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人魔闘諍  作者: ゆっけ
第肆章
66/113

65話 シチリア動乱 - 4 -

「―――じゃあ直弥くん、また生きて会おうね。」


 黒い車に乗り込んだ沙紀は、窓を開けて見送りに来た直弥にそう言った。

 軽やかな口調に似つかわしくない言葉。それでも彼女は微笑を崩さない。


「沙紀さんも、ご武運を。」


「武士?」


 彼女はケラケラと笑った。その笑顔は無邪気さと冷徹さが同居し、見送る者の胸に妙な重みを残す。


 その隣に座っていた言真が、軽く身を乗り出して声をかけた。


「直弥くん、璃久にもよろしく言っといて。」


「了解です。」


 直弥は短く答える。その言葉の裏には「必ずまた会おう」という思いを込めたが、胸の奥には拭いきれないざわめきがあった。

 別れ際の笑顔が、どうしても「死地へ向かう者」のそれに見えてしまったからだ。


 車のエンジンが低く唸り、ゆっくりと動き出す。やがて街の喧騒の中へと溶け込むように小さくなり、最後には視界から完全に消えていった。


 直弥はその場にしばし立ち尽くした。

 胸に広がる空白を振り払うように、深く息を吐いて踵を返す。


 彼の乗る車が待つ場所へと足を進める――その時、港の喧騒に混じって、鋭い怒号が耳を突いた。


「―――んだっつってんだよ、てめぇ!!」


「落ち着け柏谷!任務中だぞ!!」


 血の気を含んだ声と、制止する必死な声。直弥の心臓が一瞬強く跳ね、彼は駆け足で音のする方へ向かった。


 視線の先――停められた車の前で、柏谷が今にも璃久に殴りかかろうとしていた。

 夏芽と数人のカラビニエリが必死に腕を押さえ込んでいるが、荒れ狂う彼の体は暴れ馬のように揺さぶられ、抑え込みきれない。


 一方の璃久は、すでに頬に赤い痣を浮かべていた。

 一撃を食らったのだろう。だが彼は声を荒げるでもなく、ただ氷のような瞳で柏谷を睨み返している。静かながら、その冷たい怒気が場を圧していた。


 何が起きているのか分からず、直弥は思わず立ち止まった。

 その背後から、重々しい溜息と共に大きな腕が肩に回される。


「……オウ、サント チェーロ!せっかく俺が鍵を用意して準備を整えてやったってのに、もう内輪揉めか?」


 振り返ると、アントニオが眉をひそめ、面倒そうな目で現場を眺めていた。


「お前らADFってやつは、血を見る前に話すことはできねぇのか? まったく、ベッロ(可愛い坊や)どもよ…」


 アントニオは片手をひらひらと振り、次の瞬間には口元に薄笑いを浮かべていた。


 すると、しびれを切らしたのか夏芽が柏谷の首筋へ手刀を叩き込んだ。

 鈍い音と共に柏谷の身体ががくりと崩れ、そのまま意識を失う。

 カラビニエリの構成員たちが慌ただしく駆け寄り、気絶した彼を車の奥へと運び出していった。


 夏芽は深く息を吐き、璃久の方へと歩み寄る。


「悪いな、璃久隊員。頬は大丈夫か?」


 璃久は軽く首を振り、抑揚のない声で応える。


「いえ、お気になさらず、強靭公。」


「いや気にするよ。…ってか柏谷のやつ、いきなり何考えてやがんだ…」


 璃久は一瞬ためらったのち、静かに口を開いた。


「元はといえば俺がふっかけたようなものですから、俺にも責任はあります。」


 夏芽は目を細め、苦笑を浮かべる。


「…いやいや、君は君で真面目すぎだ。そんなんじゃ、後ろで見てる八幡直弥くんも、君に馴染めないぞ?」


 夏芽がからかうように言うと、璃久がわずかに眉を動かし、振り返った。

 鋭い視線が直弥に向けられる。


「……なんだ、いたのか八幡。三田と狂風卿の見送りは済んだのか?」


 不意を突かれた直弥は一瞬たじろぎ、言葉を探してから答える。


「ああ、まあ……はい。というか、一体何があったんですか?」


 問い返す彼に、璃久は複雑な表情を浮かべ、視線をそらした。


「……後で話す。」


 短くそう告げる声には、わずかな棘と自制が混じっていた。


 その沈黙を埋めるように、アントニオがからからと喉を鳴らして笑い出した。


「オーオー、ファミリアでも喧嘩はつきものだ。だがな、シチリアじゃ仲間割れは“死の種”だぜ。いいかラガッツィ、次は街の連中の前で同じ真似すんじゃねぇぞ。血が流れる前になぁ」


 唇の端を吊り上げたアントニオの声は、どこか愉快そうでありながら、底の見えない冷たさを含んでいた。


「……いくぞ、八幡。」

 璃久は短くそう言い、無駄な言葉を挟まずに後部座席へと乗り込む。直弥も軽く会釈をしてから、慌ただしくその後に続いた。


「武運を祈る、シニョール・ヤハタ!」

 アントニオが誇張気味に片手を振り、芝居がかった声を張り上げる。その隣で夏芽も苦笑しながら手をひらひらと振った。


 車のエンジンが低く唸りを上げる。車体はゆっくりと港を離れ、地中海の青を背にして石畳の街路へと滑り込んでいく。


 窓の外には、シチリア独特の活気ある街並みが流れていった。陽光に焼けた建物、路地に響くバイクの音、陽気な掛け声。だが車内には一転して重苦しい沈黙が漂っていた。


 直弥は窓に映る自分の顔を見つめながら、無言のまま座る璃久の横顔へと視線を移す。あの柏谷との一件――いや、直前に交わされた「後で話す」という言葉が、頭の中に引っかかったままだった。


「……悪いな、八幡。変なとこ見せちまって」

 璃久が不意に口を開く。その声音には、先ほどの険しさとは打って変わって、どこか苦みを帯びた諦念がにじんでいた。


「いえ……俺の方こそ。何があったのか、聞いても?」

 恐る恐る問いかける直弥。


 璃久は一瞬だけ口をつぐみ、流れる街並みに目をやった。車窓に映るその横顔は硬く、影を落としている。


「……別に、あれ自体の発端はしょうもねぇことだ。あいつがタバコを吸いながら強靭公と喋ってんの見て、失礼だろって払い除けたら、一発もらっちまった」


「え……そ、それだけで?」直弥は思わず声を裏返す。


「まあな。ただの喧嘩だ。任務中にすることじゃねぇが……あいつと俺の間じゃ、火種なんざそこら中に転がってるんだ」

 璃久は苦笑を漏らすが、その瞳の奥は冗談めかすにはあまりに冷えていた。


「……柏谷さん、やっぱり璃久さんのこと――」


「嫌ってるよ。筋金入りでな」

 璃久は遮るように言い切った。その声音に、どこか自嘲の響きが混じる。


「俺…というか、熊野家を嫌ってる。13年前までは普通に仲良かったんだけどな…」


 そう言って彼は窓の外に視線を向けた。


「俺はあいつを憎んじゃいねぇ。だが、あいつからすれば俺らは“許せない存在”だ。その理由は……」


 そこで言葉を切り、璃久は小さく息を吐く。


「―――まあ、八幡。お前が気に病む必要はねぇ。ただ……今後あいつと同じ現場に立つなら、覚悟だけはしとけ。柏谷は敵じゃねぇが、味方って顔でもない」


 直弥は無意識に拳を握りしめ、視線を前へ戻す。車の窓外に広がるシチリアの大地が、妙に遠く思えた。


 やがて車は高速道路へと乗り、風景は徐々に荒々しい山並みへと変わっていった。

 カルタジローネ――そこには待ち受ける任務と、まだ知らぬ試練が横たわっている。


 直弥は深く息を吸い、心を整えた。

 柏谷のことも、璃久の過去も、すべては今はまだ霧の中。だが確かなのは、自分がその渦中に足を踏み入れているという現実だった。



 ***



 カルタジローネの町並みは、近づくにつれ車窓いっぱいに広がっていった。

 乾いた石造りの家々は斜面にびっしりと貼りつき、赤茶けた屋根が幾重にも重なり合い、まるで時の流れに逆らうようにそこにあった。道は細く曲がりくねり、坂を登るたびに視界が開け、遠くの丘陵と青い空とが混じり合う。


 石畳の大通りには、午後の陽射しを浴びた人々が行き交い、露店からは香辛料と焼き菓子の匂いが漂ってくる。古びたバロック様式の教会の尖塔が町の中心からそびえ立ち、その影が広場に長く落ちていた。


 直弥は窓越しにその光景を目で追いながら、言葉を失っていた。異国の空気はどこか懐かしいようでもあり、不思議な居心地の悪さを感じさせた。


「……すごい。まるで街全体が博物館みたいだ。」

 直弥が思わず口にすると、璃久は小さく鼻を鳴らした。


「イタリアってのは、こういう時間が止まった街ばっかだ。だが、こいつは表の顔。裏じゃ血の匂いと火薬の残り香でできてる。…忘れるなよ、八幡。」


 璃久の低い声が、乾いた風と共に車内を流れていった。


 ――その直後、車は町の外れにある古い石門を抜け、石畳の坂道をゆっくりと登っていった。


 しばらくして、道の真ん中で急に車は停まった。


「…どうした?」


 直弥が問いかけると同時に、運転席のカラビニエリ構成員が目を見開き、ハンドルを叩くように叫んだ。


アッバッシアーティ(伏せろ)!!」


 その声が響いた瞬間、外の空気が一気に張り詰め、数発の銃声が夜を裂いた。

 車体をかすめる弾丸の衝撃が鉄板を打ち、耳をつんざく音と火花が弾け飛ぶ。


 直弥の視界が揺れ、隣で璃久が反射的に彼の頭を押さえ込んだ。


 タイヤを狙う銃撃により、車は大きく傾きながら石畳に横滑りし、悲鳴と共に停車した。


 直弥の胸に緊張が走る。

 ――待ち伏せか。


 運転席のカラビニエリ隊員はすでに弾丸を数発浴び、頭から崩れ落ちていた。車内には鉄の匂いと混じり合った生臭い血の臭気が充満する。その中で、直弥の鼻腔を刺す別の刺激臭があった。


「…ガソリン―――」


 つぶやき終えるよりも早く、璃久の腕が直弥の身体を強引に抱え込んだ。次の瞬間、横の扉を蹴破る勢いで飛び出す。


 ――刹那。


 まばゆい朱色の閃光が視界を覆い尽くし、鼓膜を破るような爆音と共に車体は爆散した。燃料タンクを巻き込んだ爆発は炎の竜巻となって石畳の通りを焼き払い、破片が雨のように降り注ぐ。


 二人の身体は吹き飛ばされ、石畳へと叩きつけられた。

 肺から空気が絞り出され、直弥の視界は白く霞む。皮膚を裂くような熱気と、全身に走る鈍痛。


「……っは……!」


 咳き込みながら上体を起こした直弥は、火柱に照らされた瓦礫の向こうに、暗がりから姿を現す影を見た。


 無数の銃口が、赤く煌めく炎を背に彼らへと突きつけられている。


 璃久は血に濡れた額をぬぐいながら、低く呟いた。

「……完全に囲まれてるな。」


 その声は、静かな怒気を孕んでいた。


「立てるか、八幡。」


「…はい、なんとか。」


 身体の節々が軋み、まだ足元はふらついていたが、直弥は歯を食いしばって立ち上がる。


 璃久は短く息を吐き、懐から黒光りする拳銃を抜いた。その目は鋭く敵影を睨みつけ、わずかな隙も見逃さぬ獣のようだった。


「無線機もライフルも、車と一緒に木っ端微塵だ。手元にあるのは懐の拳銃だけ。…この人数をまともに相手取るのは不可能だ。」


 直弥も懐から銃を取り出す。手汗で冷たい金属が滑りそうになるのを必死に握りしめる。視線の先には、石畳の影から現れた十数の銃口。今にも火を噴きそうな沈黙が、息苦しいほど濃く張りつめていた。


 璃久はちらと直弥を見やり、声を潜めて呟いた。


「―――取れる手はひとつしかねぇ。死ぬ気で逃げるぞ。」


 その瞬間、マフィア兵の一人が掛け声を上げ、銃口が一斉に火を噴いた。


 石畳を削る弾丸の雨。火花が散り、爆ぜる破片が視界を白く覆う。


 璃久が先に飛び出した。

「走れ、八幡ッ!!」


 直弥は反射的に身体を押し出す。銃声と爆音が背を追い、肺が焼けるように苦しい。足元をかすめる弾丸の衝撃が、まるで大地ごと叩き割ろうとしていた。


 銃声を背に浴びながら、二人は石畳を蹴りつける。

 正面の道は銃で塞がれている――璃久は一瞬で判断し、左の細い路地へと直弥を引きずり込んだ。


「こっちだ、八幡!」


 幅も人ひとり分しかない石造りの路地は、昼間だというのに薄暗く、頭上には干された洗濯物が風に揺れている。

 銃弾が壁を撃ち抜き、粉塵が舞い、布が破れて地に落ちた。


 直弥は息を荒げながら問いかける。

「行き止まりだったらどうするんです!?」


「そのときは撃ち抜いてでも抜ける!」

 璃久の声は鋭くも冷静だった。


 路地は複雑に折れ曲がり、まるで迷路のようだ。

 背後からは靴音と怒号が迫る。敵も地の利を知っているのか、左右の窓から銃火が閃き、鉛の雨が降り注いだ。


「クソッ!」

 璃久が拳銃を撃ち返す。銃声が狭い空間に響き、直弥の鼓膜をつんざく。


 直弥は必死に走りながら、汗で滑る掌を握り直した。

 路地の奥に、崩れかけた石段が見える。


「あそこから上に!」

 直弥が叫ぶ。


 璃久は頷き、弾丸を一発撃ち込み敵の足を止めると、直弥を先に押し上げた。

 石段を駆け上がり、二人は古びたバルコニーに飛び乗る。


 背後ではなおも追手の影が蠢いていた。


「…追いつかれる前に、さらに上へ行くぞ!」

 璃久の声に、直弥は必死で頷き、瓦屋根の上へと身を投げ出した。


 ――カルタジローネの街並みが、一気に視界に広がる。

 夕陽が赤く屋根瓦を染め、その上を走る自分たちの影が伸びていく。


 だが同時に、別の屋根から銃口がこちらに向けられるのも見えた。


 銃口がこちらを狙った瞬間、璃久が直弥の肩を押し倒した。

「伏せろッ!」

 次の刹那、乾いた銃声が屋根瓦を砕き、赤茶けた破片が飛び散る。


 直弥は息を呑みながら這い進み、必死に身を低く保つ。

 璃久は身を起こして即座に反撃の弾を放つ。火花のように閃光が瞬き、敵の影が一瞬だけ姿を見せる。


「数が多すぎる……」

 直弥は歯を食いしばる。頭上をかすめる弾丸に心臓が跳ね上がった。


「八幡!あの塔の陰まで走れ!」

 璃久が顎で指した先には、石造りの古い鐘楼が立っている。屋根から屋根へ、飛び移れば辿り着ける距離だ。


「無理だ、落ちたら――」

 言い切る前に、璃久が直弥の腕を強引に引っ張った。

「死ぬよりマシだ!」


 二人は屋根を駆け、飛び移る。直弥の靴底が瓦の端をかすめ、危うく滑り落ちかけたところを璃久が引き上げた。


 その直後、背後で銃弾が雨のように降り注ぎ、屋根瓦が派手に砕け散る。


 塔の陰に身を滑り込ませた二人。荒い呼吸が耳に響く中、璃久は低く呟いた。

「……完全に包囲されてるな。」


 そう言って、塔の壁に穿たれた狭い木の扉を蹴破る。

 軋む音と共に中へ飛び込むと、そこは埃と煤にまみれた鐘楼の内部だった。


「ここから路地裏に抜ける通路があるはずだ。昔の街はそういう造りになってる。」

 璃久の言葉に直弥はごくりと息を呑む。


 だが背後の屋根からは、なおも敵の影が迫っていた――。


 続く…

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