83話 シチリア動乱 - 22 -
―――5時04分
柏谷狭と熊野璃久は、燃え盛る瓦礫の間を縫うように、カルタジローネの街を無言で駆け抜けていた。
犬猿の仲だとはいえ――
いや、だからこそかつてバディを組んでいた経験が生きているのか、言葉にしなくても互いの動きは噛み合っていた。
逃げ遅れた市民を抱え上げて安全な場所へ運び、抗争の火種になりそうな者は片っ端から行動不能へ追い込む璃久。
一方で柏谷は、構成員だろうと軍人だろうと警察だろうと、目に映るものすべてを容赦なく殺していく。
最初こそ璃久は止めようとした。だが――柏谷の狂気がもう聞き分けを持たないと悟ると、諦めたように肩を落とした。
むしろ今の状況では、柏谷のやり方のほうが沈静化しやすい。璃久は内心でそんな皮肉な結論に辿り着いていた。
やがて二人は、爆風で割れた石畳が散らばる大きな広場へと出た。
そこで、柏谷が唐突に足を止めた。
璃久は眉をひそめる。
「…なんだ、柏谷」
柏谷は牙のように歯を食いしばり、怒りを押し殺した声で吐き捨てた。
「……もー我慢の限界だ。なんでてめえなんかと一緒に行動しなきゃなんねんだよ」
「黙れ。これは任務だ。従わないなら強靭公への反逆にもなるんだぞ」
「はっ。てめぇだって思ってんだろ、俺となんざ組みたくないってよ。ならいいじゃねぇか。どうせ狂風卿も強靭公も見ちゃいねぇ。別行動したって文句は出ねぇよ」
柏谷は踵を返し、その場を離れようとした――
その手首を璃久が無言で掴む。
「そういう訳にはいかない。任務は任務だ。勝手な行動は―――」
最後まで言い切る前に柏谷の拳が顔面にめり込み、璃久は吹っ飛ぶように尻もちをつく。
柏谷は青筋を浮かべ、今にも爆発しそうな怒気を全身から噴き上げながら怒鳴った。
「汚ねぇ手で触れんじゃねぇドブカス!! いちいち突っかかってきやがって…昔っからてめぇのそういうトコが気に食わねぇんだよ!」
璃久は切れた唇の血を親指で拭いながら、低く返した。
「…お前もだ。自分が不快になればすぐを感情爆発させる。だから昔から誰にも好かれねぇんだよ。」
その一言に、柏谷の怒気は一気に火柱のように燃え上がった。
「……てめぇはやっぱ、あん時殺しとくべきだった。まあいい機会だ。この場で息の根止めてやる。」
璃久はゆっくり立ち上がり、片手を上げて制した。
「そんな暇ないだろ。いい加減にしろ柏谷。せめてやるなら任務が終わってからにし――」
乾いた銃声が、璃久の言葉を遮る。
璃久は反射的に身を逸らした。弾丸が後方の石壁に跳ねる。
柏谷は白煙を上げる拳銃を向けたまま、狂気じみた笑みを浮かべる。
「カッコつけて説教垂れんじゃねぇよ。俺がんなもん聞く気ねぇの、てめぇが一番わかってんだろ?」
さすがの璃久も、その発砲で堪忍袋の緒が切れたらしい。眉間に深い皺を刻みながら、静かに拳銃を抜く。
「……仕方ねぇな。無理やりにでも分からせてやるよ、クソ野郎。」
柏谷は犬歯を見せるように笑い、構えた。
「そうこねぇとなぁ、璃久ぁ゙!!」
***
―――同刻、ナポリ
「あーもう、そろそろヤバいかも。」
言真が、まるで渋滞にでもハマったみたいな調子でぼそりと呟いた。
「ヤバいって何がです?!」
沙紀は助手席から身を半分外に乗り出し、猛スピードで追ってくる少女の車に向けて容赦なく弾丸をばら撒く。
銃声の反動で肩が痺れる。だが後方の車はいっこうに怯む気配を見せない。
彼らの車はすでに満身創痍だった。
サイドはぶつけられてへこみ、窓ガラスはクモの巣状のヒビが走り、ボンネットは煙まで上げている。
「タイヤ撃たれた。後ろの二輪がもうパンクしてる。だからさ、次の角……曲がれるかどうかは、マジで運しだい。」
言真はハンドルを死ぬ気で抑え込みながら、軽く笑ってすらいた。
こんな状況でも余裕を崩さないのが、彼の不気味なところでもあり頼もしさでもある。
「運しだいって感じじゃないでしょ!? 絶対もう無理なやつでしょ!?」
沙紀が叫んでも、返ってくるのは言真ののんきな鼻歌だけ。
後部座席では、ルチアーナが浅い呼吸を繰り返していた。
さっきまで「別に平気よ……」と虚勢を張るくらいの余裕はあったが、いまでは頬が蒼白で、額には汗が浮いている。
「ルチアーナさん大丈夫!? ……って言うまでもなく大丈夫じゃないのはわかるんですけど!」
返答はない。
ルチアーナはまぶたを閉じたまま、喉がかすかに震えるだけだった。生きようとする意思だけが、細い糸のようにかろうじて彼女をつなぎとめている。
沙紀の胸は焦げつくように熱く、息が荒くなる。
それでも後ろを撃つ手は止められない。止めた瞬間、あの死神じみた少女に一気に追いつかれる。
追跡車との距離はわずか十数メートル。
ヘッドライトの光が、まるで獲物を逃がす気ゼロの猛獣の眼光みたいに、強烈に背中へ貼り付いてくる。
次の角まで——残り100メートル。
「狂風卿、まだいけますよね!? ていうかいけなきゃ死にますからね!?」
「んー……どうかなぁ。」
「どうかなぁじゃない!!」
言真はアクセルを踏み込みながら、ハンドルを握る手にほんのわずか力を込めた。
パンクした後輪がきしむ音が、車全体を揺らす。あと数秒で完全にバランスを失うだろう。理屈ではそうだ。
だが——言真はそんな危機を前にしても、口元にほんの薄い笑みを浮かべていた。
「沙紀ちゃん。飛び出す準備しといて。」
「ぶつかる前提なのやめてください!!」
「だって事実ぶつかるもん。」
「はあ!?!?」
言真が軽く息を吸う。
その瞬間、後ろの少女の車がさらに一段階加速した。
バンパーが触れそうな距離。いや——触れた。
金属が擦れる嫌な音。
追跡車が、こちらの車体の左後方へ噛みついてきた。
「うわっ来た来た来た来たッ!!」
角まで残り15メートル。このままでは本当に危ない。
沙紀は器用に助手席から後部座席へ移動し、ルチアーナを抱える。
残り10メートル。
パンクした後輪が悲鳴を上げ、車体が左右にぶれる。
追跡車の押し込みはさらに強烈になり、まるでこちらを角に突っ込ませて横転させるつもりそのものだ。
沙紀は後部座席でルチアーナを抱え込みながら、歯を食いしばった。
「狂風卿、早くしてください!! もう限界です!!」
「うん、知ってる。」
言真の声は、いつもの軽さの奥に、異様な集中の色を帯びていた。
残り5メートル。
追跡車が、ついにこちらの車体側面にゴリッとめり込むほど強く押し付けてきた。
鉄板が歪む音が、爆発みたいに車内へ響く。
「っ……!!!狂風、卿…!」
言真はハンドルを右へ——限界まで切った。
同時に、追跡車の押し込みを逆手に取るように、わずかにブレーキを踏む。
車体が急に後ろへ沈む。
その勢いで、追跡車は行き場を失い——
キィィィィィイッ!!
角の内側へ、勢い良く飛び出した。
「今だ、沙紀ちゃん!」
「っっ!!!!」
ドン、と車体が傾いた瞬間。
沙紀はルチアーナをしっかり抱え込み、壊れたドアを蹴り開けて飛び出した。
冷たい外気が一気に身体を叩く。
地面に転がりながら、ルチアーナを守るように抱え込む。
直後、乗っていた車が角を曲がりきれず、追跡車とともに派手にガードレールへ激突した。
火花と金属音が夜の街に散る。
沙紀は息を切らしながら顔を上げる。
「……狂風卿!!」
すると白煙の向こう、潰れた車の運転席から言真がゆっくりと、こちらへ近づいてきた。
口元だけで笑いながら。
「ワイルド・スピードみたいだったねぇ。なかなか楽しいドライブだった。」
その異常な落ち着きに、沙紀は怒りと安堵と恐怖がごちゃまぜになった顔で叫ぶ。
「もう…呑気なこと言ってないでください!!死にかけたんですよ今!!」
言真は肩を軽くすくめ、服についたガラス片をぽんぽんと払った。
その歩き方は、まるでコンビニ帰りの大学生みたいに気楽で、事故直後の人間とはまるで思えない。
「でも死んでないし? 結果オーライってこういう時に使う言葉じゃない?」
「ふざけてる場合じゃないですよ!!」
沙紀は怒りで声が裏返りそうになりながら、腕の中のルチアーナを見下ろす。
彼女の呼吸は浅く、顔は汗で濡れ、意識は戻らない。
「ルチアーナさんが……このままだと本当に…!」
言真の目が、その瞬間だけすっと細くなった。
冗談と軽口をすべて引き払ったような、底冷えする光。
「……うん。わかってる。」
低く、短く。
彼はすぐに沙紀たちの元へしゃがみ込み、ルチアーナの顔色、瞳孔、脈を手際よく確認していく。
驚くほど冷静で、そして迅速だった。
「体温、さらに上がってる。血圧も落ちてきてるなぁ……。これはあんまり時間ないね。」
「どうすれば……?」
沙紀が息を呑む。
言真は立ち上がり、大破した車の方へ一度だけ視線を投げた。
煙の上がる二台の事故車両から少女が出てくる気配はない。あれだけ派手に事故を起こしたのだから彼女が無事で済んでいるとは思えなかった。
言真は軽く息を吐き、沙紀の肩に視線を落とす。
「とりあえず運ぼう。新しい車盗ってから考える。」
淡々と言う。沙紀は無言で頷き、ルチアーナをそっと抱え直す。
言真は周囲をさっと一瞥し、歩き出した。
車は案外すぐそこにあった。大破した車から約三十メートル先で真っ黒なバンが無造作に路駐されていた。
後部は荷物で膨らんでいるが、人ひとり運ぶスペースは確保できそうだ。
言真は運転席の窓ガラスを指先でトントン叩き、にやりと笑う。
「さて、開け――」
その瞬間、ぞわっとした寒気が襲う。
言真と沙紀は瞬時に振り向く。沙紀は驚愕し、思わず言葉に詰まる。言真は呆れ半分で苦笑いした。
「…マジ?」
そこには、額から血を流した先程の少女が悠然と歩み寄ってきていたのだ。
「朽宮ぁ゙ぁ゙……!まだ死んでねぇぞあたしはぁ゙!!!」
少女はよろめくどころか、先程より足取りが安定していた。
むしろ——追い詰められた獣そのものの気迫が、暗い夜道に充満する。
沙紀はルチアーナを抱えたまま後ずさる。
「なんで…生きて…いや、生きてるどころか元気になってません!?」
言真は額へ手を当て、ため息混じりの笑いを漏らした。
「いやいやいや。あれだけの事故してピンピン歩いてくるの、普通にホラーなんだけど。」
少女は口の端を吊り上げ、血まみれの顔で歯を剥く。
「一戦やろうや朽宮言真ぁ゙!あたしぁさっきから興奮で濡れちまってしかたねんだよォ゙!」
その声は嗄れているのに、内側から湧き上がる熱だけが異様に濃い。
言真は眉をひとつ上げ、口元にゆるい笑みを浮かべた。
「随分頭のネジ飛んでるね。そんなに僕のこと好いてくれてるの?」
「ちげぇよタコ!勘違いすんな。あたしが惚れてんのはてめぇじゃなくててめぇの強さだよ!人のことショタコンみたいに言いやがって!!」
「ショタって見た目だけだけで、僕こう見えて三十路超えてるんだけどなぁ。」
「え?!」
驚いたのは沙紀だ。初耳だった。
少女は無視して続ける。
「だから言ってんだろうが!てめぇの身の上なんざ更々興味ねぇよ!!さっさと私と殺り合おうや、てめぇと殺り合えるってだけで最高にクるんだよ、朽宮ぁ゙!!」
少女の足取りが、怒りと快楽のあいだを揺れるようにふらつきながらも、その一歩ごとに地面を割るほどの圧を帯びてくる。
言真はというと、沙場に打ち上げられた貝でも見るような生ぬるい目で彼女を眺めた。
「いやまぁ……そっちがその気なら、ちょっとくらい付き合ってあげるけど……でもその前に――」
言真はちらりと沙紀へ視線を滑らせ、声を落とす。
「…先にルチアーナさんと車で行ってて。後で追いかける。」
「え、置いていけって言ってます? そんな……」
「沙紀ちゃんなら大丈夫。ほら、早く。」
そのやり取りを、少女が見逃すはずがなかった。
「なにヒソヒソやってんだコラぁ゙っっ!!!」
怒号と同時に、彼女の体は弾丸のように跳ねる。
重量の乗った拳が一直線に言真へ――
ドッ。
確かに捉えたはずの感触より先に、彼女の視界が横へ流れた。
言真の腕が、涼しい顔のまま側頭部を薙ぎ払っていたからだ。
小柄な身体のものとは思えない一撃に、少女は吹き飛ばされる。
だが空中でくるりと体勢を立て直し、両足で摩擦を刻むように着地すると、口元を大きく吊り上げた。
「……っは、やっべ……今の……ゾクッとした……!」
言真は軽く首を回し、筋を鳴らしながら、まるで準備運動の続きをするみたいな調子で言った。
「だから落ち着きなって。そんなに興奮しなくても相手くらいしてあげるよ。」
その一言で、少女の喉が歓喜にうわずる。
「上等だよォ゙……朽宮ぁ゙ぁ゙ぁッ!!!」
続く…




