55話 蠢く炎の陰謀
「っぐぅ……!」
若い男の、悔しげな声が木造の天井に反響する。
そこは玄武隊の統治下にある街・ユートピア、その中でも選ばれた者だけが通うことを許される、格式高い剣術道場だった。
磨き上げられた床板が淡く光を返し、古びた掛け軸には「心剣一致」と墨書きされている。竹の匂いと緊張の空気が満ちるその空間に、二人の道着姿の人間が、竹刀を構えたまま向かい合っていた。
一人は荒く肩で息をする青年。片膝をつき、悔しげに前方の人物を見据える。その額には玉のような汗が滲み、白い道着が微かに揺れていた。
もう一人の少女は、まるで一太刀も浴びていないかのように涼やかで、竹刀を下段に軽く構えながら余裕の笑みを浮かべている。
床を伝う風が、彼女の長い黒髪の先をほんのわずかに揺らした。
「―――百三十二戦、百三十二勝。まあでも、やり始めより確実に腕は上がったんじゃない? 四阿。」
軽やかな声に、青年―――四阿庸平は息を整えつつゆっくりと立ち上がる。悔しさと同時に微かな笑みを口元に浮かべ、竹刀の柄を強く握った。
「いえ、まだまだ詰めが甘すぎます。この調子じゃ、いつまで経っても貴女には勝てませんよ。」
その言葉に、少女―――桜田風音は小さく目を細めた。
「ま、一旦休憩しよう。さすがに8試合連続だと私でも疲れる。」
そう言いながらも、彼女の呼吸は乱れていない。白磁のような肌に汗ひとつ見えず、背筋は微動だにしない。
踵を返した彼女はゆるやかに歩き、スポーツボトルを手に取って透明な水を喉へと流し込む。顎の線、喉元の動き、そのすべてがまるで舞台の所作のように整っていて、近寄りがたい気高さがそこにあった。
四阿も竹刀をなおし、道場の端へ向かって自分のボトルを手に取る。ひと口、ふた口と水を飲むと、乾いた喉と一緒に先程の試合で噛み締めた悔しさまで流れていくようだった。
頭の中で、さっきの一撃一撃を反芻し、何が足りなかったのかを思い描いていると――背後から、風音の声が静かに届いた。
「―――四阿。今、直弥くんどうしてるのかな。」
その響きは、先ほどまでの軽やかな声色とは違い、どこか遠くを見るように低く柔らかい。
四阿はゆっくり振り向く。そこには、竹刀を床に置き、壁にもたれかかりながら目を伏せ、後ろ髪を結い直している彼女の姿があった。結わえられる髪がさらりと肩を滑り、指先から微かな水滴が落ちる。
「……急にどうされたのですか、佳人卿。」
四阿庸平は問いながら、胸の奥で小さなざわめきを覚えていた。
自身と桜田風音は、かつてADF・オリオンの玄武隊で、八間の寛解と四堂の佳人として並び立っていた。
しかし――例の鳴矢高校事件。厄災の日以降、最悪の犠牲者を出したあの惨事が、二人の運命を大きく変えた。四堂八間会議で奇跡的に死刑こそ免れたものの、一年間の謹慎処分を言い渡され、今もなおその最中にある。
表面上は玄武隊の指導者層に名を連ねながらも、実権はすべて代理四堂として送り込まれた白虎隊の朽宮言真――狂風卿に握られている。四阿はその事実を噛み締めるたび、無力さを思い知らされていた。
だからこそ、風音が今ふいに彼の名を口にしたことに、彼は少なからず驚いていた。
鳴矢高校事件の数少ない生存者でありながら、事件の芯ともいえる存在。信じがたいことに、史上例のない魔族との混血でありながら生存を許され、さらに士官学校で保護を受けているという異例の待遇を受けている少年――八幡直弥。
彼女は彼をどう見ているのか。気になりながらも尋ねる機会のなかったその問いが、今こうして自分の目の前に姿を現していた。
「んいや、ふと気になっただけ。」
風音は肩をすくめ、結んだ髪先を弄びながら視線を道場の床に落とした。「なんか噂で聞いたんだけど、吉林省かどこかで、ちゃんと戦功を上げたんだっけ?」
「そうらしいですね。」
四阿は静かに頷き、竹刀を床に丁寧に置く。「いま組んでいる士官学校生の二人とともに、魔族の討伐に成功したとか。軍部では小さな話題になっているようです。」
「――そういえば、バディ組んでる女の子の母親、二代前の八間だった気がする。」
風音は遠い記憶を辿るように目を細めた。
「たしか三田……磊、だったかな。」
「ミタ、コイシ……ああ、厄災の日に殉職した、あの……」
四阿の声がわずかに掠れる。口にした瞬間、道場の空気が少しだけ重くなった。
風音はその反応を見て、ふっと視線を落とす。
「四阿、あの時十一歳だったっけ。覚えてるの、厄災の日のこと。」
「……正直、ショックが大きすぎて、細かいことまでは覚えていません。」
四阿は手に力を込め、ゆっくりと息を吐いた。「でも、あの時に……同期のほとんどは……」
言葉が途中で途切れる。
その沈黙に、風音はしばし黙って四阿を見つめ、やがて静かに続けた。
「……子どもが背負うには、あまりに重すぎた現実。私だって、いまでも夢に見る。」
言葉の余韻が、稽古場にひんやりとした空気を呼び込んだ。互いの胸に沈む記憶が、ふと顔を覗かせる。
「……ま、辛気くさい話はここまで。」
風音はわずかに肩を竦め、わざと軽い調子を作る。「ほら、やるよ。稽古の続き。」
「……まだ五分も経ってないんですけど。」
四阿が眉をひそめる。
「何、もうヘバってんの?」
口調は冗談めいているが、その眼差しは真っすぐだ。
「……やってやりますよ、今度こそ。」
「そうこなくちゃ。」
そうして四阿が竹刀を片手に立ち上がろうとしたその時、道場の入口が数回、短くも力強くノックされた。
「誰だ、この道場内は一時立入禁止だ。用があるなら後に──」
入口脇に控えていた武装警備員が鋭い声を上げる。
しかし桜田が片手を上げてそれを制した。
「いい、気にしなくていい。入れ。」
扉が静かに開かれる。淡い光が道場の床に差し込み、その中に立っていたのは、ADF玄武隊のⅠ型戦闘員──熊野璃久だった。
防弾ベストの上から迷彩コートを羽織り、無骨なアサルトライフルを背に担ぐその姿に一切の緩みはない。靴音を立てぬよう静かに歩を進め、背筋を伸ばして短く敬礼する。
「なんだ璃久か。ずいぶん久々だね。訓練終わり?」
桜田が竹刀を軽く肩に掛けながら声をかける。
「お久しぶりです、佳人卿、そして寛解公。」
璃久は一呼吸置き、視線を四阿に移す。
「今日は最近の状況報告と……もう一つ、寛解公にお手紙がございまして。」
その言葉に、四阿の手が思わず竹刀から離れる。
「……手紙?」
璃久は頷くと、胸元の防水ポーチから一通の封筒を取り出した。
白い封筒には、ADF本部の紋章と赤い封蝋が押されている。その朱がかった印章を目にした瞬間、四阿は思わず顔をしかめた。
それは、玄武の者なら誰もが一目でわかる――朱雀隊を象徴する文様だった。
その様子を見てか、璃久が静かに口を開く。
「……父からです。普段、手紙なんて寄越してこないのに、何かと思えば──これを寛解公に渡せ、とのメッセージが添えられていました。」
朱雀の印が押された封蝋を見つめながら、四阿は呟くように言う。
「父って……閻魔卿、だよな。でも、なぜ俺に?」
問いに、璃久はわずかに眉根を寄せて首を振った。
「……わかりません。メッセージにはただ“必ず渡せ”としか……」
桜田が視線だけで四阿を窺う。稽古場の空気が、途端に重く、冷たく張り詰める。
四阿はしばし封筒を見つめたまま、深く息を吸い込んだ。
「……開けるしかないか。」
封蝋に指先を添えると、冷たい蝋がわずかに軋み、封が割れる音が道場に響いた。
***
ADF各都市間には、一本の高速列車が通っている。
その名をブリッツツーク、ドイツ語で「雷光列車」という、なんとも安直な名だった。
玄武隊の統治する街ユートピアから最も近い青龍隊の根城・エルドラドまでもおよそ十五時間。各都市をぐるりと一周しようものなら、実に二日を要する。それほどの長距離を問題なく結ぶことができるのは、ひとえにユグドラシルの加護によるものだった。枝葉の力が、列車に膨大なエネルギーを供給しているのだ。
そんなブリッツツークの駅ホームに居る四阿は、黒のネクタイを締めたスーツに黒のトレンチコート、そして中折れ帽を深く被る。そしてスーツケースを引き、大人しく電車を待っていた。
市井の住人とは思えないその佇まいは、駅にいる者からすればどこか異質に映った。だが誰も声をかけようとはしない。彼が放つ無言の威圧が、見知らぬ者を容易に遠ざけていた。
頭上で電子掲示板が点滅し、到着を知らせる重いベルが響く。
やがて、トンネルの奥から唸るような轟音と共に、雷光の名を冠する巨躯が姿を現し始めた。
***
丸一日かけて、四阿はようやく電車を降りた。
重たげなスーツケースを転がしながら、駅前に手配されていた黒塗りの車へと乗り込む。
窓越しに流れる町並みは、どこか煤けていて、抑圧された空気が街全体を包んでいた。
ここはベンサレム。朱雀隊が支配する南方の街だ。
明るい光に満ちたユートピアとは正反対のこの土地を、四阿は昔から好きになれなかった。
車内には重苦しい沈黙だけが流れる。
四阿は窓の外に視線を固定し、わずかに眉根を寄せる。
──これから向かう場所、そこで自分を待つものを思うと、胸の奥がざわざわと揺れる。
数十分のドライブの末、車は緩やかに速度を落とす。
やがて高い塀と装飾的な鉄門に囲まれた豪邸が視界に現れた。
熊野邸──俗に「炎華の宮」と呼ばれる、朱雀隊の象徴ともいえる屋敷だ。
門の奥に広がる庭は、南国の花々が咲き乱れ、どこか艶やかな香りを漂わせている。
しかしその美しさの裏に、四阿はひりつくような緊張を感じていた。
だが、引き返すわけにもいかない。四阿は気を引き締め、その豪邸の中に足を踏み入れた。
重い扉が静かに開かれ、四阿は足を踏み入れた。
途端に、外の蒸し暑さとはまるで異なる、冷ややかな空気が肌を撫でる。赤と金を基調とした豪奢な内装、壁に掛けられた燃え盛るような抽象画や、天井から吊るされた巨大なシャンデリア──どれもが朱雀隊の力と財の象徴だった。
廊下の奥から革靴の足音が近づいてくる。現れたのは、無表情の執事と数名の兵。
「こちらへ」とだけ告げられ、四阿は無言のまま案内に従う。
長い廊下を進むごとに、胸の奥の緊張がさらに強く締め付けてくる。
やがて重厚な両開きの扉の前で足が止まり、執事が恭しく扉を押し開いた。
そこは応接室とも謁見室ともつかぬ広間だった。
赤い絨毯が奥まで続き、窓のない空間に燭台の光だけがゆらめく。壁を這う炎のような装飾が、淡い光の中でゆらめき、生き物めいて見える。
その中央──高背の椅子に腰かけるひとりの人影が、四阿を見て鼻を鳴らした。
四阿は思わず息を呑む。胸の奥まで張りつめた空気が、鎖のように全身を縛り上げていく。
「久しいのぅ、四阿庸平。元気にしておったか」
低く湿った声が、床から這い上がるように響いた。
巨躯、ベネツィアンマスクに隠された素顔、赤銅色の軍服──そのどれもが血を思わせ、朱雀隊の象徴たる威圧感を纏っている。
四阿は膝を折るようにして頭を垂れた。
「ご無沙汰しております、閻魔卿──」
朱雀隊四堂・熊野焔冥。
その名を口にした瞬間、燭台の炎がひときわ大きく揺らめいた。
焔冥はゆっくりと立ち上がり、重々しい軍靴の音を響かせながら、四阿の方へ歩み寄る。
その視線は、同じ軍人に向ける温かさではなく、獲物を値踏みする猛禽の眼差しだった。
続く…




