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人魔闘諍  作者: ゆっけ
第肆章
77/113

76話 シチリア動乱 - 15 -

 ―――約3時間前、22時11分


「この修道院も、随分とガタが来たもんだな……」


 騒がしい準備の音が渦巻く中、隣で幹部の一人が、雨漏りの滴る天井を呑気に見上げて言った。


 かつて威厳と静粛を司った聖域は、今や仮設拠点として荒れ果て、石壁には銃痕、床には泥と散乱した弾薬箱。

 廊下の先では武装した構成員が走り回り、通信機からは焦燥に満ちた声が響いていた。


 ラ・ローザ・ネーラ。

 イタリア最大の、いやヨーロッパでも指折りの犯罪組織。

 その影響力はシチリアに留まらず、カラブリア、バジリカータ、カンパーニャ、そしてサルデーニャ島全域にまでおよび、物資も資金力も他のマフィアとは一線を画す。


 その頂点に立つ女——ルチアーナ・ヴェローネ。

 だが彼女は、腕を組み、静かに薄闇を見つめていた。


 この喧騒の中心にいても、胸の奥には妙な空洞があった。


 組織が大きくなるほどに敵は減り、争う相手もいない。

 かつては命を賭けて駆け上がる道だった頂点は、気づけばただただ自身の称号の一つに変わっていた。


 本来、彼女は王冠を欲する性分ではなかった。

 ただ、周囲が彼女を押し上げた。

 戦後の取り締まり強化と、抗争の過激化で組織は弱体化し、若くして有能な彼女に期待が集中した。


 そして期待は重荷となり、重荷は気づけば肩に食い込んでいた。


(……勝手なものだな)


 黒い薔薇の名を掲げる組織を率いながら、彼女の心は色を失っていた。


 静かに、虚無だけが根を張る。栄光の重さは、いつの間にか鎖と変わっていた。


 …刺激が欲しい。なにか自身を奮い立たせる、大きな刺激が欲しい。抗争などというありふれたものではない。もっと、自分でも想像が及ばないような、そんな刺激が―――


 その時、無線がぶち切れたように鳴り、興奮した男の声が耳に飛び込んできた。


『――首領!おもしれえ女、捕まえやしたぜ!』


 ルチアーナは眉をひそめ、半ば呆れたように返す。


「…あ?面白い女?私は別に、女を襲う趣味なんてないわよ。」


 無線の向こうで男は必死に言い訳するように声を張る。


『ちげえっすよ、首領!そ、そういう意味じゃねぇっす!すぐ連れていきやす!』


 一方的に無線が切られた。傍らの幹部が顔をしかめ、ぼそりと呟く。


「…首領に向かってあの口の利き方。どうします?解体バラしますか?」


「いい。」


 ルチアーナの短い返答は、乾いた空気を一瞬で張り詰めさせた。


 幹部は無言で頷き、指先で無線のスイッチを弾く。裏方の男たちが素早く散っていき、古びた修道院の闇へと身を溶かした。


 ルチアーナはその様子を冷ややかに眺めつつも、内心ではじわりと期待が膨らんでいた。

 くだらない抗争でも、うんざりする会合でもない。

 予測不能な“何か”が、こちらに向かっている。


「――で、そいつはどんな女なんです?」別の幹部が低く笑いながら尋ねる。酔いと油断の香りが漂う声。


「『見れば分かる』、と。」無線を扱っていた男が答える。


「見れば分かる、ねぇ…ハッ、肩透かし食わせたら海に沈めてやるぜ。」


「おう、俺も手伝うわ。」


 下卑た笑いが部屋を汚す。しかしルチアーナの視線は動かない。

 笑い声の向こうにある、微かに胸を掠める違和感だけが残った。


 ――忘れている何かがある。

 ――それは、重大なことのはずだ。


 だが、その正体を掴むより早く、重い扉がわずかに軋んだ。


「お、お待たせしやした……!」


 息を上げた部下が現れ、その後ろに黒い影が静かに続く。


「おいおい、首領に直接連絡よこすってこたぁ、それほど重大な出来事なんだろうなぁ?」


 幹部が薄笑いを浮かべる。

 だが次の瞬間、その口は音もなく閉じた。


 足音は静か。

 冷たい空気が流れ込む。

 闇の奥から、細いヒールの音がひとつひとつ響くたびに、部屋の温度が落ちていく。


 姿を現した女を見て、全員が息を呑んだ。


 黒いドレスを纏い、赤縁のメガネに真紅のリップ。肩まで伸びる髪をタイトに束ね、その端正な顔立ちには似合わないほど冷たい瞳…


 ルチアーナの喉が震え、声にならない声が漏れる。


「……サン、ティス……」


 その名は、希望ではなく亡霊のように室内に落ちた。


 女―――エレオノーラ・デ・サンティスは、真っ直ぐに首領を見据え、平然と答えた。


「――お久しぶりです、首領。」


 一瞬の沈黙ののち、周囲が一斉に沸き返った。


「サンティス……お前、生きてやがったのか!」

「今更来て何様のつもりだ!」

「裏切り者め、今さらどんな言い訳を並べるつもりだ!」

「始末しろ!」


「黙れ!!」


 ルチアーナが一喝すると、怒号はたちどころに掻き消され、部屋は凍りついたように静まり返った。


 サンティスは表情一つ変えず、ただただルチアーナただ一人を見つめる。ルチアーナは少し落ち着いた口調で語りかけた。


「…サンティス、何しにここへ来た。」


「過去の精算ですよ。」


 サンティスは一歩、二歩とゆっくりと前へ進む。その足音だけが、石造りの床に乾いた音を立てる。


「貴女も覚えておいででしょう。12年前の夜、貴女ご自身の命令によって私の夫と子供は殺されました。その結果私は世界でただひとり、誰からも愛されることなく路頭に迷うこととなりました。」


 ルチアーナはゆっくりと立ち上がり、静かに言葉を返す。

「……そうか。復讐に来たわけか。」


 サンティスは僅かに微笑んだ。その笑みには哀しみも怒りもなく、ただ深い虚無だけが滲んでいた。


「首領、貴女はこの言葉を知っていますか?」


 サンティスは、冷ややかな目のまま続けた。


「――“因果は巡る”。あの夜、貴女が下した命令は、私の中で腐らずに生き続けてきた。時間が癒すなんて嘘だ。理性で覆い隠した傷ほど、形を変えて牙を剥く。」


 彼女は胸元のペンダントを、そっと握りしめる。


「私はあの瞬間、全てを失った。だが貴女は何も失わず、ただ“必要な犠牲だった”と片づけた。その理屈の上に築かれた秩序を、私は正面から否定しに来たのです。」


 ルチアーナは眉一つ動かさず、その言葉を受け止めるように瞼を伏せた。

「……違う、私は……」


「何も違わない。」サンティスの声は低く澄んでいた。

「貴女がどう思おうが、私が貴女に人生を狂わされたのは変わりない。」


 沈黙。

 どこか遠くで鐘が鳴り、二人の間に積もった年月を震わせた。


 ルチアーナは唇をわずかに噛み、目を逸らした。

 その一瞬の沈黙に、かつて「上官」と「部下」だった頃の面影が滲む。


「……サンティス。あの作戦は、私個人の意思ではなかった。」

 その声は、かつて命令を下す時のそれではない。迷いを孕んだ、人間の声だった。


 だがサンティスは微かに首を振る。

「“組織の決定”という盾に隠れるのですか? あの夜、引き金を引いたのは他人でも、命じたのは紛れもない貴女だ。」


「それでも――私は、あなたを見捨てたくなかった。」


 ルチアーナの言葉に、サンティスの眉がわずかに動いた。

「見捨てたくなかった? それなら、なぜ私は生き地獄の中で十二年も息をしてきたのです。なぜ誰も、私を助けに来なかった。」


 ルチアーナは一歩前に出た。

「探したとも。どれだけ血を流しても、貴女の痕跡は残らなかった。……お前が行方不明となり、のちに死んだとされた時、私は初めて深い後悔に囚われた。」


 サンティスはその言葉を、まるで遠い他人の話のように聞いていた。

 やがて、静かに笑う。


「――本当に、都合のいい人間ですね。ならなぜ貴女は今でもその腐った組織に身をおいているのです。言っていることとやっていることが矛盾しているのですよ、貴女はいつも。」


「それは…」


 ルチアーナは言葉を詰まらせた。

 喉の奥で何かが引っかかるように、声が出ない。


 サンティスは一歩近づく。靴音が、冷たい床に規則正しく響いた。

「答えられないのですね。あなたは秩序を守ると言いながら、その実、自分の居場所を守りたかっただけだ。――“正義”という名札を貼れば、人はどんな罪でも見過ごせる。」


「違う……私は、そんなつもりでは……」


「ならば、何のつもりだったのです?」

 サンティスの声がわずかに低くなる。

「見殺しにした者たちを踏み台にしてでも、“組織”の名の下に立っていたかったのですか? あなたはあの夜、神を気取った。いっときの愉悦感から、善人を慈悲無く裁く側に回った。その傲慢さが、私の全てを壊した。」


 ルチアーナは拳を握りしめた。

 指先から血が滲む。

「……お前の言う通りだ。私は矛盾している。赦されるはずもない。だが――それでも私は立ち続けねばならなかった。私がこの座を降りれば、権力分布はみるみるうちに変わる。それこそ、一般市民をも巻き込む抗争になるんだ。」


 サンティスの目がわずかに揺れる。

 その揺らぎを見逃さず、ルチアーナは続けた。

「小さな犠牲を選ぶことは、決して正義ではないと分かっている。だが、誰も選ばぬなら世界は崩壊していた。私は、あの夜その“間違った正しさ”を引き受けた。」


 沈黙。

 サンティスは視線をわずかに下げ、視線を床に落とす。

「……間違った正しさ、ですか。そんな言葉、ずるいですよ。」


「そうだな。」

 ルチアーナは小さく息を吐いた。

「ずるくて、惨めで、それでも――あれが私にできた唯一の選択だった。」


 サンティスは静かに顔を上げた。

 その瞳には、怒りでも涙でもなく、言葉にできぬ深い空洞があった。


「――なら、私の“間違った正しさ”も、貴女は受け入れてくださいますね。」


 ルチアーナの表情がわずかに凍る。

 サンティスは懐から銃を取り出し、その銃口をゆっくりと彼女へ向けた。


 周りの構成員は動揺し、皆サンティスに銃口を向ける。緊張が走るが、彼女は動揺した様子もなく続ける。


「あの夜、貴女が選んだ“必要な犠牲”を、私は今日、ここで再現するだけです。因果応報――美しい循環でしょう?」


「サンティス……それで、お前の心は救われるのか。」


「救われませんよ。」

 彼女の声は淡々としていた。

「救いなど望んでいない。ただ、均衡を戻すだけです。貴女が壊した天秤を、再び水平に戻す。」


 その言葉に、ルチアーナは小さく首を振った。

「均衡なんてものは、もとから存在しなかった。人はいつだって、誰かの悲鳴の上で立っている。」


「なら、私はその“悲鳴の番”を貴女に譲るだけです。」


 乾いた音が室内を裂いた。

 弾丸はルチアーナの頬を掠め、背後の石壁にひびを刻む。


 サンティスの手が震えていた。

 涙ではなく、記憶の重さに。


 幹部含め、構成員は皆怒気をあらわにしながら引き金に指をかける。だがルチアーナはそれを静止した。


 彼女は動かなかった。

 ただ静かに、撃たれる覚悟を湛えた眼でサンティスを見据える。


「……好きなだけ撃てばいい。だがその弾は、私だけでなく――お前自身をも貫くぞ。」


 サンティスは嗤うでも泣くでもなく、ただ苦しげに息を吐いた。

 そして銃口を下ろし、掠れた声で呟く。


「……やっぱり、貴女はずるい人だ。」


 その一言が、鐘の音のように、長く、重く響いた。


 その様子を見て、周りの構成員は彼女を取り押さえにかかる。すると…


「な、なんだ……!?煙か!?」


 背後の闇が蠢く。

 黒い靄が滲み出し、床を這うように広がっていく。

 幹部たちが慌てて銃を構える。


 靄の中から、低く唸るような音が響いた。

 それは人の声ではない。獣ともつかぬ、不気味な音。


 サンティスは焦ったように振り返り言う。


「ま、待って!モリス!!」


 だが、その言葉は虚しく響くのみであり…


 傍らにいた男の首が、黒いひとつ目の獣に食い散らかされ、赤黒い血飛沫が舞った。


「な…なっ…!!」


 構成員たちは総崩れとなり、皆腰を抜かして後退りするが、もう遅かった。

 皆首を噛みちぎられ、爪で引き裂かれ、押し潰される。


 修道院は一気に地獄と化した。

 血がただ床を、壁を、天井を、そして他の死体を染め上げる。怒号は絶叫に変わり、銃声は時間が経つに連れ少なくなる。


 血と油の匂いが、まるで祈りの代わりのように修道院を満たしていく。

 聖母像は砕け散り、硝煙と鉄錆の匂いが混じり合い、空気は息をするたびに肺を焼いた。


 サンティスはその惨状の中で、呆然と立ち尽くしていた。

 彼女の頬には血の飛沫が散っているが、拭うことも忘れていた。


「モリス!やめて!」

 声は震え、懇願というよりも祈りに近かった。


 だが黒い獣は止まらない。

 形を変えながら、次々と新たな死体を生み出していく。

 それは怒りそのものの具現――サンティスが抱え続けた十二年分の呪いを具現化したような怪物が、今まさに牙を剥いていた。


「……やりやがったな、お前……!」

 ルチアーナが低く呟く。

 銃を拾い上げ、震える手で照準を合わせる。


「貴女にわかるものですか!」

 サンティスは叫んだ。

 その声に、黒い獣が反応したかのように唸りを上げる。


「私はただ、奪われたものを取り戻したかっただけ……! 愛された記憶を、帰る場所を、私の世界を!」


「お前の中にあるのは憎しみだけだ!」

 ルチアーナの声が鋭く響く。

「復讐は何も解決しない! お前は何故それが理解できない!!」


 サンティスは歯を食いしばり、震える唇を噛み締めた。

 足元に絡みつく黒い靄が、まるで彼女を地の底へと引きずり込むように蠢く。


「……これは罰なんだ……貴女の、そして私の……」


 その言葉と同時に、黒い獣が咆哮した。


 ルチアーナは息を呑み、思わず引き金に指をかける。

「――サンティス!!」


 次の瞬間、黒い獣が閃光のように跳ねた。

 抵抗する間もなく、鋭い爪がルチアーナの肩口を裂き、鮮血が飛沫の弧を描く。


 痛みよりも、焼けるような熱が先に襲った。

 ルチアーナは呻き声を漏らしながら床に倒れ込む。

 石畳の冷たさが、皮膚の奥で暴れる熱を辛うじて抑えていた。


 視界の端で、サンティスが立ち尽くしている。

 その表情は絶望と恐怖の狭間で凍りついたままだった。


 ――やめろ、と声を出そうとする。

 けれど、唇は震えるだけで音にならない。


 薄れゆく意識の中で、ルチアーナは見た。

 サンティスの頬を伝う涙が、静かに一雫、地に落ちるのを。


 続く…

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