77話 シチリア動乱 - 16 -
―――1時46分。
「……なーるほどねぇ。」
朽宮言真は、顎を手の甲で支えながら、ゆるく息を吐いた。
まるで他人事のような声音だったが、その瞳だけは妙に冴えている。
彼の正面では、ルチアーナが椅子にもたれかかっていた。
包帯越しに滲む血が、淡い灯りの下で黒ずんで見える。
修道院での惨劇――サンティスの怒り、そして黒い獣。
それらを語り終えた彼女の息は浅く、どの言葉もかすれていた。
「……以上が、あの修道院での一部始終だ。」
ルチアーナはそう言って、わずかに息を整えた。
その声はかすれ、まるで喉の奥に砂を詰められたようだった。
三田沙紀が、無言で差し出したマグカップをそっとルチアーナの前に置く。
「無理して話すことなかったのに。まだ熱引いてないんですし。」
ルチアーナはそれでも首を振った。
「……それでも放ってはおけない。あの怪物が、ただの化け物ではないとわかったからだ。」
言真は、その言葉にわずかに口角を上げる。
「“ただの化け物ではない”、か。まぁ、確かに魔族は賢ければ賢いほど人間の弱みに付け込む。だからこそその魔族は、彼女の中で“感情”を具現化させたような頼れる存在になったのかもね。」
沙紀が眉をひそめた。
「感情の具現化?」
「――悪意そのものだよ」
言真がそう言い、指先で机を軽く叩く。
「憎しみも悔恨も、十二年分溜め込めば、そりゃ嫌でも形にしたくなる。あのサンティスという女は、それを“罰”と呼んだんだろう。」
沙紀はゆっくりと、ルチアーナの顔を見やった。
「……でも彼女は、最後に泣いていたんですよね?」
ルチアーナは静かに目を伏せた。
「…ええ。」
静寂が落ちる。
言真は目を閉じたまま、ふと笑みを浮かべた。
「――綺麗だったろ。人は壊れるときほど、いちばん人間らしい顔をする。」
その笑いが本心か、嘲りか、誰にも読めなかった。
ルチアーナは何かを言いかけたが、熱に浮かされたように言葉を失う。
まぶたが重く、視界が滲んでいく。
「……朽宮言真……あの獣が、もしまた現れたら……」
「安心しなよ。」
言真は立ち上がり、背を向けたまま答える。
「そのうち、奴は必ず僕らの前に現れる。」
その背中に、どこか嗤うような、あるいは祈るような気配があった。
「そんなの…確証がないだろう…」
ルチアーナは辛そうな声で言う。
「いいや? 確証はある。」
言真は振り返らずにそう言った。その声音はいつになく静かで、冷ややかな熱を帯びていた。
「……どういう意味だ?」
ルチアーナは息を詰める。
言真は、ゆっくりと彼女の方へ振り向いた。
その目に宿る光は、まるで暗闇の底でひとつだけ燃え残った燐光のようだった。
「僕達が何者かは、沙紀ちゃんから聞いただろう? 魔族にとって僕達ADFは目の上のたんこぶ、要は邪魔者でしかない。サンティスを仲間に引き入れたその魔族の目的は知らないけど、それを達成するにはまず障害物を排除しなければならない。真っ先に狙われるのは、僕達のようなADF構成員なんじゃないかな。」
言真はそう言いながら、わずかに目を細める。
「まあ――ただな。」
彼は椅子の背にもたれ、軽く息を吐いた。
「ここシチリア島にいる構成員は、僕達以外にも四人いる。各二人ずつ、君たち三大マフィアの中に潜り込んでいる。魔族が誰か分からない以上、そっちが狙われる可能性もある。というより、確率論的にはそっちのが高い。それに―――」
そう言うと、言真はどこからかテレビのリモコンを取り出し、スイッチを押した。
映し出されたのは、シチリアのニュース番組。
街頭インタビューのざわめきの裏で、緊迫したアナウンサーの声が響く。
『――ポッツァーロ郊外、そしてカルタジローネ付近で、ファミリア・ディ・サングエ・ドーロとイル・サングエ・ロッソの両組織が衝突したとの情報が入ってきました。現地ではすでに複数の銃撃戦が確認されており――』
「……抗争、って……」
ルチアーナは画面を凝視したまま、唇を震わせた。
長い昏睡のせいで、現状を把握しきれていないようだった。
「――見ての通り、すでに二組織間で抗争が起きてる。これが魔族の意図したものなのかはまだわかんないけど…まあ、十中八九関わってるだろうね。そうなるとやっぱり可能性は高い。だからこそ僕達も、その抗争の渦中に身を投じる必要がある。」
言真はテレビに映し出される映像を見ながらそう言う。
ただでさえ血の気のないルチアーナの顔はさらに青ざめ、彼女は脱力したように椅子の背にもたれかかった。
「……終わりだ。もう、イタリアは……終わった……」
「…そんなに……まずいんですか?」
沙紀がそっと彼女の肩を支えながら問いかける。
「……ああ。」
ルチアーナの声は低く掠れていた。
「イタリアだけじゃない。ヨーロッパ――いや、世界全体が混沌の渦に呑まれる。」
沙紀が思わず言葉を詰まらせる。
「……そんな、大げさな……」
「大げさなんかじゃない。」
ルチアーナは震える手で額を押さえ、ゆっくりと顔を上げた。
その瞳の奥に宿る恐怖は、言葉より雄弁だった。
「なぜなら――」
わずかな沈黙の後、彼女はかすれ声で告げる。
「――エンツォ・カルヴァーニ……ファミリア・ディ・サングエ・ドーロは……核を、二発――保有してるのよ…」
***
―――1時11分
「さて、腹は決まったかぁ?」
カルヴァーニは欠伸を噛み殺しながら、尋問屋とルカなる少年を従え、約一時間ぶりに姿を現した。
八幡直弥と熊野璃久は、その男を睨みつける。
「おいおい、んな怖い顔で睨むんじゃねぇよぉ。」
シャンデリアの光がカルヴァーニの顔を照らす。
その笑みは軽蔑と余裕の入り混じったものだった。
彼は先程の血濡れたバスローブを脱ぎ捨て、今はベストに金の刺繍をあしらった豪奢な服装を纏っている。
まるでこれから晩餐にでも赴くかのような気楽さだった。
「――んで、どうすんだ?俺達に協力するのか、それとも、変なプライドにしがみついてローマ市民二百七十五万人を見殺しにするのか。」
直弥は隣の璃久と視線を交わした。
一時間に及ぶ話し合いの末、答えは出ていた。
だがその言葉を口にする瞬間だけは、喉が焼けるほど重たかった。
璃久が、ゆっくりと頷く。
その微かな動きが、最後の引き金になった。
「……協力する……」
「そうこねぇとな。」
カルヴァーニはわかりきっていたと言わんばかりに鼻で笑い、背後のソファに無造作に置いていた服を投げた。
黒のスーツに白いワイシャツ、スラックス、そして黒のネクタイ。
「協力するってんなら、おめぇらはもう俺の組織の一員だ。んな軍服のままじゃ締まらねぇだろ。形だけでも、“こっち側”になってもらわねぇと。」
彼の声には冗談めいた軽さが混じっていたが、その瞳だけは一切笑っていなかった。
直弥は無言のまま床に落ちたスーツを拾い上げる。
その動作を、カルヴァーニはまるで試すようにゆっくりと目で追った。
「今、イル・サングエ・ロッソの連中がこっちに攻め込んできてる。」
彼はポケットから葉巻を取り出し、火を点ける。
炎が短く揺れ、煙の輪がシャンデリアの光の中に滲んだ。
「あと二十分もすりゃ開戦だ。軍も警官も巻き込んだ、立派な大戦争だぜ。今夜のシチリアはな、聖者も悪党も関係なく、灰になる。」
直弥はスーツを握る手に力を込めた。
「……なぜ、そんなことをする必要があるんだ。」
カルヴァーニはゆっくりと笑う。
だがその笑みには、どこか虚ろな影が差していた。
「必要? ――違ぇよ、ナオヤ。これは“浄化”だ。」
カルヴァーニはゆらりと立ち上がった。
葉巻の灰を靴先で落とし、まるで舞台の幕を上げるように両手を広げる。
「血で汚れた街は、血でしか洗えねぇ。ローマも、パレルモも、ナポリもな。結局、誰もが腐っちまった。政治家も、聖職者も、市民も。俺らマフィアだけが、まだ“自分の欲”に正直な分マシってもんだ。」
璃久が唇を噛みしめる。
「それで、お前は街を焼くっていうのか……正気じゃない。」
「だからさっきも言ったろ。正気なんか微塵も残ってねぇって。」
カルヴァーニは肩をすくめ、天井を見上げた。シャンデリアの光が瞳に反射して、氷のように冷たく光る。
「世界はとっくに狂ってる。だったらせめて、俺は自分の狂い方を選ぶ。」
一瞬、沈黙が落ちた。
外から微かに、遠雷のような爆発音が響く。窓の外、シチリアの夜がざわめき始めていた。
「――今のは?」
「…恐らく、スカラーレの連中かと。」
ルカがそう答えた。
カルヴァーニは葉巻を噛みしめ、二人を見下ろす。
「予想より随分早かったな。…さあ、“協力する”ってんなら見せてもらおうか。おめぇらの覚悟を。」
その声は、笑っているのか怒っているのか分からないほど静かで――
部屋の空気が、一気に張りつめた。
***
直弥はスーツの袖を通しながら、手が震えているのに気づいた。布地は思ったよりしっかりしていて、肩のラインが自分の身体を一つ大きく見せる。鏡越しに見える顔は、やつれたままの十七歳だ。だが、黒いネクタイを結ぶと、突然別人の顔がそこに立っているような錯覚に襲われた。
璃久は笑みを浮かべるでもなく、黙って自分のシャツに手を入れてボタンを留めた。目の奥に残る光は消えない。二人とも、今していることが「裏切り」なのか「生き残るための選択」なのか、まだ言葉にできていない。
カルヴァーニは部屋の片隅に用意された小箱を取り上げ、中からバッジと革の手袋を取り出した。バッジは紋章のように凝った金細工で、中央には血の滴を模した小さなルビーがはめ込まれている。彼はそれを直弥に差し出しながら、楽しげに言った。
「これを胸に付けると、もう後戻りはできねぇ。けど安心しろ。腕立て伏せ十回で絆が深まるような、そんな幼稚なもんはここにはねぇ。代わりに、お前の一番大事なもんを預からせてもらうだけだ。」
直弥は受け取る手を一瞬躊躇させたが、指先が金属に触れた瞬間、何かが固まるのを感じた。冷たさが、決意に変わるわけではない。ただ、現実の重さが増した。
ルカがそっと近寄り、小声で報告する。窓の外、通りが完全に制圧されつつあり、イル・サングエ・ロッソの旗印が見える地点まであと数分だという。彼の声はまだ少年の高音を残しているが、そこには任務遂行者の冷たさが宿っていた。
「予定通りだな。奴らがここまで来れば、あとは火の玉だ。よし、なら…」
カルヴァーニは言葉を切り、直弥の瞳をまっすぐに捉えた。部屋の奥の古時計が一刻ごとに重く時を刻む。二つ、三つ、四つ──その音が、空気を裁つように広がる。
「――おめぇらが主導で奴らを迎え討て。さっき言った条件も忘れずにな。んでその間に、ルカを筆頭に多勢でポッツァーロ方面に展開。どうせスカラーレの考えることだ。物量に物言わせて後ろから叩きゃ総崩れになると思ってんだろ。そこで出鼻を挫くためにも、主要な上陸部隊を皆殺しにして、シマの分断を回避すると同時に戦力を大幅に削ぎ落とす。」
尋問屋の顔に薄い笑みが走るが、声は冷たい。
「軍や警察ももちろん介入してきやがると思いやすが、それはどうするんです?」
カルヴァーニは葉巻の先を軽く指で押しつぶすようにして、飄々と答えた。
「皆殺しにしちまえ。どうせ血税でしか生きられねぇ連中だ。邪魔する奴は片っ端から潰す。後始末が面倒なら、始めから消しておけ。」
その言葉の重みが、直弥の胸を深く突いた。璃久の肩が小さく震えるのが見える。
直弥は無言でスーツのボタンをはめ直す。手が微かに震えていたが、動作は確かだった。
ルカが部屋のドアに近づき、外の喧騒に耳を傾ける。窓の向こうでは遠くに光の閃きと、けたたましいサイレンの断片が交互に走った。時間はもうない。
カルヴァーニは一瞬だけ口角を上げ、冷ややかに答えた。
「お前らの命も、地位も――今夜次第だ。生き残りたきゃ、手を汚せ。でなきゃローマと一緒に灰になれ。」
沈黙の後、直弥は深く息を吸った。決心は固い。だがその瞳には、消えない迷いと怒りが残っている。
「………分かった」
カルヴァーニは満足げに頷き、扉を指差した。
「行け。今夜は長ぇぞ。覚悟しとけよ。」
二人は立ち上がり、部屋の外へと歩を進めた。廊下に出ると、夜の空気は既に鉄と硝煙で満ちていた。時計がまた一つ、時を刻む。外では爆発が一つ、また一つ――夜が牙を剥き始めている。
彼らの目的はただ一つ。
混乱に乗じ―――エンツォ・カルヴァーニを暗殺し、同時にローマを危機から救う。
続く…




