87話 シチリア動乱 - 26 -
―――5時20分 ナポリ郊外
「ルチアーナさん!! 意識、保って!!」
沙紀は慣れない運転でフラつきながらも、後ろで横たわるルチアーナへ必死に声をかけ続けていた。
ルチアーナは高熱にうなされ、息を吸うたび喉の奥で苦しげな音を漏らす。
「っ……ぐ、ぁ……」
後方では、爆音と断続的な銃声が鳴り響いている。
恐らく、言真とあの少女が交戦しているのだろう。
彼が時間を稼いでいる間に、この重症のルチアーナをどこか安全な場所へ運び、そして……ローマへ向かわなくてはならない。
沙紀は汗が顎を伝うのを拭う余裕もなく、震える手でナビに触れる。
救急病院を検索しようとした、その瞬間――。
不意に、後ろから手が伸びてきて、ナビを操作していた沙紀の手をぎゅっと掴んだ。
熱い。震えている。なのに、力だけは妙に強かった。
「えっ……ルチアーナさん?! ダメ、今起き上がったら――!」
バックミラー越しに見えたのは、後部座席から身体を無理やり引き起こしたルチアーナだった。
額は汗で濡れ、視界も朦朧としているはずなのに、その瞳には揺るぎない意思が宿っていた。
「ルチアーナさん! 安静にしてください! すぐ病院に――!」
「……だから……気にしなくて良いと……言ってる、だろ……!私も……ローマへ……連れて、行け……!!」
沙紀は思わずブレーキを踏みかけた。
だがルチアーナの指先が、まるで縫い付けるように沙紀の手を押さえつけている。
背筋が震える。
「でも……でも、こんな状態で行ったらルチアーナさんが――!」
「……死ぬ? 今さら、だろ……」
ルチアーナは、乾いた息を吐きながら微笑んだ。
そこには、怯えも虚勢もなかった。ただ静かで、どこか達観した光が揺れていた。
「私は……ラ・ローザ・ネーラの首領として……十年以上、生きてきた。常に敵に狙われ……味方からも裏切られ……死に場所を探しながら……生き残ってきただけの…人生だ……」
言葉の端々が掠れる。
それでも、吐き出す想いは寸分も揺らがない。
「今さら……いつ死のうが、どうでもいい……。むしろ……ようやく……“終わり”を選べる場所に……辿り着けた……。それだけで……私は、もう……十分なんだよ……」
沙紀の手に触れていた彼女の腕が、わずかに震えた。
それでも余力を絞って、なおも言葉を紡ぐ。
「だから……病院なんか寄るな……。私が行くべき場所は……ローマだ……」
彼女の視線は熱に滲みながらも、真っすぐ前を射抜いていた。
その目だけは、決して弱っていない――むしろ、かつてないほど強かった。
沙紀は目に涙をためながら、必死に訴えた。
「…出発する前に言いましたよね。貴女が死ぬ権利を手放さない限り、私は生き延びる義務を押しつけ続けると。私の心臓が動く限り、貴女はその義務を負い続けなければなりません。」
沙紀は、ルチアーナの血に濡れた指先をそっと見つめる。
その手は小さくて華奢なのに、今は誰より強情だった。
「これは…私のわがままです。ルチアーナさん、私は貴女に生きてほしい。打算でも損得勘定でもない、私の純粋な思いです。“死に場所を見つけた”なんて……そんな勝手、許しません。」
そこでいったん視線を反らし、唇を固く噛んだ。
「……もう二度と、母のような人を増やしたくないんです。」
ルチアーナの肩がかすかに震えた。
痛みか、熱か、それとも――胸の奥に灯った別の感情か。
沙紀は目元をぬぐいもしないまま、続けた。
「だから今は……私の言うことを聞いてください。貴女が生きるのを、手伝わせてください。絶対に死なせません。」
ルチアーナは目を伏せる。数秒逡巡したのち、彼女の目が怪しく光った。
すると、彼女は素早く助手席に滑り込み、沙紀に抵抗する暇も与えずダッシュボードに入っていた拳銃を取り出してその銃口を沙紀に向けた。
沙紀は喉の奥が焼けつくような感覚に襲われた。
銃口は真っすぐ自分へ向いている――けれど、それ以上に痛いのは、ルチアーナのその表情だった。
「……なんで……」
やっと絞り出した声は、かすれていた。
動揺でも恐怖でもない。ただ――裏切られたような、胸を締めつける苦しさ。
ルチアーナは、泣いていた。
熱で赤く染まった頬に、涙がひと筋、静かに落ちる。
「……すまない、沙紀。私も…こうしたくはなかった……でも……」
その手は震えているのに、銃口だけは決して揺れなかった。
「サンティスを助けるには……もう、これしかないんだ。時間がない……私が……病院に寄ってる余裕なんて……もう、ない……」
声は弱いのに、覚悟だけが冷たい刃のように突き刺さる。
「だから……頼む……」
ルチアーナはぐっと唇を噛み、視線を逸らすことすらできずに沙紀を見つめた。
「このまま、ローマへ行くと言ってくれ……」
銃を向けているはずの指が、震えている。
「お願いだ……沙紀……」
懇願の声は、銃口より鋭く胸をえぐった。
***
―――約七時間前 22時21分
「……これは罰なんだ……貴女の、そして私の……」
その言葉が落ちた瞬間、黒い獣が地の底から響くような咆哮を上げた。
ルチアーナは息を呑み、反射で引き金に指をかける。
だが撃つより早く――
「――サンティス!!」
黒い影が、雷のように弾けた。
鋭い爪が肩を薙ぎ裂く。
焼けるような痛みが鮮血を押し出し、温かい飛沫が宙を舞った。
「っ……あ……!」
ルチアーナは床に叩きつけられ、そのまま石畳に横たわる。
冷たい石が、灼け付く傷の熱をじわりと吸い取っていく。
息が荒い。視界が揺れる。
それでも――彼女は見ていた。
―――修道院での出来事を、私はお前たちに伝えなかった。サンティスが来て、黒い獣……お前たちの言う魔族に襲われたのまでは事実だ。
だが“その後”を、私は隠した。隠さざるを得なかった。
「サン、ティス……」
呻くように名を呼んだ。
サンティスは生きている。しかし、その瞳は哀しみと罪悪感で濡れていた。
―――構成員たちの血の匂いが、濃い霧のように漂う。
獣はその中心でゆっくりと形を崩し、黒いもやを散らしながら萎んでいった。
闇が晴れたあとに立っていたのは――“男”だった。
「あ……モリス……」
サンティスが呆然と呟いた名。
男はただ微笑み、彼女の“働き”を労った。
そして男――モリスは、私の方へ向き直る。
―――協力しろ、と。
「するはず……ないだろ……! 化け物が!!」
拒絶は当然だった。
だが次の瞬間、背後で風がうなる。
―――気づけば、14歳ほどの少年が、いつの間にか頭上から降り立ち、倒れた私の体を無造作に引き起こした。
「この女、どうしますか、ボス」
丁寧とも無感情ともつかぬ声。
モリスはその少年をルカと呼び、彼に私をそのまま押さえておくよう指示した。
そして――
男は、ゆっくりとサンティスへ歩み寄り、
ためらいなど一切なく――銃口を彼女の側頭部へ押し当てた。
金属が皮膚に沈む鈍い音が、妙にはっきり耳に残る。
サンティスはビクリと肩を震わせ、まるで硬直したように動けなくなった。
恐怖だけではない。
“覚悟”と“諦め”が入り混じった、どうしようもない表情だった。
その顔を見た瞬間――私は叫んでいた。
「やめろ!! サンティスには手を出すな!!」
声が裏返り、喉が裂けるほどの叫びだった。
必死で、みっともなくて、命乞いのようですらあった。
そしてルカが私の腕をさらに強く捻り上げ、膝をつかせる。
痛みに顔が歪む。だが、それ以上に胸が締めつけられた。
モリスは振り返りもせず、ただ淡々とした声で、”お前次第だ”と言った。
彼の親指が軽くトリガーガードを撫でる。
それだけで、背筋が凍りついた。
サンティスが震える声で私に言う。
「る、ルチアーナ……お願い……抵抗しないで……」
涙をこらえ、微笑もうとすらして。
自分の命が引き金一つで消えるかもしれないのに、私を気遣って。
胸が裂けそうだった。
モリスはようやくこちらに顔を向け、不気味なほど穏やかに言った。
―――協力すれば、サンティスの命は助けてやる、と。
あの瞬間、私の中で何かが折れた。
「……分かった。やめろ……サンティスだけは……」
その言葉を吐いた瞬間、私はもうその時ばかりは――ラ・ローザ・ネーラの首領ではいられなかった。
モリスは満足げに銃口を離し、薄く笑った。
そして、次の瞬間。
彼は人を絶望させるためだけに存在するような真実を、淡々と告げた。
―――ローマに核を仕掛けたこと。
―――起爆は朝の8時15分であること。
―――そして、ADFという存在についてを。
……私は、お前らに出会う前から全てを知っていたんだ。核の所在地も、お前らのことも、全て。
心臓を素手で掴まれたような感覚だった。
彼は続けて、条件を提示した。
―――ADFの隊員を数名、その起爆時間までにローマへ連れて来ること。それができればサンティスには手を出さない、と。
それだけだった。
あまりにも理不尽で、あまりにも一方的で、吐き気がするほど冷酷な条件。
迷った。
ローマの数百万人と、目の前の彼女を天秤にかけてしまったこと自体、赦されるものではない。
だが、拒めばどうなる?
私とサンティスはその場で殺される。
核は予定通り爆ぜ、街はこの世から消し飛ぶ。
その未来は――どれを選んでも最悪だった。
だったら……
わずかでも可能性があるほうに賭けるしかなかった。
だから私は、お前らを利用した。
それが―――全てだ。
***
沙紀はアクセルを踏み込みながら、
ハンドルを握る手だけは震えないように必死に押さえつけていた。
耳に入るルチアーナの言葉は、どれも重く、鋭く、胸の奥に沈んでいく。
だが――沙紀は一言も挟まなかった。
彼女が涙に濡れた目でこちらを睨むように見つめ、
震える指で銃口を沙紀の横顔へ向け続けても。
ルチアーナ自身がどれほど追い詰められていたのか。
どれほどの恐怖と、どれほどの葛藤と、どれほどの罪悪感を抱えていたのか。
沙紀には分かってしまったからだ。
だからこそ、その沈黙は責めるためのものではなく――
ただ、受け止めるための沈黙だった。
「……沙紀……」
呼びかける声は震え、今にも崩れそうだった。
「沙紀……何か言えよ……」
ルチアーナの声は、涙で濁りながらも必死に強がっていた。
沙紀はハンドルを握る手に力を込め、ほんの一瞬だけ視線を横に向ける。
そこにいるのは――自分で銃を向けているくせに、今にも壊れそうな女だった。
「……あのね、ルチアーナさん」
声は驚くほど静かに出た。
怒りも、恐怖も、責める響きもなく、ただ柔らかい。
「そんな顔で……人に銃向けないでくださいよ」
ルチアーナの目が揺れた。
「わ、私は……これしか……」
「違うでしょ」
沙紀はアクセルを軽く踏み込みながら、続けた。
「“助けて”って言ってるんですよ、その顔は」
言われた瞬間、ルチアーナは息を呑む。
肩がわずかに震え、銃口も僅かにブレた。
沙紀はちらりと銃口を見やり、苦笑を浮かべる。
「ローマに行けって言うために、銃なんていらないですよ。そんなものなくても、事実を知った以上行くよりほかないですから。」
「……っ!」
ルチアーナの表情が崩れる。
握る銃は震え、涙がぽつぽつと落ちてシートを濡らした。
沙紀は続ける。
「モリスも核も、私達が背負ってる任務も大切です、でもそれ以上に、ルチアーナさんが“そこへ行かなきゃいけない”って言うなら…一緒に行くしかないでしょ」
視界の端で、ルチアーナが口元を手で覆った。
震える肩が、抑えきれないほど揺れている。
「……沙紀……お前は……どうして……」
沙紀は少しだけ笑った。
「決まってるじゃないですか。私、言いましたよね。――『貴女が死ぬ権利を手放すまで、私が貴女を生かせ続ける』って」
ルチアーナは完全に声を失った。
銃が、力なく彼女の膝の上へ落ちる。
沙紀はその音を聞きながら、前を向き直る。
「だから、ルチアーナさん。行きましょう。ローマへ。サンティスさんを取り戻しに」
涙声で、かすれた返事が返ってきた。
「……ああ……行こう……沙紀……」
バンは夜明け前の静かな高速を、薄明のローマへ向けて走り抜けた。
ルチアーナは涙を堪えながら、銃口を外した。
その姿は、敵でも、首領でも、裏切り者でもなかった。
ただ――すべてを抱えて崩れ落ちそうなひとりの女だった。
続く…




