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人魔闘諍  作者: ゆっけ
第肆章
74/112

73話 シチリア動乱 - 12 -

 ―――0時21分


 背後で銃声がけたたましく反響した。石壁に弾が跳ね、火花が散る。雨に濡れた夜気を裂いて、怒号と無線の雑音が追いすがる。


 沙紀と言真は、女の身体を支えながら細い路地を駆け抜けていた。


 狂風卿――朽宮言真は、肩にぐったりとした女を担ぎ上げたまま、まるで散歩でもしているかのような足取りであった。濡れた路地を跳ねる靴音も軽く、背後から響く銃撃さえ背景音にしか聞いていないように、鼻歌すら口ずさむ余裕すらある。


 一方の沙紀は、肺が焼けるような呼吸を繰り返していた。冷たい雨が体温を奪い、足が鉛のように重くなる。肩も腕も震え、視界の端が白く滲み始めている。


(はぁ、はぁ……なんで……なんでこの人、息一つ乱れないの……)


 荷物は言真が持っている。女の重さも肩代わりしている。しかも沙紀より圧倒的に小柄なのに、息切れ一つしていないどころか、軽快にステップすら踏んでいるのだ。狂風卿の異常さを知っているつもりだったが、こうして横で見せつけられると現実味が違う。


「足、もつれてるよ。二回短く吸って、同じように二回吐いて。焦って喉狭めると余計に酸素が入らないよ。」


 軽い調子のまま、横目で沙紀を見やる言真。声には緊迫感の欠片もない。


「……そんな余裕、あるなら……私も背負ってくださいよ……!」


「やだぁ。重いじゃん。」


「はぁ!? 誰が重いんですか!」


 喉が枯れた声で怒鳴り返す沙紀。その瞬間、銃弾が真横を掠め、石壁を粉砕した。


止まれ(フェルマティ)!」


 イタリア語の怒声と共に、後ろの角から武装したカラビニエリが飛び出してくる。


「おっと。ばれたぁ。」


 言真は口元を緩め、くるりと路地を曲がる。沙紀も足をもつれさせながら追いすがった。


「……っ、これ以上は無理。走れない……!」


「無理って思うから無理なんだよ。死ぬ気で走って。」


「説得の仕方がおかしい……!」


 足元に水たまりが跳ね、濁流のような息が喉からこぼれる。だがそれでも、沙紀は走った。雨の冷たさも銃声も、もう意識の外にあった。ただ前へ、倒れないように。


(……この人の横にいると、自分の限界がわからなくなる……)


 言真の背中は、夜の中で不気味なほど軽やかだった。雨に濡れた路地を、幽霊のように迷いなく進む。彼の余裕は、異常性そのものだが――その背中が奇妙なほど頼もしく見えてしまう自分が腹立たしい。


「……ちょっと休憩! 一秒だけ休ませてください!!」


「一秒? じゃ、はい一秒経った。行こ。」


「経ってないです!!!」


「もーしかたないなぁ。」


 これ背負ってて、と言真は女を沙紀に預けると、さっと反転して追手めがけ一直線に駆け出した。その動きは滑るように速く、追手も見逃すほどの一瞬で距離を詰める。


 躊躇いなく放たれたのは、驚くほど清麗な飛び蹴りだった。言真の足が、相手の顔面に鋭く吸い付く。鈍い衝撃とともに、カラビニエリの男は仰向けに吹き飛ばされ、路面に倒れ込み動かなくなる。弾けるように雨水が飛び散り、その上に赤い血の粒が混じった。


 言真は確認する間もなく、すぐに沙紀の元へ戻る。彼の胸にはまだ鼻歌が潜んでいるようで、表情はまるで小さな勝利を噛みしめる子どもめいていた。


「はい、今のびてるから。10秒は経ったし早く行くよ。」


 荒い呼吸を整えながら、沙紀は無言で頷いた。腕の中の女の体温は雨で奪われつつも、確かな生の重みを伝えてくる。震える足を叱咤し、言真とともに再び駆け出した。濡れた石畳に靴底が滑り、雨粒が跳ね散る。背後では怒号と無線の声がまだ追いすがってくるが、恐怖を噛みしめる余裕などどこにもない。


 そのとき、背負っていた女が、夢の中に落ちるようなかすれた声で呟いた。


「……サン…ティス…………サンティス……」


 まぶたは震え、焦点の合わない瞳が暗闇の中で揺れる。意識は朦朧としているらしい。


「大丈夫ですか……!?」


 走りながら、必死に声をかける。言葉は自然とイタリア語に変わっていた。だが返事はなく、女は同じ言葉を繰り返すばかり。呼吸は弱く、身体は氷のように冷たい。


 言真がちらりと振り返り、目を細める。


「サンティス…か。地名か名前か呪文か、どれだろねぇ」


「……後で考えます! 今は――」


 そのとき、前方の通り角から赤色灯の光が揺らめいた。同時に無線の音とブーツの音が迫ってくる。


 沙紀の心臓が跳ね、息が止まりかけた。


 だが狂風卿は、まるで散歩の道順を選ぶかのような軽い口調で告げる。


「うん、行き止まり。右曲がろうか。撃たれないようにね〜」


「軽すぎますよ!!」


 悲鳴を上げつつも、沙紀は女を抱きしめ直し、雨の闇に身を投げた。


 ――ここで止まれば、死ぬ。


 頭のどこかで冷静な声がした。背後から雷鳴のような銃声が響き、夜の街が揺れた。言真の口笛が聞こえる。人を庇って走りながら、あんな余裕がどこにあるのか。


 沙紀は荒い息を吐き、歯を食いしばる。


 せめてこの女の人だけでも、生かす。


 それが、いま自分にできる唯一の戦いだった。




 ***




「―――こちら3班。容疑者2名を補足。射殺許可を。」


『許可する。』


 銃口が揃って持ち上がる。

 先ほどまで隣り合って任務に当たっていたADF隊員。その背中を、今は敵として捉えている。


 そこにはD.S.N.の命令が絡みつき、判断の余地を奪っていた。


「……本当に、やるんですか。俺たち」


 横の隊員が小さく問う。迷いというより、わずかな祈りの残滓。


「怖気づくな。奴らは仲間を撃った。裏切り者だ。情けをかける理由なんかない」


 そう言い聞かせるように返し、照準を絞る。指がトリガーにかかる―――


 その瞬間。


 背後で、湿った骨の砕ける音と、空気を裂く絶叫が重なった。


 反射的に振り返る。

 そこに立っていたのは、黒い礼服のような装束をまとった、まだ幼さを残す少女。

 両手からだらりとぶら下がる二つの生首。滴る血が石畳に点を刻む。


 誰もが息を固め、銃口を向け―――


 バキィ。


 乾いた断裂音。

 視界の端で、銃のバレルが無造作に折れ、地面へ跳ねた。恐怖が喉を塞ぐ。

 次の瞬間、世界全体がふらりと傾いた。


「……ぁ?」


 視界が傾き、ぐるりと天地が反転する。

 地面が逆さに見え、自分の胸が視界の中央に滑り込み――そのまま、足元へと吸い込まれるように落下した。


 ドスッ。


 生温い音が雨音の中に混じる。

 倒れた、と思った。

 床に転がった視界の端、つい先ほど言葉を交わした仲間の瞳とぶつかる。彼は視線を逸らさない。いや、違う。逸らせない。


 繋がっているはずの身体が、そこにない。


 それでやっと理解が追いついた。


 ―――皆、首を落とされた。


 認識が輪郭を持った途端、突如として闇が視界に落ちてきた。






「…っち、きったねぇ。」


 返り血を浴びた鷹觀ヨルは、生首を鼻で嗤うように蹴り上げ、足の裏でぐしゃりと踏み潰す。脳髄が靴底にこびりつくのを指先でこそげ落とし、無造作に無線機を拾い上げた。周囲にはまだ断続的な銃声と、短い悲鳴が断片的に溶け込んでいる。


 無線の向こう側からは、やけに高い声がはしゃいで聞こえた。莉禰バビだ。鷹觀は呆れたように口の端を引き、ため息をひとつ吐く。


「終わった。」


『あ、鷹觀お姉ちゃん?ちょっと待ってね! …セリーっ!鷹觀お姉ちゃんから連絡きたー!』


 ――楽しげな声。鷹觀は無言で眉を寄せる。しばらくして、ようやく落ち着いた口調の莉禰セリが応答してきた。


『ごめんなさい鷹觀さん、バビがうるさくて…。こっちはちょうど今、待機してた一班と二班を片付け終わりました。』


「そう。…でもこんだけ暴れりゃ、増援も時間の問題だ、あまり長居はすんな。今から撤収して、最上様がご指示なさった集合地点に向かえ。バビには――でけぇ声出すな、焼き殺すぞって言っとけ。」


 鷹觀の声音は短く尖っていたが、無線からは笑いにも似た反応が返ってくる。それを、彼女は無表情で受け流した。


 周囲を素早く見渡す。路地は血と雨で光り、倒れた者たちは既に冷たくなりはじめている。鷹觀は腰に差した短剣に指先を触れ、夜の湿気に混じる鉄の匂いを鼻先で確かめた。

 おそらく雨によって汗や指紋などの証拠は洗い流される。証拠は残らないだろう。


『了解、鷹觀お姉ちゃん!すぐ行くよ〜!』というバビの甲高い声が遠ざかるのを聞き、鷹觀は無線を握りつぶした。ハラハラと残骸が舞うのを目にしながら、濡れた毛先で血をぬぐい、冷たい瞳を細める。


「朽宮言真……」


 彼女はそう小さく呟き、再び苛立たしげに生首を蹴上げたあと、死体の間を歩きながら、暗闇に紛れて去っていった。





 ***





 ――0時42分



「追手…来ないねぇ…」


 言真は路地の角から、まるで観光でもしているかのようにひょいと顔を出し、人影ひとつない大通りを眺めた。雨は細く冷たく、石畳に淡い霧を立てている。


「……ちょっとは手伝ってくださいよ…」


 沙紀は肩を落としながらも愚痴をこぼし、濡れた地面に膝をついて横たわる女の手当を続けていた。


 二人が身を潜めるのは、古びた建物の軒下。雨は屋根に叩きつけられ、時折風で霧のように吹き込む。それでも、先ほどの路地よりはましだった。女の服は雨に濡れきって重く、肌は死人のように冷たい。


 幸い、怪我は致命部位を避けていた。出血も止まっている。ただ――長時間の雨で体温が激しく奪われてしまっていた。


「……このままだと低体温症になっちゃう…早く温めないと…」


 沙紀は焦りを隠せない声で呟く。手は震え、呼吸も荒い。女の細い手首に触れると、冷え切った肌が指先に張り付く。

 言真は横目で沙紀を見ながら、肩をのんびりとすくめた。


「死にそうってわけ?」


「そうです。だから手伝ってくださいって言ってるんです!」


 苛雨音が冷たく地面を叩く中、沙紀の声は震えと苛立ちを含んで掠れた。必死に女の体温を戻そうとするその手は、わずかに痙攣すらしている。冗談を受け止める余裕などどこにもなく、焦りが皮膚から滲み出ていた。


 言真は「ああ、そういや」とでも言うようにのんきな調子で荷袋へ向かい、ガサガサと探る。

 そして、何気なく毛布を一枚引っ張り出した。


「そういや野宿用に持ってきてたっけ。……すっかり忘れてた」


 その呑気さに、沙紀は一瞬だけ深く息を吸い、全ての感情を押し殺した顔で毛布を受け取る。


「……………もう、いいです……」


 皮肉を吐き捨てる暇も、怒る余裕もない。女の命が先だ。

 毛布はところどころ雨を吸って重くなっている。それでも――ないよりは百倍マシだった。


 沙紀は震える女の身体を包み込むように毛布をかけ、その肩を優しくさすり続ける。

 言真はというと、相変わらず軒先から外を警戒するふりをしながら、足で水たまりを無意味に蹴飛ばしているだけだった。


「……頑張れ」


 その呟きは、雨粒にちぎられながら闇に溶けて消えた。







 幸い、沙紀の必死の介抱で女の体温はわずかに戻りつつある。蒼白だった頬に、ほんのりと血の気が差し始めていた。依然として危険な状態には違いないが、ひとまず峠は超えたように見える。


 言真は路地の入口で腕を組み、眉をひそめていた。

 ――妙だ。追手の気配が薄まっている。


 普通なら、こうして五分以上同じ場所に潜伏すれば、包囲網が完成し、逃げ道は消えるはずだ。ましてさっきまで鳴り響いていた警察車両のサイレン音すら、今ではほとんど聞こえない。街の呼吸そのものが、不自然に止まったかのようだった。


「………おかしいね」


 言真はぽつりと呟き、霧雨の向こうを見据えた。

 その声音には、いつもの飄々とした軽さがどこにもない。空気が変わった――そう感じさせる沈黙だった。


 そのとき、背後で布が擦れるような微かな音がした。

 普段なら聞き逃すほどの小さな物音。しかし言真の肩が、わずかに硬くなる。彼は突然イタリア語で言った。


「お目覚めから随分物騒だねぇ、お嬢さん。」


 振り返ると、そこにはほとんど血の気のない顔で立つ――先程まで眠っていたはずの女がいた。肩で息をし、頼りない脚取りのまま、それでも沙紀を羽交い締めにし、沙紀の腰から抜いたナイフを彼女の唇に押し当てている。


 濡れた瞳は、言真を射抜くように敵意を宿していた。

 足元がおぼつかないのに、倒れることなく立ち続けるその姿は、純粋な執念そのものだった。


「誰だ」


 女は低く、短く問いかける。

 沙紀は苦しげというより、緊張に身を固くしながらも、声をあげず静かに状況を見守っていた。

 不必要な抵抗をすれば、刃が喉元に走る――その判断ができる冷静さがまだ残っている証だった。


 言真はひとつ息をつき、肩をすくめるように軽く手を上げた。


「助けた相手にその態度はないんじゃない? もうちょっと優しくされてもバチ当たらないと思うけど」


 雨粒が屋根から落ち、鋭い音を立てる。

 だが、三人の間に漂う緊張は、それよりずっと冷たかった。


 続く…

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