60話 嵐の前
スピーカーから低い声が響いた。
「……授業中に失礼。八幡直弥戦闘員、三田沙紀戦闘員。至急、熊野璃久主任教官の執務室まで来なさい」
教室の空気が一瞬にして張り詰める。周囲の生徒たちは顔を見合わせ、ざわめきを押し殺した。八幡と三田は思わず互いに目をやる。
「……なんだろ」沙紀が小さくつぶやく。
あの眼を見張るような光景を目撃してから、すでに一ヶ月が経っていた。朽宮言真――狂風卿の名を持つ男も、あれ以来何ひとつ口にすることなく、二人の目の前から姿を消したまま。士官学校の日々は何事もなかったかのように続いていた。
もちろん、呼び出されるような覚えはない。沙紀にいたっては言うまでもなく優等生であり、だからこそ呼び出しの理由が思い当たらない。直弥も、胸の奥にかすかな不穏を覚えながら席を立った。
「行こう」直弥が低く言う。
「……うん」
教室の扉を開けると、昼下がりの廊下にひんやりとした空気が流れ込んでくる。遠くで号令の声が響き、訓練場の砂の匂いが微かに漂ってきた。二人の足取りは自然と速まっていく。
本部棟の最奥に、その執務室はあった。玄武隊Ⅰ型戦闘員――熊野璃久の私室とも呼べる空間である。普段彼が顔を出す教官室とは違い、そこは生徒にとっては立入禁止の領域。重厚な鉄扉の前に立った瞬間、二人は肌を刺すような冷気を覚えた。
扉の両脇には、無言のまま立つ武装兵。ADFの徽章を刻んだ腕章がいやに目に付く。彼らの視線が一瞬、直弥と沙紀を値踏みするように走った。
「……本当に、俺たちなのかな」直弥が喉を鳴らしてつぶやく。
「ほかに誰がいるの」沙紀は息を整えながらも、瞳の奥に強い光を宿していた。
ノックの音が重苦しく廊下に響き、返答を待たぬまま扉は静かに開いた。
仄かな紙とインクの匂いが鼻を掠める。図書室のようでありながら、それよりはるかに整然とした空気――冷たい鉄と紙の混じった匂いが二人を中へといざなった。
目の前に広がったのは、壁一面に地図や戦術図、赤いピンで埋め尽くされたボードが立てかけられた執務室。中央には無骨な軍務机が鎮座し、その背後に軍服姿の熊野璃久が立っていた。表情は凍りついた氷のように無機質で、手元には分厚いファイルが何冊も積まれている。
その横には實妥啓教官が控えていた。片手を背に回したまま、鋭い視線だけをこちらに向けている。
沙紀と直弥は、迷いなく同時に無赦の環を取った。訓練で叩き込まれた所作は、緊張のせいでわずかにぎこちないものの、確かな決意が滲んでいる。
その様子を見届けると、璃久がゆっくりと口を開いた。
「……楽にしろ、三田、八幡直弥」
いつもの飄々とした気配はそこにはない。戦場に立つ兵士のような目をして、低く重い声で言葉を紡ぐ。その瞳は微動だにせず、ふたりの奥底まで射抜くかのようだった。
沙紀は反射的に息を詰め、直弥も無言で姿勢を正す。目の前の熊野璃久は、普段の教官とはまるで別人だった。机の上には封印された赤いスタンプの資料がいくつも並び、その脇に實妥啓教官が無言で立っている。
「――呼び出した理由は、他でもない」
璃久の声はさらに低くなり、室内の空気を重くした。
「お前たちは、ある任務に指名された」
その言葉と同時に、實妥が無言で封印された封筒を二つ差し出す。八幡と三田がそれを受け取って開くと、中には詳細な地図と幾つものメモが挟まれていた。
「――狂風卿直々のご命令だ」
璃久はゆっくりと立ち上がり、二人の手元の地図を指差す。
「「ヨーロッパに存在する国家・イタリア。その南部のシチリア島。そこでは、いま三つのマフィアが血で血を洗う抗争を続けている」
沙紀が息をのむ。直弥は眉をひそめ、地図の赤い印を目で追った。
「ADFの公式な関与は認められていないが、“ある異常”の調査と、その異常に魔族が関与しているかどうかの確認――これが今回の任務の大枠だ」
璃久の声は淡々としているが、その奥には確かな緊張が潜んでいる。
「マフィア…ですか?」直弥が問う。
「そうだ」璃久は視線を二人に向け、手元のファイルを開いた。
「現地でいま抗争している組織の名前はそれぞれ――」
指で紙面を叩きながら、一つずつ読み上げる。
「Il Sangue Rosso、La Rosa Nera、Famiglia di Sangue d’Oro。どれもシチリアでは古株の血統で、裏社会に深く根を下ろしている」
沙紀が眉を寄せ、直弥が静かに息を吐く。
「そして、そのどれか、あるいは全てに“異常”が絡んでいる可能性がある。君たちの任務は、潜入・調査、必要であれば排除だ」
「質問、よろしいでしょうか」
沙紀が静かに手を上げた。
「許可する」璃久が短く返す。
「異常、というのは具体的にどのようなものなのでしょうか」
「――同体変異種」
背後から、子どものように無垢な声が降ってきた。
二人は思わず肩を震わせ、同時に振り返る。
そこに立っていたのは、狂風卿――朽宮言真その人だった。
白い軍服の裾が揺れ、淡々とした眼差しが直弥と沙紀を射抜く。
「やっぱり気になるよね、君たちも」
柔らかな声の奥に、どこか冷えた笑みが混じる。
璃久が一歩下がり、即座に無赦の環を取った。
「……狂風卿」
その名が発せられた瞬間、室内の空気が張り詰め、わずかな紙の擦れる音すら響く。誰一人として不用意に息を吐けない。
言真はそんな沈黙を愉しむかのように、ゆっくりと歩みを進め、机の脇に腰を下ろした。軍服の裾を払う仕草すら滑らかで、瞳だけがどこまでも鋭い。
「説明は僕から直接した方が早いと思ってね」
柔らかく放たれた声に、背筋を撫でるような冷たい気配が混じる。
直弥と沙紀は思わず姿勢を正し、視線だけで互いの緊張を確かめ合った。
「――“同体変異種”。耳にしたことはあるかな?」
言真が静かに問いかけると、二人は小さく首を横に振る。
「そうか。まあ無理もない。これはADF内部でもごく一部の者しか知らない案件だ」
彼は足を組み替え、続ける。
「表向きただのマフィアの首領だ。だが調査が正しければ、その体内には帝家の魔族が共存している」
言真は淡々と語る。
「魔族と人間が、相互に合意して一つの肉体を共有する。主導権を都度入れ替えながら力を掛け合わせ、倍増させる。これが“同体変異種”だ」
沙紀が息をのむ。直弥の眉間にも深い皺が刻まれる。
「……そんなことが可能なんですか」
「厄災の日以前には存在しなかった現象だ。だが今、シチリアでその“異常”の嫌疑が掛けられてる。魔族の痕跡も濃くなっている。だから君たちに調査してほしい」
室内は再び静まり返る。三田は手元の資料を握りしめ、八幡は重く口を開いた。
「……もし同体変異種が敵対してきた場合、どうすれば?」
言真は一拍置いて、唇の端をわずかに持ち上げた。
「五原則の鋼条のとおりさ。即滅先行、感情抑制、絶対統制、唯果論、浄化義務。―――命令から逃げることなく処理し、結果を出す。それが僕達オリオンのモットー。」
言真は淡々と告げたが、その声の奥には研ぎ澄まされた刃のような冷たさがあった。
沙紀の喉がごくりと鳴る。直弥は握りしめた拳を膝の上でそっと解いた。
「……まあ、君たちが不安に思う気持ちもわかる。」
言真は軽く両手を広げ、肩をすくめた。
「同体変異種は、通常の魔族や人術保持者よりも危険だ。肉体の限界を超えるせいで、戦闘のパターンも常識が通用しない。交渉も抑制も、ほぼ不可能。」
そこで一度言葉を切り、机に肘をついて指先で小さく机を叩く。
「だからね――」彼は視線を二人に戻す。
「その任務に、プラスで四人付けることにしたんだ。」
沙紀が思わず眉を上げる。
「四人?」
「そう。」言真は薄く笑った。
「メンバーはそこにいる璃久、青龍隊八間・夏目遼、同じく青龍隊Ⅱ型戦闘員・柏谷狭、そして最後に、僕だ。」
室内がわずかにざわめいた。
沙紀は目を瞬かせ、直弥は無意識に背筋を伸ばす。
「狂風卿ご自身が、現場に……?」沙紀が恐る恐る問う。
言真は頷き、薄い微笑を浮かべたまま言葉を重ねる。
「現地はADFの監視網がほとんど届かない。情報の断絶と封鎖、そして“異常”の発生。吉林省事件がいい例さ。本部から指示を飛ばすだけでは間に合わないし、現場での判断が何よりも重要だ。だから僕が行く。現場の統括も含めてね。」
璃久が小さく息を吸い、無赦の環を解きつつ二人を見やる。
「狂風卿が直接動かれる以上、お前たちも一層覚悟しておけ。今回の任務は調査の皮をかぶった実戦だ。失敗は許されない。」
重い空気がさらに一段階沈んだ。
沙紀は唇を噛み、直弥は配られた資料を握る手に力を込めた。
言真はそんな二人の反応を確認すると、あえて軽い口調で締めくくった。
「さあ、出発まで四十八時間。装備・情報・連絡手段、その他全部自分で整えておきな。現地での名はコードネームで呼び合う――詳しい割り当ては次のブリーフィングで話すよ。」
彼の瞳が、淡く二人を射抜いた。
***
「……沙紀さん、いる?」
特別寮棟の廊下は夜の静けさに沈み、足音さえ吸い込むように薄暗い。
一日の訓練と講義を終え、着替えを済ませた直弥は、薄手のジャケットを羽織ったまま沙紀の部屋の前に立っていた。
「直弥くん? 鍵、空いてるから勝手に入ってきて」
中から返ってきた声はどこか柔らかく、安堵を含んでいる。
直弥は一瞬ためらったが、静かにノブを回し、そっと扉を開いた。
部屋の中は明かりを落とし、ランプだけが淡い光を投げている。机の上には今日配られた資料が広げられ、赤い印のついたシチリアの地図が目に入った。
ベッドの脇に腰掛けていた沙紀が顔を上げ、髪を耳にかけながら直弥を迎える。
「……ごめん、急に」直弥は軽く頭を下げる。
「明後日の任務のこと、ちょっと話しておきたくて」
沙紀は小さく頷き、対面の椅子を手で示した。
「うん、私もちょうど考えてた。――座って」
直弥は椅子を引き、腰を下ろす。窓の外では、遠くの演習場の灯りがちらちら瞬いていた。
沙紀は膝の上で指を組み、しばらく黙ってから口を開いた。
「……正直ね、頭では理解してるけど、気持ちは追いついてないの。任務の内容も、同体変異種っていう存在も、何もかもが今までの演習とは違いすぎる」
その声音には恐怖よりも、むしろ自分への苛立ちがにじんでいた。
直弥はうなずき、少し身を乗り出す。
「俺も同じだよ。頭では“やるしかない”ってわかってる。でも心のどこかで、相手の顔も知らないのに“殺せ”って言われてることに、違和感が残ってる」
沙紀は目線を落とし、机の上の地図を指先でなぞった。シチリアの赤い印が淡い光に浮かぶ。
「でも、きっと現場では迷ってる時間はないんだよね。……だから、こうして今のうちに話しておきたかった」
直弥は小さく笑みを浮かべた。
「俺も同じ。沙紀さんと話しておけば、少しは整理できる気がして」
二人の間に漂っていた張りつめた空気が、言葉のやり取りとともにゆっくりとほぐれていく。
沙紀は息を整え、きっぱりとした声に戻した。
「――ほんっと、こんな任務、Ⅴ型に投げるなって感じだよね。普通ならⅠ型とかⅡ型の方々が行くべき案件でしょ」
半ば自嘲のように笑う沙紀の顔を、直弥は苦く見つめた。
「多分、俺のせいだ。結果を出せなきゃ死刑にされる身だし、だからこそ狂風卿は無理難題でも危険な任務でも俺に振ってくる。バディの沙紀さんを巻き込むことになって……」
沙紀は小さく首を振って、笑みを薄く浮かべる。
「……ごめん、無責任なこと言った。そんなに卑屈にならないで。私、冗談半分で言っただけだし、直弥くんが悪いだなんて一度だって思ったことないよ?」
その言葉に直弥は目を瞬き、思わず息を止めた。
沙紀はまっすぐに彼を見据え、柔らかく続ける。
「私ね、止められてるから言わないつもりだったけど、前りょうちゃんのお見舞い行ったとき、あの人直弥くんのこと彼なりにだけど褒めてたよ?」
直弥の瞳が、わずかに大きく見開かれる。
「……え?」
沙紀は頬にかかった髪を指先で払いつつ、微笑を深めた。
「前も言ったかもだけどりょうちゃん、ああ見えて意外と人のこと見てるんだよ。直弥くんのこと、『あいつは芯が強い。踏みつぶされても起き上がってくる』って、珍しく褒めてた」
「あの白伊くんが…?」
「そう。名前を出したときはツンとしてたけど、表情は優しかった。たぶん、直弥くんが自分の中で思ってるよりずっと評価されてる」
直弥はしばし黙り、ゆっくりと息を吐き出した。
胸の奥にあった硬いものが、少しずつ溶けていく感覚。
沙紀は、そんな彼の横顔を見つめながらさらに言葉を重ねる。
「だからさ、そんなに自分を追い詰めなくていい。私も、りょうちゃんも、きっと他のみんなも、直弥くんが必死にやってきたこと、ちゃんと見てるから」
その優しい響きに、直弥は小さく笑って頷いた。
「……ありがとう、沙紀さん。ちょっとだけ肩の力、抜けた気がする」
沙紀はその笑みを見て、ほっとしたように微笑んだ。
そして、彼女はふと、何かを思い出したようにこう呟く。
「…あ、りょうちゃんで思い出した。」
「ん?」
「任務に行くメンバーの中にさ、柏谷狭っていたじゃん。その人ってたしか、りょうちゃんの肋骨折ってまた病院戻りにさせた人…じゃなかったっけ」
「…あ」
そういえばそうだった。吉林省事件で怪我を負った曹夢瑤の見舞いの帰り、白伊のもとに一本の連絡があって、急ぎ士官学校に戻れば廊下には沙紀の胸ぐらを掴んだ男が八幡直弥はどこだと怒鳴っていた。
結果、白伊は治りかけていた肋骨がまた折れて再度入院。直弥も数発殴られ、その場は璃久によってなんとか落ち着いたものの、その空気は未だ脳裏に焼き付いている。
沙紀はそんな直弥の顔を見て、くすっと笑う。
「……ね、覚えてるでしょ。あの時の目。あの人、正直言って怖かった」
直弥はゆっくり頷いた。
「怖いっていうか……あれはもう、敵味方問わず容赦しないタイプなんだろうね。今回一緒に動くって考えると、ちょっと身構える」
沙紀は腕を組み、言いづらそうに視線を床に落とした。
「たしかに不安だね……。いや、私たちに何かしら危害を与えてくるかもっていう不安もあるんだけど……」
直弥が眉をひそめる。「……だけど?」
沙紀は小さく唇を噛み、言葉を探すように間を置いた。
「……あの人、璃久教官と過去にいろいろあったらしくてさ。表向きは普通に接してるけど、内心は相当仲悪いんだって。今回の任務、一緒に行くって決まってるけど……ほんとに大丈夫なのかなって」
彼女の声には、任務そのものよりも人間関係への不安が滲んでいた。
直弥はその言葉を咀嚼し、しばし黙り込んだあと、低い声で返す。
「……現場で仲間割れなんかされたら最悪だね。任務どころじゃなくなる」
沙紀はうつむいたまま小さく頷く。
「でしょ? あの人気性荒いし……もし感情的になって璃久教官に突っかかったら、私たちまで巻き込まれるかも…」
直弥はその不安を受け止めながら、ゆっくりと答えた。
「……でも、それでもやるしかないよ。俺たちが一枚岩になれなきゃ、同体変異種に勝てるはずがないし。少なくとも俺は、任務中は誰よりも冷静でいるって決めてる」
沙紀は顔を上げ、その横顔を見てわずかに安心したように笑った。
「……そっか。そうだよね。私もしっかりしなきゃ」
部屋の空気に、さっきまでの重苦しい緊張のなかに小さな決意が混じりはじめる。
窓の外、夜風がカーテンを揺らし、遠くの街灯が淡い光を放っていた。
「……明日、またお見舞いに行ってくる。」
直弥は視線を落としたまま、まるで自分に言い聞かせるように呟いた。
「お見舞い?…りょうちゃんの?」
沙紀が問い返す。
「白伊くんと、夢瑤さんと……」
直弥の声は少しだけ曇る。
「……と?」
沙紀が首をかしげる。
「―――久々に、妹の様子も見てくる。」
その一言に、部屋の空気がかすかに震えた。
沙紀は息を呑む。直弥が自分の家族のことを口にするのは、滅多にない。彼女はそっと手元のマグカップを置き、真剣な眼差しで彼を見た。
「……楓ちゃん、だよね。会えるといいね」
やわらかな声が、静かな部屋に溶ける。
直弥は小さくうなずいたが、その顔には安堵と緊張が入り混じっていた。妹の病室に足を運ぶことは、ただの“お見舞い”ではなく、背負ってきた罪悪感や責任と向き合う行為でもある。
その沈黙を感じ取って、沙紀はそっと笑みをつくった。
「大丈夫。直弥くんが顔を見せに行くだけで、きっと力になるから」
「……そうだといいけどなぁ…」
直弥はかすかに目を伏せてつぶやく。
それ以上、言葉は続かなかった。二人はただ、カーテンの隙間から覗く夜空を見つめた。地上の街灯に照らされてユグドラシルの葉が微かに揺れ、どこか遠い場所の記憶を呼び起こすように、静かに音もなくきらめいていた。
続く…




