61話 作戦前夜
直弥は士官学校をあとにし、街の中心部へと足を向けた。
制服の襟を緩め、吐き出す息はわずかに重い。
今日は授業を休み、病院へ向かう――そのことは事前に璃久教官へ伝えてある。明日に任務を控えているため、出発前に一度だけ妹に顔を見せ、言葉をかけておきたいと告げると、教官はいつもの厳しさを崩し、あっさりと許可を出してくれた。
沙紀は、いつも通り講義を受けているはずだ。校舎のどこかで、真面目にノートを取りながらこちらを気にしている光景が、ふと頭に浮かぶ。
街の中心部は、士官学校の整然とした区画とは違い、午後の光に包まれた人の気配が濃い。店の軒先に吊るされた布や、通りを走る搬送車の音が混じり合い、ユグドラシルに支えられ築かれた都市特有の、地下とは思えない空気の広がりをつくっている。
直弥はポケットに手を突っ込み、無意識に指先で士官学校を弄んだ。これから会う妹の顔を思い浮かべ、胸の奥で何かがじわりと疼く。
――あの子は今、どんな表情をしているだろうか。
そう呟きたくなる思いを彼は言葉にせず、足を止めずに病院の区画へと歩を進めた。
***
「―――あ、直弥くん来た。」
白伊の病室に入った瞬間、ベッド脇に腰かけていた病衣姿の曹夢瑤がぱっと顔を上げ、声をかけてきた。
「え、夢瑤さん!? こんなところにいて平気なんですか?」
「うん、だいぶ回復したし、病院内ならある程度自由に動けるようになったの。」
彼女は少しだけ笑みを浮かべ、腕に残る点滴の跡を軽く指で撫でた。
「そうなんですね……というか、日本語……」
「暇だったから、俺が叩き込んだんだよ。」
ベッドに寝転がったままの白伊が、天井を見ながら得意げに呟く。
「やっぱ曹の妹なだけはある。飲み込みが異様にはえぇ。」
その言葉に夢瑤は肩をすくめて、恥ずかしそうに笑った。
「先生が言うことは、なんだか頭にすっと入ってきたの。」
「……先生って」
直弥が思わず吹き出すと、白伊は目を細め、口元をにやりと歪めた。
「まあ、俺は何でも教えるタイプじゃないけどな。」
病室には一瞬、三人の間だけの柔らかい空気が流れた。白伊がこんな表情を見せるのは珍しい、と直弥は思いながら、夢瑤のほうへ視線を戻す。
「体調は本当に大丈夫なんですか? 無理してないですか?」
「うん、大丈夫。……直弥くん、これから妹さんにも会いに行くんでしょう?」
夢瑤はまるで直弥の胸の奥をのぞき込むような、穏やかな声で問いかけてきた。
「え? なんで知って……」
「朝、沙紀ちゃんから電話があったの。『今日直弥くんが来るよ』って。妹さんのことも、少し聞いたわ。」
「……そう、だったんですか。」
直弥は思わず視線を落とし、指先で膝を撫でる。自分の一番奥にしまっているものを、軽く言葉にされると、胸の奥がむず痒くなる。
「ごめんなさい、嫌な聞き方になっちゃった?」
夢瑤は首をかしげ、申し訳なさそうに微笑む。
「い、いや……そんなことないです。ただ、ちょっと驚いただけで。」
白伊が鼻で笑った。
「お前隠しごと下手だな。顔に全部出てんぞ。」
「う、うるさい。」
直弥が顔を赤くしながら言い返すと、夢瑤が小さく吹き出し、病室の空気がやわらかくほぐれた。
「でもね、妹さんきっと喜ぶと思うよ。あなたが顔を見せに行くだけで。」
夢瑤のそのひと言に、直弥の胸の奥に張りついていた緊張が、ほんの少しだけほどけていった。
「……そうだといいんですけどね。」
思わず視線を落とした彼に、夢瑤はくすっと笑い、わざと軽い調子で続ける。
「久しぶりに会えるんでしょ? ならそんな浮かない顔してないで、しゃきっとしなよ!」
その明るい声に、白伊が「おお、説教始まったぞ」と肩をすくめる。直弥は頬をかきながら、どこか照れくさそうに笑った。
「……はい、そうですね。しゃきっと、ですね。」
「そうそう。怖い顔してたら妹さんまで緊張しちゃうじゃない。いつもの直弥くんで行けばいいの。」
夢瑤の言葉は冗談めいているのに、不思議と胸にあたたかく沁みてくる。
直弥は深く息を吸い、そして小さく頷いた。
「――ありがとうございます。少し元気出ました。」
その横顔を、夢瑤は静かに、そしてどこか誇らしげに見つめていた。
直弥は、胸の奥にまだ残っている緊張をひとつ吐き出すように息をつき、言葉を継ぐ。
「……俺、明日から任務でしばらく来られないので、白伊くんと夢瑤さんにもちゃんと挨拶しておこうと思って来たんです。」
「任務?」夢瑤が目を丸くする。
「はい、海外での調査任務です。詳細は言えないんですけど、しばらくは病院にも顔を出せなくなると思ったので。」
その言葉に、夢瑤はそっと頷いた。心配そうな視線と同時に、どこか背中を押すような笑みを浮かべる。
「そっか……大変だね。でも、気をつけて行ってきて。」
夢瑤がやわらかく言葉をかける横で、ベッドに横たわっていた白伊が、ふいに寝返りを打ち、ぶっきらぼうに呟いた。
「……わりぃな。俺も本当は行きたかったけどよ、生憎こんな身体じゃまだまだ動けそうにねぇ。」
直弥はその声に思わず笑みをこぼす。白伊の不器用な言葉の奥に、羨望と、そして心配が入り混じっているのを感じたからだ。
「気にしないで。白伊くんがいてくれたから、俺はここまで来られたんだし。……任務、ちゃんとやり遂げて戻ってくる。」
その言葉に、白伊はわずかに眉を上げ、視線を横に逸らしながら低く笑った。
「ふん、せいぜい死ぬなよ。俺が退院するまでにちゃんと戻って来い。今度こそ一緒に暴れてやるからな。」
夢瑤もまた、二人のやり取りを見て小さく笑みを浮かべる。
病室に流れる空気は、つかの間だけど確かにあたたかいものだった。
***
「―――妹に会いたい、と。」
カルテから顔を上げたアンナ・ファルコンが、ゆっくりと確かめるように言った。白衣の袖口からのぞく細い指が、ペンを回す動きを止める。
「……はい。」
直弥は小さくうなずき、声が自然と硬くなるのを自覚した。
病室の空調の音だけが、しばし二人の間を埋める。
アンナは目を細め、机の上の書類を指先で整えながら、落ち着いた口調で続ける。
「楓さんの状態は、今のところ安定しているわ。」
アンナはカルテを閉じ、ゆっくりと直弥を見つめた。その瞳には、慎重な光が宿っている。
「ただ――鳴矢高校事件以降、彼女はまだ目を覚ましていないの。面会はできますが、刺激しないこと、そして長居しないこと。……約束できる?」
直弥は言葉を失い、硬くなった喉を動かしてようやく答えた。
「……はい。もちろんです。」
アンナはほんの一瞬、柔らかな笑みを見せ、立ち上がった。
「それなら大丈夫。こちらへどうぞ。」
案内に従って、直弥は静まり返った廊下を歩く。白い壁にかすかな消毒液の匂いが漂い、足音だけが規則正しく響いた。
やがてアンナが立ち止まり、静かにドアを押し開ける。
個室の中は外の世界から切り離されたように静かだった。カーテン越しに柔らかい光が差し込み、モニターの電子音が一定のリズムを刻んでいる。
ベッドの上で眠る少女は、まるで時間が止まったような穏やかな顔をしていた。
「……楓……」
直弥は小さく名を呼び、ベッドサイドに歩み寄る。胸の奥で硬くなっていたものが、じわじわと熱に変わっていく。
アンナは一歩下がり、気を遣うように声をかける。
「起こさないようにね。声をかけるなら、そっと。」
直弥はゆっくりと椅子に腰を下ろし、妹の細い手を握った。まだ幼さの残る指先のぬくもりが、はっきりと伝わってくる。
「……久しぶりだな、楓」
その声はかすかに震えていた。
直弥は椅子に深く腰を下ろし、膝の上で握った手に視線を落とした。
モニターに映る楓の心拍は規則正しく波打っている。だが、その規則正しさが逆に恐ろしい。まるで「変化がない」という現実を突きつけられているようで。
彼女の顔を見ると、どうしても胸の奥から後悔が噴き上がってくる。
鳴矢高校事件。すべてが始まり、すべてが終わったあの瞬間が、何度も何度も頭の中で反芻される。
もしあの事件がなければ。もし自分がもっと早く動けていれば。母も父も、楓も、あのまま何気ない日常を笑い合いながら過ごしていたはずだった。
脳裏に浮かぶのは、路地裏に横たわる地獄のような光景。
魔族の、原型をとどめないほどの死骸。赤と青の混じる血飛沫に濡れた桜田風音の背中。そして――今でも夢に見る二人の姿。
首と胴が離れ、無残に転がる母の亡骸。そのすぐそばで意識を失い、ぐったりと倒れている楓。
直弥は唇を強く噛んだ。
「……なぁ、楓。」
かすれた声で言葉を紡ぐ。
「俺、また戦いに行くんだ。……怖いよな。俺も怖ぇよ。でも、やらなきゃいけない。もう、二度と誰かを……お前みたいに、こんな風に眠らせたくないから。」
彼女の細い手をそっと取る。指先は冷たくもなく、温かすぎることもなく、ただ静かに人の温度を保っていた。
「だから、少しだけ……俺に力を貸してくれ。お前が起きるまで、俺は絶対に諦めない。いつかまた、くだらねぇことで笑ってくれよ。」
沈黙。
当然、返事はない。だが、直弥はその沈黙にすら意味を見出そうとするように目を閉じ、深く息を吸い込んだ。
アンナはカルテに目を落としたまま、声を落として続ける。
「……表層の皮下出血や裂傷はすでに瘢痕化しているし、骨折も順調に癒合しているわ。見た目的には回復しているように見えるでしょう?」
彼女は一度視線を上げ、直弥を見た。
「でも、問題は中枢神経系よ。脳実質内の出血がまだ吸収しきれていないし、広範囲の軸索損傷も確認されている。電気的な活動は残っているけれど、意識レベルは深い昏睡のまま……。それが一番の障壁なの。」
直弥は唇を噛み、楓の顔をもう一度見つめた。穏やかな寝顔は、たしかに治っているように見える。しかしその奥に広がる損傷の深さを、アンナの言葉が突きつける。
「回復の兆しが見えないわけじゃないのよ。」アンナは少し声を和らげた。「神経再生を補助する薬剤と刺激療法を併用しているから、反射はゆっくり戻ってきている。だけど――まだまだ時間が必要なのよ。」
アンナはカルテを閉じると、しばし無言で楓の顔を見つめた。
「……あなたが来ると、やっぱり表情が少し柔らいでる気がするわ。」そうぽつりと呟く。
「刺激はできないけど、声は届いているかもしれない。だから今のように、任務から戻ってきても時々話しかけてあげて。」
直弥はかすかにうなずき、もう一度妹の手を握った。冷たさは消え、ゆるやかに温もりが戻っている。
「……楓。必ず戻ってこいよ。俺も負けないから。」
アンナは小さくため息をつき、時計を見て立ち上がった。
「―――そろそろ時間よ。脳の回復には安静が一番だから、今日はここまでにしましょう。」
彼女はカーテンを引き、部屋の明かりを少し落とす。
直弥は立ち上がり、楓の寝顔にもう一度視線を落とした。
呼吸器の規則正しい音が、逆に生きている証のように響く。
その音を胸に刻むように、直弥はゆっくりと病室をあとにした。
廊下に出ると、消毒液の匂いが鼻をかすめる。
遠くでナースステーションの電話が鳴り、誰かが笑いながら応じる声が聞こえる。
世界は動き続けているのに、妹だけが時を止めているような感覚が直弥を包んだ。
***
夜はとうに更け、射撃場には低く響く換気音と、火薬の残り香だけが漂っている。
任務に必要な装備はすべて点検し終え、銃身の微調整も済ませた。あとは出発を待つだけ——それなのに、直弥はベンチに腰を下ろし、背を丸めて項垂れていた。
硬い床に響く自分の呼吸音が、ひどく遠く感じる。
任務の緊張感と、病院に横たわる妹の姿。二つの像が頭の中で絡み合い、解けない縄のように心臓を締め付けてくる。
気づけば指先が震えていた。
——何やってんだ俺。
頭を振ってみても、重たい感情は簡単には振り払えない。
耳の奥で、誰かの声がかすかに蘇る。沙紀の穏やかな声、夢瑤の明るい励まし、そして病室の妹の沈黙。
「……くそ。」
直弥は小さく呟き、両手で顔を覆った。
射撃場のドアがゆっくり開き、夜気がひやりと流れ込む。
鉄と油の匂いに混じって、その冷たさが肌を刺した。
「――ここにいたのか、八幡。」
低く澄んだ声が静寂を断ち切る。
顔を上げると、任務前の黒いコンバットスーツに身を包んだ璃久教官が立っていた。肩まで伸びる髪を後ろで束ね、腰にはサイドアーム。普段の教官らしい端正な姿より、今の方が戦場の匂いをまとっている。
「最後の調整かと思ったら……ずいぶん暗い顔してるな。」
璃久はそう言って、ベンチの反対側に腰を下ろした。金属の椅子が軽く軋む音が二人のあいだに響く。
「三田が心配していたぞ。お前がいつまで経っても部屋に帰ってこないってな。」
言葉は軽く投げられたのに、その奥にほんのわずかな気遣いが滲んでいる。
直弥は視線を落とし、かすかに息を吐いた。
「……すみません。最後にもう一度、確認しておきたくて。」
璃久は黙ってしばし彼を見つめ、それから膝に肘を置き、指先でリズムを刻むように机を叩いた。
「確認ね……銃の調整だけじゃないんだろう?」
その声音は責めるでもなく、ただ本音を引き出そうとするように柔らかかった。
直弥の胸の奥で、押し込めていたものがわずかにうずく。
——妹のこと、任務のこと、あの日のこと。
「……教官。」
彼はゆっくりと口を開いた。
「正直、頭の中がごちゃごちゃで……うまく整理できないんです。」
璃久は背もたれからゆっくり身体を起こし、膝に肘を置いたまま真っ直ぐ直弥の顔を見た。
戦場に立つ者特有の冷ややかさと、どこか師としての温度を帯びた視線だった。
「八幡、あのな」
低い声が射撃場の壁に反響する。
「任務の前に頭の中をきっちり整えるやつなんていない。誰だってぐちゃぐちゃだ。俺だってそうだ。違うのは、それを戦場に持ち込むかどうか、だけだ」
直弥はその言葉に顔を上げ、思わず問い返した。
「……持ち込んだら、どうなるんですか」
「簡単だ。お前か仲間のどちらかが死ぬ」
璃久は淡々と言い切った。その静けさがかえって言葉の重さを増している。
「だから今ここで吐き出せ。家族のことでも、任務の不安でも、俺に言えるなら言え。言葉にして外に出した分だけ、戦場での判断は軽くなる」
直弥は視線を落とし、深く息を吸った。胸の奥に重く沈んでいたものが、今にも口を突いて出そうになっている。
璃久は目を細め、銃を分解していた直弥の手元から工具を取り上げ、代わりに自分の掌を差し出した。
「撃ち方は教えた。構えも教えた。……あとはお前が背負ってるものを整えるだけだ」
静かな射撃場に、二人の呼吸だけが響く。
直弥は小さく頷き、唇を噛んだ。
「……妹が、まだ目を覚まさなくて」
押し殺した声が、ついにこぼれた。
「任務に行く前に顔を見てきたんです。だけど、あのときのままで……俺がもっと強かったら、守れたのにって、ずっと考えてて」
璃久はうなずいた。
「……それは背負っていい。だが、戦場では武器に変えろ。後悔を武器にして動け。迷いとして持っていくな。いいな」
直弥は驚いて顔を上げた。璃久の表情は厳しいが、その目の奥には確かな信頼が宿っていた。
「お前はもう、ただの訓練生じゃない。自分の選択で戦う人間だ。……その覚悟を持って、明日立て」
その言葉が、胸の奥にゆっくりと染みていく。
直弥は静かに頷き、深く息を吐いた。
「……はい、教官」
璃久は立ち上がり、肩に手を置いた。
「よし。ちょっとは顔つきが戻ったな。……少し休め。数時間後には出発だが、まともに頭動かなきゃそれ以前の話だからな」
そう言って歩き出す背中を直弥は見据えていると、彼は一瞬立ち止まって振り返らずに言った。
「―――お前の気持ちは分かる。俺も、兄貴を失ってから色々あったからな。」
璃久の足音が、射撃場のコンクリートに乾いた反響を残しながら遠ざかっていく。
ドアが開き、夜気がまたひとすじ流れ込んだ。振り返らぬまま吐き出された「兄貴」という言葉だけが、重く空間に残る。
直弥はベンチに腰をかけたまま、思わず背筋を伸ばした。
璃久教官が過去を語ることはほとんどない。彼のような人間にも、失うものがあったのか——その実感が胸に刺さる。
拳をゆっくり握る。指先に感じる冷えた空気が、かえって心を引き締めた。
(……俺だけじゃない。みんな、何かを失って、それでも戦ってるんだ)
銃の分解したパーツをひとつずつ確かめ、丁寧に組み直す。
その動きは先ほどよりも迷いがなく、息も整っている。
小さなクリック音が、射撃場の静寂に一定のリズムを刻んだ。
最後のボルトを閉め、直弥はそっと立ち上がる。
もう夜は深い。任務まで残された時間はわずかだが、胸の奥の迷いは少しずつ形を変え、固い決意へと沈んでいく。
(……必ずやり遂げる。楓、お前にまた笑ってもらうために)
続く…




