54話 深層世界
無機質な機械音と振動だけが、その閉ざされた空間を支配していた。
直弥ら三人は無言のまま、ただエレベーターが止まる瞬間を待つ。
赤い光に照らされた横顔――夏目遼は硬質な仮面を貼りつけたかのように一切の感情を消し、ただ前方を見据えている。
一方、朽宮言真はそんな緊張感など存在しないかのように、子供らしい丸顔をにこにことほころばせていた。
沈黙は圧迫感を増し、直弥の心拍を速めていく。
耳に響くのは金属の低い駆動音と、自分の呼吸、脈打つ鼓動だけ。そして頭の中は、これから何が行われるのか、という恐怖にも似た緊張感でいっぱいだった。
そんな直弥の様子を感じ取ったのか、がこん、と低く重たい音が響き、エレベーターは減速を始める。
同時に床下から吹き上がるような冷気が足元を撫で、直弥は思わず身を竦めた。
「降りるよ〜」
軽い調子で言真が告げ、先に足を踏み出す。
直弥と夏芽がそれに続いて降り立った先は、真っ白で無機質な廊下だった。壁も天井も光を反射するように白く、殺菌されたような冷たい匂いが鼻を突く。
前を行く言真の背中を追って歩いていくと、やがて慌ただしい声が交錯し始める。
視界の先には白衣をまとった男女が行き交い、タブレットや資料を抱え、研究用の機材を押し運びながら忙しそうに動き回っていた。
「ここは地下研究室。」
言真が振り返りもせずに言葉を落とす。
「僕らの所属はオリオン――まあ、要するに軍部。でも、彼らは開発室の所属さ。見ればわかると思うけど、軍人じゃなく研究者だね。人術の応用や特殊兵器の開発、それからユグドラシルそのものの研究……そういうものを扱ってる。」
彼の声は軽やかだが、その奥底に妙な熱を孕んでいるように直弥には感じられた。
夏芽は無言のまま周囲を観察し、直弥は喉をひりつかせながら、初めて踏み込んだ世界の光景を目に焼き付ける。
やがて廊下の先、鋼鉄製の大きな二重扉が視界に現れる。
その前には、武装した警備兵が二人、無表情で立っていた。
言真が口角を上げる。
「―――さて、ここから先が“君へのプレゼント”のお披露目会場だ。」
言真が扉の前に歩み寄ると、警備兵たちは直ちに無赦の環をとり、恭しく道を開けた。
カードキーを操作盤に翳すと、重厚な鋼鉄の扉が鈍い音を響かせながら横に開いていく。
中に広がっていたのは、またもや真っ白な空間だった。だが今度は足元が網状の床となっており、下から微かな気流が吹き上がってくる。直弥は思わず肩をすくめた。肌を刺すような冷気に、ここが地上から遠く隔絶された場所であることを嫌でも意識させられる。
三人が揃って中へ足を踏み入れた瞬間、背後の扉が音を立てて閉じた。
わずかな沈黙の後、シューッと乾いた音が室内に満ち始める。
「―――ガス……?」
夏芽が低く呟き、周囲を警戒する。
言真はその声に小さく吹き出し、愉快そうに肩を揺らした。
「違う違う、そんな物騒なもんじゃないよ! なんでいつもそうネガティブに考えるかなぁ。これはただの消毒さ。じっとしてりゃすぐ終わるよ。」
確かに、鼻を突くような刺激臭はなく、漂うのは消毒液を思わせる清潔な匂いだけだ。呼吸も普段通りで、体に異常は感じられない。
「すごいよねぇ、これ。」
言真は独り言のように続けた。
「この混合気体、開発室が独自に編み出したものなんだって。人体に一切害を与えず、皮膚や衣服に付着した悪性菌のほとんどを根こそぎ除去できる。窒息の心配もなし。こうして密室に数秒いるだけで完全に無菌状態……ほんと、ここの技術者たちには頭が上がらないよ。」
軽口を叩く彼をよそに、直弥と夏芽は無言のままその時間をやり過ごした。
やがてシューッという音が止むと同時に、正面の壁が滑らかに横へと開いていった。
その向こうには、さらに深奥へと延びる白亜の通路が姿を現す。
「はいはい、出てすぐ右の扉ね〜」
言真が片手を軽く広げ、芝居がかった声で案内する。
言われるままに直弥と夏芽は視線を交わし、右手の白い扉を押し開けた。
中に整然と並んでいたのは、ずらりと吊り下げられた数十着の防護服だった。
壁際には専用のマスクや手袋、靴カバーまできっちりと揃えられている。蛍光灯の光を受け、どれも無機質なほど清潔に輝いていた。
「服の上からでいいから、それ着て〜」
言真が愉快そうに声を弾ませる。
「この先は完全無菌区画。生身で入ると、どんな健康体でもあっという間に危険だからね。まあ、形だけの規則ってわけでもないんだよ。」
直弥は戸惑いながらも防護服に手を伸ばした。
冷たい素材が掌に触れ、現実感が急速に押し寄せる。――ここから先は、もう単なる「見学」では済まされない。
夏芽は無言のまま素早く着替えを済ませ、無駄のない動作でマスクを装着した。
その横顔は一切の感情を見せず、むしろ緊張を隠すために余計な感情を削ぎ落としているようにも見えた。
言真だけが相変わらず飄々と、袖を通しながら鼻歌を口ずさんでいる。
少年のように華奢なその背丈に、防護服は一回りも二回りも大きすぎたが、彼は特段気にしていない様子だった。むしろだぶついた袖をぶらぶらさせながら歩く姿は、不気味さと子供じみた無邪気さを同時に纏っていた。
全員が着替え終えると、三人は部屋を後にした。
途端に、先ほどの研究区画に満ちていたざわめきは消え失せ、耳に残るのは三人分の靴音と、言真の陽気な鼻歌だけ。
無菌区画特有の静けさは、無音というよりも“音をすべて吸い込んでしまう”ようで、直弥の胸に重苦しい圧迫感を与える。
――この先に、一体何がある?
そんな問いが脳裏を過ぎったそのとき、廊下の奥で視界が開けた。
曲がり角を抜けた先に、透明な防護ガラスで覆われたゴンドラが一台、待機していた。
鈍い光沢を放つ金属フレームに吊り下げられ、どこか異様な存在感を放っている。
「はいはい〜、この移動で最後だよ。」
防護服越しのくぐもった声で、言真が軽く手を振る。
「ちょっと長旅になるけど、最後まで付き合ってもらうからね〜。」
彼が軽い調子で告げたその言葉に反し、直弥の背筋は冷や汗を流すようにぞわりと粟立った。
ゴンドラの先に待つ“プレゼント”――それが何なのか、想像することすら恐ろしかった。
***
ゴンドラに乗り込んだ一行は、互いに言葉を交わさぬまま前方を見据えていた。
窓の外には一切の光がなく、ただ漆黒の闇がどこまでも続いている。
その中をひたすら進むゴンドラは、まるで地獄へと落ちていくための直通便のように思え、直弥の背筋を冷たく撫でていった。
やがて、その静寂を破るように言真が軽い調子で口を開く。
「―――ねぇ夏芽、君ってさ、ユグドラシルの根本に行ったことあったっけ?」
問いかけられた夏芽は、わずかに視線を動かし、低く答える。
「……いえ。これが人生初です。」
「ふぅん。じゃあ――緊張してる?」
「……まあ、それなりには。」
短い返答。しかしその声音には、無理に抑え込んだ堅さが滲んでいた。
直弥は横目で夏芽の横顔を盗み見る。
鋭いオッドアイはわずかに光を帯びていたが、唇はきゅっと結ばれ、普段の落ち着きよりもどこか固さが勝っているように見える。
「はは、そりゃそうだよねぇ。」
言真は愉快そうに笑い、椅子の背にゆったりともたれかかった。
「だって、これから見るのは普通じゃ絶対に拝めない光景だもん。あれを前にして心が動かない人間なんて、そうはいないさ。」
彼の声は冗談めいているのに、不思議と逃れがたい重みがあった。
ゴンドラはなおも闇を裂いて進み続ける。
直弥は息を呑み、胸の奥に湧き上がる得体の知れない不安と期待を、ただ押し殺すしかなかった。
数十分の旅の末、正面にわずかな光が浮かび上がる。初めは針の先ほどの明滅だったが、近づくにつれて、それが巨大な扉に埋め込まれた警告灯だと分かる。
「――着いたね。」
言真が軽く顎をしゃくる。
暗闇の中に浮かび上がったのは、厚さ数メートルはあろうかという鋼鉄のゲートだった。
無機質な灰色の装甲板が幾重にも組み合わされ、まるで要塞そのものが壁となって立ちはだかっているかのようだった。
中央には「極秘区域/立入厳禁」の文字が赤々と点滅し、周囲には重装備の警備兵が二重三重に配置されている。
ゴンドラが停止すると、兵士たちが一斉に武器を構え、鋭い視線を乗客へと注いだ。
その気迫に、直弥は息を呑む。一歩でも間違えれば即座に排除される――そんな殺気が肌に突き刺さった。
しかし、言真はどこ吹く風といった様子でカードキーを取り出し、目の前の端末にかざす。
「身元を確認――」機械音声が響き、警告灯が次々と緑へと変わっていく。
ごうん、と地の底を震わせる重低音が鳴り、ゲートがゆっくりと動き始めた。
無数のロックが外れ、幾重にも重なった鋼鉄の扉が少しずつ左右に開いていく。
吹き出す冷気が防護服越しにも伝わり、直弥は思わず身を縮めた。
その先にはまだ闇が続いている。だが、そこから放たれる空気は明らかに異質だった。
胸の奥がざわめき、心臓が不規則に鼓動を打つ。
「―――八幡直弥くん。」
不意に名を呼ばれ、直弥は慌てて振り向いた。
そこには、後ろで手を組み、薄闇の中で不敵に笑みを浮かべる言真の姿があった。
「その扉の先――そこに、僕が見せたかったものがある。」
彼の声は囁きのように柔らかいのに、なぜか耳の奥を震わせ、胸の奥まで響き渡る。
「境界線を最初に越えるのは、君だ。」
ぞくり、と直弥の背筋が凍る。
背後で、夏芽が小さく息を呑んだ気配がした。しかし何も言わない。ただ見守るように沈黙を保っている。
目の前のゲートは、なおも重低音を響かせながら開いていく。
わずかな隙間から、異様な光が差し込んだ。淡い緑とも、白ともつかない輝き――それはまるで霧が光そのものを孕んでいるかのように、ゆらゆらと揺らめいている。
直弥の心臓は、痛いほどに脈打った。
呼吸は浅く、手のひらに汗が滲む。足は前に出そうとしても動かない。
言真はそんな彼の様子を面白がるように首を傾げ、笑みを深めた。
「さあ――選ばれた者の特権だよ、直弥くん。怖いなら無理にとは言わないけど……僕は、君が踏み出す姿を見たいんだ。」
ゲートが完全に開く。
その瞬間、眩い緑光とともに、肌を切り裂くような冷たい風が吹きつけてきた。
直弥は、喉を鳴らし――震える足を一歩、前へと踏み出した。
瞬間、世界が反転したかのような光景に、思わず目を奪われる。
その奥に広がっていたのは、この世のものとは思えぬほど美しい草原だった。
風にそよぐ無数の花々は、虹色にきらめく露をまとい、陽光を受けて宝石のように輝く。花びらが舞うたびに、空気そのものが香りを帯び、甘美な息吹を大地に溶かしていた。あたりでは、羽根に光の鱗粉を散らす蝶が舞い、まるで夜空に星を撒いたかのように、瞬きながら流れていく。
それは光と闇が完全に融け合い、相反するはずの二つが一つの調和として形を成した光景だった。幻想的でありながら、同時に言いようのない威圧を孕んでいる。
そして――直弥の視線を縫い止めたのは、その中央にそびえ立つ“存在”だった。
一本の、途轍もなく巨大な木。
幹の周囲は見積もることすら無意味に思えるほどの規模で、少なくとも五百メートルを超える。だが圧倒的なのは高さだった。大地を突き破り、天井をも凌駕してなお、なおも伸び続けているようにすら見える。二千メートル――否、もはや人間の尺度で計ること自体が愚かに思えた。
首が折れるほど見上げても、天辺は見えなかった。
ただ、遠くの暗がりの中で、天井を覆い尽くす枝葉の影が広がっているのが分かる。その枝葉は空そのものを形作り、地下であるはずの空間に、偽りの蒼穹を創り上げていた。
葉は風もないのにざわめき、まるで呼吸をしているかのように揺れる。そこから零れ落ちるのは、酸素ではなく“命”そのものの気配――肌に触れるだけで心臓が早鐘を打ち、魂の奥底が震える。
直弥はただ呆然と立ち尽くし、その木から放たれる圧倒的な存在感に飲み込まれていた。
「これは………」
あとから来た夏芽も、同じように呆然とその景色を眺める。おそらく彼も、自身と同じことを感じているのだろう。
「―――これがユグドラシル。僕達生族を根源から支える、四本の大樹のひとつさ。」
言真はそう、ゆったりとした口調で言う。直弥はただその圧巻の景色に気圧され、言葉すら出てこなかった。
続く…




