86話 シチリア動乱 - 25 -
―――5時23分 カルタジローネ
「もういい加減にしろ!! 柏谷!!」
夜明け前の青白い空気を裂くように、熊野璃久の怒号が広場に響いた。
割れた石畳を跳ねる銃声。
彼は襲いかかってくる柏谷狭へ向けて拳銃を撃ちながら、苛立ちと焦燥をないまぜに叫ぶ。
「仲間割れしてる暇なんかないって言ってるだろ!!状況見ろよ、状況を!!落ち着け!!」
しかし――
返ってくるのは、理性の影すらない激昂。
「知ったこっちゃねぇよ!! てめぇは俺が殺す!!」
柏谷は血走った瞳で一直線に突っ込んでくる。
もはや自律の影もない。
憎悪だけが筋肉を駆動させ、骨をきしませながら進ませていた。
「っ……!」
璃久は後退しつつ、迫る殺気に全神経を研ぎ澄ませる。
(マジかよ……こいつ、ほんとに殺る気か……!)
次の刹那――
柏谷の短剣が空気を切り裂き、風圧が璃久の頬を裂いた。
「――ッ!」
反射的に、璃久は柏谷の手首を掴み、そのまま関節を極めるようにねじ伏せた。
石畳に膝を押しつける勢いで、力任せではなく、熟練の制圧技術で完封する。
「んなことしたら隊律違反で死ぬんだぞ?! 頭冷やせって言ってんだよ!!」
「離せッ!!殺す!!殺すッッ!!」
柏谷は喉を潰した獣みたいな声で吠えた。
「るっせぇよクソゴミが!! てめぇに俺の何が分かるってんだ!!」
唾と血が混ざった泡が飛び散り、璃久の頬にかかる。
圧倒的な暴力衝動――それはもはや理性の残影すら感じられなかった。
「お前が昔から俺を恨む理由は知らん!!」
璃久は押さえ込む力をさらに強め、完全に柏谷の肩を石畳に沈める。
肘、手首、膝――逃げ道をすべて封じ、呼吸だけは奪わないようにして。
「でもな、時と場合を考えろって言ってんだ!!任務のあとならいくらでも付き合ってやる!!殴りたきゃ殴れ!文句あるなら全部聞いてやる!!」
叫びながらも、璃久の声音には焦燥と切迫が滲んでいた。
「だからっ……落ち着け!!! 今は殺し合いなんてしてる場合じゃねぇ!!」
璃久の叫びなど、柏谷の耳にはもう届いていなかった。
押さえつけられた身体はなおも痙攣し、獣のように暴れ続ける。
そして――
柏谷は喉の奥から、濁った咆哮を絞り出した。
「狼術……解放ッ゙!!!」
「おい待て!! やめっ――!!」
璃久が止めに入ろうと伸ばした腕よりも早く、
柏谷の五指が黒に侵蝕されていくのが見えた。
爪先から肘まで、一瞬で浸食される墨のような闇。
そして、その闇が破裂するように全身へと拡散した。
次の瞬間――
璃久の視界が回転し、肺から空気が一気に吐き出される。
「ッ……がはっ!!」
石畳に叩きつけられた感覚だけが生々しく残る。
常人の腕力とは思えない衝撃に、思わず咳き込んだ。
璃久はそれでも、どうにか膝で地面を押し、上体を起こす。
(……ったく……マジでやりやがった……!)
顔を上げたその先――
すでに柏谷は人の形を留めていなかった。
六つの金色の眼孔。
黒い狼毛が逆立ち、四肢は膨れ上がり、肩幅は人の倍以上。
牙は大人の前腕ほどの長さで湾曲し、
呼気は地熱のように白く揺らいで周囲の空気をわずかに歪ませていた。
――ここまで来ると、もう通常兵器では歯が立たない。
璃久は乾いた唾を飲み込むと、腹の底に力を落とし込むようにして構えを取った。
背筋が一直線に伸び、視線から一切の迷いが消える。
「火術解放……!」
言霊が空気を震わせた瞬間、璃久の体表にかすかな熱風が渦巻き、指先に紅が灯る。
彼は一転して、古の弓士のような姿勢へ移行する。
右手を引き絞り、左手は虚空を押し広げるように伸ばす。
「――射ッ!!」
音を置き去りにして、燃え盛る矢が虚空から生成された。
ただの火ではない。
圧縮された熱量が一点に収束し、視界が揺らぐほどの輝度をまとった貫通用の火矢。
それは直線の神経反射のように、一直線に狼の六つの瞳へ向かって突き進む。
柏谷の六眼が同時にぎょろりと嚙みつくように動いた。
火線を正面から受け止めるつもりか。
次火矢は六つの眼を一直線に射抜く軌道で迫り――
その刹那、柏谷の六つ眼が同時に収縮し、獣は反射回避行動を取る。
空気が歪む。
狼の巨体が、質量を感じさせない速度で横へ滑る。
だが――完全には避けきれない。
ズボッ――ッ!
燃え盛る一矢が、右側中央の眼窩へ突き刺さった。
火矢は内部で炸裂し、獣毛と血肉を同時に焦がす腐蝕音が広場に響く。
残る五つの眼は辛うじて回避し、火線は後方の石壁を融解させて消えた。
だが、命中した一撃は決定的だった。
巨躯がわずかに揺らぎ、狼は短く呻くような咆哮を漏らす。
「――――ガッ……ルゥオオオォ!!」
怯んだ。
柏谷の狼術は凶暴無比だが、痛覚を完全に切るわけではない。
急所の一部を潰されたその瞬間、わずかに動きが鈍る。
璃久はその一瞬の隙を逃さない。
彼は素早く体勢を低くし、呼吸をひとつだけ整え、
靴底を地面に強く押しつけた。
火術の術技には、局部への攻撃を得意とする「射」、範囲攻撃型の「散」、その中間の「焼」、そしてあともう一つある。
璃久は片手を獣に向けて開き、指先を震わせるほどに緊張させ、
そのまま握り潰すように拳を閉じた。
低く、しかし確実に命を断つ響きで、言葉が放たれる。
「――爆ッ!!」
次の瞬間、柏谷の巨体内部で火の奔流が炸裂した。
外からではなく、内側から破砕する爆熱。
炎が皮膚を押し広げ、狼の腹部が一瞬、風船のように膨れ上がる。
続いて――重低音の衝撃波が周囲を揺らし、血煙と焼けた獣毛が散り散りに吹き飛んだ。
「グ、ルオオアアアアア――ッ!!」
柏谷の悲鳴とも咆哮ともつかない声が夜気を切り裂く。
六眼のうち残る五つが狂ったように開き、巨躯は瓦礫を巻き込みながら横転した。
璃久はその光景を見据え、わずかに表情を歪める。
(……悪いな、柏谷。殺す気はないんだ。)
そう胸中で呟きつつ、璃久は拳を握り直し、倒れ伏した巨狼へ歩を進めようとした。
――その瞬間だった。
「……ッ、ぐ……!!」
膝の力が抜け、璃久は地面に崩れ落ちた。
呼吸が荒れ、額から汗が一気に噴き出す。まるで自分の身体だけが周囲より遅れて壊れていくような、不吉な感覚。
「……やべ、これ……ッ!」
火術の第四術技「爆」。
それは単なる高威力技ではない。
一点を穿つ「射」、拡散する「散」、浸食する「焼」――三要素を同時稼働させ、術式を内部から強制的に破裂させる、火術体系の禁裏。そしてこの「爆」から、白伊涼菟などが所有する人術・破術が派生したとされているほど、強力である。
そしてこの術技の代償には、特殊な規定がある。
普通代償は、術者の脳内決定によって決められる。そしてその決められた代償の重さを元に、使用する術技の強度が自動的に決められる。
だがこの「爆」の場合、その圧倒的な火力が固定されている代わりに、代償も自由に決められず、一つに固定されている
そしてその代償とは、使用者の身体のどこか一部――ランダムな一本の骨を代価にするという内容だ。
璃久はそのことを理解していた。
だが“どの骨が支払われるか”は、術者本人も代償が支払われるまでわからない。
そして今回は――
「……ッぐあああッ!! 左脚……か……!」
左脚の骨が、激痛と同時に砕かれた。
立とうとしても脚が言うことを聞かない。
膝下から先の感覚が、ぼやけて遠い。
骨は霧散するように失われ、残るのは、内部から焼かれるような激痛だけ。
璃久は歯を食いしばり、拳を固く握った。
(最悪だ……こんな時に……!)
地面の向こうでは、柏谷の巨体がゆっくりと痙攣し、依然として意識の底で暴れようとしている。
倒れたのは自分。
このままでは、こちら側が逆に追い詰められる――。
すると、その絶望にさらに泥を塗るような気配が、背後から滲み出した。
ぞわり、と背中を逆撫でする寒気。
子供の頃から嫌というほど叩き込まれてきた、あの最悪な感触。
魔族。
「……嘘、だろ」
璃久は左脚の激痛を堪え、振り返る。そこに立っていたのは、まるで人形のような小柄な少女。
「あれ〜? なんで死にかけなの? バビ、なんにもしてないよ?」
青い肌、金の瞳、左額から伸びる一本角。
どう見ても人間じゃない。だが、放っている魔力気配は濃くない。
本来ならⅠ型戦闘員の自分たちなら瞬殺できるレベルだ。
――今、動ければの話だが。
這ってでも火術を使えば、まだワンチャンはある……そう算段しかけた瞬間、奥で狼が低く吠えた。
柏谷だ。どうやら魔族の接近を察知したらしい。瀕死の璃久よりも、まず魔族を優先した。
爛れた身体を引きずりながら、狼は少女めがけて跳躍する。
踏み潰す気だ。
だが少女は――ただ見上げるだけで、微動だにしなかった。
そのまま狼の巨体が頭上から落ちる。
ずちゅり、と嫌な音を立て、青い血が四方へ散った。
あっけないほど、簡単に潰れた。
狼は脚をどけた。
そこに残ったのは、青い血溜まりと潰れた臓器、そして転がる眼球だけ。
魔力の気配も、もう微塵もない。
(今のは何だったんだ……?というより、なぜこんな場所に魔族が?今のが同体変異種? いや、ありえない。どう見てもただの少女であって、首領格には見えなかった。じゃあ一体……)
疑問が脳内を巡る。しかし、その思考をねじ伏せるように――
柏谷が、邪魔者が消えたと言わんばかりに再びこちらへ視線を向けた気配が走る。
まずい。
今の自分じゃ、もう止められない。どうする……。
脂汗を滲ませながら狼を見据える璃久に、容赦なく巨体が飛びかかる――
だが。
鈍い衝撃音。
次の瞬間、狼の顔が横へ弾かれた。
璃久は息を呑む。
蹴りを叩き込んだのは……また魔族の少女だった。
ただし、先程とはわずかに違う。
肌の色は同じ。だがその瞳は青く、角は右の額から生えている。
彼女の蹴りは凄まじく、一撃で巨大な狼を地に沈めた。
軽やかに一回転しながら着地すると、すぐに別方向へ鋭く視線を投げる。魔族の気配――他にまだいる。
璃久も恐る恐るそちらを見る。
そこから建物の影を抜けて現れたのは……なんと潰されたはずの少女と、まったく同じ姿の少女だった。
その金色の瞳の少女に向かって、青い瞳の少女が呆れたように言った。
「もう、バビったら。あれほど油断しないでって言ったのに。」
バビなる少女が、ケラケラ笑いながら応じる。
「いいじゃんセリ〜! 別に死ぬわけじゃないんだし〜!」
セリと呼ばれた青い瞳の少女は、肩をすくめてため息をひとつ。
その間にも、柏谷は狼の姿のまま呻きながら、再び立ち上がろうともがいている。
肉は爆ぜ、骨は軋み、呼吸は荒れに荒れているというのに――その眼だけは、なおギラついた殺意を失わない。
「バビ、最上様に言われたこと、ちゃんと忘れてないよね?」
「分かってるよぉ。『ADFの人たちは極力殺さないように』、でしょ?」
最上――最上シア。
そこまで聞けば、事情は明らかだった。
こいつらは最上の使いか。
璃久は少女らを睨む。
しかし、どこ吹く風というふたりの態度に、胃がねじれるほど苛立ちが湧いた。
バビは続ける。
「でもさでもさ、死なない程度に遊ぶのはいいんだよね? ね? 私たちしばらくおもちゃで遊んでないし! ちょっとくらい遊びたいよぉ〜! ねえセリ、お願いっ!」
「でもバビ、この前も“ちょっとだけ”って言ってすぐ壊したじゃん。遊ぶのはいいけど……加減は考えてよ?」
「分かってるってば〜! ね! お願い! セリだって遊びたいでしょ?ね?」
「……もう。しょうがないなぁ。」
そう言ってふたりは狼へ向き直った。
手には、いつの間にか銀色のサバイバルナイフが握られている。
――まずい。
反抗していたとはいえ、ここで柏谷を殺させるわけにはいかない。
あんな奴でも、璃久にとっては仲間だ。
璃久は痛む脚をこらえ、腕を伸ばす。
どこの骨が折れるかなど考えている余裕はなかった。
他に手段は、もう残されていない。
握り込むように、右手の指を強く縮める。
「ば――」
その瞬間。
背中に衝撃。
続いて、皮膚を切り裂く鋭い痛み。
何が起きたのか理解できず、璃久は目だけを動かして状況を探った。
そして――悟った途端、血の気が引いた。
前方の少女ふたりと寸分違わぬ姿形の魔族が、いつの間にか“背後”にもいた。
いや、それだけではない。
周囲には、セリとバビそのままの少女が五体ほど、既に取り囲むように立っている。
どれもが同じ魔力を放ち、同じ顔、同じ声音。
見分けなど一つもつかない。
背後でナイフを突き立てた“セリ”が、耳元で囁いた。
「周りを見てみて、お兄さん。」
璃久は恐怖で固まった。
広場には――
二人とまったく同じ姿形の魔族が、百体以上いた。
遠巻きに、しかし確実に包囲するように立ち尽くし、金と青の瞳を光らせていた。
先ほどとは比較にならない。
魔力の奔流が空気を震わせ、思わず胃の奥から込みあげるものを吐き出しそうになる。
金と青の光が、獲物をじっと見下ろすように――璃久と柏谷を取り囲んでいた。
続く…




