73話 シチリア動乱 - 12 -
―――0時21分
背後で銃声がけたたましく反響した。石壁に弾が跳ね、火花が散る。雨に濡れた夜気を裂いて、怒号と無線の雑音が追いすがる。
沙紀と言真は、女の身体を支えながら細い路地を駆け抜けていた。
狂風卿――朽宮言真は、肩にぐったりとした女を担ぎ上げたまま、まるで散歩でもしているかのような足取りであった。濡れた路地を跳ねる靴音も軽く、背後から響く銃撃さえ背景音にしか聞いていないように、鼻歌すら口ずさむ余裕すらある。
一方の沙紀は、肺が焼けるような呼吸を繰り返していた。冷たい雨が体温を奪い、足が鉛のように重くなる。肩も腕も震え、視界の端が白く滲み始めている。
(はぁ、はぁ……なんで……なんでこの人、息一つ乱れないの……)
荷物は言真が持っている。女の重さも肩代わりしている。しかも沙紀より圧倒的に小柄なのに、息切れ一つしていないどころか、軽快にステップすら踏んでいるのだ。狂風卿の異常さを知っているつもりだったが、こうして横で見せつけられると現実味が違う。
「足、もつれてるよ。二回短く吸って、同じように二回吐いて。焦って喉狭めると余計に酸素が入らないよ。」
軽い調子のまま、横目で沙紀を見やる言真。声には緊迫感の欠片もない。
「……そんな余裕、あるなら……私も背負ってくださいよ……!」
「やだぁ。重いじゃん。」
「はぁ!? 誰が重いんですか!」
喉が枯れた声で怒鳴り返す沙紀。その瞬間、銃弾が真横を掠め、石壁を粉砕した。
「止まれ!」
イタリア語の怒声と共に、後ろの角から武装したカラビニエリが飛び出してくる。
「おっと。ばれたぁ。」
言真は口元を緩め、くるりと路地を曲がる。沙紀も足をもつれさせながら追いすがった。
「……っ、これ以上は無理。走れない……!」
「無理って思うから無理なんだよ。死ぬ気で走って。」
「説得の仕方がおかしい……!」
足元に水たまりが跳ね、濁流のような息が喉からこぼれる。だがそれでも、沙紀は走った。雨の冷たさも銃声も、もう意識の外にあった。ただ前へ、倒れないように。
(……この人の横にいると、自分の限界がわからなくなる……)
言真の背中は、夜の中で不気味なほど軽やかだった。雨に濡れた路地を、幽霊のように迷いなく進む。彼の余裕は、異常性そのものだが――その背中が奇妙なほど頼もしく見えてしまう自分が腹立たしい。
「……ちょっと休憩! 一秒だけ休ませてください!!」
「一秒? じゃ、はい一秒経った。行こ。」
「経ってないです!!!」
「もーしかたないなぁ。」
これ背負ってて、と言真は女を沙紀に預けると、さっと反転して追手めがけ一直線に駆け出した。その動きは滑るように速く、追手も見逃すほどの一瞬で距離を詰める。
躊躇いなく放たれたのは、驚くほど清麗な飛び蹴りだった。言真の足が、相手の顔面に鋭く吸い付く。鈍い衝撃とともに、カラビニエリの男は仰向けに吹き飛ばされ、路面に倒れ込み動かなくなる。弾けるように雨水が飛び散り、その上に赤い血の粒が混じった。
言真は確認する間もなく、すぐに沙紀の元へ戻る。彼の胸にはまだ鼻歌が潜んでいるようで、表情はまるで小さな勝利を噛みしめる子どもめいていた。
「はい、今のびてるから。10秒は経ったし早く行くよ。」
荒い呼吸を整えながら、沙紀は無言で頷いた。腕の中の女の体温は雨で奪われつつも、確かな生の重みを伝えてくる。震える足を叱咤し、言真とともに再び駆け出した。濡れた石畳に靴底が滑り、雨粒が跳ね散る。背後では怒号と無線の声がまだ追いすがってくるが、恐怖を噛みしめる余裕などどこにもない。
そのとき、背負っていた女が、夢の中に落ちるようなかすれた声で呟いた。
「……サン…ティス…………サンティス……」
まぶたは震え、焦点の合わない瞳が暗闇の中で揺れる。意識は朦朧としているらしい。
「大丈夫ですか……!?」
走りながら、必死に声をかける。言葉は自然とイタリア語に変わっていた。だが返事はなく、女は同じ言葉を繰り返すばかり。呼吸は弱く、身体は氷のように冷たい。
言真がちらりと振り返り、目を細める。
「サンティス…か。地名か名前か呪文か、どれだろねぇ」
「……後で考えます! 今は――」
そのとき、前方の通り角から赤色灯の光が揺らめいた。同時に無線の音とブーツの音が迫ってくる。
沙紀の心臓が跳ね、息が止まりかけた。
だが狂風卿は、まるで散歩の道順を選ぶかのような軽い口調で告げる。
「うん、行き止まり。右曲がろうか。撃たれないようにね〜」
「軽すぎますよ!!」
悲鳴を上げつつも、沙紀は女を抱きしめ直し、雨の闇に身を投げた。
――ここで止まれば、死ぬ。
頭のどこかで冷静な声がした。背後から雷鳴のような銃声が響き、夜の街が揺れた。言真の口笛が聞こえる。人を庇って走りながら、あんな余裕がどこにあるのか。
沙紀は荒い息を吐き、歯を食いしばる。
せめてこの女の人だけでも、生かす。
それが、いま自分にできる唯一の戦いだった。
***
「―――こちら3班。容疑者2名を補足。射殺許可を。」
『許可する。』
銃口が揃って持ち上がる。
先ほどまで隣り合って任務に当たっていたADF隊員。その背中を、今は敵として捉えている。
そこにはD.S.N.の命令が絡みつき、判断の余地を奪っていた。
「……本当に、やるんですか。俺たち」
横の隊員が小さく問う。迷いというより、わずかな祈りの残滓。
「怖気づくな。奴らは仲間を撃った。裏切り者だ。情けをかける理由なんかない」
そう言い聞かせるように返し、照準を絞る。指がトリガーにかかる―――
その瞬間。
背後で、湿った骨の砕ける音と、空気を裂く絶叫が重なった。
反射的に振り返る。
そこに立っていたのは、黒い礼服のような装束をまとった、まだ幼さを残す少女。
両手からだらりとぶら下がる二つの生首。滴る血が石畳に点を刻む。
誰もが息を固め、銃口を向け―――
バキィ。
乾いた断裂音。
視界の端で、銃のバレルが無造作に折れ、地面へ跳ねた。恐怖が喉を塞ぐ。
次の瞬間、世界全体がふらりと傾いた。
「……ぁ?」
視界が傾き、ぐるりと天地が反転する。
地面が逆さに見え、自分の胸が視界の中央に滑り込み――そのまま、足元へと吸い込まれるように落下した。
ドスッ。
生温い音が雨音の中に混じる。
倒れた、と思った。
床に転がった視界の端、つい先ほど言葉を交わした仲間の瞳とぶつかる。彼は視線を逸らさない。いや、違う。逸らせない。
繋がっているはずの身体が、そこにない。
それでやっと理解が追いついた。
―――皆、首を落とされた。
認識が輪郭を持った途端、突如として闇が視界に落ちてきた。
「…っち、きったねぇ。」
返り血を浴びた鷹觀ヨルは、生首を鼻で嗤うように蹴り上げ、足の裏でぐしゃりと踏み潰す。脳髄が靴底にこびりつくのを指先でこそげ落とし、無造作に無線機を拾い上げた。周囲にはまだ断続的な銃声と、短い悲鳴が断片的に溶け込んでいる。
無線の向こう側からは、やけに高い声がはしゃいで聞こえた。莉禰バビだ。鷹觀は呆れたように口の端を引き、ため息をひとつ吐く。
「終わった。」
『あ、鷹觀お姉ちゃん?ちょっと待ってね! …セリーっ!鷹觀お姉ちゃんから連絡きたー!』
――楽しげな声。鷹觀は無言で眉を寄せる。しばらくして、ようやく落ち着いた口調の莉禰セリが応答してきた。
『ごめんなさい鷹觀さん、バビがうるさくて…。こっちはちょうど今、待機してた一班と二班を片付け終わりました。』
「そう。…でもこんだけ暴れりゃ、増援も時間の問題だ、あまり長居はすんな。今から撤収して、最上様がご指示なさった集合地点に向かえ。バビには――でけぇ声出すな、焼き殺すぞって言っとけ。」
鷹觀の声音は短く尖っていたが、無線からは笑いにも似た反応が返ってくる。それを、彼女は無表情で受け流した。
周囲を素早く見渡す。路地は血と雨で光り、倒れた者たちは既に冷たくなりはじめている。鷹觀は腰に差した短剣に指先を触れ、夜の湿気に混じる鉄の匂いを鼻先で確かめた。
おそらく雨によって汗や指紋などの証拠は洗い流される。証拠は残らないだろう。
『了解、鷹觀お姉ちゃん!すぐ行くよ〜!』というバビの甲高い声が遠ざかるのを聞き、鷹觀は無線を握りつぶした。ハラハラと残骸が舞うのを目にしながら、濡れた毛先で血をぬぐい、冷たい瞳を細める。
「朽宮言真……」
彼女はそう小さく呟き、再び苛立たしげに生首を蹴上げたあと、死体の間を歩きながら、暗闇に紛れて去っていった。
***
――0時42分
「追手…来ないねぇ…」
言真は路地の角から、まるで観光でもしているかのようにひょいと顔を出し、人影ひとつない大通りを眺めた。雨は細く冷たく、石畳に淡い霧を立てている。
「……ちょっとは手伝ってくださいよ…」
沙紀は肩を落としながらも愚痴をこぼし、濡れた地面に膝をついて横たわる女の手当を続けていた。
二人が身を潜めるのは、古びた建物の軒下。雨は屋根に叩きつけられ、時折風で霧のように吹き込む。それでも、先ほどの路地よりはましだった。女の服は雨に濡れきって重く、肌は死人のように冷たい。
幸い、怪我は致命部位を避けていた。出血も止まっている。ただ――長時間の雨で体温が激しく奪われてしまっていた。
「……このままだと低体温症になっちゃう…早く温めないと…」
沙紀は焦りを隠せない声で呟く。手は震え、呼吸も荒い。女の細い手首に触れると、冷え切った肌が指先に張り付く。
言真は横目で沙紀を見ながら、肩をのんびりとすくめた。
「死にそうってわけ?」
「そうです。だから手伝ってくださいって言ってるんです!」
苛雨音が冷たく地面を叩く中、沙紀の声は震えと苛立ちを含んで掠れた。必死に女の体温を戻そうとするその手は、わずかに痙攣すらしている。冗談を受け止める余裕などどこにもなく、焦りが皮膚から滲み出ていた。
言真は「ああ、そういや」とでも言うようにのんきな調子で荷袋へ向かい、ガサガサと探る。
そして、何気なく毛布を一枚引っ張り出した。
「そういや野宿用に持ってきてたっけ。……すっかり忘れてた」
その呑気さに、沙紀は一瞬だけ深く息を吸い、全ての感情を押し殺した顔で毛布を受け取る。
「……………もう、いいです……」
皮肉を吐き捨てる暇も、怒る余裕もない。女の命が先だ。
毛布はところどころ雨を吸って重くなっている。それでも――ないよりは百倍マシだった。
沙紀は震える女の身体を包み込むように毛布をかけ、その肩を優しくさすり続ける。
言真はというと、相変わらず軒先から外を警戒するふりをしながら、足で水たまりを無意味に蹴飛ばしているだけだった。
「……頑張れ」
その呟きは、雨粒にちぎられながら闇に溶けて消えた。
幸い、沙紀の必死の介抱で女の体温はわずかに戻りつつある。蒼白だった頬に、ほんのりと血の気が差し始めていた。依然として危険な状態には違いないが、ひとまず峠は超えたように見える。
言真は路地の入口で腕を組み、眉をひそめていた。
――妙だ。追手の気配が薄まっている。
普通なら、こうして五分以上同じ場所に潜伏すれば、包囲網が完成し、逃げ道は消えるはずだ。ましてさっきまで鳴り響いていた警察車両のサイレン音すら、今ではほとんど聞こえない。街の呼吸そのものが、不自然に止まったかのようだった。
「………おかしいね」
言真はぽつりと呟き、霧雨の向こうを見据えた。
その声音には、いつもの飄々とした軽さがどこにもない。空気が変わった――そう感じさせる沈黙だった。
そのとき、背後で布が擦れるような微かな音がした。
普段なら聞き逃すほどの小さな物音。しかし言真の肩が、わずかに硬くなる。彼は突然イタリア語で言った。
「お目覚めから随分物騒だねぇ、お嬢さん。」
振り返ると、そこにはほとんど血の気のない顔で立つ――先程まで眠っていたはずの女がいた。肩で息をし、頼りない脚取りのまま、それでも沙紀を羽交い締めにし、沙紀の腰から抜いたナイフを彼女の唇に押し当てている。
濡れた瞳は、言真を射抜くように敵意を宿していた。
足元がおぼつかないのに、倒れることなく立ち続けるその姿は、純粋な執念そのものだった。
「誰だ」
女は低く、短く問いかける。
沙紀は苦しげというより、緊張に身を固くしながらも、声をあげず静かに状況を見守っていた。
不必要な抵抗をすれば、刃が喉元に走る――その判断ができる冷静さがまだ残っている証だった。
言真はひとつ息をつき、肩をすくめるように軽く手を上げた。
「助けた相手にその態度はないんじゃない? もうちょっと優しくされてもバチ当たらないと思うけど」
雨粒が屋根から落ち、鋭い音を立てる。
だが、三人の間に漂う緊張は、それよりずっと冷たかった。
続く…




