68話 シチリア動乱 - 7 -
――23時11分、D.S.N.設置と同刻
「殺せ…って、でも今襲ってきてるのは人間であって…!」
戦乱の最中にある教会で、直弥はそう黒衣の男に問うた。
「いいえ、八幡直弥くん。彼らは私達が守るべき人間ではなく、我らに仇なす反逆者共です。五原則の鋼条の通り、そのような人間は我らが排除しなければなりません。」
「でも…!」
「いいですか、君の命は君のものだけではありません。私は狂風卿から君の死守命令が出されています。たとえそれを邪魔とする者が魔族であれ人間であれ、私は排除しなければなりません。」
しかも、と男は続ける。
「世界にとっても彼らは害虫であり、放置すれば更なる被害を生む」と、男は静かに続けた。
その声音には一切の情けがなく、ただ論理だけが冷たく並べられている。
「君が今ここで躊躇う理由も分からなくはないです。だだ、相反療術は救済と滅却を同時に内包します。君が『癒す』という意思で人を救えば、その手は同時に『壊す』ことをも学ぶ。逆もまた然りです。選択は常に君の内にありますが、選ばぬことは既に選んでいると同義ですよ、八幡直弥くん。」
直弥の掌は微かに震えていた。
掌の上に残る、あの薄緑の葉──ユグドラシルの紋を写した葉が、指先の間でひらりと揺れたように見えた。光を宿したその葉は、今や彼の意思を問いかけるように静かに脈打っているように見えた。
「君はまだ若い。だが、君の術はすでに成熟の端緒を見せています。私が今ここで君に命じるのは、術式を『死』に向けることです。だが念を押しておくと、これは殺意の称揚ではありません。これは――世界を守るための、最後に残された手段です。」
男はゆっくりと膝をつき、礼拝堂の床に描かれた赤黒の紋様の縁を指先でなぞった。紋は微かに震え、教会内部の空気が滲むように変化した。外で蠢く影たちの足音は、まるで鼓動を合わせるかのように増していく。
「相反療術の本質は『矛盾』。癒すことで滅ぼす。救うことで壊す。君が誰かを救えば、それは同時に別の誰かを滅ぼす鎖の一部となります。だがその鎖を断ち切るために、時には切断の刃を振るう覚悟も必要です。狂風卿はそれを理解しています。だからこそ、彼は君に術を授けたのですよ。」
直弥は言葉にならない声を上げた。胸の奥で何かが裂けるような痛みが走る。彼は、白伊や夢瑤と交わしたささやかな約束や、病室での楓の姿を思い出す。その一つ一つが、今ここで秤にかけられている。どちらを選べば良いのか、頭の中で答えがぐるぐる回る。
「八幡くん。」男が名を呼ぶ。声は柔らかく、それでいて揺るがない。
「君は、今ここで決めなければなりません。生かすために誰かを、殺すのです。殺すために誰かを、生かすのです。どちらが正義か、君が今判断しなさい。君の術はその答えを示すでしょう。」
男は短く片手を掲げ、紋様の中央に向けて指を突き出した。紋は応じるように発光を強め、教会の陰影を赤く滲ませる。
鼓動が一瞬、止まったように感じられた。外の影が教会の窓を叩き、何か粗野な叫びが耳を引き裂く。時間は残酷に切迫している。
直弥はゆっくりと息を吸い込み、目を閉じた。冷たい空気が喉元を通り過ぎる。彼の中で、幼い頃の記憶と今の現実が渾然一体となって押し寄せる。
「……わかりました。」
声はかすれ、震えた。それでも言葉は確かに出た。彼は指先で葉を押しつぶすように、掌の光に意志を注ぎ込んだ。相反療術の反応が、身体を震わせる。世界が一度だけ鋭く瞬いた。
男は頷き、静かに後退する。口元に、わずかな安堵にも似た影が走った。
「良い。術は君の器です。術を、世界を、そして君自身を信じなさい。」
直弥の胸に鋭い痛みが走った。掌に宿る光が一気に膨れ上がる。
炎でも水でもない――それは、光と影が同時に脈動する、小さな世界のようだった。
彼は震える手を前へ突き出す。外では扉が激しく蹴破られ、怒号と靴音が雪崩れ込む。
その音をかき消すように、直弥は頭の奥で囁かれた声をなぞる。
「――相反療術、解放。静域。」
言葉と同時に、掌の光が矢のように飛翔した。
それは暗闇を裂き、教会の奥から外へと走る。
触れた瞬間、構成員たちの身体がびくりと震え、銃が床に落ちた。
だが爆ぜることも燃えることもなく、光は優しく胸を包み込む。
次の瞬間、押し寄せていた男たちは一様に足を止めた。
何が起きたのか理解できず、ただ互いの顔を見交わす。
騒音も、憎悪も、世界から抜け落ちたようだった。
黒衣の男が一歩進み出て、溜息まじりに言う。
「……“殺せ”と、言ったはずなんですがね。」
静域――周囲数メートルの生体反応を一斉に穏やかにし、
疼痛も怒気も、そして戦意すら強制的に鎮める、相反療術の中でも最も制御が難しい領域型干渉術。
まるで世界の音そのものが一瞬で消えたようだった。
銃声も、呻きも、血が滴る音すらも止み、教会の空気が一枚の薄氷のように静止する。
その静寂の中心で、直弥だけが息を荒げていた。
「はぁっ、……くっ……!」
代償に、彼は自身の体内血液の約二割を強制的に術式に供した。
人間は三割の喪失で生命維持が危うくなる――
直弥は意識が飛ばないぎりぎりのラインを、己の肉体と術の勘で見極めた。
だが、それでも急激な貧血症状は容赦なく襲いかかる。
視界の端が滲み、色彩が抜け落ちる。
耳鳴りは遠雷のように脳髄を打ち、世界が二重にぶれて見えた。
「……ぐ……っ」
足がもつれ、膝が硬い石床を打った。
血の気が引いた視界が揺れる。背後では木扉が破砕され、銃声と共に怒号が教会へとなだれ込んでくる。
このままでは――自分も、そして璃久も死ぬ。
だが、意志に反して身体はまるで鉛のように動かない。指先すら震えて言うことを聞かなかった。
そんな直弥の耳に、黒衣の男の低い声が落ちる。
「だから言ったのですよ。――殺すことで、生き延びろと。」
冷ややかな声音に、説教のような諦めが滲んでいた。
男はゆっくりと直弥の横を通り過ぎ、祭壇の前に立つ。
その瞬間、教会の床一面に刻まれた巨大な魔法陣が脈動を始めた。
血のような赤光が縦横に走り、ステンドグラス越しの薄闇すら染め上げる。
マフィアの構成員たちが踏み込んだ瞬間――世界が、一瞬、止まった。
続く刹那、空間が破裂した。
耳をつんざく音も、断末魔も、すべてが赤に呑まれる。
肉体は霧散し、骨すら残らない。血飛沫だけが液状の暴風のように広がり、聖堂の壁を真紅に染め抜いた。
「……っ!」
直弥は息を呑み、目を覆いそうになる。静域の効果で怒気も恐怖も消えているはずなのに――
それでも、吐き気がこみ上げた。
無詠唱。詠唱も印もなく、ただ意志だけでこの威力。
そんなことができる人術師など、自分の知る限り存在しない。
「あなたは……本当に、何者なんですか」
絞り出すように問う直弥の声に、男は背を向けたまま応える。
「名など不要でしょう。――今はただ、命令を遂行するのみです。」
赤光が次第に収まり、血に濡れた教会に静寂が戻る。
だがその静けさは、直弥の心を安らげるものではなかった。
ふわりと、意識が遠のく。
視界は薄絹のように濁り、石床の冷たさだけが肌に残ったまま、直弥はそのまま深い暗闇に沈んでいった。
***
「やれやれ…今度は気を失いましたか。」
教会の静寂を裂くのは、黒衣の男の小さな吐息だけだった。
男は直弥の肩をそっと抱え上げ、仰向けのまま膝の上に置く。血がじわりと滲んだ繃帯の端を押さえつつ、目の端に置かれた無線機の震えに気づいた。
『聞こえる? リント』
若くぬるい声が受信される。男は一瞬だけその声に顔を曇らせ、やがて重く応答した。
「朽宮様…こちらリント。状況報告を。」
『どう? 片付いた?』
「ええ、ちょうど今、八幡直弥と熊野璃久の身柄を確保しました。二名とも貧血で気を失っておりますが、命に別状はないと判断します。」
受話器の向こうで、ふっと朽宮言真の笑いが聞こえた。
『そう。悪いねぇ、最上狩りの最中に』
「いえ。…それで、どういった御用で?」
言真の沈んだ声音が、無線越しに柔らかく滑るように続く。
『あーそうそう、悪いけどその二人はそこで放置しておいて。』
「……放置、ですか?」
リントの声に、僅かに不安が混ざる。肩口で璃久の浅い呼吸を確かめながら、彼は続ける。
『そう。こっちで身柄確保するより、マフィアに渡したほうが後の調査がしやすい。現場で揉め事を起こすより、“賭け”に使った方が合理的だと思って。』
「構いませんが……攫われて彼らが死ぬ可能性も…」
「死なないさ、勘だけどね。」
言真の声は涼やかで、どこか賭けに勝つ男の余裕を帯びていた。リントは短く苦笑すると、無線機に向かって静かに呟いた。
「承知致しました。しかし、こちらで最低限の助命処置は施します。それはよろしいでしょうか。」
『まあ…怪しまれない程度に?』
「了解いたしました。…朽宮様、最後にひとつ──」
『ん?』
「おそらくですが…」
一拍おいて、男は言う。
「この事案、またもや最上シアが噛んできてる可能性があります。」
***
――23時32分
「大丈夫かなぁ……」
夏芽の声が、暗がりの中でぽつりと零れた。
窓の外を流れるパレルモの街灯が、彼の横顔を淡く撫でていく。
黒塗りのセダンは低く唸りを上げながら、いくつもの検問を通過していった。
運転席のカラビニエリ隊員は寡黙にハンドルを握り、助手席の通信員が無線の周波数を細かく調整している。
後部座席では、柏谷狭が装備の最終確認を終え、隣の夏芽遼はぼんやりと窓の外を眺めていた。
任務地・シチリアは、到着の初日からすでに戦場の匂いを帯びていた。
カルタジローネでの爆発と銃撃戦は瞬く間に島全体へ波及し、ここパレルモでも至るところに検問線が敷かれている。
数十メートルごとに鉄柵と装甲車が並び、銃を構える警官たちが冷えた目で通行車両を見張っていた。
つい昨日まで観光客で賑わっていた通りは、今や重苦しい沈黙と焦げた匂いに包まれている。
「検問は厳しいですが……」
柏谷が、低く押し殺した声で呟いた。
「ある意味、安全でもありますね。民間人の出入りが封じられた分、余計な犠牲は出にくい」
彼の声には、いつもの冷たさに加えて苛立ちが滲んでいた。
ポケットの中で何かを弄ぶ指先が、車内の小さな音として響く。
タバコか、それとも別の“癖”か──夏芽には分からない。
「まあ、もし俺らがここでドンパチやることになっても、巻き添えのリスクは減る。
……そういう意味では“マシ”っすよね。」
「いや、まあ、それはそうなんだけどさ……」
夏芽は曖昧に笑ってから、少し言葉を詰まらせた。
「でも僕はそれより──安否が取れない二人のほうが気がかりで仕方ない。直弥くんと、璃久隊員。」
柏谷は何も言わなかった。
ただ、わずかに眉をひそめ、視線を窓の闇に投げる。
夏芽は、彼の首元に残る薄赤い痕を一瞬だけ見て、無意識に目を逸らした。
──熊野璃久の名を出すと、柏谷は決まってこうなる。
不機嫌というより、何かを堪えているような沈黙。
車内の空気が急に重くなった気がして、夏芽は窓越しの街並みに再び視線を移した。
本来なら今すぐにでも、八幡直弥と熊野璃久の救出に向かうべきだった。
だが、それを止めたのはアントニオと――狂風卿、朽宮言真その人である。
今の彼らの任務は救援ではない。
カラビニエリの協力を装いながら、傭兵に偽装し、シチリア最大のマフィア組織『イル・サングエ・ロッソ』の中枢と接触することだ。
外では、検問を終えたトラックの列が重々しく通り過ぎていく。
風に揺れるシチリアの街路樹の間から、遠くに海が見えた。白く濁る波が、夜の光を反射して微かに瞬く。
夏芽はその光を眺めながら、胸の奥に小さな疑念を押し込めた。
――本当に、これはマフィア同士の抗争なのか?
それとも、また“彼”が動いているのか。
無線のスピーカーが突然ノイズを吐き、通信員が慌ててダイヤルを調整する。
「こちら第七部隊、カルタジローネ北部の倉庫街で再度爆発音を確認。火災が拡大中――」
「……もはやクーデターっすね」
柏谷が低く呟く。
夏芽は目を細め、ハンドルを握るカラビニエリに短く命じた。
「予定変更はしない。僕達は急ぎイル・サングエ・ロッソの連中と接触する。―――カルタジローネの方は、直弥くんたちがどうにかしてくれていると信じよう。」
セダンのエンジン音が一段と唸りを上げ、暗い街道を裂くように走る。
その夜、カルタジローネを包む業火は、まだ誰も知らぬ戦端の合図だった。
続く…




