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人魔闘諍  作者: ゆっけ
第肆章
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58話 美濃尾張

「O Haupt voll Blut und Wunden,


 Voll Schmerz und voller Hohn,


 O Haupt, zum Spott gebunden


 Mit einer Dornenkron――」



 スーッ…スーッ…スーッ……


 暗闇の中で響いているのは三つの音だった。


 ひとつは歌。男とも女ともつかない声が、かすかに震えながらも芯を失わず、美しい旋律を描く。だがその響きには、冷たい底なしの不気味さが混じっている。


 ひとつは刃を研ぐ音。一定のリズムで、スーッ、スーッと、まるで呼吸するかのように鋼が擦られていく。耳に残るその摩擦音は、次第に場の空気を緊張させた。


 そして、もうひとつは女のすすり泣く声。微かに押し殺された嗚咽が、湿った床を這うように空間に広がる。


「…Du edles Angesichte,


 Dafür sonst schrickt und scheut


 Das große Weltgewichte,


 Wie bist du so bespeit──」



 旋律が途切れ、刃の音もぴたりと止む。しん、とした空気に、わずかな血と鉄の匂いが濃く立ち込めた。


O Haupt vo(ああ、血と)ll Blut un(傷に満ち)d Wunden(た御頭よ)、パウル・ゲルハルトが詞を書き、バッハがマタイ受難曲に幾度も編み込んだ、ドイツで最も有名な受難讃美歌だ。」


 床の軋む音とともに、それは姿を表す。白いローブを身にまとい、肌、髪、その他すべてアルビノを思わせるほど白いその人は、手の中に握られるナイフを器用に回しながらそう言う。


「『Du edles Angesichte, Dafür sonst schrickt und scheut Das große Weltgewichte, Wie bist du so bespeit!』…さっきも歌ったけど、私はこの一説が好きでね。君が住む地域の言葉で訳すなら、『高貴なる御顔よ、かつては世界の重みも恐れかしこんだその御顔が、いまや唾を吐きかけられ、かくも辱められているとは!』…ってな感じ。」


 その声はあくまで穏やかで、教室で詩を朗読するかのような調子だった。

 白衣にも似た白いローブの裾をゆっくり引きずり、暗闇の床に影を落とす。手の中でナイフを器用に回す指先は、わずかに光を反射して銀色の刃がかすかに煌めいた。


 その者の前には、顔を大きく腫らし、目や鼻、口、耳、その他いろいろな所から血を流し、息も絶え絶えといった様子で、啜り泣きながら悶え苦しむ白人女性が居た。


 白い人影は女性のすぐそばにしゃがみこむと、かすかな微笑を浮かべ、刃をそっと頬に当てる。刃先が皮膚をかすめるたび、すすり泣く声が鋭く震え、空気がひりつく。

「君、プロテスタント教徒でしょ。なら『プロテスタント』って意味、知ってるよね」

 囁きは子守唄のようにやさしい。だがその声の底には、冷えきった悪意と愉悦が同居していた。


 白い人影――最上シアは、ゆっくりと立ち上がり、再び歌の続きを口ずさみながら、刃を研ぎ直すように布で拭った。その動作が、これから起こることの残酷さを逆に際立たせていた。


「―――『反発する者』。ほんと、君にぴったりだと思うんだよね、私」

 最上はゆっくりと顔を上げ、目だけで女性を見下ろした。まるで罪を暴く裁判官のように、しかしその笑みはあくまで静かで、冷たい愉悦に濡れている。


 ナイフの先端が布から抜け出し、ほの暗い光の中で再びきらりと光った。最上の指先が軽くそれを弾くと、澄んだ金属音が地下室に響き、すすり泣きは途端に小さくなる。

「ねえ、もう一度聞くよ」最上の声が低く、やわらかく沈む。

「君たち組織の、アジトはどこ?」


 女は、かすれた声でかろうじてこう言った。

「……ごめっ゙…なさい゙……ごめ゙ん゙なさぃ…仕方…ながった、の……逆らえ゙、なかっ――」


 その言葉を遮るように、最上は女の腹部に鋭い蹴りを叩き込んだ。鈍い衝撃音とともに、女の身体がくの字に折れ、血混じりの吐息が床に散る。


「ん〜違う違う!質問に答えてよ!」

 最上は、口元に手を当てておどけたように笑う。

「君自身の言い訳は聞いてないんだって!も〜、お茶目だなぁ〜!」


 明るく弾む口調と、吐き出される血の匂いが混じり合い、地下室の空気は一層重く、冷たく、歪んでいく。


 最上はナイフの刃先を指先で軽く弾き、カチリと金属音を響かせた。笑顔のまま、しかし瞳の奥には氷のような光を宿し、再び女の顔に近づける。

「じゃあ、もう一度ね」


 最上は女の顔すれすれまで身を屈め、ナイフの刃先を鼻先に近づけた。銀色の線が微かに震え、女の涙がぽたりと刃に落ちる。


「君たちの“巣”はどこ?」

 今度は囁くような声。だがその響きは、耳の奥に氷針を刺し込むように冷たい。


 女は肩を震わせ、口を開ける。

「……っ……言えな゙い……言ったら、娘が、殺され゙……」


 最上はふっと笑い、顔を上げる。

「へえ、殺されるのが怖い? かわいいねえ。じゃあ私が助けてあげるよ、今すぐに」

 軽い口調のまま、ナイフをひらりと回して、女の太ももに突き立てる。皮膚を破る音が、暗闇に小さく響いた。


 女の喉から言葉にならない悲鳴が漏れる。最上はその様子を観察するように目を細め、さらに低く囁いた。

「ほら、せめて君の仲間の名前を一人でも言ってごらん。それすら言えないなら次は目だ。」


 地下室の空気は、女の荒い呼吸と鉄の匂いと、最上の歌うような声で満たされていく。


 女の震える唇が、いまにも何かを吐き出そうとしているのが分かる。だが恐怖が言葉を押し殺し、喉だけがひゅうひゅうと音を立てる。


 最上はそんな様子を見ても、焦らずにナイフを抜き取った。刃先についた血を布でぬぐいながら、まるで授業でもしているかのように穏やかな声で続ける。


「ねえ、君の時間は、もうあんまり残ってないよ。言えば終わる。言わなきゃ……まぁ、そういうこった。」


 女は首を振り、目をぎゅっと閉じる。


「……っ……言えなぃ゙……絶対に゙……」


 その瞬間、最上の笑みがすっと消えた。次の刹那には、彼女の耳元に顔を寄せ、吐息混じりに低く囁く。


「強情だなぁ、困った困った。」


 最上は肩をすくめ、ナイフの柄で軽く床を「コツ、コツ」と叩いた。その音だけが地下室に響く。

「そういうの、嫌いじゃないんだけどね……」


 最上の声は一瞬だけ幼く、どこか無邪気に響いた。だがその響きはすぐに消え、代わりに冷たい刃のような重みが言葉に宿る。


「じゃあこうしよう。言ってくれたなら、君に美濃尾張をくれてやる」


「……? ミ、ミノー? オヷ、リ?」


 女が混乱したように呟くと、最上はゆっくりとナイフの刃先を指で弾き、薄い笑みを浮かべた。


「日本の有名な一説さ。時の将軍・源頼朝が、実父を殺した長田忠致にかけた言葉。平家討伐を手助けしてくれるなら、たとえ実父殺しであろうと相応の領地をやる、っていう頼朝の寛大さを表現してる……ってね」


 その声は淡々としているのに、暗い底の方で楽しげに揺らめくものがある。


「つまり、私はいま君に“恩赦”のチャンスをやってるんだ。君が自分の仲間のことを口にすれば、私は君を殺さずに“領地”をくれてやる。ね、簡単でしょ?」


 最上は白いローブの裾をさりげなく翻し、女の耳元へ顔を寄せる。吐息混じりの声が、耳朶を掠める。


「君の命か、仲間の秘密か。選びなよ。あー、どっちも守りたいなんて戯言は言わないでね。冗談でも面白くないし。」


 女の喉がひゅっと鳴り、唇が震える。涙が頬を伝い、床にぽたりと落ちた。


 女の肩が小刻みに揺れた。こらえきれない嗚咽が胸の奥から漏れ、吐息のような声が喉を擦る。

「……やめ゙……て……」


 最上はその様子を見下ろし、静かにナイフを回転させる。刃先がかすかに光を反射し、白い指先とともに舞うように動く。


「“やめて”じゃなくて“言う”でしょ?」

 口調はやさしい。だがその笑顔には温度がなかった。


 女の胸が上下し、呼吸が荒くなる。握りしめた拳が震え、爪が掌に食い込んで血が滲む。


「……ひっ……やっ゙ぱり…い、言えな゙い……殺され゙る゙……」


 最上はその言葉を聞くなり、ゆっくりとしゃがみこんだ。真っ白なローブの裾が女の血に染まり、床に赤い模様を描く。


「だからぁ、大丈夫だって」

 吐息混じりの囁きは、まるで恋人に語りかけるように甘く、耳の奥に滑り込んでいく。


「ここではね、君のボスも、君の神様も、何も出来ないんだよ。あるのは君と、私と、そして……」


 最上はふっと目を細め、またあの旋律を口ずさみ始める。


「O Haupt voll Blut und Wunden…」


 女の心臓の鼓動が、音楽に合わせて早鐘のように鳴り出す。


「さあ、選ぼうか。今、君が名前を言えば終わる。言わなければ……分かるよね?」


 女はうつむいたまま、がくがくと肩を震わせた。汗と涙と血が混ざり、頬を伝って床に落ちる。

「……わ、わ゙たし……」

 かすれた声が喉から漏れ、だが次の言葉が続かない。


 最上はそれをじっと見つめ、刃を彼女の手首の上にそっと置いた。押しつけるのではなく、羽のように軽く。

「“わたし”?」

 ささやきは相変わらず甘い。だが女の皮膚のすぐ上で、刃先がわずかに動き、冷たい金属の感触だけが確かな現実を刻む。


「……っ……名前……は……」

 女の唇が、ひとりでに動き始める。


「そう、いい子」

 最上の声が、子守唄のようにさらに低く柔らかくなった。

「誰? 誰に命じられたの? どこにアジトがあるの?」


 女はとうとう目を閉じ、喉をひゅっと鳴らした。

「……“モリス”……アジトは…イタリア、シチリア島の゙南端、カルタジローネに…」


 最上の目が一瞬だけ細くなり、白いローブの裾が静かに揺れた。


「モリス、カルタジローネ…なるほど……」

 彼は口角をほんの僅かに上げ、刃を女の手首から外すと、血のついた頬を指でそっとぬぐった。


「いい子だ。やっぱり、話せば出来るじゃないか」


 その声音には、先ほどまでの狂気が嘘のように消え、まるで仕事を終えた医者が患者に微笑みかけるような穏やかさがあった。


「―――鷹觀〜!」


 ノータイムで地下室の扉が開き、童顔で十五歳程度の細身の体格、無表情に近い端整な顔立ちの少女、鷹觀ヨルが静かに入ってきた。


「お呼びでしょうか、最上様。」


「もう情報は吐いた。あとは適当に処理しておいて。私は皆と一緒に上にいるから。」


「了解いたしました。」


 女はその日本語の会話を理解こそできなかったが、冷えた空気と異様な雰囲気から、これから自分に何が起こるのかを直感的に悟った。


「うそ……いや、ぃ゙や゙ぁぁっっ!!約束と違う!!領地っで言っだじゃな゙い!!言っだら゙助けてくれ゙るっで―――!」


 最上は、片頬だけを上げて不敵に笑った。


「だから言ったじゃん」


 白い瞳が、まるで処刑を告げる鐘のように女を見下ろす。


「言ってくれたら、身の終わり・・・・・をくれてやる、って。」


 その声はやさしく、それでいて刃のように冷たく響いた。


 続く…

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