。
夏芽はまばたきすらせず、淡々と問いを重ねた。
「一つ。昨夜――お前らが八幡直弥や熊野璃久を急襲した理由はなんだ。」
カルヴァーニは荒い息のまま、皮肉げに口角を吊り上げる。
「……はッ、理由だと? 決まってんだろ……“餌”だよ……!」
喉の奥でくぐもった笑いを漏らしながら、カルヴァーニは血に濁った唾を夏芽の足元へ吐き捨てた。
「おめぇみてぇな……バケモンを……俺たちの組織に取り込めりゃよ……! 圧倒的な戦力になっただろうよ……っ!」
その必死の強がりは、もはや虚勢の薄皮すら貼れていなかった。
夏芽はわずかに顎を傾け、淡々と告げる。
カルヴァーニの笑い声が、ぴたりと止まった。
地面に投げ出されたままの胸が、大きく、小さく、不規則に上下する。
夏芽は一歩だけ近づき、影を落とす。
その声音は淡々としているのに、逃げ道をすべて塞ぐような圧があった。
「答えろ。どこで核を手に入れた?」
カルヴァーニは唇を噛み、血を滲ませながら視線を逸らす。
これまでの嘲りも虚勢も、跡形もない。
「……言えねぇ……」
夏芽は無言で、カルヴァーニの左手の指を一本、足先で踏み折った。
「――ッ゙あ゙あ゙ああああッ!!」
悲鳴が森の奥へ吸い込まれていく。
「言えない、は不要だ。質問に答えろ。」
夏芽の声はまるで温度のない刃物のようだった。
カルヴァーニは身体を震わせ、涙と鼻水を混ぜながら叫ぶ。
「……ッ言ったら……殺されんだよ……!あいつは……“あの男”は……俺たちマフィアなんざよりよっぽど化け物だ……!」
夏芽は瞬きひとつせずに続ける。
カルヴァーニの言葉は、痛みにねじれながらも必死だった。
「モリス! モリスって男だ! 俺たちのボスだよ…!おめぇらの探してる“魔族”だ!!」
夏芽の動きが一瞬だけ止まる。
表情は変わらないが、その静けさが逆に鋭さを帯びた。
「……魔族? お前が魔族じゃないのか?」
「ちげぇよ!! 俺がんなバケモンなわけねぇだろうが!!」
「なら、ボスってのは?」
「そ、それは……」
また言葉に詰まった瞬間、夏芽は迷いなく左手全体を踏み潰した。
「アァあ゙あ゙あああああッ!! いでぇ!! いでぇよ゙ォ゙ォ゙!!」
「言え。」
一言。容赦はなかった。
カルヴァーニは涙と血を混ぜ、肩を震わせながら叫んだ。
「俺ぁ゙マフィアの首領であって首領じゃねぇんだよ!!“真のボス”はそのモリスってやつで……俺は金集めて、組織まとめるためのただの飾りなんだ……っ!今回の抗争も、ナオヤの野郎どもを襲ったのも、全部俺の指示じゃねぇ……!!ぜんぶモリスの命令なんだよ!!」
「ならお前はどうやってその魔族とつながった。」
カルヴァーニは喉を震わせ、憎悪と絶望を混ぜた声を吐き出した。
「つながったのは10年前だ!!アメリカでデカいギャング同士がぶつかってよ、2つまとめて吹っ飛んだんだ!んで路頭に迷った奴のひとりがこっちに流れてきて……俺のマフィアと、ルカっていう――俺が拾って育て上げたガキを、金で買ったんだよ!」
夏芽は微動だにしない。ただ聞く姿勢だけが残酷だった。
「最初の頃は、それでもまだ何とかなってた……!だが組織が少しでもガタついた時だ……!そいつに楯突こうとした瞬間、気づいた! “あいつはどうしようもねぇバケモン”だってことによ!!逆らえるわけねぇだろ、あんな化け物に!!」
カルヴァーニは涙を流しながら、地面に拳を叩きつける。
「すべてあのクソ野郎のせいだ……!俺が丹精込めて育てたガキも洗脳して……俺の財産だった組織も好き勝手にぶっ壊して、乗っ取って……そのうえ最期に待ってたのが、このザマかよ……!」
血と泥に塗れた顔で、怒りに歪んだ口がひらく。
カルヴァーニは、つい先ほどまで威勢を張っていた男とは思えないほど惨めに、夏芽の脚へ縋りついた。
「頼む……頼むよナツメぇ……!俺ぁ、本当に何もしてねぇんだ……!全部あの化け物の指示なんだよ……!だから……殺さないでくれ……頼む……!!」
声は涙と鼻水でぐしゃぐしゃだった。命乞いとも懺悔ともつかないその声は、もはや首領の影すらなかった。
だが夏芽の表情は一切動かない。
次の瞬間――。
乾いた衝撃音とともに、夏芽の蹴りがカルヴァーニの顔面を撃ち抜いた。
「ぶッ……!」
その一撃で彼の身体は横に吹き飛び、背後の巨木へ叩きつけられた。鈍い音が響き、木肌に鮮血がぶちまけられる。
「ぐっ……づ……っ……」
カルヴァーニは白目を剥き、鼻血と涎を垂らしながら痙攣するように震えていた。
夏芽は淡々と歩み寄り、その哀れな姿を一瞥する。
「――それでも、お前は人類にとってノミでしかないんだよ。」
声は静かだった。怒りでも憎しみでもなく、ただ事実を述べるような平坦さがあった。
「人類にとっての汚物を始末する。それが……僕達ADFに課せられた“さだめ”だ。」
彼はカルヴァーニの頭を無造作につかみあげると、そのまま木の幹へ叩きつけた。
一度。
二度。
三度。
骨の割れる音と、木に肉が潰れる湿った音が交互に響く。
カルヴァーニは声すら上げられなかった。いや、上げる前にもう壊れていた。
やがて、頭部は異様な形に陥没し、生命の色がどこにも残っていない肉塊になった。
夏芽は手を離し、地面へ崩れた死骸を冷ややかに見下ろす。
そして、まるで“不要物を処理しただけ”と言わんばかりに背を向けた。
街の奥に立ち込める暗雲を静かに見据える。夏芽は、ローマに住む市民のことを思いながら静かに呟いた。
「――あとは任せたよ、八幡直弥くん。」
続く…




