78話 シチリア動乱 - 17 -
―――約1時間前、0時21分
「………どう、しましょうか…。」
直弥はそう呆然と呟く。
派手な装飾で埋め尽くされた部屋――妖しく光るシャンデリア、深紅のカーテン、床に転がった酒瓶と血の痕。
その混沌の中に取り残された二人の疲労は、隠しようがなかった。
璃久は長机の椅子へ静かに腰を下ろし、邪魔そうに血の入ったワイングラスを脇へどける。
指先でこめかみを押さえながら、小さく息を吐いた。
「……どうするもこうするもないだろう。あんな奴らの肩を持つ理由なんて、どこを探しても見当たらない。」
その声音は淡々としているのに、どこか投げやりだ。
「一般市民を人質に取られてるんですよ?!」
直弥は苛立ちを隠せないまま、璃久に詰め寄る。
「しかもそれだけじゃない! 核兵器なんか爆発しちゃえば、三次大戦だって起きるかもしれない! 本当に、人類の終わりですよ!」
璃久は視線だけを直弥へ向け、ゆっくりと言葉を吐き出した。
「――だったらなんだ。」
「……なんだ、って……」
璃久は息を短く吐き、真横に流していた視線をゆっくり直弥へ向け直した。
その瞳は静かだが、どこか張り詰めた鋼の光を宿していた。
「……八幡。お前は“見捨てる”って言ったな。」
直弥は唇を噛む。
璃久は椅子から身を起こし、重く続けた。
「人を助けるのは当然だ。俺だって好きで死なせたいわけじゃない。だがな――俺達は“全員を助ける”なんて甘い理想で動ける立場じゃない。」
「……っ」
「いいか。ADFの基本任務は魔族の殲滅だ。救助活動はあくまで副次的。国連や警察組織みたいに、綺麗に配られた使命で動いてるわけじゃないんだよ。」
直弥の眉が揺れる。
璃久は淡々と告げた。
「世界のどこかで数万人死ぬより、魔族が好き勝手続けて“地上そのものが更地になる”方が、よほど最悪だ。」
その口調には一切のドラマも誇張もない。ただ、事実として突きつけてくる冷たさがあった。
「……それでも……見殺しにするなんて……!」
「違う。」
璃久は机に片手を置き、静かに首を横に振った。
「“見殺しにする”んじゃない。“見殺しにされる状況を作らせるわけにはいかない”んだ。」
直弥の目が僅かに見開かれる。
「エンツォが魔族かどうかは確証がないにしても、人間離れしてる思考や行動を取っていることは明らかだ。あの血への執着、妙に研ぎ澄まされた反応、死体の扱い……どれも常識人だとは思えない」
「……じゃあ、やっぱり……」
「奴が魔族なら、人質はただの“素材”でしかない。核は“舞台装置”。そして三次大戦は“餌”だ。」
璃久は天井のシャンデリアを見上げ、小さく笑う。
その笑みには温度がなかった。
「――魔族の狙いは常に同じだ。混乱、破壊、歪んだ均衡。生界が燃え上がれば上がるほど、奴らは嬉々としてそこに巣を張る。」
直弥は拳を固めたまま、声を震わせる。
「……じゃあ、俺達はどうすれば……」
璃久はわずかに肩を竦めた。
先ほどまでより少しだけ柔らかい声で答える。
「綺麗事と現実の間に、もうひとつ道がある。」
「……え?」
「作戦を続行しつつ、一般人の死者を最小限に抑える。――それが現実の中の綺麗事だ。俺達が選ぶべきなのはそこだ。」
直弥は息を呑む。
璃久は、薄赤く染まったワイングラスを軽く指先で弾きながら、静かに言った。
「“全員を守る”なんて寝言は言えない。だが、みすみす三次大戦を引き起こさせるわけにもいかない。」
だが、璃久はそこで話題を変えた。
「―――八幡、教会での怪我は無事か。」
突然そう聞かれ直弥は一瞬困惑する。だが璃久はごく自然な動作で懐からメモの紙片とペンを取り出し、ノールックでそこに文字を書いた。
『カメラ かんし』
流石に文字は乱れてこそいるが、読めないわけではなかった。直弥はちらりと視線だけを動かし、部屋の角度・死角・カメラの向きを頭の中で組み立てた。
右45度に一台、左30度に一台、そして自分の背後、扉上部にもう一台。
合計三台。先程まで璃久が普通に話していたのは、カルヴァーニらが監視室に入るまでの猶予を考慮してのことだろう。
配置の意図は明白だった。逃走経路の全遮断監視。
璃久は、そうした状況を把握した上で、会話をすり替えたのだ。
「……まあ、俺はもう慣れてます。あの程度なら、實妥教官の訓練のほうがまだ痛かったですよ。」
直弥は、わざと軽い調子で返しながら、同じく瞬きで返す
璃久はゆっくり頷きつつ、ワイングラスの位置を自然と直弥の死角側へずらした。
その仕草の最中、彼はまた器用にペンを走らす。
『ひと し かくれる』
―――人?死?いや違う。
直弥は眉を僅かに寄せ、すぐに意味を掴む。
(“対人偽装死角”……ADFの隠語だ。カメラ監視下でも、わずかな角度で死角を作る……)
つまり璃久は、直弥に“こちらへ移動しろ”と示している。
そこなら敵に悟られずに、最低限の意思疎通ができる。
「……でも本当に助かりました。璃久さんが守ってくれなかったら、俺、あのとき――」
直弥はあえて大げさに身動ぎしながら、椅子に座り死角を作る。
そのわずかな動作で、背後カメラの視界から手元を外すことに成功する。
璃久の指先が卓上を軽く叩く。
モールス信号。符号は短い。
『ヨシ』
直弥の心臓が跳ねた。
璃久は、穏やかに微笑みながら、今度は声にほんの僅かな軍人の匂いを乗せる。
「……とにかく、八幡。油断するな。教会での負傷が軽く済んだのは幸運だ。だが―――この手の幸運は、二度続かないと思え。」
璃久は、直弥が死角に入り込んだほんの一瞬を逃さず、紙片にさらりと文字を走らせた。
『選択肢は二つ』
直弥は、眉ひとつ動かさない。
ただ呼吸を整えるふりをしただけで、視線は微塵も紙片へ向けていない。
「分かってます。……次は、運じゃなくて、自分で切り抜けます。」
璃久は穏やかに相槌を打つ。
「いい意気込みだ。…さて、話を戻すが、俺達はどうすべきなんだろうな。」
淡々とした声。普段と何も変わらない。
しかしその手元では、紙片にさらに文字が刻まれていた。
『ここカルタジローネに残り
イル・サングエ・ロッソの抗争の隙をついてカルヴァーニを殺すか、
ローマに出向き核テロを防ぐか。
それはお前が選べ。』
直弥は紙片を見た様子もなく、ただ軽く肩をすくめて答える。
「カルヴァーニに協力するか…ですよね。」
声色は迷いを丁寧に演じている。監視カメラ向けの芝居だ。
璃久も合わせる。
「そうだ。俺自身、やつに協力するのは少々不安なんだが…八幡はどう思う。」
手元では、璃久の指が紙片を折って隠し、一文を加える。
『動くなら今しかない』
直弥は、考え込むふりをしながら、声のトーンをわずかに揺らした。
「……正直、判断が難しいです。」
どちらへでも転がせる返答。
これなら監視側にも迷っているとしか見えない。
璃久は、それを受けて深く頷きながら、あくまで上官の顔をして言葉を続けた。
「まあ、迷うのは当然だ。任務か、人命か。どっちか一つなんて――普通は選べねぇよ。」
と同時に、彼の指先は卓上メモへ滑り、音を立てずに素早く文字を走らせる。
『お前が決めれないなら俺が決める
俺はここに残ってカルヴァーニを殺す
お前は隙をついてローマへ行け』
紙の位置は、カメラの角度から完全に死角。
璃久は、それを読んだかどうか分からない表情で、直弥を見つめる。
直弥は胸の奥で息が跳ねるのを抑えつつ、自然に続きを返す。
「……璃久さんは、どっちを取るんですか。」
璃久は目を細め――あえて時間を置いてから答えた。
「俺か? …そうだな。」
グラスの脚を指で弾く。
「選べと言われたら――任務だ。」
璃久はまったく視線を動かさない。直弥は机の下に手を忍ばせ、爪先で机をたたき短くモールス信号で小さく応えた。
『了解』
璃久はまったく視線を動かさず、切り替えるように一度手を叩いた。
「……まあ、悩むなら今のうちだ。どうせすぐ、決断を迫られる。」
一旦休もう、と彼はメモを自然と懐へとしまい、椅子から立ち上がって部屋奥にあるソファーへ横になった。璃久のその様子を眺めていると、直弥も自然と疲れを感じた。璃久のように横にならずとも、少し休んだほうがのちのためにもなる。
直弥は深く息を吐き、背もたれに体重を預けた。
天井の中央で、煌々と光を放つシャンデリアがゆっくり揺れている。
その光は豪奢なはずなのに、どこか眩しすぎて――いや、刺さるように冷たかった。
(……本当に、どこで間違えたんだろうな)
ふと、そんな考えが胸を過った。
数ヶ月前までは、どこにでもいる日本の高校生にすぎなかった。
進路のことを悩んで、横井とくだらないことで言い合いをして、家に帰れば母親の煮込みの匂いがして。
そんな、取るに足らない日常こそが自分の世界だった。
それが――鳴矢高校事件の日を境に、全てが反転した。
世界の裏側を覗かされ、魔族と人類の戦争を知り、ADFに拾われ、
今ではローマで起きるかもしれない核テロを“秘密裏に阻止する”という、
もはや冗談のような任務の渦中にいる。
考えてみれば、荒唐無稽にもほどがある。
だが、人間万事塞翁が馬という言葉があるように、
幸福と不運は背中合わせで、いつどちらに転ぶか分からない。
自嘲とも苦笑ともつかない感情が喉の奥で渦をまく。
ADFに入ってからというもの、命の値段は“等価”ではなく、“戦力の価値で変動する”という現実を突きつけられ続け、訓練では死角の作り方から、室内で息を殺す術、侵入者を静かに仕留めるナイフの角度まで叩き込まれた。
(あの頃の俺が聞いたら、絶対信じないだろうな)
シャンデリアの光は、まるで舞台照明のように煌めいていた。
だがその舞台に立たされている役者は、直弥自身だ。
しかも台本はなく、間違えれば命も未来も世界も吹き飛ぶタイプの舞台。
(……はは、笑えない)
視界の端では、ソファーに横たわった璃久が呼吸を落とし、
まるで眠っているように静かに目を閉じている。
ただ――その腹部に置かれた指先は、わずかに緊張を帯び、
眠っているようで、実のところ半覚醒状態で周囲を警戒しているのが分かった。
(……すごいや、やっぱり。あの人は本物の戦場の人間だ)
そう思いながらも、直弥はまたひとつ深い呼吸を落とした。
(じゃあ俺は……?)
自分も、もうあの頃の普通の高校生ではない。
この数ヶ月で、どれほど変わってしまったのか。
――鳴矢高校事件の出来事が、鮮明に頭をよぎる。
横井に化けた魔族が、クラスメイトのほぼ全員を惨殺され、
血と炎に巻かれた教室で、ただ呆然と亡き父の肩を揺すり、
その教室から、自身を救い出した体育教師が廊下で撃たれ、
あの路地で、母のあまりに凄惨な死体と昏睡する楓を見て、
そこで初めて、魔族の死骸と桜田風音の本当の姿を目撃し、
そしてそのたった数時間が、後の人生を大きくひっくり返した。
そこからは怒涛のような裏世界で、ただ生き延びることで精一杯だった。
PTSDに沈む暇すらなかったのは、ADFという組織の苛烈な現実主義ゆえだ。
(……もう戻れないんだろうな。たとえ全部が終わったとしても。)
その思いは、冷えた鉛のように胸の底へ沈み、じわりと広がっていく。
シャンデリアの光が、ぼんやりと滲んだ気がした。
自分の人生が、かつての線路から外れ、音を立てて別の方向へ進んでいく。
その継ぎ目を、直弥はただ静かに見つめ続けていた。
続く…




