64話 シチリア動乱 - 3 -
遠くの水平線を割るように進む一隻の黒い艦影。
それを見据えながら、男は白のローブを潮風にはためかせ、口元に愉悦めいた笑みを浮かべた。
「――ようやく来たか。八幡直弥くんと…それに、朽宮言真もか。」
声は低く、しかしどこか芝居がかった響きを帯び、波間に溶けていく。
男はゆっくりと振り返り、その背後に控えていた小柄な少女に目を向けた。
長い黒髪を無造作に束ね、その童顔に不釣り合いな冷ややかな眼差しをたたえた少女――鷹觀ヨル。
「……鷹觀、準備はできているかい?」
鷹觀はわずかに顎を上げる。
「――はい、全ては最上様のために。」
その声に、男の口元の笑みがさらに深まった。
「焦ることはないさ。舞台は整った。あとは彼らが自ら幕を開けるのを待つだけだ。」
潮騒の音が二人の間を満たす。
黒い艦影は、刻一刻とこちらに近づいていた。
***
「おー、なかなか絶景だねぇ〜!」
言真が甲板の手すりに身を乗り出し、潮風を真正面から受けて、子どものようにはしゃいだ声を上げた。
「……はしゃぐなって言ってた狂風卿ご自身が、はしゃいでどうするんですか」
隣で夏芽が、呆れを隠さない声音で低くたしなめる。
「あれ?そんなこと言ったっけ? ……まあ、まだ島に着いてないし、ご勘弁って感じ?」
言真は悪びれもなくにかっと笑い、ひらひらと手を振る。その軽さに、夏芽は頭を抱えるように肩を落とした。
直弥は、そんな二人のやりとりに苦笑しつつも、自然と視線を周囲に巡らせる。
沙紀や璃久も隣でその景色を眺めていた。ただ、一人だけ姿が見えない。
(……柏谷さんは……?)
胸の奥に鈍い感覚が走る。あの廊下での光景が嫌でも脳をかすめる。
「……」
思わず息を潜めてしまう。目を逸らそうとしても、意識のどこかが、柏谷という存在に囚われ続けていた。
その時、璃久が低い声で言った。
「……あまり気にするな。あいつは今船倉にいる。出航すぐから一人で武器を磨いていたらしい」
直弥が顔を向けると、璃久の視線は水平線を見据えたまま動かない。
「恨みは深いが、任務を壊すような真似はしない……と、信じてる。」
沙紀がちらりと直弥を見やり、心配そうに眉を下げた。
「……直弥くんも、無理しないでね」
直弥は小さく頷いたが、その胸中には、柏谷の冷たい瞳がなおも焼き付いていた。
船はそのまま、シチリア島の影を視界に映しながら、静かに進んでいった。
***
「さてさて、やっとついたわけだけども」
白い航跡を背後に残しながら船が港に着岸する。甲板から見下ろせば、パレルモ港の石畳は陽光を反射して眩しく、潮と香辛料の匂いが入り混じった空気が鼻を突いた。
言真が軽快にそう口にすると、夏芽はすぐさま周囲を見渡し、護衛としての警戒を崩さない。
「……観光じゃないんですから、気を抜かないでくださいね」
「わかってるって。でも、せっかくのシチリア、最初ぐらいは空気を楽しまないと」
言真は肩をすくめて笑い、長旅の疲れを少しも見せなかった。
直弥は港の喧騒を耳にしながら、少し緊張気味に視線を走らせる。積み荷を運ぶ男たち、魚を捌く露店の女たち、路地裏に佇む子どもたち――いずれも異国の匂いをまとい、どこか現実味を欠いて映る。
沙紀は「すごい人が多いね」と小声で感嘆し、璃久は荷物を抱え直しながら「迷子になるなよ」と苦笑する。
はしゃいだように桟橋を駆けていく言真と、それを追いかけて半ば呆れた声をあげる夏芽。その後ろ姿を、直弥は苦笑を浮かべながら見やり、自分も足を進めた。
――ふと、背後に視線をやる。
そこには、大きなダッフルバッグを足元に置き、群衆からわずかに距離を置いて煙草をふかす柏谷の姿があった。潮風に混じって鼻先をかすめる煙草の匂いは、不思議とこの土地の空気から浮き上がって感じられる。
直弥はしばらく、その横顔をじっと見つめていた。焔の先が赤く揺れ、吐き出される煙が陽光の中に薄く消えていく。その姿は、どこか自ら孤立を選び取っているかのようで――声をかけるべきか、ほんの一瞬迷う。
だが次の瞬間、柏谷がこちらに気づき、鋭い視線を投げつけてきた。
その双眸には、言葉以上の拒絶が宿っていた。
直弥ははっとして、慌てて視線を逸らす。足取りが自然と早まり、前を行く沙紀や璃久の背に追いつこうとする。
(仕方ないけど……やっぱり嫌われてるなぁ)
胸の奥に重石のような感覚が沈む。嫌悪の対象にされているのは分かっていたはずなのに、実際に突きつけられると、思った以上に堪える。
振り返れば、柏谷はまだ煙草を口にくわえ、こちらにはもう関心を示していない。その姿を目の端で捉えながら、直弥は小さく息を吐いた。
そんな彼の肩を、不意に沙紀が軽く叩く。
「直弥くん? どうしたの、ぼーっとして」
「……あ、いや、なんでもない」
無理に笑みを作ってみせ、直弥は歩調を合わせた。
カラビニエリの三人に先導され、六人は港を抜けて大通りへと足を進めた。
パレルモの街並みは、地中海の陽光を浴びて鮮やかに輝いていた。古びた石造りの建物の壁は淡いオレンジや黄土色に染まり、バルコニーには色とりどりの花が咲き乱れている。狭い路地には洗濯物が風に揺れ、陽気な声とクラクションが入り混じって響いていた。
観光客らしいグループが写真を撮り合い、露店からはエスプレッソやオリーブの香りが漂ってくる。その喧騒の中に、黒い服を纏った彼らが紛れ込むと、どうしても異質さが際立った。まるで祭りの中に忍び込んだ影法師のように。
「すごい……これがシチリアの街なんだ」
沙紀が目を輝かせ、あちこちを見回す。
「はぐれるなよ。こっちは任務中だ」
璃久が苦笑混じりに釘を刺すが、その声も少し浮ついているように聞こえた。
言真は相変わらず子どものように建物を指差し、夏目はそのたびに「落ち着け」と低く諫める。二人のやり取りは、さながら修学旅行の引率教師と生徒のようだった。
直弥はそんな仲間たちの背を追いながら、ふと振り返る。
そこには、少し距離を置いてついてくる柏谷の姿があった。無表情のまま煙草を指で弄び、誰とも口をきこうとしない。その横顔は、喧騒の中にあっても一切の色を映さず、孤独を選び取るように沈んで見えた。
(……本当に、どうしてここまで自分を避けるんだろう)
胸の奥にわだかまる思いを抱えたまま、直弥は視線を前へ戻した。
六人はそのまま歩調を乱さず進み、指定された集合場所へと向かう。
大通りを抜け、人通りの少ない裏通りへと入る。陽光の射す街角から一転、そこは建物が密集して影が濃く落ち、喧騒も遠ざかっていた。石畳の道は古びてひび割れ、湿った匂いと排水の臭気が入り混じって鼻をつく。
カラビニエリの一人が足を止め、鉄製の扉の前で二度、三度と短くノックした。しばしの沈黙ののち、扉の向こうから軋む音が響き、重い扉が内側へと開く。
「……入りな」
現れたのは中年の男だった。無精ひげを生やし、くたびれたジャケットを羽織っているが、その目は獣のように鋭い。どこかギャングじみた雰囲気を漂わせながらも、こちらを敵視しているわけではなかった。
「彼は現地協力者だ。名前はアントニオ」
カラビニエリの一人が簡潔に紹介する。
「早く入れ。無駄に立ち話してると目をつけられる」
アントニオは周囲を一瞥し、低い声で促す。
六人はその後に続き、薄暗い通路を抜けていった。中は古い倉庫を改造したような建物で、窓は板で打ち付けられ、外光はほとんど遮断されている。薄暗いランプがいくつも吊るされ、埃と油の匂いが立ち込めていた。
奥に用意された広間に通されると、そこには既に地図や資料が並べられた簡易の机があり、粗末な椅子がいくつも置かれている。壁際には無線機や武器らしきケースまで積まれていた。
「ここが作戦本部になる」
カラビニエリの一人がそう告げ、机の上に新しい資料を並べる。
「ボーノ、やっと来たかい、裏世界の番人達よ」
アントニオは煙草を咥え、マッチを擦りながらそう言った。
彼は煙草に火をつけ、深く吸い込むと紫煙を吐きながら椅子に腰を下ろした。
「……あんたら、見るからに場違いだな。黒ずくめの観光客なんて、パレルモじゃ目立つことこの上なしだ」
くくっと喉の奥で笑い、机に広げられた地図を指で軽く叩く。
「いいかい、ここはシチリア。美味いワインも女も山ほどあるが、それ以上に“血”の匂いが濃い場所だ。あんたらのお目当ては、この三つのファミリーだろう?」
地図には赤・黒・金の三つの印が描かれている。
「イル・サングエ・ロッソ。血で血を洗う狂犬ども。次にラ・ローザ・ネーラ。見た目は華やかだが、根っこは毒だらけの薔薇だ。そしてファミリア・ディ・サングエ・ドーロ。金の力で街を縛る、いけすかねぇ連中よ」
アントニオは煙草を灰皿に押し付け、にやりと笑った。
「――で、そのどれかのボスが“化けモン”ってわけだ。誰がどの面の皮を剥いでるのか……俺も興味あるな」
わざとらしく肩をすくめ、視線を直弥たちに流す。
「ただ覚えきな。ここじゃ正義だの秩序だの、クソの役にも立たねぇ。動くなら迅速に、殺すなら迷わず。そうしなきゃ、この街の方があんたらを食っちまう」
「怖いねぇ」
言真はそう言いつつ笑う。
「友人からのささやかな忠告さ、シニョール・クチミヤ。マフィアの怖さを語るにはまだまだ言葉が足りねぇってもんよ。」
アントニオの皮肉に言真はすっと笑みを深める。
「そう言うアントニオも、その忠告が僕達ADFには野暮ってこと分かってるんだろう? 僕達が正義の心を持ち合わせてるなんて、君も思ってないはずだよ」
間髪入れず、アントニオが鼻の奥でひくりと笑った。
「…やはり面白いラガッツォだ。最初見たときは、こんなガキが四堂の座に就いてるのかと正直舐め腐ってたが、芯がしっかりしていて隙がない。齢十にも満たぬ子供に見えるお前が、俺より口達者だとはな。ADFは、いや――お前らは色々と器用に作られてるな」
言真の顔に薄い紅が差すでもなく、くすくすと楽しげに笑う。周囲の空気は一瞬だけ和らいだが、すぐに務める顔に戻る。
璃久が手元の資料を一瞥して冷たく言う。「お世辞は結構だ。時間がない。具体的な動きと退路の確認に移る」
アントニオは肩をすくめ、ジャケットの内ポケットから鍵束を三つぽんとテーブルに投げ出した。金属が軽く弾ける音とともに、鈍い光が紙の上で踊る。
「シチリアのいち住民としてのプレゼンテさ。イル・サングエ・ロッソの本拠はここ、パレルモ。ラ・ローザ・ネーラはカターニア。ファミリア・ディ・サングエ・ドーロはカルタジローネだ。各地に俺らの“隠れ家”を用意した。鍵はそれぞれの地下口を開けるやつだ。チーム割りは済んでるんだろ? あとはカラビニエリが車で連れてってくれる」
テーブルの上で三つの鍵は見た目も材質もバラバラだった。ひとつは古びた鉄製で分厚く、ずしりと重い。ひとつは真鍮色に光る小振りな鍵で、刻印が施されている。もうひとつは簡素だが精巧なピンが並ぶ新しめの鍵——形状の違いが、それぞれの拠点の性格を物語っているようだった。
沙紀が無言で手を伸ばし、自然とそのひとつを掴む。指先で形を確かめる仕草は、長年の訓練で培われた習慣のように淡々としている。視線はそのまま言真へ移り、短く頷いた。言真はくすりと笑って鍵を手元で転がし、軽い声で付け加える。
「どれがどの鍵かは現地で確認しよう。鍵の色で覚えてればいい。あと、集合時間は各現地時間で合わせてある。連絡は全て暗号化済み。何かあったら即座に“フォルテ”の合図を送る。合図を受け取ったら、近隣班は最優先で急行し支援に回ること」
璃久が資料を床に広げ、各班の細かなタイムラインと退路を指でなぞる。柏谷は煙草の灰を落とすようにして黙って首を振らない。
「じゃあ、二時間後に散開。それまでに準備するなりしときなよ〜」
言真が短く告げると、皆が各々の装備を最終確認し、部屋を後にした。外ではいつものパレルモの喧騒が、何事もなかったかのように彼らを迎えている。だが彼らの背には、これから交わされる血と策の予感だけが重くのしかかっていた。
続く…




