66話 シチリア動乱 - 5 -
沙紀はただ、テレビに映る光景を呆然と見つめていた。
画面の中では、地中海の強烈な陽光を浴びながら、1台の乗用車が炎に包まれている。黒煙が空高く立ちのぼり、周囲の石畳を焦がすように赤々と揺れていた。
テロップには、先ほど彼女が翻訳した文字列が流れている。
『シチリア州カターニャ県カルタジローネにて乗用車一台爆発。周辺各地で断続的な銃声も。テロとの関連性を調査中――』
「……嘘、でしょ。」
彼女の指先がリモコンのボタンを押し損ね、わずかに震えた。
映像の奥で煙の向こうに、崩れた壁や転がる瓦礫が見えた。
逃げ惑う背の曲がった老婆、焦げた黒いコート、そして肩を支えられる誰か。
―――まるで戦場だ。
「……直弥くんは……?」
口に出した瞬間、胸の奥で何かが冷たく沈んだ。
画面がニュースキャスターの顔へと切り替わり、無機質な声が続く。
『現場周辺は警察と軍によって封鎖されており、現時点で犠牲者の身元は確認されておりません――』
沙紀は、後方でソファーで足を組みながら同じくテレビを眺める朽宮言真を振り返り、言う。
「…やっぱり助けに行きましょう、狂風卿。」
「だめ。」
薄ら笑いを浮かべながらそういった彼に、沙紀は詰め寄る。
「―――なぜですか?!直弥くんや璃久教官が、いまこうやって襲われてるんですよ!?それに狂風卿もご自身でおっしゃってたじゃないですか!『緊急時は近隣班が最優先で急行し、支援に回ること』って――!!」
声が震えていた。
普段は冷静な沙紀の目が、今は涙と焦燥で滲んでいる。
彼女の拳は震え、テーブルの上に置かれた報告書をぐしゃりと握り潰した。
言真はその様子をじっと見つめ、ため息をひとつついた。
そして、ゆっくりと椅子から立ち上がる。
「……ミイラ取りがミイラになるだけだよ。」
「――え?」
「軍や警察が周辺を封鎖してる。そんな中で銃器を携えた僕たちが現場に向かえば、真っ先に“敵”として排除されるのはこっちだ。」
言真の声は穏やかだったが、その奥には冷徹な判断が滲んでいた。
机の上のタブレットを指で滑らせ、現地の報告映像を映し出す。
画面には、カルタジローネの裏路地に展開するカ地元警察の姿。
バリケードが築かれ、黒煙が風に流れ、銃口が四方に向けられていた。
「カラビニエリの一人が言ってた。爆破された車には、運転していた彼らの構成員の死体がひとつ。……けれど、直弥くんと璃久の遺体はなかった。」
沙紀の目が見開かれる。
「じゃあ……!」
「そう。多分彼らは生きてる。」
言真は小さく頷いた。
「だが、政府はもうADFとマフィアの共同テロだと疑い始めている。つまり――今、僕らが動けば“その疑惑”を確定させることになる。」
沈黙が落ちる。
外では遠く、非常ベルのようなサイレンが鳴り響いていた。
沙紀は唇を噛み、こみ上げる怒りと焦りを押し殺すようにして、かすれた声で問う。
「……じゃあ、どうするんですか。このまま、何もしないで、あの人たちが捕まるのを黙って待てって言うんですか?」
言真は答えず、代わりに窓の外の夕暮れを見上げた。
その横顔はどこか哀しげで、しかし決して迷いはなかった。
「……“何もしない”わけじゃない。」
彼はポケットから小さな通信端末を取り出す。
そのディスプレイに映ったのは、暗号化された青い回線。
「僕のとっておきの部下に頼んでみるよ。」
沙紀は息を呑んだ。
言真の瞳には、深い闇の奥で微かに光る炎のようなものが宿っていた。
―――狂風卿が、本気で動こうとしている。
***
「八幡!!」
鋭い叫びと同時に、銃声が狭い路地を震わせた。
乾いた破裂音が石壁に反響し、硝煙の匂いが一瞬にして辺りを満たす。
璃久の放った弾丸が、襲いかかってきた男の額を正確に撃ち抜いた。
相手はその場で膝から崩れ落ち、倒れるより早く璃久は再装填に入る。
「走れ!! 右の路地に抜けろ!!!」
怒鳴るような声に、直弥は反射的に足を動かした。
身体のあちこちが痛む。爆風で負った裂傷がじくじくと滲み、呼吸をするたび胸が焼けるようだ。
それでも――止まっていたら、即座に撃ち抜かれる。
後方で、璃久が壁際に身を預けながら撃ち返す音が連続して響く。
「クソッ……! 数が多すぎる、完全に包囲されてやがる!」
直弥は右の細道に身を滑り込ませる。
石造りの建物が不規則に並び、頭上には干された洗濯物がはためいている。
イタリアの古い町並み――しかしその美しさは、いまや血と火薬に穢されていた。
「璃久教官!! こっちです!!」
振り返ると、璃久が低く構えながら駆けてくる。
その手から立ち上る硝煙が、夜気に白く溶けていった。
「裏路地の抜け道を探すぞ! 正面はもうダメだ!」
「はい!」
二人は身を屈めながら、幾つもの角を曲がる。
背後からは追っ手の怒声と、銃弾が壁を穿つ音。
石粉が頬に飛び散り、瓦礫が足元に転がる。
「――ッ!」
直弥の耳元をかすめた弾丸が、頭上の壁を粉砕した。
飛び散る破片に目を細めながら、彼は懸命に走り抜ける。
璃久は前を走る直弥の背を押すように叫んだ。
「坂を登れ! 丘の上に教会がある! そこまで行けば――!」
荒い息の中、璃久はそう叫ぶ。
考える暇もなく、直弥は前方の石段を駆け上がる。
だがその途中、背後で再び銃声が鳴った。
璃久の身体がわずかに揺らぐ――。
「璃久教官―――!」
血の匂いが、夜の風に乗って広がった。
「っぐっ…先に行け、八幡!!」
呻きながらも、璃久は背後の壁を盾にして銃を構えた。
腹部から血が滴り、足元の石畳を赤く染めていく。
「でも、教官――!」
「黙って走れッ!! 命令だ!!!」
怒鳴り声に、直弥は一瞬だけ歯を食いしばり、それから迷いを振り切るように階段を駆け上がった。
振り返ることはできなかった。
足音が遠ざかっていくのを聞きながら、璃久は深く息を吸い込む。
「……ここで食い止める。」
彼は腹を括った。
腰を落とし、右足を一歩前へ。
左足の踵をわずかに浮かせ、両腕をゆっくりと広げる。
夜風が止んだ。
まるで街そのものが、次に起こることを察して息を潜めたかのように。
「―――火術、解放。」
璃久の声が、低く震える空気を裂いた。
左手の小指、薬指、中指の骨が不自然な音を立てて砕ける。
痛みに顔を歪めながらも、彼はそのまま両の掌を前へ突き出した。
「―――散ッ!!!」
手を打ち鳴らす瞬間、眩い閃光が弾けた。
轟音とともに火柱が爆ぜ、路地全体を紅蓮の奔流が呑み込む。
石壁が膨張し、空気が爆ぜ、追ってきた男たちの悲鳴が炎にかき消される。
火の粉が舞い、夜空を焦がす。
カルタジローネの古い街並みが、まるで地獄の口を開いたかのように赤く染まった。
「……これで、少しは稼げるだろ。」
璃久はそう呟き、崩れ落ちるように片膝をついた。
握りしめた拳の骨が軋む。
焦げた匂いと血の味が混じり、視界が歪む。
だがその目だけは、階段の先――直弥の背中を、確かに捉えていた。
「生き延びろよ、八幡……」
その声が風に消えるのと同時に、再び銃声が夜を裂いた。
***
「はあっ……はああっ……」
直弥は荒い息を吐きながら、古びた石造りの路地を駆け抜けた。
肺が焼けるように痛い。
背後では、突然の業火の余波で、焦げた瓦礫の匂いが鼻をついた。
「璃久教官……っ!」
叫んでも返事はない。
あの激戦の中では、生きている保証すらなかった。
それでも――信じるしかなかった。
坂を登りきると、街灯の明かりがわずかに灯る広場へ出た。
真ん中には崩れかけた石の噴水、その奥に古い教会がある。
重厚な扉は半ば焼け焦げており、ステンドグラスの一部が割れている。
「……あそこなら、隠れられる。」
直弥は唇を噛み、慎重に扉を押した。
軋む音とともに、埃っぽい空気が流れ出る。
中は薄暗く、かつて祈りの場だったことを示す祭壇と長椅子が並んでいた。
しかし、壁には銃痕がいくつも刻まれ、聖母像の頭部も欠けている。
「……ひどいな、ここも。」
独りごちた瞬間、外からまた銃声が響く。
反射的に身を伏せ、拳銃を握りしめた。
鼓動が速まる。
額を汗が伝い、呼吸が浅くなる。
――ドン。
背後の扉が、わずかにきぃ……と軋んだ。
誰かが入ってくる。
重く、湿った靴音が、静まり返った教会の床を踏みしめた。
――一歩、二歩。
それはひとり分ではない。
二つの影が、ゆっくりと、確実に奥へと進んでくる。
直弥は息を止め、銃口をわずかに上げた。
指先が汗ばむ。
緊張で視界が狭まり、音だけが鮮明に響く。
――来る。
心の奥でそう確信した瞬間、闇の奥から姿が現れた。
「……なっ……璃久、さん……」
声がかすれる。
そこには、血まみれでぐったりとした璃久を肩に担ぐ男が立っていた。
その男――どこかで見覚えがある。
丁寧に整えられた口髭、鋭い眼差し、そして人間味のないほど整った所作。
まるで機械仕掛けの紳士のような、その冷たい清廉さ。
「……貴方は……」
直弥の脳裏に、あの日の記憶が閃く。
士官学校に初めて足を踏み入れたあの日――
中で無言のまま彼らを待っていた、謎多きあの男。
ただ、今目の前にいるその姿は違っていた。
あの時のスーツではなく、全身を闇に溶かすような黒衣――
まるで歌舞伎の黒衣を思わせる装束に身を包み、顔だけが白く浮かび上がっている。
「久しいですね、八幡直弥くん。」
その声は、穏やかでありながら、異様な冷たさを孕んでいた。
直弥の喉が音を失う。
背筋を氷の指でなぞられるような感覚が走る。
男はゆっくりと璃久を長椅子に横たえ、血のついた手を払うように軽く指を鳴らした。
その仕草まで、異常なほどに静かで整っている。
「……君の運は、まだ尽きていないようですね。」
低く落ち着いた声が、静まり返った教会の中に染み渡った。
男はしゃがみ込み、璃久の身体を慎重に仰向けにする。
その所作に一切の無駄がなく、まるで長年の経験を積んだ外科医のような正確さがあった。
指先が血に触れるたび、淡い光がほのかに灯る。
黒衣の袖口の隙間から覗いた手には、術式のような紋様が浮かび上がっていた。
「……出血は多いですが、臓器には達していない。肩の弾は貫通しかけ…かな。」
淡々とした口調でそう言いながら、男は懐から無音で包帯を取り出し、止血の処置を施す。
そして光の筋が裂傷に沿って走り、血が静かに止まっていく。
術の余韻が空気を震わせ、焦げたような鉄の匂いが立ち込めた。
「……命までは取られていません。さすが――閻魔卿の実子といったところです。」
男は小さく息を吐くと、口元にわずかな笑みを浮かべた。
「強かで、覚悟が決まっている。……父親譲りですね。」
直弥は思わず息を呑んだ。
「あなた……何者なんですか……」
直弥の問いに、男は答えず、ゆっくりと立ち上がる。
黒衣の裾が風のように揺れ、夜の静寂を切り裂く。
「名を問うより先に、命を繋ぐ方が先ですよ。―――八幡直弥くん。」
男の言葉と同時に、床下から鈍い音が響いた。
足元に刻まれるように浮かび上がる光――赤と黒が絡み合い、幾何学的な模様を描いてゆく。
それは魔法陣というより、呪いのようだった。まるで血液が意志を持って這い回り、影と溶け合いながら教会全体を包み込んでいく。
重い空気が張り詰めた。
聖堂の壁に掛けられたステンドグラスが軋み、外の月光がゆらゆらと歪んで見える。
「……なにを、する気ですか。」
直弥の声は震えていた。
それを察したのか、男は一瞬だけ優しい微笑を浮かべる。
「ここはもう、敵に包囲されています。」
低く落とされた声が、まるで葬送の鐘のように響く。
その背後――教会の外では、複数の影が蠢き、呻き声のような魔族の唸りが混じっていた。
「逃げ道はない。君の力で切り開くしかないのです。」
「……僕の、力?」
「――そう。君の“相反療術”で、敵を殺すのです。」
男の声が低く、だが確信を持って響く。
その瞳には冷たさと慈悲が同居していた。
外の扉が破られ、人の影が流れ込んでくる。
怒号とともに、硝煙を伴った風が吹き、教会の蝋燭が一斉に吹き消えた。
「八幡直弥くん。私から言えることは一つだけ。」
男はそう言って、璃久の血で濡れた手を静かに取る。
「――生かすために殺せ、殺すことで生き延びろ。」
教会を覆う魔法陣が、心臓の鼓動に合わせて脈打ち始めた。
直弥の胸の奥で、封じていた何かがゆっくりと軋みながら、目を覚まそうとしていた。
続く…




