69話 シチリア動乱 - 8 -
車は目的地から手前二キロ、繁華街の道脇に止まった。
運転手は低く囁くように告げる。
「これ以上近づくと、カラビニエリと繋がりがあると露見します。ここで降りて徒歩で合流地点に移動してください」
夏芽と柏谷は無言でうなずき、ドアを開けた。冷たい夜風が二人の頬を撫で、街灯の光が濡れた石畳を鈍く照らす。背後の黒塗りセダンは車影を薄くして路地を離れる――見えない糸を手繰られないよう、彼らは単独で動くことを選ばされたのだ。
銃器が収まったスーツケースを引く音が、路地の静寂に小さく反響する。通り沿いのバールの窓からは薄い音楽と人声、揚げ物の匂いが漏れ出し、外の緊張との落差を際立たせる。だが一歩裏路地に入れば、困窮と陰謀の匂いが鼻を突く。壁には古い落書き、排水溝からは湿った臭気が立ち上る。
「ここからは?」柏谷が低く言う。
彼は荷車を押しながら、手早く手元の装備を確認する。スーツケースの車輪音と合わさり、彼の指先の機械的な動作が緊迫したリズムを作る。
「予定通りだ。俺らは“外注の傭兵”って扱いで中に入る。接触は一般の現地ブローカーに任せる」夏芽が答える。彼の声は落ち着いていたが、瞳の奥には微かな焦燥が潜んでいる。
二人は角を曲がり、狭い石段を下りる。そこには既に別働の黒いワゴンが一台、エンジンを静かに回して待機していた。運転席には短髪の男が一人、冷たい目で二人を見やる。男は一瞥して小さく頷き、無駄口を叩かずスライドドアを開ける。
「やっと来たか」男はイタリア語で言った。声は低く、疲れている。
彼はブローカーとして依頼した一般人だ。無論、ADFや魔族のことは1ミリも知らない。
スーツケースを後ろに収納した後、柏谷は短く礼をし、夏芽も無言で乗り込む。車内は狭く、かすかにタバコ臭さを感じる。
「んな数十年に一度あるかないかの物騒な日によく来ようと思えたな。傭兵魂ってやつか?」
そうブローカーが一言。ウインドウ越しに見えるネオンが、彼の硬い横顔を赤く染める。
ワゴンはゆっくりと動き出し、繁華街の明かりを背にして更に奥深くへと入っていく。車窓の外、建物の壁に描かれた血のようなグラフィティがちらりと見えた。イル・サングエ・ロッソの印だ――派手な赤の髑髏が剥がれかけた壁に描かれている。
「ここがアジトだ」ロレンツォが短く告げる。ワゴンは大きな倉庫の前で停車した。周囲には複数の影が集まり、目つきの鋭い男たちが通りを睨んでいる。入口には数人の手下が立ち、入場者の顔ぶれをざっと査定している。
柏谷は深く息を吸う。夏芽も拳をきつく握りしめた。二人は互いに短く目を合わせ、合図を交わす。今夜は「傭兵として」演じ切る。見抜かれたら即座に血みどろの抗争が、ここパレルモでも再演される。
スーツケースのキャスターが床にこすれる音がいっとき場の喧騒を遮り、倉庫内の視線が二人に集中する。裸電球がぶら下がり、埃と油の匂いが鼻を突く。中折れ帽やコッポラ帽を深く被った男たちの顔は、血気と疑念で硬い。
その中央に縛られた男がいた。南京袋を頭に被せられ、麻縄にぐるぐる巻きにされた姿は、もはや人の尊厳を剥ぎ取られていた。彼の肩は小刻みに震え、足先だけがかすかに動く。
リーダー格の大柄な男が前に出る。鼻にかかった訛りがきついイタリア語で、扇情的に笑いながら言った。
「お前らが噂の傭兵か?」
「そうだ」柏谷が短く答える。声には虚勢だけがのっている。
「ようこそ…と言いたいところだが、俺達はマフィアだ。信用には ‘証拠’ が必要だ。まあだから――」
そう言うと、男は無造作に木箱の上に二挺の拳銃を放り投げた。冷たい鉄が床にぶつかる音が、倉庫の空気を震わせる。S&Wのミリタリー&ポリスだった。
「それで、この男を撃ち殺せ。できねえってんなら、てめぇらもコイツと一緒に地中海の藻屑になってもらうぜ」
言葉は簡潔で残酷だ。周囲の男たちが笑いと興奮を漏らし、縛られた男の震えはさらに大きくなる。
悩む必要など無いだろう。夏芽は呼吸を整え、銃口を見据えた。狙いはまっすぐ男の頭部。
柏谷は一瞬だけ首を傾げ、その動作を確認するかのように僅かに頷いた。周囲の視線がさらに鋭く集中する。
夏芽と柏谷は同時に引き金を引いた。銃口から放たれた弾丸は、思惑どおりに南京袋を貫通し男の額真ん中に命中した。一方柏谷の方は余念なく心臓を狙ったようで、あたりに赤黒い血が飛び散る。男は鈍い悲鳴をあげ、体を震わせて崩れ落ちる。麻縄が弾けるような音がして、南京袋がずれ、やっとその顔が見えた。血が床に跳ね、男はうめきながら息絶えた。
倉庫内が一瞬の沈黙に包まれ、次の瞬間、リーダー格の男が唾を吐くように笑う。
「へへ、やるじゃねえか。これでサツのネズミじゃねえって証明になった」
数人が近寄って倒れた男の口元や首を確認する。吐血と足の血が目立ち、確実に生々しい。確認はざっと、適当になされる。死んだかどうかをきちんと確かめる者はいない。これはおおよそ見せしめであり、死の確証がいるのは上の連中だけで、現場の男たちは“雰囲気”で納得する方が多い。
だがそれでも、殺さないという手段は頭の中には一切なかった。彼がどういう境遇で捕まったのかは知る由もないし知る気もないが、任務において必要犠牲であることは明白であった。五原則の鋼条でいえば感情抑制と唯果論にあたるだろうか。人類の希望のため、魔族撲滅のための尊い犠牲なのだから、それは決して無駄な死ではない。
「やれやれ、いい仕事だ」とリーダーが言うと、周囲は歓声とともに酒のような乾いた拍手を送る。夏芽は銃口を下げる。柏谷は冷たい目で倒れている男を一瞥し、拳銃を床に投げ捨てた。
リーダーは近寄り、倒れた男の胸を軽く踏んで確かめるように見せる。そして彼は鼻で笑いながら口を利いた。
「お前ら、今晩は俺たちと飲め。腕あるんだし、いい仕事期待してるよ。義理は立てるぜ」
「悪いが、その前に首領に会わせてくれ。」
夏芽の声は冷えていた。宴の騒ぎに紛れて誤魔化すこともできるが、彼の表情には一切の虚飾がなかった。倉庫の喧騒がふっと止み、周囲の視線がまた二人へと集中する。
リーダーは一瞬だけ顔をしかめたが、やがて笑みを戻し、肩越しに合図を送る。
「いいぜ。俺らは本当に一仕事できるか確かめたかっただけだしな——着いてこい。」
酒瓶を持つ手がまた上がり、場の空気は再び酒と嘲笑で満たされる。どこかで人の影が動き、二人は倉庫の奥へと案内される。床の油がニスのように光り、壁には剥がれかけた血の骸骨の紋様が薄く浮かんでいた。
通されたのは、倉庫の更に奥に作られた接見室。低い天井にシャンデリアのようなものはなく、代わりに幾つもの白熱灯が粗雑に吊るされ、暖色の光が不安定に揺れている。部屋の中央には古びたテーブルと、分厚い革張りの椅子が一つ。そこに腰掛けている男の姿が、室内の空気を重くしていた。
彼は中年を少し過ぎた風貌で、中折れ帽を深く被り、毛先の白い髭を短く整えていた。黒のスーツは上等だが使い込まれており、指先には金の指輪が光る。瞳は冷たく、だがどこか計算高い輝きを宿している。いわゆる“首領”の風格だが、その顔には戦利品のような怪しさもあった。
「―――おまえらが例の傭兵か」
彼の声は低く、訛り混じりのイタリア語でゆっくりと響いた。周囲の連中がいちいち彼に頭を下げる。
こいつが、同体変異種の容疑者の一人か―――夏芽は奥歯を噛む。
思ったより簡単に会えた。気配はまるで人間だが、果たしてどうだか…
夏芽は短く会釈をし、柏谷は無言で拳を軽く握る。二人は演じるべき立ち位置を整え、ドンの反応を待った。
「腕は確かだと——影から見せてもらった。」ドンはテーブルに置かれたグラスを指で転がしながら、淡々と続ける。「ここは賭けの国だ。信用は金よりも重い。おまえらがどこまで望むか、まずはそれを聞かせてもらおうか」
柏谷が口を開く。声は低い。
「我々は仕事を欲している。護衛、奪還、暗殺——何でもやってやる」
「報酬は?」
「金はいらない。俺達が欲しいのはほかマフィアの情報だ。」
ドンは鋭く笑った。だがその笑みの奥で、わずかな興味が揺れる。
「…なるほど珍しい。ではそんなお前たちにとっておきの任務をやる。ちょうど人手に困ってたんでな。」
夏芽の胸の奥で、先ほどの殺しの残像がざわつく。それでも彼は静かに頷いた。任務の性質上、嘘は許されない。柏谷の瞳が小さく光る。二人の手は、既に次に来る何かを受け止める覚悟で固く結ばれていた。
ドンは立ち上がると、部下を一人呼び寄せ、短い指示を飛ばした。やがてその男が小さな包みを取り出し、テーブルに投げつける。中から出てきたのは一枚の紙片。そこには地図の一部と、目印のような暗号が走っていた。
「これが仕事だ。お前らも知っての通り、現在カルタジローネでファミリア・ディ・サングエ・ドーロの連中が急に暴れ出した。そこで、そいつらが何故急に行動を起こし出したのかを調べ上げ、その上で混乱に乗じ奴らを血祭りに上げて俺達の勢力拡大も推し進める。その任をお前ら2人にも任せたい。」
彼の目が、夏芽と柏谷を交互に見る。
「だが注意しろ。そこには“他所の目”もある。民間人やそれを守る警察、あるいは軍隊…そいつらもきっと邪魔してくる。鬱陶しいなら殺しても構わんが、うちがやったって証拠は最低限残すなよ。」
夏芽は地図を受け取り、紙の端を指で撫でる。墨のにじみが示す路地、街路、文字の横に付された小さな印…。
ちょうどいい。これで合法的に八幡直弥らの行方を追えるとともに、ファミリア・ディ・サングエ・ドーロの首領についても同時進行で調べられる。好条件すぎる任務だ。
「得た情報は好きにしていいんだな?」柏谷が簡潔に問うた。ドンは足を組み替え、鼻を鳴らす。
「勝手にしろ。…他の奴らには三千ユーロやると言ってるが、本当にいらないのか?」
一瞬、低い笑いが漏れる。三千ユーロは現地の男たちにとっては分厚い札束だが、ADFや任務の尺度では小遣いにも満たない。
「いらない。」
夏芽は紙切れを掌に収め、柏谷と視線を合わせる。彼らの間に短い合図が交わされる——やる、という決意の確認だ。
部屋を出ると、外の歓声がまた二人を包んだ。夜はまだ長い。だが二人が踏み出した次の一歩は、単なる傭兵稼業を越え、深い水面へと沈み込む決意の始まりでもあった。
***
『いらない。』
その言葉の後、2人が部屋から出てくる気配を感じ、瞬時に酒を飲む構成員たちの人混みに紛れた。そしてそのまま自然に抜け出し、倉庫外へと飛び出した。
幸い、警備の視線はこちらへは向いていない。かといって無理に殺せばかえって怪しまれるだけだ。お得意の隠密行動に徹しよう。
足音をたてずに物陰へと滑り込む。そして建物と建物の間を使い、壁キックの要領で上に登った。
誰にもバレていないようだ。ふうっと息を吐きつつ、無線機を取り出す。
「――首領。」
『……おいっ…どこへ行ってたんだ、ルカ。』
無線の向こうで、ファミリア・ディ・サングエ・ドーロの首領、エンツォ・カルヴァーニの声が響く。
息遣いが荒く、なにやら女性の嬌声も聞こえる
「―――いえ、ほか組織に探りを入れる以外は特に。…そちらはお取り込み中でしたか」
『ああ、まあちょっとな…おら、ちゃんっと腰浮かせろ。』
半分呆れ顔になったルカなる名の男だったが、それは声には出さず続ける。
「スカラーレどもが、我々に向けて攻勢をかける算段を整えているようです。人数は相当、奴らのシマ内ではすでに動員を始めている模様です。」
『スカラーレ……ヴィットリオ・スカラーレか?』
「ええ、あの連中です。動員速度にもよりますが、朝には押しかけてくる気配があります。」
カルヴァーニの低い笑いが漏れる。
『ほう、面白くなって、きたな。迎え討ってやれ。こっちは準備しておく──あの二人もこちらの、手にあるし、のう。』
「二人、ですか?」
『ああ。教会で、転がっておった、ADF構成員共を回収、しておいた。否応なく、利用させて、もらう。見物に値するだろう。』
カルバーニの声が途切れ途切れなのは無線片手に腰を振っているからか。ルカは特に動じた様子もなく、視界の先で倉庫の中を見下ろす。歓声と酒に紛れた雑踏が揺れていた。
「しかし、首領。なぜ彼らがここ、シチリアに顔を出したのでしょうか。潜入者が二人だけとは限りませんし、ほかにも裏があるのではないでしょうか。」
『そうだろうな。規模を測るための囮か、あるいは、もっと大きな、任務の一端か。どちらにせよ、十分に火種にはっ、なり得る。』 カルバーニの声には、興奮めいた含みがあった。
「先程、スカラーレの連中と面会していた傭兵が二名おりましたが──あの二名も、ADFの構成員である可能性があるかと。」
『もしそうなら、なおさら面白い。戦とは祭りだ。思惑はどうあれ、奴らの、抑圧され続けたものが、解き放たれる瞬間を、見てみたい。だがっ…気を、許すな。ルチアーナ・ヴェローネっ…ラ・ローザ・ネーラのシマは、近隣にある。今は友好的でも、状況が燃え上がれば、手を出すだろう。そいつらと、一戦交えるのは避けたい、ところだ。』
「了解しました。ラ・ローザ・ネーラの動きも同時に監視し、異常があれば即報告致します。」
『イル・サングエ・ロッソの、動き、は、読めぬ、が、我らも、駒を、使って、混線を作ればいい。スカラーレを、挑発し、相手のっ…裏を引き出せ。ラ・ローザ・ネーラは、慎重にっ、扱え。向こうが、動くなら、我々は間合いを…取る。』
ルカは微かに笑いを抑え、冷えた夜風を吸い込む。下界からはまだ笑い声が漏れてくるが、屋根の上では次の瞬間に備えた静けさが張られていた。
「承知しました、首領。動きがあり次第、直ちに連絡を入れます。」
『頼むぞ、ルカ。こっちは、ここで綱を、引いてやる。あとはっ…おめぇの、采配だ。…おらっ、ラストスパートだっ、へばんじゃねぇぞ――』
女性のひときわ大きな嬌声が聞こえた後、無線が切れる。ルカはため息を付きつつ、地図に目を落とし、墨で示された倉庫群と退路を改めて確かめた。夜はまだ深く、三つ巴の賭場はこれから幕を切って落とされる。
動乱の空気は、火花を散らせて今にも爆ぜんとしていた。
続く…




