52話 お話し
「八幡直弥戦闘員、少し良いかな。」
射撃場でライフルを抱えレーンに向かおうとしていた直弥は、そう後ろから声をかけられびくっと反応し、後ろを向く。
そこにいたのは、士官学校に来た初日、熊野璃久と共に鉢合わせたあの謎の男だった。
狂風卿からの命で一時的に士官学校へ派遣され、璃久ら教官が不在の時は彼に代わって訓練の指導と管理を任される――そう名乗ったはずだ。
たしかに今日は璃久教官の姿は見えなかった。實妥教官も朝から所在不明のまま。
だが直弥の脳裏に、璃久が口にしたあの警告が、嫌でも蘇る。
『ああ。感情がまるで読めなかった。声も、目も、動きすらも……全部、掴みどころがねぇ。佇まいも隙だらけに見えて、なのに、なんだろうな――俺でも勝てねぇって、直感で分かった。……あんなの、普通は八間か、それ以上の化け物だ。なんであんなやつが学校に紛れ込んでるんだか……』
無意識に息を詰めた。
相手の視線は冷たくも熱くもなく、ただ一点を見据える鏡のようだった。
笑っているような、何も感じていないような。あるいは、既にこちらの心の奥底まで見透かしているような。
「……は、はい。なんでしょうか」
なんとか声を絞り出すと、男は無言のまま一歩、こちらに歩を進めた。その足音はやけに静かで、それがかえって周囲の空気をひどく重くする。
傍から見れば、ただの呼び出しにしか映らないかもしれない。だが、直弥には違った。背筋をなぞるような冷たい緊張が、確かに張り詰めている。
「少し、付き合ってほしい。……付いてこい。」
それだけを言い残し、男は射撃場をゆっくりと後にした。直弥は戸惑いながらも歩を進める。背後では、沙紀が心配そうにこちらを見つめている気配が、肌を刺すように伝わってくる。
足を止めれば、戻れるかもしれない――そんな考えが一瞬、脳裏をかすめた。だが、彼の足は自然と前へ進んでいた。
射撃場を抜け、無機質な廊下を二人分の足音だけが満たす。男は何も語らない。ただ、ゆっくりと、確かな歩幅で先を歩いていく。
この人は――何を知っていて、どこへ連れていくつもりなのか。
「……あの、行き先は……」
思い切って尋ねたが、男は首を軽く振っただけで、やはり言葉は返してこなかった。
両者無言のまま歩き、やがて士官学校の正門を抜ける。まだ午後の訓練時間だというのに外に出てしまっていいのか――そんな不安が直弥の胸をかすめる。
その思考を見透かしたように、男が唐突に口を開いた。
「―――安心しろ。外出許可は、俺から淸瑞刈逓学長に取ってある。」
言葉は短く、それ以上の説明はない。それなのに、妙な説得力と圧があった。
だがそれ以上に、なぜ男は自身の考えていたことがわかったのだろうか。驚きと少しばかりの恐怖心が湧く。だが引き返すわけにもいかない。
しばらく歩いた後、道端に黒塗りのリムジンが止められているのが見えた。男はその右に回り込んで助手席に乗り込む。直弥は困惑していると、後部座席の扉が開いた。
乗れ、ということか。
喉がひりつく。それでも直弥は、覚悟を決めるように一度だけ息を整え、ゆっくりと足を踏み入れた。
車内は暗く、外光を遮断するスモークガラスと、艶やかな黒革張りの座席が、密閉された箱のような圧迫感を生んでいた。
ドアが閉まった瞬間、外界の喧騒は切り離され、わずかな振動と革の匂いだけが感覚を支配する。
左ハンドルの運転席には、見覚えのない男が座っていた。無表情で、視線は一切こちらに向けず、ただ前方を見据えている。
その黒スーツは、助手席にいる彼の装いと寸分違わぬもので、まるで制服のような統一感があった。
「――発車しろ。」
助手席の男が短く言う。次の瞬間、ほとんど揺れを感じさせない滑らかな加速と共に、リムジンは音もなく動き出した。
どこへ向かっているのか、誰も告げない。直弥は、背もたれに沈み込みながら、胸の奥に冷たい予感が広がっていくのを感じた。
***
車窓の外、視界の端から巨大な影が迫ってくる。
それは、曙光の宮と呼ばれる建造物だった。
ユグドラシルの上部に広がる濃い葉群に包まれ、外界の光を柔らかく反射するその姿は、まるで天空に浮かぶ宮殿のようだ。
沙紀が語っていた“二対の宮”ではない。あれは過去の遺構として失われたと聞いた。
だが、目の前のそれもまた、見る者の息を奪う美しさを湛えている。
白と金の外壁が陽光を受け、葉の緑と溶け合うように輝く。細部には繊細な彫刻や文様が施され、まるで祈りの形が石となって刻まれたかのようだった。
おそらく――厄災の日以降に建て替えられたのだろう。
それでも、その堂々たる威容は、人々に「失われても、また創れる」という無言の力を誇示しているように見えた。
検問所を抜けると、車は速度を落とし、広大な敷地内の滑らかな石畳を静かに進んでいく。
左右には整然と刈り込まれた庭園と、白の回廊が並び、所々に衛兵の姿が見える。
その配置は飾りではなく、侵入者を瞬時に制圧するための実用的な布陣だと、直弥は直感した。
やがて、視界の正面に豪奢なアーチが現れ、その下へと車が滑り込む。
入口前の車寄せ――半円形の大理石の床には水滴一つなく磨き上げられ、天井から吊るされた燭台が黄金色の光を放っている。
運転席の男が無言で扉を開け、助手席の男が降りる。
直弥の乗る後部座席の扉も、静かに開かれた。
外の景色に見惚れていた直弥は、男がすでに車を離れ、足早に建物へと向かっていることに気づく。
慌ててドアを押し開け、革靴の音を鳴らしながら後を追った。
正面玄関の大扉は、黒檀に金の装飾が施され、荘厳さと威圧感を兼ね備えている。
近づくと、扉脇に立つ二人の衛兵が直弥を鋭く一瞥し、その視線は氷のように冷たい。
何も言葉を発さず、しかし通行を阻む気配もなく、重厚な扉を静かに押し開けた。
中に足を踏み入れた瞬間、外とはまるで別世界の空気が肌を包む。
高い天井に反響する靴音、香のような甘くも鋭い匂い、そして広がる真紅の絨毯――。
男たちは振り返ることなく、その絨毯の奥へと進み続ける。
直弥は小さく息を呑み、無言でその背中を追った。
周囲では軍服やスーツ姿の人々が、分厚い資料や端末を抱え、せわしなく廊下を行き交っている。
革靴の音や紙の擦れる音が絶え間なく響き、空気には緊張と効率だけが漂っていた。
誰一人として、直弥に目を向ける者はいない。
その視線は常に前方の目的地だけを捉え、表情には感情の影すら見えない。
――まるで自分など、この場所に存在しないかのようだ。
その様子は、沙紀が語った幼少期の記憶にある総督府の光景と、確かに重なって見えた。
前を行く男らも振り返る気配すらない。まるで透明人間になった気分だ。
二人は無言のまま階段を上がり、踊り場からエレベーターへと足を進めた。
男が迷いなく「5」のボタンを押すと、扉は滑るように閉まり、わずかな機械音とともに上昇が始まる。
密閉された箱の中は異様なほど静かで、直弥は自分の鼓動がやけに大きく響くのを感じた。
やがて軽い浮遊感が収まり、静かに扉が開く。
目の前には、深紅の絨毯が一直線に奥へと伸び、その両脇には重厚な壁と等間隔に並んだアンティーク調の燭台が、暖色の光を落としていた。
その光が、空気に潜むわずかな塵までも照らし出し、ここがただの廊下ではなく、選ばれた者しか踏み入れられない空間であることを物語っていた。
男は一瞥もくれず、その絨毯の上を迷いなく進む。直弥も慌ててその背を追い、足音を吸い込むような絨毯の感触に、余計な音を立てまいと自然と歩幅を狭めた。
廊下の奥には、黒光りする大扉がそびえ立っている。装飾は抑えめだが、その重厚さは圧倒的で、見ただけで息を詰まらせるほどだ。
近づくにつれ、扉の両脇に立つ近衛兵の姿がはっきりと見える。二人とも無表情で、わずかな体の動きすらない。
まるで人形か石像のように、ただそこに立ち続けている。
男は歩みを止めることなく、扉の前まで進み出ると、低く短く命じた。
「――開けろ。」
その声に応じ、近衛兵たちは同時にわずかに頭を下げ、寸分の狂いもない動作で扉へ手をかける。
重厚な金具がわずかに軋み、次の瞬間、まるで空気ごと切り裂くような静けさの中で、ゆっくりと扉が押し開かれた。
奥から流れ込んでくるのは、ひやりと肌を撫でる冷気。
同時に、長い年月を経た紙と、濃密なインクの香りが鼻腔を満たす。
それは不思議なほど落ち着きを与える匂いでありながら、同時に背筋を緊張で固くさせる。
男たちは左右に一歩ずつ退き、道を空けた。
その動作は機械的ですらあり、視線は決して直弥に向かない。
やがて、先頭の男が低く告げた。
「入れ。中に、お待ちになられている方がいる。」
その言葉には余計な抑揚も感情もなく、ただ淡々と事実を告げる響きだけがあった。
しかし直弥の耳には、それが妙に重く響き、喉の奥がひとりでに乾いていく。
直弥は、重い扉をくぐった瞬間、足がわずかに止まった。
部屋は広すぎず、それでいて壁一面を高い本棚が覆い尽くし、古い羊皮紙や革装丁の背表紙が整然と並んでいる。机の上にはランプの柔らかな光が揺れ、その下で一人の男が静かに本を読んでいた。
黒く短く切り揃えられた髪、くっきりとした大きな瞳、小さな口と鼻――その輪郭はやや丸みを帯び、体つきは驚くほど華奢だ。
まるで10歳前後の子どものような容姿だが、纏っているのは純白の背広に、深い黒のワイシャツという、場違いなほど洗練された装い。
そのアンバランスさに、直弥は無意識のうちに息を詰めた。
そして脳裏に過去の断片がよぎる――この目で顔を見たことは数度ある。だが正式に一対一で対面するのはこれが初めてである。
ゆっくりと本から視線を上げ、その少年のような人物は微笑を浮かべる。
その声は穏やかで、どこか楽しげですらあった。
「やあ、君が――八幡直弥くんだね?」
狂風卿――朽宮言真。
その名が、直弥の胸の奥で鈍く響いた。
目の前の人物が持つ圧は、外見の幼さを一瞬で打ち消し、背筋を冷たい刃でなぞられるような感覚をもたらす。
「悪いね、急に呼び出しちゃって。こうやって会うのは、初めて――だよね?」
「……え、あ、はい……その……狂風卿、ですよね。」
言真は視線をゆるやかに直弥へ流し、目尻をわずかに下げる。
口元に浮かぶのは、威圧とも親しみとも取れる曖昧な笑みだった。
「なーにそんな緊張してんのぉ〜。肩の力、抜きなぁ?」
その言い方は柔らかく、耳ざわりだけは軽い。だが、声の奥底には妙に濃い重さが潜んでいる。
それが直弥の心拍をさらに速めた。
言真はパタンと本を閉じ、机の上に置く。
そして椅子から音もなく立ち上がり、部屋の奥からゆっくり歩み寄ってくる。
歩幅は小さいのに、不思議と距離が一気に詰まるように感じられた。
「……で、八幡直弥くん。君のことは彼―――君のことを連れてきてくれた男からも色々聞いてるよ。でもね――僕は人のことを、人づての話で決めつけるのが嫌いなんだ。」
至近距離まで来た言真は、まっすぐ直弥の瞳を覗き込む。
視線は透明なはずなのに、底が見えない。
まるで、自分の思考を全部読み取られているような錯覚に陥る。
「だから、今日は少しだけ、君とお話ししようと思ってね。」
そう言った瞬間、背後で扉が静かに閉じる音がした。
退路が断たれた、という現実に、直弥は小さく喉を鳴らした。
「まあ、お話しついでに、君にプレゼントしたいものもあるし、ね。」
続く…




