84話 シチリア動乱 - 23 -
―――5時10分 カルタジローネ
夏芽は襲いかかる敵兵を片端から蹴散らしつつ、一直線にロッソの本陣へ急いでいた。
カルヴァーニという男の性格は璃久から聞いた。
彼なら――混沌のど真ん中に自ら飛び込まずにはいられない。
その確信が、夏芽の焦りを後押ししていた。
彼は走りながら、カルヴァーニの思考をひたすらに深掘りする。
そして導き出される結論はただひとつ。
――奴は自分の手でヴィットリオ・スカラーレを殺しに行く。
急がねばならない。
スカラーレの安否そのものにはこれっぽっちも興味はない。
だが、そこにカルヴァーニがいるとなれば話は変わる。
あの男こそ魔族である可能性が最も高い存在だ。
ならば――
一刻でも早く辿り着き、殺す。
ただそれだけだった。
瓦礫の飛び散る小路を駆け抜けながら、夏芽は周囲の気配を敏感に読み取っていた。
だが魔族の気配は微塵も感じない。同体変異種だからだろうか。
夏芽は舌打ちしながら速度をさらに上げる。
石畳を蹴るたび、足元から砂埃が弾け飛ぶ。
その先で、ロッソの兵が数名、まるで紙くずのように倒れ込んでいるのが見えた。
胸を抉られた者。
首を斬られた者。
その他様々な死骸が転がっている。
そのとき、奥の建物の影から、ひとりのロッソ兵がふらつきながら現れた。
顔面蒼白、そして目に涙を滲ませている。
両腕は欠損し、足取りはおぼついていない。
「た、助け……助けてくれ……!」
夏芽は無言でその男に近づき、肩に手を置いた。
「何があった。」
震える唇が、かろうじて形を作る。
「………会議室……スカラーレ様が……!」
直後、兵士の身体は力なく崩れ落ちた。
息はあるが、意識はもう戻らないだろう。
夏芽の目が冷たく細められる。
「やっぱり間違いなさそうだな。」
建物の奥、ロッソ幹部たちの会議室。
そこに“奴”がいる。
夏芽は腰の装備を指先で確かめ、刃の位置、重さ、すべての感覚を一度身体に馴染ませる。
深く、静かに息を吸った。
「……行くか。」
低く呟くと、影のように入口を潜り抜けた。
足音は床に触れた途端、溶けるように消える。
内部は予想以上に荒れ果てていた。
倒れた家具、破壊された壁。
そしてそこかしこに転がる屍体。
乾きかけた血溜まりが鈍く光り、その鉄臭い匂いがむわりと鼻を刺す。
――間違いなく、カルヴァーニの仕業だ。
夏芽は躊躇なく奥へと進む。
目的の会議室は三階。
階段へ向かう途中、ふいに背後から小さな呻き声がした。
「……ん?」
夏芽は即座に振り返り、指先で武器に触れた。
そこには――呻きながら壁にもたれかかる男がひとり。
全身を血に染め、息だけがかろうじて残っていた。
その顔を見た瞬間、夏芽は記憶を手繰る。
数時間前、自分と柏谷がロッソのアジトに潜入したとき、真っ先に啖呵を切ってきたリーダー格の男だ。
だが今の彼には、あの勢いの欠片もない。
死にかけの魚のように、口をパクパクと開閉させるだけだった。
夏芽は一歩近づき、その致命的な損傷を確認する。
腕は関節の向きが完全に崩れ、腹部の裂傷は深く、内臓がわずかに覗きかけている。
助かる見込みなど、まずない。
夏芽は黙って消音器付きの拳銃を抜いた。
男の額へ照準を合わせ、ゆっくりと引き金を絞る。
乾いた衝撃音。
男は声をあげることもなく、糸が切れたように崩れ落ちた。
夏芽は一度だけ無言で視線を落とし、踵を返す。
階段の方角へ向き直り、吸い込まれるような静寂の廊下を進んだ。
敵の気配はない。
まるで霧のように、跡形もなく消えたかのようだった。
すでに撤収したのか――それとも、まだどこかに潜んでいるのか。
夏芽はわずかな空気の揺れすら逃さぬよう感覚を研ぎ澄ませ、音を殺して階段に踏み込む。
チカチカと不規則に点滅する蛍光灯の下を、影のように駆け抜け、三階へ到達した。
そこもまた、異様に静まり返っている。
血の匂いと濁った空気だけが、無惨な惨劇の余韻として漂い続けていた。
夏芽は廊下奥に視線を定める。
銃痕で穴だらけになった扉――ロッソ幹部の会議室。
カルヴァーニがいるとすれば、まず間違いなくあそこ。
夏芽は深く息を吸い、最大限の警戒を保ったまま、扉を蹴破った。
乾いた破壊音が廊下に響く。
夏芽は即座に銃口を振り、部屋内部をクリアリングする。
――敵影なし。
「……遅かったか。」
舌打ちを飲み込み、夏芽は部屋の中を見渡す。
床に転がる幹部たちへ近づき、ひとりずつ状態を確認する。
どれも身体に銃弾の風穴を穿たれ、すでに事切れていた。
そして部屋の奥――ソファーの足元。
首領、ヴィットリオ・スカラーレが崩れ落ちていた。
脹脛と腹部に二発。いずれも急所ではない。
にもかかわらず大量の血溜まりができている。失血死――そう判断するのに十分だった。
スカラーレの顔は苦痛で歪み、乾いた涙の跡が頬に刻まれている。
哀れみなど湧かない。裏社会の住人が終わりを迎えるには、むしろ上等なくらいだ。
夏芽は視線を切り、室内をもう一度ゆっくりと見渡した。
飛び散った血痕、乱れた家具、焦げた匂い。だが――それらとは別に、ソファーの背後で、何か気配を感じる。
黒い影。
何かがある。
夏芽は即座に警戒を最大まで高め、音を立てずに近づいた。
覗き込んだ瞬間、肺がひやりと縮む。
そこには、中型の黒い箱が置かれていた。
複数のチューブが絡みつき、点滅する小さな赤いランプ。
見覚えがある。
そして理解した瞬間、背筋が氷のように固まった。
(……爆薬)
「…くそが。」
低く吐き捨てると同時に、夏芽は反射的に構えを取る。
――ピッ。
箱のランプがひときわ強く赤く光った。
次の瞬間。
世界が白く弾けた。
鼓膜が破裂するような破裂音。
皮膚が剥ぎ取られるような衝撃波。
鉄骨がねじ切れ、熱風が全身を焼く。
建物全体が炎に呑まれ、まるで巨大な火柱が突き立つように、カルタジローネの街に轟音が響き渡った。
そして――
夏芽の視界は、真っ赤な火の海に飲み込まれた。
***
「随分あっけねぇな。」
カルヴァーニは、崩れ落ちていく建物を丘の上から見下ろしながら、
つまらなさそうに肩をすくめた。
炎は天へ向かって獣のように咆哮し、黒煙が街を覆っていく。
爆風で舞い上がった破片が、遠く離れた彼の足元にまで転がってきた。
カルヴァーニは煙の向こうを眺めながら、退屈そうに指をぽきりと鳴らした。
「八間なんて化け物をただ試すつもりでやったんだがよ……ちょっとは遊べると思ったんだがな。」
燃え落ちる瓦礫が重力に引きずられ、次々と崩れていく。
火の粉が爆ぜ、夜明け前の空を赤く染めていた。
その壮絶な光景の中でも、カルヴァーニの顔には子供じみた不満しか浮かんでいない。
「期待はずれにも程がある。……所詮、ただの人間じゃねぇか。」
隣で控えていた尋問屋が遠慮がちに口を開く。
「し、死んだんですかね? その……ハチゲン、とかいう奴は。」
カルヴァーニは鼻で笑った。
「さあな。まああれだけの爆発だ、普通なら肉片すら残らねぇよ。」
そう言いながらも、彼の視線は瓦礫の中心から片時も離れない。
「だが“普通じゃねぇ奴”ってのはよ……バカみてぇに派手に足掻くもんだ。」
その瞬間、瓦礫の山の奥で──
低く、地響きのような音が鳴った。
カルヴァーニの口元が、不気味に吊り上がった。
「……な?」
次の瞬間、遠くの瓦礫が弾け飛び、砲弾じみた影が一直線にこちらへ突っ込んでくる。空気を裂く轟音とともに、それはカルヴァーニの目の前へと落着した。
周囲の構成員たちが一斉に動揺し、反射的に銃を構えて砂煙へ狙いを定める。視界を埋める灰色の幕がゆっくりと晴れていく。
カルヴァーニは、もう勝利を確信した男の顔でほくそ笑んだ。
「やっぱ……ADFってのは狂ってるな。八間の兄ちゃんよ。」
砂煙の向こうから現れたのは、無傷の夏芽だった。
服は煤と埃で汚れ、裂け目もある。しかし、肌には傷ひとつない。
その姿は、まるで災厄を跳ね返した怪物そのものだった。
カルヴァーニは迷う間もなく構成員に射撃を命じる。
号令と同時に、無数の銃口が火を噴き、弾丸の雨が夏芽へと殺到した。
耳を刺す連続射撃。火薬の匂いが空気を満たす
―――だが。
「バケモンが……!」
弾はすべて、夏芽の身体表面で火花を散らし、まるで硬質な装甲板に当たったかのように跳ね返っていく。
着弾の衝撃は吸収され、貫通も損傷も生まれない。
ただ、鋼鉄を叩いたような金属音だけが虚しく響いていた。
これこそが夏芽僚の人術――鉄術。
自らの肉体組成を一時的に鋼鉄同然の硬度へと変質させ、いかなる貫通力も斬撃も通さない。“単純”でありながら“絶対的”な防御技術だ。
彼に物理的損傷を与え得るのは、四堂が扱う神化人術のような超常的出力、あるいは桜田風音の身体能力を極限まで活かした怪物的打撃のみである。
だからこそ夏芽僚は、八間として異名を授かった“人間”でありながら、“楯”としての象徴たり得るのだ。
そして――その怪物は動き出した。
夏芽は悠然と、まるで散歩でもするかのような速度で前へ歩く。
射撃を続ける構成員たちに近づくたび、その腕が振るわれ、あるいは足が一歩踏み込むたび、彼らの四肢は折れ、ねじれ、地面に沈んでいった。
銃声は急速に数を減らし、前線は崩壊した。
逃散しようとした構成員たちは、命惜しさに背を向ける。
だが――
「逃げんなよ」
カルヴァーニは無表情で構成員を撃ち抜いた。
慈悲も怒りもない、ただ“邪魔だから処理した”というだけの目だった。
撃たれた者が倒れ、続く者たちも恐怖で悲鳴を上げる。
構成員に逃げ場はない。前方にいる怪物・夏芽に殺されるか、逃げ出して背後にいるカルヴァーニに殺されるかの二択しかない。
そうしてその場に残ったのは、震える幹部数名と尋問屋、そしてカルヴァーニただ一人となった。
瓦礫の向こうから、鉄の靴音のような夏芽の足音だけが近づいてくる。
幹部たちは、もはや膝が笑うのも隠せないほど怯えきっていた。
瓦礫越しに近づく夏芽の足音は、さながら鉄塊が打ち鳴らされるような重い響きで、死刑宣告のカウントダウンのように一歩ごとに彼らの心臓を締め上げる。
その恐怖の中心で――ひとりだけ、まったく別種の感情を抱いている男がいた。
カルヴァーニ。
彼は大仰に口角を吊り上げ、まるで娯楽のクライマックスでも迎えたかのように手を叩いた。
「いやぁ〜見事見事!」
乾いた拍手が静まり返った夜気に響く。
「おめぇ、ほんっと期待を裏切らねぇな!あっぱれだよ八間の兄ちゃん!」
彼は腹の底から笑いながら、指を夏芽へ向ける。
「やっぱ俺の目は間違ってなかった!――おめぇは正真正銘の、化け物だ!」
幹部たちはその狂気じみた賞賛にさらに震え上がる。
だがカルヴァーニだけは、獲物を見つけた獣のように目を爛々と輝かせていた。
夏芽は一歩、また一歩と近づき、その無表情は微動だにしない。
瓦礫に反射した火が彼の影を長く伸ばし、怪物の輪郭をいっそう際立たせる。
カルヴァーニの喉が、愉悦で低く鳴った。
「おめぇ、名はなんて言うんだ?」
カルヴァーニは血に濡れた瓦礫を踏みつけながら、一歩前へ。
その声はまるで、これから始まる闘宴を心待ちにしている悪鬼のそれだった。
「名乗るほどの者じゃない。僕より強い人たちは他にも数多いるし。」
夏芽は静かに言い放ち、焦げと埃にまみれた上着を肩から滑らせる。
布が地面に落ちる音すら、戦場の中心ではやけに大きく響いた。
鍛え上げられた上半身に、火の粉が赤く反射する。その姿は、人ではなく“兵器”の影を帯びていた。
カルヴァーニはその光景を舐めるように見て、喉の奥で笑う。
「謙遜すんなよ!八間だろ?人間のくせに化け物じみた“そっち側”なんだろ?」
口角がさらに吊り上がる。
「どうせおめぇ、俺のことぶっ殺しに来たんだろうが!ならよ――」
銃をホルスターに押し込み、両手をゆるく広げる。
「冥土の土産くらい聞かせろや。名ぐらい、なぁ?」
夏芽は短く息を吐いた。それは覚悟とも、諦観ともつかない静かな呼気だった。
「……夏芽。夏芽僚。」
カルヴァーニの目が獣のように細められた。
「……ナツメ…いいねぇ。最高じゃねぇか。」
カルヴァーニはまるで珍しい玩具を見つけた子供のように、ねっとりとした目で夏芽を観察する。
獣が喉を鳴らす直前の、あの危険な静けさだ。
「おめぇロシア人か?」
にやついたまま、夏芽の顔を覗き込むように上体を傾ける。
「スラブ系のツラしてんじゃねぇかよ。にしても――」
指をぱちんと鳴らす。
「イタリア語がまぁ流暢だこと。八間ってのは語学までパーフェクトなのか?ADFってのは兵にそこまで英才教育すんのか?」
夏芽はカルヴァーニの言葉を受けても特に反応を見せなかった。
ただ、視線だけが静かに、しかし確実に“戦闘のそれ”へと変わっていく。
「……ロシアにルーツは持ってるが、血はほとんど日本人のものだよ。」
短く、乾いた声だった。
「語学は必要だったから覚えただけ。それだけだ。」
カルヴァーニは一瞬だけ目を丸くし――そして次の瞬間、腹を抱えて笑い出した。
「ハハッ!なんだよそれ!日本人?!それでイタリア語ペラッペラ!?お前ほんと面白ぇな!どんだけ訓練されてんだよ、ADFの“怪物”はよ!」
笑い声は次第に狂気の色を帯び、周囲の幹部たちは誰も動けずに固まっていた。
カルヴァーニは笑いをぴたりと止めると、ゆっくりと腰を落とし構えを取る。
その顔には、隠しきれない喜悦の影が浮かんでいた。
「――いいぜ、ナツメ。言葉はもう十分だ。」
夏芽は肩の力をわずかに抜き、静かに呼吸を整える。
その瞳は凪いだまま、しかし奥底では明確な“殺意”だけが冷たく灯っていた。
「覚悟はできたか?」
低く投げられたその一言に、カルヴァーニは口角を吊り上げる。
「ああ?悪いけどよ――俺ぁ大人しく殺される気なんざ毛ほどもねぇんだわ。」
獣のように喉を鳴らし、にやりと笑う。
「だからよ……鬼ごっこしようぜ、ナツメ。」
その言葉と同時に、カルヴァーニは残っていた幹部らへ顎をしゃくった。
「てめぇら、アイツ足止めしろ。」
恥も外聞も投げ捨て、背を向けて逃走に転じる。
幹部たちは泣き叫びながら必死に夏芽へ銃を構えた。
だが――それはただの死の宣告に等しかった。
夏芽は刹那の間に距離を詰めた。
骨が砕け、肉が裂ける音だけが静かな路地に響く。
夏芽は表情を変えることなく、ただ機械のような正確さで幹部たちを一人、また一人と捻り潰していく。
叫び声は数秒ともたなかった。
唯一、尋問屋だけが腕の骨を折られながらも致命傷を免れ、地面に転がりながら絶叫した。
「や、やめ――!」
その声を聞く前に、夏芽のブーツが彼の頭を踏み砕いた。
鈍い破裂音とともに、尋問屋はようやく静かになった。
――次の瞬間には、夏芽の姿はもうなかった。
瓦礫の影を駆け抜け、獲物の逃げた方角へ。
全速力で、地を裂く勢いで。
カルヴァーニの背に食らいつくために。
続く…




