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人魔闘諍  作者: ゆっけ
第肆章
89/112

88話 シチリア動乱 - 27 -

 ―――5時30分 カルタジローネ郊外


 前を走るその背中には、もはや“首領”の風格など微塵も残っていなかった。


 夏芽は無表情のまま、その情けない背中を追いかける。

 エンツォ・カルヴァーニ――ファミリア・ディ・サングエ・ドーロの首領として恐れられ、裏社会の顔役とまで呼ばれた男。

 だが今、薄闇の林道を逃げ惑うその姿に、かつての威光の影すらない。


 カルヴァーニはときどき肩越しに振り返り、汗まみれの顔で挑発めいた笑みを浮かべては、また必死に走り出す。

 だが夏芽の後ろに追っ手など、とっくにいない。


 彼が誇った圧倒的な構成員らは、イル・サングエ・ロッソや警察、軍隊との抗争でほぼ使い潰された。

 そして残った幹部格の数名も、つい先ほど――夏芽の手で全員殺した。


 残っているのは、走るたびに息を荒げ、振り返るたびに必死に笑う、この哀れな老獪だけだ。


 背後にはカルタジローネの町並みが見えている。

 瓦礫の隙間から立ち昇る煙。

 散発的に響く銃声。

 数時間前よりは落ち着いたが、それでもまだ“戦場の余韻”は完全には消えていない。

 その奥、地平線近くの空には黒雲が重く垂れ込めていた。方角的にローマ方面だろうか。あちらでは大雨でも降っていそうだ。


 夏芽は、そんなことをぼんやりと頭の片隅で考えながら、ただ淡々と歩を進める。

 逃げるカルヴァーニに焦りはない。追う側にも焦りはない。ただ、終わりに向かうだけの狩りだ。


 そしてその鬼ごっこの終わりは、唐突に訪れる。


 カルヴァーニが木の根に足を取られ、みっともなく前のめりに転倒した。

 わずかに土埃が舞う。

 肩で息をしながら、泥まみれの顔だけを夏芽へ向ける。


 そこにはもう、裏社会の支配者の面影はなかった。

 数十年もの間、あらゆる抗争と陰謀を生き延びてきた男の威厳は剥がれ落ち、残っているのは――ただ生きようともがく、人間の弱さだけだった。


「…ははっ。ここまでかよ。もう疲れで脚すら動かねぇっての。年ってなぁ…ほんっと馬鹿にできねぇな、ナツメ。」


 わざと軽口を叩くように聞こえたが、その声には震えが混じっていた。

 それでもカルヴァーニは最後の意地で、懐から拳銃を抜き放つ。

 照準も雑、狙うというより叩きつける勢いで、夏芽に向けて引き金を連打した。


 乾いた銃声が連続し、火花が散る。

 だが――夏芽の身体を傷つけるには至らない。鉄術を全開にしている彼にとって、鉛弾など紙屑同然だった。


「……クソがよ」


 弾倉が空になった瞬間、カルヴァーニは苛立ちと諦念の混じった声を漏らし、握っていた拳銃をそのまま夏芽へ投げつけた。


 夏芽はわずかに手を動かしただけで、それを空中で捕らえる。

 そして、ゆっくり――指先で銃身を握り潰した。

 金属が悲鳴を上げるような軋みを立て、拳銃は一瞬でひしゃげた鉄塊と化す。


 それを足元に投げ捨てると、夏芽は無言のままカルヴァーニの前へ歩み寄った。

 その立ち姿には、怒りも興奮もない。

 ただ、長い連鎖にピリオドを打つ者の静かな確信だけがあった。


 そこでようやく、夏芽は口を開いた。

 声は低く、凪いだ水面のように揺らぎがない。


「エンツォ・カルヴァーニ……お前に、いくつか聞きたいことがある。」


 その言葉に、カルヴァーニは乾いた笑いを零しながら、抵抗する素振りも見せずに身を投げ出した。

 バタリと仰向けに倒れ、両腕を広げ――まるで“やれるならやれ”と言わんばかりに空を見上げる。


「――あぁ? 聞きてぇことだぁ? 今さら取り調べかよ……はっ、笑わせんなっての。」


「一つ。」

 夏芽は一歩近づき、見下ろす角度をほんのわずかだけ下げる。

「お前は――核をどこに仕掛けた。」


 その瞬間、カルヴァーニの口角がピクリと吊り上がった。

 恐怖とも、諦めとも、愉悦ともつかない、不気味な笑み。


 肩を震わせながら、彼はゆっくりと目を閉じた。


「……核、ねぇ。やっぱそこ聞くわな。あぁ、そりゃそうだ……」


 呼吸が浅くなり、喉が擦れるような声で続ける。


「だがよ、ナツメ……それを教えたところで、お前らに止められんのかね? “あれ”をよ。」


 カルヴァーニは不敵に笑い、かすかに指先を動かした。

 まるで“もうすべて手遅れだ”と宣告するかのように。


 次の瞬間――骨の砕ける、鈍く生々しい音が響いた。


 夏芽は微動だにしない顔で、鋼鉄化した足をカルヴァーニの趾に重く落としたのだ。


「っ……あ゙あ゙あアぁ゙ッ!! いってぇぇ゙ッ!!」


 地面を掻きむしり、身体をねじるカルヴァーニの悲鳴が林間に木霊する。


 夏芽はその反応すら無視して、低く問いを重ねた。


「質問に答えろ。――核はどこだ。」


 痛みに呼吸を乱しながらも、カルヴァーニは歯ぎしりしつつ吼えた。


「ローマっ……! ローマにある!!」


 額から血のような汗を流しながら、さらに続ける。


「だがよ……おめぇが行ったところで、もう遅ぇ……! あの核はあと三時間もしねぇうちに……ドカンだ!! へっ……ざまぁみろ、化け物が!!」


 その笑いは、絶望と悪意のあいだでねじれた、哀れな勝利宣言にすぎなかった。


 夏芽はまばたきすらせず、淡々と問いを重ねた。


「一つ。昨夜――お前らが八幡直弥や熊野璃久を急襲した理由はなんだ。」


 カルヴァーニは荒い息のまま、皮肉げに口角を吊り上げる。


「……はッ、理由だと? 決まってんだろ……“餌”だよ……!」


 喉の奥でくぐもった笑いを漏らしながら、カルヴァーニは血に濁った唾を夏芽の足元へ吐き捨てた。


「おめぇみてぇな……バケモンを……俺たちの組織に取り込めりゃよ……! 圧倒的な戦力になっただろうよ……っ!」


 その必死の強がりは、もはや虚勢の薄皮すら貼れていなかった。


 夏芽はわずかに顎を傾け、淡々と告げる。


 カルヴァーニの笑い声が、ぴたりと止まった。

 地面に投げ出されたままの胸が、大きく、小さく、不規則に上下する。


 夏芽は一歩だけ近づき、影を落とす。

 その声音は淡々としているのに、逃げ道をすべて塞ぐような圧があった。


「答えろ。どこで核を手に入れた?」


 カルヴァーニは唇を噛み、血を滲ませながら視線を逸らす。

 これまでの嘲りも虚勢も、跡形もない。


「……言えねぇ……」


 夏芽は無言で、カルヴァーニの左手の指を一本、足先で踏み折った。


「――ッ゙あ゙あ゙ああああッ!!」


 悲鳴が森の奥へ吸い込まれていく。


「言えない、は不要だ。質問に答えろ。」


 夏芽の声はまるで温度のない刃物のようだった。


 カルヴァーニは身体を震わせ、涙と鼻水を混ぜながら叫ぶ。


「……ッ言ったら……殺されんだよ……!あいつは……“あの男”は……俺たちマフィアなんざよりよっぽど化け物だ……!」


 夏芽は瞬きひとつせずに続ける。


 カルヴァーニの言葉は、痛みにねじれながらも必死だった。


「モリス! モリスって男だ! 俺たちのボスだよ…!おめぇらの探してる“魔族”だ!!」


 夏芽の動きが一瞬だけ止まる。

 表情は変わらないが、その静けさが逆に鋭さを帯びた。


「……魔族? お前が魔族じゃないのか?」


「ちげぇよ!! 俺がんなバケモンなわけねぇだろうが!!」


「なら、ボスってのは?」


「そ、それは……」


 また言葉に詰まった瞬間、夏芽は迷いなく左手全体を踏み潰した。


「アァあ゙あ゙あああああッ!! いでぇ!! いでぇよ゙ォ゙ォ゙!!」


「言え。」


 一言。容赦はなかった。


 カルヴァーニは涙と血を混ぜ、肩を震わせながら叫んだ。


「俺ぁ゙マフィアの首領であって首領じゃねぇんだよ!!“真のボス”はそのモリスってやつで……俺は金集めて、組織まとめるためのただの飾りなんだ……っ!今回の抗争も、ナオヤの野郎どもを襲ったのも、全部俺の指示じゃねぇ……!!ぜんぶモリスの命令なんだよ!!」


「ならお前はどうやってその魔族とつながった。」


 カルヴァーニは喉を震わせ、憎悪と絶望を混ぜた声を吐き出した。


「つながったのは10年前だ!!アメリカでデカいギャング同士がぶつかってよ、2つまとめて吹っ飛んだんだ!んで路頭に迷った奴のひとりがこっちに流れてきて……俺のマフィアと、ルカっていう――俺が拾って育て上げたガキを、金で買ったんだよ!」


 夏芽は微動だにしない。ただ聞く姿勢だけが残酷だった。


「最初の頃は、それでもまだ何とかなってた……!だが組織が少しでもガタついた時だ……!そいつに楯突こうとした瞬間、気づいた! “あいつはどうしようもねぇバケモン”だってことによ!!逆らえるわけねぇだろ、あんな化け物に!!」


 カルヴァーニは涙を流しながら、地面に拳を叩きつける。


「すべてあのクソ野郎のせいだ……!俺が丹精込めて育てたガキも洗脳して……俺の財産だった組織も好き勝手にぶっ壊して、乗っ取って……そのうえ最期に待ってたのが、このザマかよ……!」


 血と泥に塗れた顔で、怒りに歪んだ口がひらく。


 カルヴァーニは、つい先ほどまで威勢を張っていた男とは思えないほど惨めに、夏芽の脚へ縋りついた。


「頼む……頼むよナツメぇ……!俺ぁ、本当に何もしてねぇんだ……!全部あの化け物の指示なんだよ……!だから……殺さないでくれ……頼む……!!」


 声は涙と鼻水でぐしゃぐしゃだった。命乞いとも懺悔ともつかないその声は、もはや首領の影すらなかった。


 だが夏芽の表情は一切動かない。


 次の瞬間――。


 乾いた衝撃音とともに、夏芽の蹴りがカルヴァーニの顔面を撃ち抜いた。


「ぶッ……!」


 その一撃で彼の身体は横に吹き飛び、背後の巨木へ叩きつけられた。鈍い音が響き、木肌に鮮血がぶちまけられる。


「ぐっ……づ……っ……」


 カルヴァーニは白目を剥き、鼻血と涎を垂らしながら痙攣するように震えていた。


 夏芽は淡々と歩み寄り、その哀れな姿を一瞥する。


「――それでも、お前は人類にとってノミでしかないんだよ。」


 声は静かだった。怒りでも憎しみでもなく、ただ事実を述べるような平坦さがあった。


「人類にとっての汚物を始末する。それが……僕達ADFに課せられた“さだめ”だ。」


 彼はカルヴァーニの頭を無造作につかみあげると、そのまま木の幹へ叩きつけた。


 一度。

 二度。

 三度。


 骨の割れる音と、木に肉が潰れる湿った音が交互に響く。

 カルヴァーニは声すら上げられなかった。いや、上げる前にもう壊れていた。


 やがて、頭部は異様な形に陥没し、生命の色がどこにも残っていない肉塊になった。


 夏芽は手を離し、地面へ崩れた死骸を冷ややかに見下ろす。


 そして、まるで“不要物を処理しただけ”と言わんばかりに背を向けた。


 街の奥に立ち込める暗雲を静かに見据える。夏芽は、ローマに住む市民のことを思いながら静かに呟いた。


「――あとは任せたよ、八幡直弥くん。」


 続く…

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