71話 シチリア動乱 - 10 -
―――0時07分。
三田沙紀は、闇を切り裂くように走る車の後部座席で、手のひらを固く握りしめていた。
窓の外には街灯もまばらで、雨の粒がガラスを叩くたび、鼓動がわずかに跳ねる。
カルタジローネでの騒乱から、直弥くんとも璃久教官とも一切連絡が取れない。
通信端末は沈黙を保ち続け、砂嵐のようなノイズだけが返ってくる。
狂風卿・朽宮言真は「2人は生きている」と言った。
だが、その言葉に確信の響きはなかった。
最悪の想像が何度も頭をよぎる。
だが、呼吸を整え、視線を前へ向けた。任務はまだ終わっていない。
直弥くんたちがどこにいようと、私には私のやるべきことがある。
「……本当に、ここにアジトがあるんですか?」
沈黙を破って、沙紀が前席の男に問いかける。
助手席に座る朽宮言真は淡く笑った。
「“ラ・ローザ・ネーラ”、ボスを頂点としたピラミッド型の組織形態。忠誠心と暴力で組織を支配し、売春、麻薬販売はもとより、カラブリア州やサルデーニャ島の公共事業への介入まで幅広く手を出してる―――そんでその本拠地が、ここカターニアってわけ。」
幼気な声で言真はそう語る。
夜気の中に、焦げた鉄の匂いが混じる。
沙紀は息を呑んだ。
マフィアの本拠地…この先に待つのは、交渉か、乱戦か、それとも―――。
「油断しないでよ、沙紀ちゃん。」
言真はバックミラー越しに、妖しく目を細める。
「ここもいつ、カルタジローネみたくなるかわかんないんだから。」
車はゆるやかに速度を落とし、薄闇の中、古びた修道院の影が見えた。
明かりはなく、どこか不気味な印象を受ける。
「…妙だな。」
言真はそれを見据えて、訝しげに呟いた。
「――妙、ですか?」
「うん。彼らは夜に行動していることが多くてね、いつもならそこの修道院にも何人か衛兵がたむろしてるらしいんだけど…今は何の気配も感じない。」
そうだよね?と彼は運転席のカラビニエリにも問いかける。そのカラビニエリも同様の見解を示した。
沙紀は車の窓越しに修道院の入口を凝視した。扉の鉄板に当たる月光はまるで漆を塗ったように鈍く、鍵穴の周りには新しい傷ひとつない。石段には足跡ひとつなく、苔に覆われた側溝にも何の痕跡もなかった。
「じゃあ、罠ってことですか。」
沙紀は不安げにそう問う。言真はその修道院を依然見つめつつ、独り言のように呟く。
「だったらまだ、皆殺しにしちゃえばいいだけのことなんだけど…どうもそんな感じもしないなあって。」
そう言いつつも、言真は車を降りる仕草を見せた。沙紀もそれに習い、銃器類を整理し万全の状態になった。
「――まあ、ここにいてもしょうがないし、取り敢えず様子見てくる。」
言真はそうカラビニエリの隊員に伝え、車を降りた。沙紀は腹の中で鼓動が速くなるのを抑えながら、言真に続き車のドアを開ける。雨風が頬を冷たく撫で、石畳に足をおろすと静けさが胸を締めつける。
音を立てぬよう石段を降りる。扉の前に立つと、言真が鍵穴に小さな工具を差し込む。カチャリ、という小さな音が夜に溶ける。
だが扉は簡単には開かなかった。外側からは堅固に閉ざされているように見えたが、言真が工具を引くと、扉の上部の木枠がかすかに震えた。その瞬間、特徴的な匂いが鼻腔をくすぐる。
「匂い——薬品のかな。それに油のも…」
言真が息を詰めて囁いた。
沙紀の指先が無意識に握り拳になる。
言真の言葉が正しければ、それは爆薬か、あるいは罠――
だが、次の一言が彼女の背筋を凍らせた。
「いや…」言真は小さく首を傾げ、鼻先をわずかに動かす。「血の匂いもする」
「血?」
沙紀は思わず小声で問い返す。
「うん。……もしかしたら――」
言真はそこで言葉を切り、唐突に扉へと歩み寄った。
一瞬、空気が張りつめる。
沙紀が「ま、待ってください!」と叫ぶより早く、
――重い一撃が木扉を砕いた。
鈍い破砕音。
塵と煙が舞い上がり、蝋の焦げた匂いと鉄の臭気が一気に押し寄せる。
言真は眉ひとつ動かさず、開いた隙間から中を覗き込み、軽く手首を振って沙紀に合図した。
「――思った以上だね」
沙紀が銃を構えて足を踏み入れた瞬間、
そこに広がっていたのは、言葉を失うほどの惨状だった。
祭壇は跡形もなく砕け散り、裂かれた聖書のページが風に乗って舞っている。
床には薬品のボトルが転がり、血液と化学液が混じり合った液体が鈍く光を反射していた。
壁一面には焼け焦げた痕と、何かを爪で削ったような長い擦過痕。その合間に散る赤黒い染みは、乾いてなお生々しい。
そして——最も目を引いたのは、
そこかしこに転がるスーツ姿の死骸たちだった。
「これは……」
沙紀が息を呑む。喉の奥がきしむように痛んだ。
「一足遅かったみたいだね」
言真は淡々と呟き、死体の一つの傍らにしゃがみ込んだ。
「多分全部ラ・ローザ・ネーラの構成員たちだろうね。見た感じ、抵抗した形跡はあるけど……生存者はいなさそう」
言真は死体の肩を指先でつつき、
わずかに動かしては血の滲む襟元を確かめる。
「それにしても——銃創が少なすぎる」
沙紀が眉を寄せる。「じゃあなにで殺されたんですか?」
「喰い殺したんだろうね」
言真は顎で示した。スーツの襟元から覗くのは、
人間とは思えない歯型と、そこから広がる黒ずんだ腐食痕。
沙紀の背筋に寒気が走った。
「まさか、同体変異種……?」
「そう。おそらく調査対象の同体変異種」
言真は低く言い切る。その瞳には迷いがなかった。
言真は指先を軽く動かし、死体の頬を押し上げた。
白濁した眼球が露出し、瞳孔は完全に開いている。皮膚は斑に変色し、血管は黒ずんでいた。
「見て、ここの発疹。肋骨の下にまで広がってる。……瘴気による感染だね。」
彼は服をめくり上げながら低く、冷静な声で言う。
沙紀はわずかに後ずさる。「これ、感染なんですか?」
「うん。」言真は懐から黒のゴム手袋を取り出し、それを手にはめて死体の腹部を軽く押す。
そして肋骨の間から滲み出た黒紫の液体を指先で掬い取った。
指先でこすりながら、静かに呟く。
「典型的な瘴気感染。血液中の酸化鉄が異常反応を起こしてる。ヘモグロビンが分解されて再結合する過程で、毒性を帯びた有機ガスを発してるんだ。これが瘴気の正体。」
沙紀は顔をしかめる。「空気感染するってことですか?」
「厳密には違う。媒介は空気じゃなく血漿由来の揮発物質。人体の内部で生成されて、それが皮膚の毛孔から漏れ出す。だから、死体からも感染する。」
言真は手袋を外し、死体の頸部を指で押し上げた。
青黒く変色した皮下組織が、泡立つように軋む。
「神経束が再生してる。死後二時間以上経ってるのに、自己電位がまだ残ってる……まあつまりこれは“生物学的な”死じゃない」
沙紀が息を呑む。
「まさか、蘇生して――」
言真は肩をすくめ、淡々と答える。
「蘇生というより、植物状態に近いね。体はまだ機能してるけど、脳も意思系統も完全に死んでる。ただの殻さ。」
彼は指先についた黒紫の液体を拭いながら続けた。
「瘴気だけじゃ、魔族には変容しない。あれはあくまで媒介にすぎない。変容を引き起こすには、吉林省で君たちが実際に見た死脈転写――あの魔術が必要になる。」
「……つまり、これはまだ途中段階ってことですか?」
「そう。コンセントに繋ぐ前の電化製品みたいなもんさ。電力――つまり純粋な魔力が供給されない限り、こいつらはただ腐りきった生体構造物でしかない。」
言真は立ち上がって足元の死体を見下ろし、軽く靴で突いた。
「だが、もし“誰か”がその電源を入れたら……その瞬間に、こいつらは“別の命令”で動き出す。瘴気感染者が、ただの死体じゃなくなる瞬間だ。」
その声音は冷たく、どこか楽しげでもあった。
その時――奥の祭壇の方から、ゴトッと何かが落ちる鈍い音がした。
反射的に、沙紀は銃を構え、その方向へと銃口を向ける。
緊張が一瞬で張り詰めた空気を支配した。
しかし次の瞬間、静寂を裂くように、かすれた女性の呻き声が響く。
その声音に、沙紀は即座に判断を下した。
「――狂風卿! 生存者が……!」
言真は軽く顎を上げて頷いた。
「みたいだね。……行こうか。」
二人は慎重に、銃口を下げることなく祭壇の裏へ回り込む。
そこには、崩れ落ちるように倒れ込んでいる一人の女性がいた。
胸には血に染まった晒しが巻かれ、その上から高級な革のジャケットを羽織っている。
金色のピアスが血の滴る頬で揺れ、覗くタトゥーが淡い灯に照らされて妖しく光った。
その外見だけで、彼女がこの組織の首領、もしくはそれに匹敵する幹部であることは明白だった。
「大丈夫ですか!」
沙紀はイタリア語で叫び、急いで駆け寄る。
女性は微かに身をよじらせたが、反応は鈍い。
瘴気に侵されている様子はないものの、腕や脚、背中には無数の裂傷が走り、皮膚は血と埃で汚れていた。
爪で引き裂かれたような傷口の形状が、不気味に生々しい。
言真が彼女の傍らに膝をつき、鋭い目で状態を観察する。
「……瘴気感染の兆候はない。まあでもほっとけばすぐに他の死骸の仲間入りだろうけど。…どうしたい?沙紀ちゃん。」
その声音には、どこか試すような、揺さぶるような響きがあった。
沙紀は一瞬だけ息を整え、ためらわずに答える。
「運びましょう。それからでも彼女に聞きたいことは聞ける。」
そう言ってしゃがみ込み、女の腕を自分の肩にかける。
軽い――というより、血の気を失った死体のように重みのない体だった。
それでも背中越しにかすかに鼓動が伝わる。
生きている。
それなら、まだどうにかできる。吉林省での教訓が、それを証明していた。
沙紀は歯を食いしばり、体を起こして出口へと歩き出す。
背後から、言真が肩をすくめるような声で言った。
「運んだってしょうがないと思うけどなぁ。どうせそいつ、組織のボスだろ? 同体変異種の容疑者が瀕死ってんなら、喜んで置いてくのが筋じゃない?」
沙紀は振り返らずに答える。
「同体変異種に襲われた形跡があるなら、彼女は人間である可能性が高い。生きている限り――見捨てる理由はありません。」
一瞬の沈黙。
やがて、言真は口の端をゆるく上げて笑った。
「……んー、まあ好きにすればいいけどさ……優等生ってのはほんと手がかかるねぇ。」
支えながら修道院を後にし、止めてあった車へと足を運ぶ。
夜風が血と油の混ざった匂いを運び、沈黙が不気味なほど濃い。
だが、車に近づくにつれ――胸の奥に、はっきりとした違和感が広がっていった。
「……割れてる?」
フロントガラス。
そこには、まるで蜘蛛の巣のような亀裂が走っていた。
エンジンはかけっぱなし。
だというのに、車内からは物音ひとつしない。
胸の奥で、警鐘が鳴る。
何かがおかしい。
それでも確認せずに進むわけにはいかなかった。
沙紀は女の体を言真に預け、慎重にドアハンドルを握る。
カチリ――と音を立てて開けた瞬間、
息が詰まる。
運転席のカラビニエリ隊員が、額を撃ち抜かれていた。
銃創はその一点だけ、おそらく即死だろう。その表情は“何が起きたのか理解できなかった”とでも言いたげに、衝撃と困惑のまま凍りついている。
「……っ」
沙紀が息を呑むのとほぼ同時に、
道路の向こう側から別のエンジン音が近づいてきた。
同型の車両が停まり、中からカラビニエリの制服を着た隊員が降りてくる。
懐中電灯の光がこちらを照らし、彼の視線がフロントガラス、そしてその奥で息絶える隊員、そして銃を携えた自身ら二人に順に向けられ――
次の瞬間、顔が強張った。
おそらく彼は、急に連絡が取れなくなった仲間を心配して駆けつけたのだろう。
だが現場にいたのは、血に塗れた二人の外国人と、頭を撃ち抜かれた隊員。
その光景を見れば、疑うまでもなく…
「……あー、これ、けっこうヤバいやつじゃない?」
言真が乾いた声で呟く。
まるで遠足先で道を間違えたかのような軽さで。
だがその言葉の直後――
カラビニエリの隊員は腰のホルスターから拳銃を抜き放ち、迷うことなく銃口をこちらに向けた。
続く…




