85話 シチリア動乱 - 24 -
―――5時15分、ナポリ
最初に地を蹴ったのは鷹觀だった。
破裂音に近い脚力で石畳を抉り、重心を極端に前へ倒したまま一直線。
その動きは、むしろ跳弾の軌跡に近い――意思より先に肉体が爆ぜて進む、生物的衝動の塊。
右拳が振り抜かれる。
拳というより質量を得た灼風そのもの。
言真はそれを、まるで退屈な雨粒を払うかのように左手で受け流した。
触れた瞬間、骨と骨が擦れ合う甲高い衝撃音が弾け、周囲の空気が歪む。
「……っは、やっぱてめぇ異常だな……!」
鷹觀は舌なめずりをしながら後方へ跳ぶ。
体勢を崩すことなく、着地と同時にさらに二段、三段と疾走へ転じる。
彼女は“直線”を使わない。
常に円軌道。螺旋。
右に跳んだと思えば左へ切り返し、重力を斜めに利用して壁すら踏み台にする。
動きは凶鳥の旋回を思わせる。
捕食の軌跡だ。
言真は微動だにせず、ただ鷹觀の軌道を視線でなぞるだけ――
その僅かな目線の先に、鷹觀が入り込んだ。
「死ねやあァっ!」
渾身の膝蹴り。
しかし言真の掌が、その膝頭に寸分の狂いもなく触れた瞬間、鷹觀の身体は弾かれたように真横へ逸らされた。
重い。“押された”のではない。
“軌道そのものを捻じ曲げられた”感覚。
ヨルは空中で三回転し、猫のように背中を丸めて着地する。
「は、っ……ふざけんなよ……何だよその触れた瞬間こっちの動き全部殺す仕草……!!」
「君が大きく動きすぎるだけだよ。予測しやすい。」
言真の声は苛立ちすらなく、むしろ心底退屈そうだ。
それがヨルの火に油を注ぐ。
彼女の口元が、愉悦でぐにゃりと歪んだ。
「なら予測なんかできねぇ速さでぶち抜いてやるよ!!」
鷹觀の足元が破裂した。
石畳が蜘蛛の巣状に陥没し、彼女の髪が残像として横へ流れる。
次の瞬間、鷹觀の姿が消える。
音速に近い踏み込み――
視界の端に、薄紅色の閃光だけが走った。
言真はわずかに上体を傾けた。
刹那、ヨルの爪が言真の頬をかすめる。
頬に一筋、浅く白い線が浮かんだ。
「……っ!」
ヨルは瞳を大きく見開く。
初めて手応えを感じたのだ。
「今の避けんの人間じゃねぇだろテメェ……!」
「さすがにちょっと驚いたけどね」
淡々とした言真の声。
彼の足元の砂利がわずかに散っていた――鷹觀の最大踏破が、ほんの一歩だけ、彼を動かしたという証左だった。
ヨルは荒い呼吸のまま肩を揺らし、興奮の笑みを見せる。
「いい……いいね朽宮ぁ……私が相対してきた中で一番つえぇよ……!」
再び、両者の間を静寂が満たす。
しかし先ほどまでと違い、その静寂は血の匂いを孕んだ“殺気”で濃密に染まっていた。
言真が目を細める。
「君、チルドレンだろ。なんでその力を悪い方向に向けちゃうかな。その強さあればうちじゃもっと良い待遇してあげられるけど。」
「誰が…てめぇらに手ぇ貸すかよ!あたしはあたしの生きたいように生きる!」
「最上シアの駒になることが、君が生きてまでしたいことなのかい?」
鷹觀は思わず返答に詰まる。その様子を見て言真は笑った。
「予想通りだね。やっぱり君最上の仲間かぁ。邪魔なんだけど。今任務中なの。」
「―――あ?知るかよ。あたしは最上様のためなら命捧げてもいいと思える。それほど偉大な方だ。てめぇなんかとは器の広さが違う。」
「洗脳って言うんだよ、そういうの。…まあ、されてる本人にはわかんないかもだけど。」
「なんでもいい。あたしにとってあのお方は命の恩人だ。…戯れ言はここまでだ、死っ…ね゙ェ!!」
鷹觀は瞬時に殴りかかる。
言真は半歩下がり、紙一重の、指先一つ分の間合いで軌道から身を外す。
拳は言真の頬に触れすらしなかった。
だが背後の建物の外壁が、その一撃の余波だけで抉れた。
鷹觀は着地と同時に左の回し蹴りを放つ。
脚部のスイング速度は音速に肉薄し、空気が悲鳴のように裂ける。
言真はそれも片手で受けた。
受ける、というより、触れた瞬間に衝撃の流れを逸らすように掌で滑らせた。
「フィジカルは風音に近いね。」
「黙れやクソガキぃ!」
ヨルが吠え、上体を捻りながら連撃を畳みかける。
拳・肘・膝・蹴りが、まるで一秒間に十数発撃ち込まれるような密度で迫る。
恐らく桜田風音にすら匹敵する攻撃速度。
しかし――
言真はその全てを受け流していた。
掌でなぞるように、肩でいなすように、足さばきひとつで軌道をずらし、
ヨルの猛攻を外側へ滑らせていた。
その姿は武術というより、連続する殺意の奔流をあくびしながら避ける怪物に等しい。
「うっざいんだよおまっ―――!!」
鷹觀が叫んだ瞬間、言真は高速の踏み込みで彼女の死角へ滑り込んでいた。
彼女が気づいた瞬間、背中が指先で軽くタッチされた。
「がら空きだよ。」
刹那、鷹觀の重心が“撫でられた方向へ”暴走する。
背骨に直撃したわけではない。
触れられた瞬間に、全ての力の流れが崩壊し、身体が制御不能に跳ね飛ばされたのだ。
少女の身体は二十メートルほど先の車へ激突した。
金属の車体が紙細工のようにひしゃげ、火花が散る。
「ぐッ……は……ッ!」
血混じりの呼気を吐きながらも、鷹觀はすぐに立ち上がった。
その瞳は、死ぬどころか逆に狂気の熱で紅く爛れていた。
「やべぇ……やべぇよお前……!!なんだその殺意ゼロの接近!あたし今のマジでゾクッときたんだけどォ!!」
言真は苦笑しながら肩を竦めた。
「いやいや…怖いよキミ……そんな過敏に反応する人、初めて見たんだけど。」
鷹觀は口角から血を滴らせ、笑う。
狂気の炎が、さらに強まった。
「もっと……もっとだよ朽宮ぁ!!あたしを本気で殺しに来い!その方がよっぽど……気持ちいいんだよォ゙!!」
声が夜のナポリに響き渡った。言真は呆れるように鷹觀を見つめる。
「君は…なにしたら諦めてくれるのさ。いい加減僕も急がなきゃなんだけど。」
「あたしを殺せば済む話じゃねぇか!てめぇの持ってる嵐術でよォ゙!」
「なんで君に人術使わなきゃなんないのさ。怪我したくないしやだよ。」
「なら無理矢理にでも使わせてやるよ!」
鷹觀は、言真が吐き出す冷たい殺気を正面から浴びながら、一歩、地を舐めるように滑らせて前へ出た。
その小柄な身体に似合わぬ重心の沈ませ方だった。まるで地面の奥底にまで自身を杭のように打ち込むかのように、膝がわずかに震え、踵が沈む。
左足が半歩後ろへ滑り、つま先が外へ向く。その角度は、鍛え抜かれた者だけが無意識にとれる“殺しの体勢”だ。
次いで肩がほんの一拍、遅れて落ちる。
肩甲骨が緊張し、背筋に細い稲妻のような力が走った。
両腕は胸の前で交差させる──抱きしめるようでいて、拒絶するような、不思議な形。
だが交差した指が、ほんの刹那、微かに震えたときだった。
鷹觀の呼吸が「ひゅっ」と短く鳴る。
その瞬間、彼女の身体の内側で、燃料に火が入るような感覚が膨らみ上がる。
胸ではなく、鳩尾の奥。臓腑の影に潜む何かが蠢き、熱を噴き上げる。
交差した腕がゆっくりと解けていく。
まるで炎が指先を舐めながら形を与えていくかのように、右手は前へ、左手は後ろへと引かれ、しなる。
掌は言真へ向けられている。
しかし、指先は彼を捉えず、その“少し外側”を狙う──炎が流れる軌道、その未来の空間を。
鷹觀の瞳が細く絞られる。
黒目の奥に、血のような赤が滲んだ。
空気が揺れる。
炎はまだ生まれていないのに、熱だけが先に世界を侵す。
言真の外套が、風もないのにひらりと上がった。
「……まじで言ってんの?」
言真の顔に、初めて少し驚愕の色が見えた。
鷹觀は不気味に笑い、低く囁く。
声というより、熱気が形を持ったような叫びだった。
「――炎術解放ォ゙!!!」
瞬間、辺り一帯が火に包まれた。言真は呆れ笑いを浮かべながら、拍手をした。
「さすがにびっくりしたけど、まあそりゃそうか。君チルドレンだもんね。だったら神化人術くらい持ってても、おかしくはないか。」
炎術。
神化人術の一種。
ADFでは四堂の一人、熊野焔冥が所持する人術でもある。
その名の通り火を操る人術であるが、その性能は同じく火を操る火術とは雲泥の差である。
火術の拡散式術技である「散」は最大出力で引き出せてもその直径は100メートル弱ほどにしかならない。だが炎術の場合、効果範囲はやろうと思えば国土全体を火の海にできるほどである。
まさに狂気とも思えるその術を、鷹觀は有していたのだ。
彼女が地面を殴りつけた瞬間、大地が火柱を噴いた。
半径数メートルの石畳が融解し、赤熱した破片が雨のように降り注ぐ。
炎術を地面に叩き込んだ、範囲制圧の一撃だ。
言真は跳躍し、距離を取る。その瞬間割れた地面から炎が吹き出し、先程彼が立っていた場所は大きな炎に包まれた。
鷹觀は笑い、叫ぶ。
「烈紅穿衝!!」
弓を構えるようにした彼女は、馬手にあたる右手の掌が開かれた刹那、虚空から無数の火矢が形成される。
言真に向けて天穹から降り注ぐ火矢の奔流は、視界一面を塗り潰すほどの密度だった。
だが、彼の瞳には恐怖も焦りもない。むしろ、淡々とした観測者の色が宿っている。
火矢の軌跡、間隔、生成速度──そのすべてを瞬時に算盤のように弾きながら、言真は静かに息を吐いた。
(……強いね。常人だったら普通に即死してる。)
評価は揺るぎない。
少女の出力だけを見れば、四堂に匹敵するレベル──むしろ一対一なら上を取る可能性すらある。
だが、同時に別の事実も浮かび上がる。
(けど……甘いんだよな)
火矢の散布角度は広く取りすぎている。
射線の収束点も曖昧だ。
「確殺」を狙うより、「当たればいい」へ無意識に逃げている節がある。
──経験不足。
その欠落が、圧倒的な力と釣り合っていない。
(クマだったら絶対にこうはしないだろうな)
熊野焔冥──もし彼が同じ術式を展開していたなら、火矢は一点に収束し、逃げ道は一つ残らず封鎖されていた。
広げず、散らさず、ただ殺すためだけの最短射線を描く。
しかも、もし仮にその標的が朽宮言真であった場合尚更だ。彼なら一切の慈悲無く殺しにかかる。
(あの女の子は出力に寄りかかりすぎてる。術の質が追いついてない)
そう呟くように、言真は軽く地面を蹴った。
迫り来る火矢の壁が、彼の動きに合わせてわずかに揺らぎ、その中心にぽっかりと生まれた死角をすり抜けていく。
熱風が頬を焼く。
背後で火矢が爆ぜ、石畳が砕け、周囲の建物が赤熱を帯びて歪む。
だが、彼は振り返らない。
一歩。
さらに一歩。
火焔の奔流を抜けながら、言真は静かに結論を下した。
(……もったいないよ、ほんとに)
圧倒的才能と、未熟な技術。
その歪な組み合わせを前に、言真はひどく複雑な顔で息をついた。
雨霰のように降り注ぐ火線――だがその軌跡は言真の推測通り均質すぎた。散布界が広いのに、圧力点が存在しない。まるで「当たってくれれば儲けもの」という素人のバースト射撃だ。
言真はその欠点を瞬時に看破し、あえて最も火矢が集中している中央突破を選んだ。
真正面から。逃げも隠れもせず。
火矢の奔流が彼を包み込む直前――
踏み込み一つ。
霧のように火矢が裂け、嘘みたいな間合いで言真の姿が射線から消えた。
鷹觀は目を見開く。
「は……?!」
術者である彼女には、火矢が着弾する“瞬間”まで見えていた。だからこそ理解不能だった。あの反応速度も、挙動の最適化も、一切の淀みも。
言真はすでに鷹觀の死角――すなわ彼女が反射的に武器を向けられない左後方側に踏み込んでいた。
その移動は、速度というより省略だった。余計なモーションを削ぎ落とすことで、動作時間そのものを極限まで圧縮する化け物じみた所作。
鷹觀の背筋が総毛立つ。
「てめっ……!」
言真は返事もせず、無造作に片手を掲げた。
その指先が、彼女の様々な急所を静かに、いや冷酷に射抜いている。
言真の戦い方は殺しを前提にした専門家のそれだった。
一挙手一投足が、訓練と戦場を何百回も往復してきた者の重みを孕んでいる。
一方の鷹觀は、強化されてこそいるが――
経験が追いついていない。
その差が、今まさに圧倒的な形で露呈していた。
鷹觀は、咄嗟に跳び退こうとした。
だが背面方向のステップは、熟練者でも0.2秒ほど反応が遅れる。
そのわずかな遅延を、言真は当然のように織り込んでいた。
静かに一歩。
ただそれだけで、鷹觀の逃走ラインは完全に封鎖された。
「……っ!」
体が反射的に横へ回避運動を取る。
だがその瞬間でさえ、言真は彼女の重心移動を読んでいた。
刹那、言真の肘が風を裂く。
――狙いは肋骨下の横隔神経。
鈍い音とともに、鷹觀の身体が折れた。
肺が空気を求めて痙攣し、視界が白く跳ねる。
「ッ……は………!」
身体の制御回路が一時的に断線したように膝が揺れ、重心が乱れる。
言真はためらいなく踏み込んだ。
言真の掌底が鷹觀の耳下腺部――外頸動脈洞へ到達する。
肉が鳴る乾いた衝突音。
衝撃は一点に凝縮され、神経反射に無慈悲に干渉した。
グラリ、と世界が横に傾く。
内耳の平衡器が瞬時に狂い、鷹觀の視界は再び白濁する。
「――がっ……!」
頸動脈洞反射が誘発され、脳への血流が急激に揺らぎ、意識が断続的に千切れそうになる。
そこへ畳みかけるように、言真の膝が中段へ滑り込んだ。
狙いは鳩尾。
呼吸と闘志の核を同時に殺す、古来より戦闘者が用いる制圧の急所。
肺が裏返ったような衝撃とともに、鷹觀の口から無音の喘ぎが漏れた。
呼吸不能という原始的恐怖が脊髄を奔り抜け、
筋繊維は硬直し、視界は光と闇の斑点へと瓦解する。
しかし、言真は一歩たりとも退かない。
無表情のまま、寸分の溜めもなく拳を放った。
鷹觀の顔面へ、
連撃。
連撃。
さらに連撃。
頬骨が軋み、歯列が砕け、
飛散する血飛沫と汗が空気に赤い軌跡を描く。
欠けた歯が乾いた音を立てて石畳に転がった。
淡々と、
冷徹に、
機械的でありながら――
一切の誤差なく“人間”という構造物を破壊していく、圧倒的技量。
鷹觀の身体は弾かれたように宙を回転し、地面へ叩きつけられ、無様なほどに転がった。
顔面はもはや原形を留めていない。
腫脹で輪郭が歪み、皮膚の下では血液がじわじわと滲み出し、
視界も焦点もどこへ向けることもできない。
そしてそんな状況下で、彼女はようやく悟った。
勝てない。
人術の中でも最強格である炎術を解放しても、
言真の体術・判断・間合い・速度の前では触れることすら叶わなかった。
それどころか――
彼の内に宿るはずの嵐術すら、発動させることができなかった。
鷹觀の胸中の興奮は既に冷え、代わりに絶対的な畏怖が静かに沈殿する。
規格外。怪物。神童。
その語の全てが、この男に収束していく。
朽宮言真――
彼は「強い」などという言葉では形容できない領域にいた。
「ふっ…グッ゙……ふぅぅぅ…っ……」
鷹觀は、それでも立った。
折れた杭のように揺れる両脚を無理やり支柱にして、
破裂しかけ肺が軋みを上げ、
心拍は狂った太鼓のように乱れ、
胃液が逆流するほどの吐き気が喉奥にまとわりつき、
視界は亀裂の入ったレンズのように歪む。
右足はもはや感覚がなく、
骨が軋む音だけが踏ん張っているという事実を辛うじて教える。
誰が見ても——いや、本人が一番理解している。
戦闘継続は不可能だ。
筋力も、反射も、術も、精神力すら限界をとうに超えている。
だが、それでも。
彼女は、最後の一片の闘志が消え去るのを拒むように、
震える身体を炎の残滓みたいに揺らしながら、
なお前を睨み据えた。
焼け焦げ、砕かれ、折れた身体のなかで、
たったひとつだけまだ死んでいないものがある。
「それでも最上様のために立つ」という、狂信にも似た執念。
言真は眉をひそめ、静かにため息を落とす。
「……もうやめな。君それ以上動いたら、本当に壊れるよ。」
鷹觀は歯の欠けた口で、血を垂らしながら笑った。
「壊れて……何が悪い……ッあたしは……あの方に拾われて……“やっと生き残れた”んだよ……」
その声は弱々しいのに、揺らぎだけはなかった。
「だから……朽宮言真……あたしの脚でまだ立てる限り……あたしは戦う……たとえ、この体が明日動かなくなっても……ッ」
言真の目がわずかに細められる。
冷淡な殺意ではなく――ほんの僅かな哀れみと、理解不能なほどの彼女の執念に対する困惑が混ざった色。
「……本当に、どうしてそうなっちゃうかな。」
鷹觀は血の泡を吐きながら、前へ――
だが。
その足が地を掴むより早く、
鷹觀の視界にすっと影が落ちた。
まるで空気の層を一枚めくるように、
一人の男が滑り込むように降り立つ。
着地の気配は風よりも静か。
石畳は軋みすらしない。
言真は片眉を上げ、興味深げにその男へ視線を移す。
鷹觀は、敵ではない“違う厄介さ”に顔をしかめた。
男は、
陶磁器のように白い指で口元を覆い、
ひどく優しげな、しかし底の見えない声で囁いた。
「――あらぁ、鷹觀ちゃん。そんなボロボロになって……大丈夫? ねぇ、私が助けてあげよっか?」
その声音は優しさの仮面を被った毒そのもので、
鷹觀の傷ついた神経を逆なでする。
少女は血の味を含んだ吐息で、
喉を裂くように怒鳴った。
「……邪魔……すん゙な゙……!!馬栁!!!」
喉を裂くような絶叫がナポリの石畳に反響した、その瞬間――
馬栁セツの唇が、愉悦の形へゆっくり吊り上がった。
「邪魔ぁ? でもさぁ鷹觀ちゃん……」
彼はひどく優しい声色で、しかし目だけは完全に冷めた光を宿している。
「今の君、どう見ても“戦えてる体”じゃないよ?
肺には内出血。片方はもう萎んでる。
肋骨は――そうだね、八本は綺麗に折れてる。
頬骨も割れてるし、視界ももう片側死んでるでしょ?」
言葉のすべてが臓腑に刺さる。どれも事実だった。
「黙っ――」
鷹觀は吐き捨てようとした瞬間、声より早く血反吐が喉から噴き上がる。
焼けるような激痛が胸郭を裂いた。
肺胞が潰れつつある。
酸素を取り込めない身体が悲鳴を上げ、世界が遠のく。
「は……っ、ひ……っ……!」
吸えない。
呼吸ができない。
指先が痙攣し、膝が折れる。
意識があることすら、もはや奇跡に近い。
そんな鷹觀を馬栁は、まるで汚れたガラス細工を観察するような冷ややかな眼で見下ろした。
「ねぇ鷹觀ちゃん。君、そのままじゃあと5分も保たないよ?そんなんじゃ最上様に顔向けできないでしょ?」
その言葉に、鷹觀の爛れた瞳がかすかに揺れる。
すると、それまで静観を保っていた言真が気まずそうに声を上げた。
これまで沈黙を保っていた言真が、妙に気まずそうに空気を割った。
「えぇっと……その、さ。助けに来たのは別にいいんだけど……」
彼は片手を軽く挙げ、眉をひそめる。
「僕、そろそろ行ってもいい?ほんと急ぎの用事があってさ……できれば早めに解放してほしいんだけど。」
その声音は、殺し合いの只中とは思えないほどの緩さだった。
まるで友人同士のお茶会が長引いたときのような、
どこまでも自然体で、どこまでも厄介な余裕。
その言葉に、馬栁はぴくりと肩を揺らし、ゆっくりと振り返る。
「ローマに行くのでしょう? 生憎、その“核”とやらは私たちにも無関係じゃないのよねぇ……」
ひらりと、何気ない仕草のように馬栁が手を上げる。
その瞬間だった。建物の屋上、崩れた瓦礫の影、路地の奥――ありとあらゆる死角から、黒いバラクラバの集団がよりどりみどりに姿を現した。
数えるだけ無駄だと直感できるほどの量。ざっと見積もっても二百名は下らない。
全員が無言でAK-12を構え、照準だけがこちらをかすめている。
にもかかわらず、言真は眉ひとつ動かさず、むしろ楽しげに笑った。
「この人数と君で、僕を足止めできるとでも?」
「まさかぁ。」
馬栁は肩をすくめ、口角をにやりと吊り上げる。
「私は鷹觀ちゃん抱えて、とっとと逃げさせてもらうだけよ。足止めはそっちの子たちに任せるわ。」
言真は、まるで冗談でも聞いたかのように小さく笑った。
「殿ってことかい? 自殺願望も甚だしいね。」
「やぁねぇ、言い方。」
馬栁は頬に指を当て、わざとらしく首を傾げた。
「殿なんて大層なもんじゃないのよ。あの子たち、死ぬの怖くないから勝手にやってくれるだけ。便利でしょ?」
「便利というか単純に馬鹿だよね。絶対人数割くとこ間違えてる。」
馬栁は笑いつつ、死にかけの鷹觀を抱えあげた。
「まあこんな人数であなたを止められるとは思わないけれど…せいぜい楽しんでね、朽宮言真。」
次の瞬間、馬栁は跳ね上がるように瓦礫を蹴り、建物の壁をまるで階段のように駆け上がり――そのまま夜の闇へ溶けるように消えた。
残されたバラクラバ達は言葉を発するわけでもなく、ただ銃口の先を言真へ向け続ける。
言真は大きくのびをしつつ、ため息をついた。
「――君たちも暇だねぇ…。僕のためにこんだけ集まってくれるだなんて。」
その声には、戦意も警戒もない。
ただ面倒だなという、呆れるほど日常的な諦観だけ。
次の瞬間――
静止した空気が、ひび割れる。
銃口が火を噴くより先に、言真の影がふっと滲んだ。
続く…




