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人魔闘諍  作者: ゆっけ
第肆章
88/112

87話 シチリア動乱 - 26 -

 ―――5時20分 ナポリ郊外



「ルチアーナさん!! 意識、保って!!」


 沙紀は慣れない運転でフラつきながらも、後ろで横たわるルチアーナへ必死に声をかけ続けていた。

 ルチアーナは高熱にうなされ、息を吸うたび喉の奥で苦しげな音を漏らす。


「っ……ぐ、ぁ……」


 後方では、爆音と断続的な銃声が鳴り響いている。

 恐らく、言真とあの少女が交戦しているのだろう。

 彼が時間を稼いでいる間に、この重症のルチアーナをどこか安全な場所へ運び、そして……ローマへ向かわなくてはならない。


 沙紀は汗が顎を伝うのを拭う余裕もなく、震える手でナビに触れる。

 救急病院を検索しようとした、その瞬間――。


 不意に、後ろから手が伸びてきて、ナビを操作していた沙紀の手をぎゅっと掴んだ。

 熱い。震えている。なのに、力だけは妙に強かった。


「えっ……ルチアーナさん?! ダメ、今起き上がったら――!」


 バックミラー越しに見えたのは、後部座席から身体を無理やり引き起こしたルチアーナだった。

 額は汗で濡れ、視界も朦朧としているはずなのに、その瞳には揺るぎない意思が宿っていた。


「ルチアーナさん! 安静にしてください! すぐ病院に――!」


「……だから……気にしなくて良いと……言ってる、だろ……!私も……ローマへ……連れて、行け……!!」


 沙紀は思わずブレーキを踏みかけた。

 だがルチアーナの指先が、まるで縫い付けるように沙紀の手を押さえつけている。


 背筋が震える。


「でも……でも、こんな状態で行ったらルチアーナさんが――!」


「……死ぬ? 今さら、だろ……」


 ルチアーナは、乾いた息を吐きながら微笑んだ。

 そこには、怯えも虚勢もなかった。ただ静かで、どこか達観した光が揺れていた。


「私は……ラ・ローザ・ネーラの首領として……十年以上、生きてきた。常に敵に狙われ……味方からも裏切られ……死に場所を探しながら……生き残ってきただけの…人生だ……」


 言葉の端々が掠れる。

 それでも、吐き出す想いは寸分も揺らがない。


「今さら……いつ死のうが、どうでもいい……。むしろ……ようやく……“終わり”を選べる場所に……辿り着けた……。それだけで……私は、もう……十分なんだよ……」


 沙紀の手に触れていた彼女の腕が、わずかに震えた。

 それでも余力を絞って、なおも言葉を紡ぐ。


「だから……病院なんか寄るな……。私が行くべき場所は……ローマだ……」


 彼女の視線は熱に滲みながらも、真っすぐ前を射抜いていた。

 その目だけは、決して弱っていない――むしろ、かつてないほど強かった。


 沙紀は目に涙をためながら、必死に訴えた。


「…出発する前に言いましたよね。貴女が死ぬ権利を手放さない限り、私は生き延びる義務を押しつけ続けると。私の心臓が動く限り、貴女はその義務を負い続けなければなりません。」


 沙紀は、ルチアーナの血に濡れた指先をそっと見つめる。

 その手は小さくて華奢なのに、今は誰より強情だった。


「これは…私のわがままです。ルチアーナさん、私は貴女に生きてほしい。打算でも損得勘定でもない、私の純粋な思いです。“死に場所を見つけた”なんて……そんな勝手、許しません。」


 そこでいったん視線を反らし、唇を固く噛んだ。


「……もう二度と、母のような人を増やしたくないんです。」


 ルチアーナの肩がかすかに震えた。

 痛みか、熱か、それとも――胸の奥に灯った別の感情か。


 沙紀は目元をぬぐいもしないまま、続けた。


「だから今は……私の言うことを聞いてください。貴女が生きるのを、手伝わせてください。絶対に死なせません。」


 ルチアーナは目を伏せる。数秒逡巡したのち、彼女の目が怪しく光った。

 すると、彼女は素早く助手席に滑り込み、沙紀に抵抗する暇も与えずダッシュボードに入っていた拳銃を取り出してその銃口を沙紀に向けた。


 沙紀は喉の奥が焼けつくような感覚に襲われた。

 銃口は真っすぐ自分へ向いている――けれど、それ以上に痛いのは、ルチアーナのその表情だった。


「……なんで……」


 やっと絞り出した声は、かすれていた。

 動揺でも恐怖でもない。ただ――裏切られたような、胸を締めつける苦しさ。


 ルチアーナは、泣いていた。

 熱で赤く染まった頬に、涙がひと筋、静かに落ちる。


「……すまない、沙紀。私も…こうしたくはなかった……でも……」

 その手は震えているのに、銃口だけは決して揺れなかった。


「サンティスを助けるには……もう、これしかないんだ。時間がない……私が……病院に寄ってる余裕なんて……もう、ない……」


 声は弱いのに、覚悟だけが冷たい刃のように突き刺さる。


「だから……頼む……」

 ルチアーナはぐっと唇を噛み、視線を逸らすことすらできずに沙紀を見つめた。


「このまま、ローマへ行くと言ってくれ……」

 銃を向けているはずの指が、震えている。


「お願いだ……沙紀……」


 懇願の声は、銃口より鋭く胸をえぐった。



 ***



 ―――約七時間前 22時21分


「……これは罰なんだ……貴女の、そして私の……」


 その言葉が落ちた瞬間、黒い獣が地の底から響くような咆哮を上げた。


 ルチアーナは息を呑み、反射で引き金に指をかける。

 だが撃つより早く――


「――サンティス!!」


 黒い影が、雷のように弾けた。


 鋭い爪が肩を薙ぎ裂く。

 焼けるような痛みが鮮血を押し出し、温かい飛沫が宙を舞った。


「っ……あ……!」


 ルチアーナは床に叩きつけられ、そのまま石畳に横たわる。

 冷たい石が、灼け付く傷の熱をじわりと吸い取っていく。


 息が荒い。視界が揺れる。

 それでも――彼女は見ていた。



 ―――修道院での出来事を、私はお前たちに伝えなかった。サンティスが来て、黒い獣……お前たちの言う魔族に襲われたのまでは事実だ。


 だが“その後”を、私は隠した。隠さざるを得なかった。



「サン、ティス……」


 呻くように名を呼んだ。

 サンティスは生きている。しかし、その瞳は哀しみと罪悪感で濡れていた。


 ―――構成員たちの血の匂いが、濃い霧のように漂う。

 獣はその中心でゆっくりと形を崩し、黒いもやを散らしながら萎んでいった。


 闇が晴れたあとに立っていたのは――“男”だった。


「あ……モリス……」


 サンティスが呆然と呟いた名。

 男はただ微笑み、彼女の“働き”を労った。


 そして男――モリスは、私の方へ向き直る。


 ―――協力しろ、と。


「するはず……ないだろ……! 化け物が!!」


 拒絶は当然だった。

 だが次の瞬間、背後で風がうなる。


 ―――気づけば、14歳ほどの少年が、いつの間にか頭上から降り立ち、倒れた私の体を無造作に引き起こした。


「この女、どうしますか、ボス(・・)


 丁寧とも無感情ともつかぬ声。

 モリスはその少年をルカと呼び、彼に私をそのまま押さえておくよう指示した。


 そして――


 男は、ゆっくりとサンティスへ歩み寄り、

 ためらいなど一切なく――銃口を彼女の側頭部へ押し当てた。


 金属が皮膚に沈む鈍い音が、妙にはっきり耳に残る。


 サンティスはビクリと肩を震わせ、まるで硬直したように動けなくなった。

 恐怖だけではない。

 “覚悟”と“諦め”が入り混じった、どうしようもない表情だった。


 その顔を見た瞬間――私は叫んでいた。


「やめろ!! サンティスには手を出すな!!」


 声が裏返り、喉が裂けるほどの叫びだった。

 必死で、みっともなくて、命乞いのようですらあった。


 そしてルカが私の腕をさらに強く捻り上げ、膝をつかせる。

 痛みに顔が歪む。だが、それ以上に胸が締めつけられた。


 モリスは振り返りもせず、ただ淡々とした声で、”お前次第だ”と言った。


 彼の親指が軽くトリガーガードを撫でる。

 それだけで、背筋が凍りついた。


 サンティスが震える声で私に言う。


「る、ルチアーナ……お願い……抵抗しないで……」


 涙をこらえ、微笑もうとすらして。

 自分の命が引き金一つで消えるかもしれないのに、私を気遣って。


 胸が裂けそうだった。


 モリスはようやくこちらに顔を向け、不気味なほど穏やかに言った。


 ―――協力すれば、サンティスの命は助けてやる、と。


 あの瞬間、私の中で何かが折れた。


「……分かった。やめろ……サンティスだけは……」


 その言葉を吐いた瞬間、私はもうその時ばかりは――ラ・ローザ・ネーラの首領ではいられなかった。


 モリスは満足げに銃口を離し、薄く笑った。


 そして、次の瞬間。

 彼は人を絶望させるためだけに存在するような真実を、淡々と告げた。


 ―――ローマに核を仕掛けたこと。


 ―――起爆は朝の8時15分であること。


 ―――そして、ADFという存在についてを。


 ……私は、お前らに出会う前から全てを知っていたんだ。核の所在地も、お前らのことも、全て。


 心臓を素手で掴まれたような感覚だった。

 彼は続けて、条件を提示した。


 ―――ADFの隊員を数名、その起爆時間までにローマへ連れて来ること。それができればサンティスには手を出さない、と。


 それだけだった。

 あまりにも理不尽で、あまりにも一方的で、吐き気がするほど冷酷な条件。


 迷った。

 ローマの数百万人と、目の前の彼女を天秤にかけてしまったこと自体、赦されるものではない。


 だが、拒めばどうなる?

 私とサンティスはその場で殺される。

 核は予定通り爆ぜ、街はこの世から消し飛ぶ。


 その未来は――どれを選んでも最悪だった。


 だったら……

 わずかでも可能性があるほうに賭けるしかなかった。


 だから私は、お前らを利用した。


 それが―――全てだ。



 ***



 沙紀はアクセルを踏み込みながら、

 ハンドルを握る手だけは震えないように必死に押さえつけていた。


 耳に入るルチアーナの言葉は、どれも重く、鋭く、胸の奥に沈んでいく。


 だが――沙紀は一言も挟まなかった。


 彼女が涙に濡れた目でこちらを睨むように見つめ、

 震える指で銃口を沙紀の横顔へ向け続けても。


 ルチアーナ自身がどれほど追い詰められていたのか。

 どれほどの恐怖と、どれほどの葛藤と、どれほどの罪悪感を抱えていたのか。


 沙紀には分かってしまったからだ。


 だからこそ、その沈黙は責めるためのものではなく――

 ただ、受け止めるための沈黙だった。


「……沙紀……」

 呼びかける声は震え、今にも崩れそうだった。


「沙紀……何か言えよ……」

 ルチアーナの声は、涙で濁りながらも必死に強がっていた。


 沙紀はハンドルを握る手に力を込め、ほんの一瞬だけ視線を横に向ける。

 そこにいるのは――自分で銃を向けているくせに、今にも壊れそうな女だった。


「……あのね、ルチアーナさん」


 声は驚くほど静かに出た。

 怒りも、恐怖も、責める響きもなく、ただ柔らかい。


「そんな顔で……人に銃向けないでくださいよ」


 ルチアーナの目が揺れた。


「わ、私は……これしか……」


「違うでしょ」


 沙紀はアクセルを軽く踏み込みながら、続けた。


「“助けて”って言ってるんですよ、その顔は」


 言われた瞬間、ルチアーナは息を呑む。

 肩がわずかに震え、銃口も僅かにブレた。


 沙紀はちらりと銃口を見やり、苦笑を浮かべる。


「ローマに行けって言うために、銃なんていらないですよ。そんなものなくても、事実を知った以上行くよりほかないですから。」


「……っ!」


 ルチアーナの表情が崩れる。

 握る銃は震え、涙がぽつぽつと落ちてシートを濡らした。


 沙紀は続ける。


「モリスも核も、私達が背負ってる任務も大切です、でもそれ以上に、ルチアーナさんが“そこへ行かなきゃいけない”って言うなら…一緒に行くしかないでしょ」


 視界の端で、ルチアーナが口元を手で覆った。

 震える肩が、抑えきれないほど揺れている。


「……沙紀……お前は……どうして……」


 沙紀は少しだけ笑った。


「決まってるじゃないですか。私、言いましたよね。――『貴女が死ぬ権利を手放すまで、私が貴女を生かせ続ける』って」


 ルチアーナは完全に声を失った。

 銃が、力なく彼女の膝の上へ落ちる。


 沙紀はその音を聞きながら、前を向き直る。


「だから、ルチアーナさん。行きましょう。ローマへ。サンティスさんを取り戻しに」


 涙声で、かすれた返事が返ってきた。


「……ああ……行こう……沙紀……」


 バンは夜明け前の静かな高速を、薄明のローマへ向けて走り抜けた。


 ルチアーナは涙を堪えながら、銃口を外した。

 その姿は、敵でも、首領でも、裏切り者でもなかった。


 ただ――すべてを抱えて崩れ落ちそうなひとりの女だった。



 続く…

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