56話 逆さなる癒しと破壊の術
「―――さて、肝心のプレゼントなんだけどぉ……」
朽宮言真は、まるで散歩のついでにでも話しているかのような、気の抜けた声で言った。
直弥はいまだ、目の前にそびえるユグドラシルの幹と、その根元に広がる地下施設の光景に目を奪われていた。地上からは想像もつかない、巨大な空間。広がる豊かな草原に、ミスマッチとも言える無数の支柱とケーブル、頭上で青白い光を放つ魔法陣のようななにか──すべてが人間の手で造られたとは思えない規模だった。
どうにか意識を言真に戻し、直弥はしどろもどろに問いかける。
「……俺に、これを見せて……何を……」
言真は口角をゆるく持ち上げ、両手をひらひらさせる。
「ま、焦らないでよ。サプライズは順序ってものがあるんだ」
言真は軽い調子のまま、今度は夏芽へと身体を向けた。
「夏芽、君は“詠唱”を覚えているかい?」
「詠唱……って、いや、覚えてはいますけど……」
夏芽は視線を泳がせ、わずかに後ずさる。彼の問いがただの確認ではないことを、彼女は察していた。
「その詠唱を使って、直弥くんに“あれ”を付与しようと思って」
「は? ……いや、すみません、しかし……」
夏芽の眉間に皺が寄る。「些か危険すぎるかと。十三年前は、あれがあったからこそ助かりましたが、今あなた様がしようとしているのは完全に私情ですし……ユグドラシルが答えてくれるかどうか……」
言真は唇の端だけで笑った。
「だからこそ、さ。生憎、僕は彼に嫌われていてね。詠唱したところで答えてもらえないと思ってる。だから、君を呼んだのさ」
青白い光に照らされたその瞳には、軽口の奥にひどく冷たい光が宿っていた。冗談めかした声色とは裏腹に、決意だけは微動だにしない。
「いや……いやいや……無茶苦茶ですよ、事前説明もなしにこんなこと、僕にやらせるなんて……」夏芽は一歩退き、額に汗をにじませる。「第一、血沼糜嬋開発室室長はこのことを知っておられるのですか?」
言真は片眉を上げ、くすりと笑う。
「知らないだろうねぇ。今頃焦ってんじゃない? あの吃音おじさん」
夏芽は苛立ったように言い返した。
「なら尚更やりませんからね、僕は。こんなことで死刑になんて―――」
「いいのかい? 夏芽」
その一言とともに、空気が瞬く間に凍りついた。
言真はまだ顔に笑みを貼り付けたままだ。だが、その声色には先ほどまでの軽い冗談めいた響きが一切なく、ただ底冷えするような冷たさだけがあった。
その視線に射抜かれ、夏芽の背筋に冷たい汗が流れる。
まるで周囲の温度が一気に下がったかのように、ユグドラシルの根の空間全体が静まり返った。
青白い光が彼の頬を斜めに照らし、氷の彫像のような表情が浮かび上がる。
「君の相方……青龍隊八間、アリス・ヴァイオレッタ。大事に思ってるんだろう? 彼女も君も、二人で仲良く平和に暮らしたいんでしょ? だったら、わかるよね。」
言真の声は柔らかいのに、言葉の端々は刃のように鋭い。
夏芽は唇を引き結び、かすれた声を絞り出した。
「……脅し…ですか?」
「脅しなんて、そんなそんな」言真は笑顔を崩さず、手のひらをひらひらと振った。「僕も争い事は嫌いだし、平和的解決が何より第一だと思ってるよ? まあただ──古い仕来りを大事にするヒサ爺のところで育てられたんなら、どうすべきかは分かってるはずだよね」
彼はそこでわずかに声を低くし、言葉をひとつひとつ区切るように続けた。
「君は僕の部下だ。僕の頼みを断るということは……」
「わかりました!わかりましたから…!」
夏芽は焦った様子でそう言い、直弥に向き直る。
「…八幡直弥くん。一旦ユグドラシルの方を向いてくれるかな。」
直弥は一瞬、言真と夏芽の顔を交互に見て、胸の奥に不安の塊が広がるのを感じた。
ゆっくりと振り返ると、目の前には根を天へ突き上げるように伸ばしたユグドラシルの巨幹が、青白い光をまとってそびえ立っている。
その光は、呼吸するかのようにかすかに脈打ち、地下空間の空気を震わせていた。
「そしたら……跪いて、両方の手のひらを上に、胸の前で広げて、そしたら目を瞑って。」
低く静かな声でそう指示され、直弥は胸の奥に微かなざわめきを覚えながらも、言われた通りに動いた。
膝をつく瞬間、冷たい草の感触が皮膚を刺し、掌を上に向けると指先まで痺れるような緊張が走る。
胸の前で腕を広げると、まるで何かを受け入れる器のように姿勢が形づくられた。
ゆっくりと瞼を閉じると、視界の暗闇に耳鳴りのようなざらついた音が滲み、空気がさらに重く冷たくなっていく――まるで誰かに見下ろされているかのように。
直弥が目を閉じた瞬間、耳の奥で何かが低く唸り始めた。
風のない室内に、なぜか髪先を逆立てるような微かな気流が生まれ、彼の掌の上で見えない何かがゆらめいている。
胸の奥にまでしみ込むような低い声が、再び頭上から落ちてきた。
「……そのまま動かないで。息を整えて。」
その声は先ほどよりさらに冷たく、そして重い。
直弥は思わず喉を鳴らしそうになったが、口を閉ざして耐える。
暗闇の中で、視覚が奪われた代わりに感覚だけが異様に鋭くなっていく。
膝の下からは凍ったような地面の感触、手のひらにはぴりぴりとした圧力。
やがて、その圧力が一筋の光となって掌に溜まり始めるのを、彼は確かに感じた。
「――これから、君に“人術”を降ろす。」
その言葉に驚き、直弥は一瞬身動ぎする。すると夏芽が、今度は優しい口調ではなく、厳しい口調で怒鳴った。
「動くな!」
びくっと肩が震えたが、直弥は必死にその場に釘付けになったまま動きを止める。
両手のひらに集まった光は、今や小さな炎にも似た球となり、脈打つように明滅している。
耳鳴りのような低音が、地の底から這い上がるかのように響き、ユグドラシルの根の空洞全体を震わせた。
「おー、こぅわ。」
言真の茶化すような声が響くが、夏芽は無視して続ける。
「そうだ……そのままだ」
夏芽の声が、今度は静かに、しかし揺るぎなく落ちてくる。
「これはただの儀式じゃない。君自身の“核”に刻み込むものだ。抵抗すれば、術は暴れて君を裂く。こうなった以上、受け入れるしかない。」
直弥の額に汗が滲む。
閉じた瞼の裏に、見たこともない紋様が次々と浮かび上がり、絡まり、ひとつの巨大な円環を形づくっていく。
それはまるで彼の意識の奥深くに直接刻み込まれていくかのようだった。
「――始めるよ」
夏芽の声が再び低く沈む。そして、
「惟かしこくも 高天原の久堅の御柱に坐す、
四方の界を鎮め統べ給ふ、
根底幽冥穿ち、千枝万葉裳裾ひろげ給へる、
大樹大神の大御前に、
かしこみかしこみ白さく、
此に少年ひとりを捧げ奉り、
直霊清けき血潮をもて、
神人の道ひらかしめむと
願がひ奉ることの由を、
かしこみかしこみ白す。
ここに御心やはらぎ、
破滅兆を鎮め、創造光を顕し給ひて、
身に魂に秘みゐる人術源を
今ここに甦らしめ給へ。
根は冥きを穿ち、枝は蒼を覆ひ、
葉は無窮息を吐きて万有を養み給ふ御蔭、
この誓ひ必ずや聞し召して、
幼子が掌に光を宿し給へ。
かしこみかしこみ白す、
大樹御名もちて、
人術火を授け賜ふ、
闇を祓ひ未来ひらく矢とならしむ。」
夏芽の声が、深い洞の中で幾重にも反響し、波のようにユグドラシルの根の奥へ奥へと吸い込まれていく。
そのたびに、直弥の両掌に宿った光はひときわ強く脈打ち、まるで大地そのものが呼吸しているかのように上下しはじめた。
――ゴウッ。
耳鳴りのような低音が、今度は足もとから突き上げてくる。
思わず目を開けると地面の根が微かにうねり、青白い光が網の目のように走って直弥の膝下を取り囲んだ。
光の糸は蛇のように絡まり、紋様となって彼の手首から腕、胸元へと這い上がっていく。
「……っ」
直弥は息をのむ。掌の奥で、冷たいはずの光が、いまは熱く、心臓の鼓動と同じリズムで跳ねている。
瞼の裏には、知らぬ文字と印が重なり、巨大な環が回転しながら彼を中心に展開するのが見えた。
「かしこみかしこみ白す、
御稜威の光今ここに満ち溢れ、
少年が道正しく直く進まむことを
大樹大神守り導き給へ。
かく宣りて奉り終ふ。」
夏芽は最後の節を締めくくると、胸の前で両手を合わせ、ゆっくりと息を吐いた。
空間全体が一瞬、張り詰めた弦のように震え、そして――静寂。
ユグドラシルの根の奥から、低く柔らかな囁きのようなものが流れ込んできた。
それは言葉ではなく、光の潮となって直弥の胸の中心へ吸い込まれていく。
骨の奥がしびれ、皮膚の下を何かが走る感覚。
彼はただ膝をついたまま、呼吸も忘れてその瞬間を受け入れていた。
そして、掌の上の光はふっと形を変える。
糸のようにほぐれ、やがて一枚の葉となる。
それは現実の葉とも幻影ともつかず、縁だけが青白く揺らめいているのに、指先に確かな重みと脈動が伝わってくる。
葉脈に刻まれた紋様はユグドラシルの枝葉そのものの写し絵のようで、中央から四方へと走る線がひと息ごとに明滅していた。
その光に合わせるように、あたりのざわめきがぴたりと止む。誰も言葉を発さず、ただ静寂だけが訪れる。
三十秒ほどの沈黙ののち、ようやく夏芽がふっと息を漏らした。
「……終わった……」
その一言を最後に、夏芽は糸が切れたように膝から崩れ落ち、床に倒れ込んだ。
直弥は慌てて駆け寄ろうとしたが、掌の上に乗った葉がまるで生き物のように微かに脈動しているのを感じ、動けずにただ凝視するしかなかった。
背後で、柔らかくも底知れない声が響く。
「――直弥くん。その葉、口に含んで飲み込むんだよ」
言真の声だった。
その声は命令とも囁きともつかず、ただ耳の奥に直接落ちてくるような響きで、直弥の背筋をぞわりと震わせた。
葉は光の色を濃くしながら、掌の上でゆっくりと縮み始めている。時間が経てば消えてしまうのではないかという予感が、直弥の胸を締め付けた。
思わず喉が鳴る。だが視線を逸らせば、仮面の奥からじっとこちらを見据える言真の眼差しがある。
逃げ場はない。
直弥は、掌の上の葉をそっと掴み、唇へと運んだ――。
―――『あなたは、特別な存在』
『橋となるべき、崇高な存在』
『生きて、その身を捧げ、永久とこしえなる戦乱に終止符を。』
『神の子として果たすべき責務を。』
『あなたの痛みも、涙も、命も、全ては意味を持つ。』
『その終焉の瞬間までは。』
『生きよ。滅びの炎を抱いたまま。』
『捧げよ。あなたという器のすべてを。』
『そして終われ。誰にも理解されることのないままに。』
『嗚呼、逆さなる癒しと破壊の術を、掌に宿せし者よ。』
『それは癒しと滅びを同じ手に宿す。救うたびに、壊し、壊すたびに、救う。』
『その矛盾こそが其方の運命。橋となり、光と闇をつなぐために。』
『身を削り、命を燃やし、終焉を越えて祈れ。
その手に世界の痛みを抱いたまま。』
「これは…」
歌だった。
沙紀の部屋で聞いたあの歌。日本語ではない別のなにか。わからないはずなのに分かる、あの謎の言語。
だが、あの時とは違う点が一つあった。
「逆さなる癒しと、破壊の術…」
直弥がその言葉を口にした瞬間、言真の声が後ろから弾けるように響いた。
「―――やっぱりだ!」
そう言って言真は直弥の前に駆け寄った。
目は輝き、声と同じく全身から溢れる興奮が伝わってくる。
その姿は、背丈に釣り合ったただの少年のようでもあり、同時に何か神秘的な力を宿した存在のようでもあった。
「直弥くん……ついにやったね…」
言真の声は喜びに震え、掌をかざすその手に力がみなぎるのを、直弥は感じた。
体内で脈打つ光の熱と冷たさが、言真の存在感と呼応するかのように揺れ、彼の意識を圧倒した。
直弥は咄嗟に後ろを振り返る。倒れている夏芽の顔を見て、まだ意識が戻らないことを確認する。
しかしその視線をすぐに前に戻すと、目の前の言真が、まるで祝福するかのように腕を広げていた。
「君が得た人術は相反療術、今は謹慎中だけど、君もよく知る玄武隊八間・四阿庸平と同じ人術だ」
そしてなにより、と彼の目に怪しい光が宿る。
「―――今この瞬間僕は確信した!君は僕や風音と同じ、チルドレンだって!!」
続く…




